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……ある日、エミは私の中に突如現れた。幼いころ、まだわたくしがわたくしだけであったとき、風邪をひいて高熱を出したわたくしは、何の前触れもなく……目が覚めると唐突に体の自由を失っていた。
エミの知識の中にあった。憑依という事象が一番近いのではないかと思う。
最初わたくしはとても憤った。体を奪われ、全くの赤の他人がわたくしとして生きて、体を操り、喋っているだなんて。それを見ているだけで何もできない状態で怒りを感じない者がいたら聖人を通り越してとんでもない愚か者である。幼いながらにわたくしはわたくしの奪われてはならない尊厳を無理やり取り上げられた事に憤慨したが、わたくしだった体の中から喋ることも自由に動くこともできずに、わたくしの体を乗っ取った何者かが見たり喋ったり動いたりするのを誰にも届かない声で年相応の幼稚な罵声を浴びせ、内心で泣き喚きながらただ眺めているしかできなかった。
数日すると、少し冷静になったわたくしはわたくしの体を奪った対象を観察する余裕が出てきた。奪い返してやるという結論にたどり着いた結果でもある。
わたくしの体の中に入った何者かは、やはり数日は高熱の影響でうなされつつ意識が朦朧としていたようだったが、わたくしが冷静になる頃には体調もやや回復していた。その時に、わたくしの体の中に現在入っている何者かの、声に出さない意識がわたくしの中に流れ込んで来ていることに初めて気付いた。相手も相当に混乱しているらしく、当時の幼い精神のわたくしでは理解できない内容も多分にあった。
ぼんやりと分かった事をつなぎ合わせると、わたくしの体を今動かしているのは「エミ」という名の女性の精神である事、エミはこことは違う世界で生きていた年上の女性で、一度死んで気が付いたらわたくしの体で目を覚ました、というような事が分かった。
エミは元の自分の生活にとても未練があるようで、「帰りたい」「お母さん、お父さん、お姉ちゃん」「知らない世界で1人は怖いよ」と、嘘偽りない悲痛な思いがわたくしの中に流れ込んでくるうちにだんだんとエミへの怒りは失われた。「この体の本当の持ち主のレミリアちゃんにも悪いし……そもそも今レミリアちゃんってどうしてるんだろう」という心配げな声を聞いたからかもしれない。まるで抱きしめられているようで、こんなに心地の良い感情を向けられたのは初めてだったから。
こんな暴虐を行った神か悪魔は呪ったが、巻き込まれたエミに対する怒りはわたくしの中から消え失せていた。
エミの心の声が聞こえてくるようになって、エミへの怒りが消えた後。わたくしは自分の記憶を思い出すような意識で「エミの記憶」に触れられることに気が付いた。
エミの記憶はとても優しくて温かで、幼かったわたくしが一切知らなかった幸せな想いが満ち溢れていた。エミはふとした瞬間に家族に「会いたい」と何度も思っていた。廊下でメイドが自分の家族の話をしている時、わたくしの家族を「お父様、お母様」と呼ばなければならない時、エミの記憶の中の部屋よりもずっと広いわたくしの部屋で1人で寝る時。わたくしは家族を愛する気持ちなんて知らなかった、愛されたこともなかった。わたくしの母も父もわたくしと顔も合わせずに1日を終えることもある。わたくしがわたくしだけであった時に言葉を交わした記憶もあまりない。
わたくしはわたくしの体をエミが動かすようになった時も、自分の体を奪われたと怒りを感じこそすれエミのように「悲しい」とは欠片も思わなかった。わたくしは体の中から見聞きすることだけは出来るといえ、例えば逆の立場であったなら……エミの体にわたくしが入っていたのなら。家族を愛していたエミは、家族と自分の言葉で会話が出来ずに見ているだけしか出来なくなった事をとても悲しく感じていただろう。
わたくしはエミの記憶に触れて愛を知った。エミの記憶の中にはわたくしには分からない道具や知らない風習や文化がたくさん出てきたが、その内容もエミの記憶……知識を覗くことで幼い日のエミと一緒に少しずつ理解していく。エミの視点で紡がれる記憶は、まるでわたくしが経験しているようで。わたくしが愛されて育ったような錯覚を覚えるほど、人ひとりが生きた記憶というのは濃くて、重くて、愛おしかった。
「レミリアって、あのレミリアたん?! 悪役令嬢レミリア・ローゼ・グラウプナー……?!マジで? 嘘、私レミリアたんに転生しちゃってたの?!!」
エミがわたくしの体で数ヶ月過ごす頃には、わたくしはエミの記憶の中の色々な事を見て知るのに夢中になっていた。時折意識をエミの実際の視界に合わせる事もしていたが。エミの記憶の中には幼い子供の精神だったわたくしが夢中になるような物語や、ずっと浸っていたくなるようなエミの家族や友達との幸せな記憶に満ち溢れていたから。
エミがわたくしの母親に連れられて王宮の茶会に出たのは知っていたが、どうやらそこで王太子が内定しているウィリアルド第二王子との婚約を言い渡されたらしい。
そこで記憶の中のとある物語との奇妙な一致を感じたエミは、帰りの馬車の中でわたくしのお母様に叱られない程度に質問をしていた。第一王子の名前、ドミニッチ騎士団長とレイヴァ王宮魔導士長のご子息の名前。お母様はまだ教えていない高位貴族の名とその子息までも知っていたことに満足げな笑みを浮かべていたが、エミの心中は嵐のように荒れて手足の指先が冷え切っていた。
呆然としたまま部屋に送られたエミは言葉を発する事なく鏡に歩み寄ると、そこに映ったわたくしの姿を映す鏡をぺたぺたと触った。
「レミリアたん? あー確かに面影ある、っていうかあのイラスト忠実に実写化して子供にするならこうなるなって感じの……」
乱れた言葉遣いは心の中でだけ呟いているので、部屋の中で控える侍女には聞こえていない。自分の映った鏡をジッと見つめるレミリア・ローゼ・グラウプナー公爵令嬢に訝しげな視線を送るだけだ。
エミが心の中で叫んだ事柄をまとめると、わたくしがわたくしとして生きていたここはエミの知っている物語の中であるらしい。エミが生きていた中で、エミが「スマホ」と言う道具で遊んでいた中のゲームという物語。わたくしはまだその物語の記憶は見ていなかったので、エミの記憶の中から探し出してその内容を他人事のように眺めた。わたくし自身が出てくるらしいのに、エミの日常の記憶の方がよほど近しく感じる。
エミの記憶の中にあった、物語の中のわたくしは、エミの人生を覗き見た今のわたくしからするととても「哀れで可哀想な少女」であった。両親からは政略結婚の駒としてしか扱われず愛情を注がれた事は無く、年からは考えつかぬほどただひたすら優秀で、底が見えないほど飛び抜けた魔力を持ったレミリアは6歳になってすぐにこの国の第二王子ウィリアルド、後の王太子と婚約を結んだ。両親とは顔を合わせることも数えるほどしかない冷え切った家族関係で、使用人は公爵令嬢と必要以上の口をきかず、それは家庭教師達も同じこと。レミリアは、初めてまともに言葉を交わせる存在……ウィリアルドに、執着と依存をすることとなっていく。
親からほぼ拒絶されて生きてきたレミリアは、自分でも気付かないまま婚約者への重い感情を一方的に募らせる。レミリアは本来であれば親から与えられるべき愛情をウィリアルドにすべて求めた。子供が親に向けるような無償の愛……執着もウィリアルドに全て向かった。
当然ウィリアルドはそんなレミリアを厭うようになる。王族として、婚約者としての最低限の義務を果たすだけで、物心がついて数年もするとウィリアルドはレミリアに政略結婚の相手、以上の感情を向ける事は無くなっていった。勇者の血を引く王家に膨大な魔力の持ち主を混ぜる、家畜の品種改良のようなその婚約はそれ以上の意味を持たないまま時は経つ。
物語は、レミリアがウィリアルドに依存と執着を拗らせきった頃に始まる。魔力持ちが入学を義務と課される魔法学園がその第一章、物語の『主人公』である『星の乙女』が平民としては異例の魔力を観測され、特待生として入学式を迎えるところから。
星の乙女は学園で、ウィリアルドをはじめとした何人もの男性と親しくなっていく。騎士団長の次男にあたるデイビッド、王宮魔道士長の一人息子であるステファン、今はまだわたくしの従兄弟であるクロード。この4人が「強制加入キャラ」だそう。
ゲームの中で「イベント」と言うものを何度もこなし、自分を含めた仲間の「ステータス育成」を行い、第二章からは世界滅亡を防ぐ戦いへと身を投じて星の乙女として仲間を鼓舞しともに戦う、そういったストーリー。
レミリアは最初から最後まで物語に影を落とす。そう、悪役として。
星の乙女として、希有な「他者の能力を引き出し高める」力を持つ主人公は国からの庇護を受けた事をきっかけにウィリアルドと知り合い、惹かれあっていく。学園を舞台にした第一章ではレミリアはウィリアルドの恋に本人よりも早く気付き、主人公に様々な嫌がらせを行う。それは秘められた思いを抱き合う2人には気持ちを盛り上げる丁度良い障害にしかならず、最終的に「星の乙女の命を奪おうとした」事を断罪されて、婚約は破棄され貴族令嬢としての身分も失う。ただし追放されたりましてや処刑などはされなかった、その身に流れるのは確かに高貴な血であったから。犯行は未遂で防がれたこともあり、公的な身分だけを奪われて、グラウプナー公爵家の領地の片田舎に幽閉という名の軟禁をされるに留まった。
しかし、そこで全てに……今までの人生において「全て」を占めていたウィリアルドを失ったレミリアは絶望した。優秀さと膨大な魔力をもってして古代文明の遺跡や文献を独自に紐解き悪魔召喚に手を染め、ついに成功してしまう。
レミリアは呼び出した悪魔に「この国の破滅とウィリアルドの魂」を願った。地の果てに存在すると言われる御伽噺の存在、魔族の王がそれに応えてしまった。
これにより世界は「厄災の時」と呼ばれる滅びの道を歩み始める、ここまでが第一章。星の乙女とその仲間たちが魔王に立ち向かうきっかけの話。その後レミリアは作中何度も主人公達に強敵として立ちはだかって来るのである。
エミはこの物語のことを「乙女系育成RPG」と呼んでいたようだ。物語を進めるゲームとしては、必須キャラ……ウィリアルド達との新しい「ストーリー」を「解放」するためにイベントをこなしたり、それらを育成するための経験値を稼いだり育成アイテムを集めたり。必須キャラ以外にも何人も男性を仲間にできるらしく、そのための「ガチャ」というものにお金を払うかエミがうんうんと悩んでいるのも記憶にある。まぁこれはあまり関係のない話である。
わたくしはわたくしの、歩むはずだったらしい物語を眺めた。物語とともにあった、エミの抱いていた感情も。エミはずっと「レミリアたんは寂しかっただけ」「美味しいもの食べさせてあったかい布団に寝かせてあげたい」「レミリアたんを幸せにする道は無いんですか?!」「うちの妹に生まれてくれればこんな悲しい思い絶対させなかったのに」と物語を読み進めながら涙することさえあった。
エミはこの、レミリア・ローゼ・グラウプナーという存在をとても愛してくれていた。最初は見た目がとても好きだったからというきっかけであったけど、物語を進めていくエミはレミリアの事を何より気にするようになって、他の誰よりもわたくしの幸せを願ってくれるようになっていた。その事実に何より嬉しさを感じる。わたくしは確かにエミに愛されていた。今もエミはわたくしを愛してくれていて、「レミリアたんを幸せにしてあげたい」と心から願い様々な事に奔走している。エミの本当の家族は記憶の中にいて、わたくしの両親とまともに口すらきかない事を気にもしていない。
そのため「誰にも愛されない可哀想で孤独な少女レミリア・ローゼ・グラウプナー」はこの現実世界には存在しなかった。
「うわっ、さすが公式の認めるチート! ステータスだけで言ったら邪神と魔王に次ぐだけあるなぁ……」
「レミリアたん……私、頑張るから! 絶対に、私がレミリアたんの事を幸せな女の子にしてあげる!」
流れ込んでくる感情は常にとても温かで、心地の良いもの。エミがわたくしの事を愛してくれているのが、愛を知らなかったわたくしにも分かるほど。
「レミリア・ローゼ・グラウプナーの幸福を」祈りにも似た強い誓いはエミの中にいたわたくしを優しく包んで、エミと共に過ごして、エミの中でわたくしを育んでいった。
「ゲームと同じことが起きたけど、クロードのお父さんが助けられたのは良かったなぁ。でもここがゲームの世界とは決め付けられないし、ただよく似てるだけの世界かもしれない……油断しちゃダメだ」
「私は厄災の時を起こす気はないけど、魔界はどのみち救わないと世界も滅びちゃうから、メインイベントに関しては起きる前提で動こう。ゲームの強制力がある世界の可能性も考えないと。それに万が一星の乙女が現れないかもしれないし、備えだけはしっかりしておかないと」
エミはゲームの知識とやらを使って「レベル上げ」「育成」というのを行っていった。
特定の条件下で、錬金術に使う素材を混ぜて作った、魔法薬と言えないような何かを飲んでから魔法を使うと、その魔法を使う際の熟練度が飛び抜けて上がると言うこともエミは苦労して探し当てた。そこにたどり着くまでは、用意した素材を粉々にして自分に振りかけてみたり、辺りに撒いたり魔法を使う腕にすり込んだりととても苦労をしていた。試してみた方法がダメだと判明して落ち込んだり、失敗して「ぎえええ!」と可愛い悲鳴を上げるエミはとても可愛かった。
エミが見ていた物語では、育成素材を集めたらタップひとつでスキルのレベルが上がっていたものね。まさか飲まないとならないとはわたくしも思わなかったわ。
魔晶石を使った高速レベリングとやらも行っていた。
魔物の体内から採取できる魔石、これを加工して得られる「魔晶石」。エミの記憶の中ではログインボーナスや課金などで得られる青紫の宝石様の物体だ。ガチャに使うと「神殿で祈りを捧げながら握りしめると魔晶石は強い輝きの後に消え、新しい仲間の訓示が得られる」という演出でキャラクターを得られる。他には……掲示板というところで「割る」と呼ばれていたが、これを消費するとスタミナと呼ばれる行動可能回数が最大値まで回復していた。
実際にこの現実世界では「体に接触させた状態で破損させる(割る)と魔力や体力が回復する」という使われ方をしている。物語の中のように一律に最大まで回復できる訳ではなく、大きさによって回復量に差があるものだが一般的に普及している存在だった。神に祈りを捧げるために握り込むのも一般的だ。訓示がおりることは実際にはとても稀らしいが。
それを公爵家の令嬢として自由になるお金は全て魔晶石と育成素材に費やし、エミは魔法の鍛錬と自身を高める事に注ぎ込んだ。魔法の才能を開花させて見せたエミはわたくしの両親にも「さらに有能な駒」として物語の中より話を聞いてもらえるようになっていて、クロードの父親である子爵が領地の視察中に野盗に襲われて護衛ともども命を奪われる事もこれで防げた。
しかし、その翌年流行病を拗らせてあっと言う間に亡くなってしまったことで、出産時に母親を失っていた従兄弟のクロードは物語の中の通りわたくしの義弟となってしまうが。
エミは物語の強制力がと恐れていたが、未来は少しだけ変わった。クロードとその実の父親の確執を結果的に解くことができたのだから。物語では星の乙女がそれを行っていた。クロードは出産時に母親の命を奪った自分は父親に恨まれていると思っていた。子爵はちょうどタイミング悪く領地で起きた不作や川の氾濫による人死、野盗の出没と数年で立て続けに起こった問題の対応に追われ、母のいないクロードをあまり構えなかった事で、物心ついた息子と接するようになって罪悪感から態度がぎこちなくなっていたのがすれ違いの原因だった。物語の中では星の乙女が、学園で仲を深めた後、クロードの故郷である子爵領の領主邸に訪れた時に執務室でクロード宛ての手紙を見つけて誤解が解ける。
わだかまりを解消しようと、クロードの次の誕生日に子爵が渡そうと用意していたものだった。貴族には珍しく恋愛結婚で結ばれた、愛した女性の遺した息子に対して、仕事を理由にあまり家族の時間が持てなかった事を謝罪する父の筆を目にしてクロードは泣き崩れる。
この現実世界では、子爵は野盗に殺されること無く、自分の手でクロードに手紙を渡していた。仲の良い父子となっていたクロードは、子爵を流行病で亡くした時はとても憔悴していたが、引き取られた先で出来た心優しい義理の姉に世話を焼かれてゆっくり回復していく。
ここも物語とは違う道を辿った。物語では、クロードは「自分は誰にも愛されていない」と思い込みずっと陰鬱に生きていた。星の乙女が父との誤解を解いた後も、どこか影のある少年として描かれる。
実際のクロードは、エミと家族になってからは本来の子供らしさと天真爛漫さを少しずつ取り戻し、姉が大好きな少年へと育った。お姉さんぶって絵本を読み聞かせてあげるエミはとても可愛かったし、わたくしもその声を子守唄にエミの中で眠りに落ちた日も多い。共に庭を泥だらけになって駆け回り、木にまで登った。時に喧嘩をする事もあったが2人はとても仲の良い姉弟だったし、わたくしもそんな2人が親に顧みられる事のない中互いだけが家族だと幸せそうに笑い合っているのを眺めるのはとても好きだった。
エミは気付いていなかったが、中から第三者として眺めていたわたくしにはクロードが淡い思いをエミに抱いていたのを察した。クロードが家に来た時にはエミ……レミリアは王太子の婚約者であったため、その思いを表に出すことはなかったが。……ただの家族以上にエミの事を大切に思っていたはずなのに。
エミは他の「主要キャラ」達の心の闇も晴らしていた。
騎士の家に生まれたデイビッドは、兄の才能に劣等感を抱いていた。何をやっても勝てない、年齢の差だけでは無く、今の自分と同じ歳だった頃の兄のあらゆる功績と比べられる、と。デイビッドも同年代の中では頭一つ飛び抜けて優秀だったが、兄であるシルベストはそのさらに上を行き「神童」と呼ばれていたのだ。
物語の中では、デイビッドは剣技では学年一位の実力者と言われながらも「どうせ兄には劣る」と鬱屈した思いを抱えていた。それを星の乙女は「デイビッドにはデイビッドにしか出来ない戦い方がある」と鼓舞し、魔法剣士としての才能を見出す。その時は剣聖となっていたシルベストは、剣だけの自分とは違い魔法の才もあり政治の世界でも活躍できるデイビッドの才能を実は眩しく思っており、そこを「互いに国を支える立場として補い合おう、兄弟なのだから」と星の乙女が2人の仲を取り持ってわだかまりは解消する。
この現実世界では、デイビッドはエミにも劣等感を抱えていた。エミの魔法使いとしての才能は貴族の間にも広く知られているほど突出していて、大人の魔術師顔負けの腕を持っていた。それを耳にしたデイビッドは、自分の目指す剣の道とは違うがすでに周囲から強者として評価を得ているエミ……王太子の婚約者であるレミリアに嫉妬と焦燥を抱えてしまっていた。「自分だって」と忸怩たる思いをしている所にエミが魔晶石による無理なレベル上げを行なっていたことを知り、それを真似して……12歳のデイビッドは魔晶石を抱え、1人で魔物の出る王都郊外の森に入ってしまう。
エミでさえ最初の実戦時は人を連れていた。さらに魔法使いは接近戦には不向きだが実力差のある相手であれば多数対一の戦闘に強く、デイビッドとは前提が違う。一対一の経験しか無かったデイビッドは、弱いと呼ばれているスライムやゴブリンに囲まれて、デイビッドの無謀な行為に気付いたエミが追いかけて発見した時には再起不能の大怪我まではしていなかったが大分ボロボロになっていた。
エミに窮地を救われたデイビッドは悔し涙を流しながら「何で助けた」「笑いに来たのか」と憎まれ口を叩く。エミはそれを張り手で黙らせると、「友達が危ない事してるんだから止めに来るのは当たり前でしょ!!」と叱り付けるとデイビッドよりも激しく泣き出したのだ。
ぽかんと口を開けてほうけるデイビッドに取り合わず、エミは手を掴むと有無を言わさず帰路に着く。道中は気まずげに、だが素直に手を振り払わず繋いだまま着いてくるデイビッドにエミは顔を向けずに語りかける。このままだとまたこの子は無茶をする、と純粋に心配するエミの心がわたくしに流れ込んでいた。
「ねぇ、デイビッドはなんでこんな無茶をしたの?」
「お兄さんに負けたくない、じゃあ何でお兄さんに負けたくないの?」
「分からないんだね。負けたくないのは分かるよ、私も負けず嫌いだもん。でも勝つのが目的になっちゃダメだよ、お兄さんにも負けない剣士になって……デイビッドはどうしたいの? 世界一の剣士になりたいの? 強い魔物を倒せるようになりたいの?」
「うん、まだ分からなくてもいいと思うよ。……私? 私が無茶してた理由? ……私はね、ウィル様の横で……どうしても、絶対に叶えたい夢があって……それを叶えるために、あったら役に立つ力だから頑張ってるの」
その言葉と同時にエミの心の中は優しい感情で満ちる。「王妃になった時にウィル様を支えられる女性になりたい」「悪役令嬢だったレミリアを幸せな女の子にしたい」エミは両方を実現するためにここまで身を尽くしているのだ。次期王妃としての教育をこなしながら魔法の腕も磨くのは簡単に語れるような努力では無い。
そこまでエミが「レミリア」の幸せを願ってくれている、その事実が何よりも嬉しい。
屋敷に戻ったデイビッドは周囲の大人から徹底的に叱られてしばらく罰として王城に上がるのを禁止されて新兵に混じって一際辛い訓練を課されるなどしていたが、その科があけると清々しい顔になっていた。目的の無い強さを追い求める事の無意味さを知ったと言っていたが、中から見守っていたわたくしはデイビッドが話す「騎士として支えたいと思う、守りたいと思う大切な人が出来たから」それがエミなのだと察した。わたくしは気付いたが、デイビッドの心境の変化に純粋に喜ぶエミの心はウィリアルドに向いたままその理由に気付くことはなかったし、デイビッドも胸に秘めたまま分かるような態度に出す事は無かった。この男は密かにエミに忠誠を捧げていた、そのくらい大切に思っていたはずなのに。
もう1人の幼馴染み、ステファンの悩みもエミが取り払った。いずれも物語の中では星の乙女が解決していた事だったが、エミは生来のお人好しらしく、救う方法を知っているのに何もしないのはできないようで。クロードの父親を含めて助けられるものは自分の手が届く限界までどうにか救おうと足掻く、それがエミだった。
ステファンは自身に魔法の才能があり、周囲から王宮魔導士長の父親と同等の期待をかけられて当然のように後を継ぐように思われていることに悩んでいた。ステファン自身は幼少の頃から芸術……音楽の世界に身を投じたいと思ってそれを誰にも話さずに半ば諦めていたのだ。
物語の中では、願って得たわけでは無い魔法の才能に周囲が喝采を送るのを冷めた目で見る青年に成長していた。「こんな人を殺す力をありがたがって」と発言したのを、星の乙女が「ナイフと同じ、人を傷付ける事に使う人もいるけど料理や工芸に使ったり、人を救うために使う事もある。素晴らしい力だよ」といさめ、その言葉に胸を打たれて考えを改める。厄災の時で混乱していた世界では芸術を楽しめない、と魔王を打ち倒して平和を取り戻し、そしたら再度音楽の道を目指す事を目的に世界を救うために魔術師として力を使う事を決める。
この世界での現実のステファンは、自分の夢と周囲の期待に悩む前に、エミによって心が挫けそうになっていた。エミは「ステファンは音楽の道を志すべきだよ、お父さんにも相談してみるといいよ、きっと反対しないから」とステファンの相談に乗りつつ、物語の中では「私もそうだった、好きな事をしなさい」と応援してくれる彼の父親との壁を取り払おうと尽力していた。
だがそんな中、エミの前世の世界の有名な……誰でも知っているようなクラシックの曲を鼻歌で奏でながら1人でダンスの練習をするエミを王宮の庭園で見たことでステファンの意識は変わってしまう。
エミの中のわたくしは、花の咲き乱れる中2人で踊っていた気分だったのにそれを中断させられてとても不満を覚えた記憶がある。
ただ、そのエミの鼻歌について音楽に生きる者として強く興味を惹かれたステファンはその曲の仔細を尋ねた。しかし前世の曲、などと言える訳もなく、内緒だ秘密だとはぐらかしたエミはその場から半ば逃げ出してしまう。
数日かけて、エミの口ずさんだ旋律を楽譜に起こしたステファンは、古今の楽譜を調べ宮廷音楽家たちにも聞き回った結果「レミリア嬢が作曲したのでは」との結論に至ってしまう。魔法使いとして既にその実力を認められているレミリア嬢が、作曲の……音楽の才能もあったなんてと落ち込み、音楽の道を諦めそうになっていたのだ。
それを必死で止めたのもエミだった。「私はステファンの弾くバイオリン好きだよ!」「とても心がこもってて、楽しい曲を聞くと踊りたくなるし悲しい曲は本当に泣きそうになるくらい、すごい才能があると思ってる。だから絶対ステファンは音楽を続けるべき」と。すごいすごい、と臆面なく褒められて、ステファンはポカンとした間抜け面を浮かべた後何を言われたか理解して赤面していた。
エミが口ずさんだ曲についても「夢、みたいなところで聞いた記憶がある、自分が作ったなんてとんでもない!」と否定して誤解はとけた。ステファンがぽそりと、「レミリア嬢は心が綺麗だから、妖精の歌う声が聞こえたのかもしれないね」と呟いたのはわたくしだけが聞いていた。
魔法の才能についても、エミのお陰でステファンは肯定的に捉えることが出来るようになっている。「魔術師の音楽家がいたらすっごく目立つし、目立ったらステファンの曲を聞いてくれる人も増えるしすごく良い作戦だと思う」とニコニコしながら提案されて毒気を抜かれたようだった。自分の見目を生かす芸術家は多い、なら魔法の才能だって自分の一部だと受け止められたようだった。
魔術師と音楽家と、どちらも両立させるのはとてつもない努力が必要だろうが、エミはあんなに頑張っているんだからウィリアルドの側近として、友人の自分も負けていられない。何より魔法も音楽も、その尊さを気付かせてくれた大切な友人を笑顔にできる自分の武器だと言っていたのに。
物語の知識を生かして自分を磨き様々な才能を開花させるエミ……レミリアにウィリアルドが嫉妬するという、物語には無かった問題も起きた。わだかまりが解消されるまでの間……エミの才能に嫉妬する自分に気付いたウィリアルドが、自分を嫌悪するとともにエミへの態度が冷たいものになってしまい、中から見ているしか出来なかったわたくしは気が気でなかった。
結局そのぎこちない空気を察した周りの大人が「きちんと話しなさい」と、結婚前だと言うのに2人きりの時間を設けるという異例の措置を取ったのだ。2人が信用されていたと言うのもあるが、庭園の奥の四阿に、当然声は聞こえないが離れた場所に侍女も護衛も待機していたが。それほど周りの大人も2人の仲を好意的に思ってくれていたのだろう。
ウィリアルドはエミの魔法の才能や、そこに甘んじる事なく自分を磨いて様々な分野を学んでいる事、何より自分には無い柔軟な発想により問題を解決する能力を羨ましく思い、それを妬んでさえいると告白した。エミは……自分が頑張れているのはウィリアルドのためだと。ウィリアルドの隣に立って誰にも恥ずかしくない女性になりたいから魔法も勉強も王妃教育も頑張っているのだと涙ながらに語った。
初めてエミの心の声を聞いたウィリアルドは、何でもできる完璧な少女だと思っていた「レミリア」が自分を思って今までの努力をしてくれていたと知り顔を赤らめ、「僕のためだったなんて知らなかった」と呟いた。事実歴史や経済や政治の分野ではウィリアルドの方が造詣は深く、エミはそれを補うように自分の得意を伸ばしていた。
「私こそウィルに相応しく在れるように頑張らないとって思ってて、今でもまだ足りないって……」
その言葉に、今まで「優秀すぎる幼馴染み」としか思ってなかった婚約者を、ウィリアルドは女性として意識するようになっていた。わたくしは2人の初々しい恋の予感に、中から見ていて胸が熱くなるほど幸せを感じていたのに。「レミィがちょっと自由奔放すぎるから、パートナーになる僕はちょっと頭が固いくらいでちょうどいいよね」と笑っていた、なのに。
わたくしは幸せに過ごすエミをどこか眩しい気持ちで眺めていた。それだけで十分幸せだった。エミが言っていたわ、レミリアが幸せになる姿が見たいと。わたくしもその気持ちが今なら分かる。わたくしの大好きなエミが慕われ、幸せそうに過ごす様子は見ているだけで嬉しく感じる。このまま婚約破棄する事なく、エミが心を寄せるウィリアルドと幸せになるところが見たい。
エミは、「ウィル様はレミリアの婚約者なのに」と内心では申し訳なく思っているようだったが……今のわたくしはウィリアルド殿下個人には何も思うことはないし、わたくしがわたくしのままだったらウィリアルド殿下もわたくしを大切に想うことは無かっただろう。エミが心配することは何もないと伝えたいのに、意思疎通ができないのを良い意味でもどかしいと思ったのはこの状態になってから初めてだったかもしれない。
わたくしは、エミの中からエミの幸せを見届ける事が出来るのなら……それだけで良かったのに。
短編版はこちらになります。
「悪役令嬢の中の人」
https://ncode.syosetu.com/n2326gf/
結末や大まかなストーリーは変わってません