逃げ水   作:ピト

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褒められたことではないが最善の策ではあった

 ────文化祭二日目

 

 文化祭は二日目を迎えた。文化祭は二日間あり、昨日の一日目は校内のみでの開催。二日目は一般公開になる。昨日の校内開催では小さな問題こそいくつか発生したものの、大きな問題は起きなかった。その点は安心できたが、今日は一般公開であり、問題は色々と生じてくるだろう。

 今は二日目が始まって約一時間。一般公開が開始された。正門に並んでいた一般の人たちが波のように押し寄せてくる。当校の生徒の親族、総武に受験を定めている受験生とその親たちを筆頭に非常に多い。自クラスの出し物に呼び込む威勢の良い生徒の声がそこかしこから聞こえた。

 

「そろそろここにも人が来そうね」

 

 私は隣にいる兄さんに話しかけた。

 

「そうだな」

「改めて、無理を聞いてくれてありがとう」

「それは今日までに準備してきたウチの社員と代表の柊に言ってくれ。俺は何もしてない」

「もう言ってるわ。でも、兄さんが柊さんに取り次いでくれなければ、こうはならなかったもの」

 

 兄さんが微笑んで私の頭を撫でた。髪型を崩さないように軽く優しい触り方だった。

 

「それを含めて雪乃が勝ち取った。よくやったな」

「………ええ」

「そろそろ行きな。ウチの新作化粧品をしっかり宣伝してきてくれ」

「任せてちょうだい」

 

 兄さんの手が私の頭から離れる。すかさず女性社員が私の髪型をチェックしに近寄って来た。ササッと前髪を整え、兄さんに一礼して離れた。これから私は校内の見回りとSASの宣伝のために巡回に向かう。

 

「雪乃」

 

 室外に出ようとした時に兄さんが私を呼んだ。扉を片手で押さえながら兄さんへ振り向く。

 

「何かしら?」

「綺麗だよ」

「………さっきも聞いたわよ」

 

 兄さんが手を振っているのを横目に流してそこを後にした。

 

 

 

 

 

 ────

 

 昼を過ぎても私へ向けられる視線の数は減らない。むしろ人がさらに増えてきた分、視線の数も多くなってきている。兄さんたちが発売、もしくは発売予定の化粧品をふんだんに使って彩られた私。自分でも驚くほど大人っぽく作り上げられていた。

 見回りをしながら、時折私をチラチラ見ていた女学生や女性たちに対して兄さんたちの出店情報を教える。

 ん?あれは…。

 

「…盗撮谷くん」

「おい人のことを不審者みたいに言うんじゃねえよ」

「ここで何してるの?盗撮?」

「仕事だ仕事。ちゃんと腕章着いてるだろ。いや携帯取り出すなよ」

「人にカメラを構えたまま固まっていたのだからてっきり不審者かと思ったわ」

「いや、まあ、なんだ、……その、いつもと違う風貌だったから」

 

 ポケットに携帯を仕舞う。

 

「つーかお前は?仕事?」

「ええ。私は見回り」

「昨日もやってなかったか?クラスの方はいいのかよ」

「………アレに出るくらいなら仕事をしていた方がマシよ」

 

 私の所属する国際教養科クラスは女子率が九割に及ぶ。その為、ウチのクラスはファッションショーとかいう催しを行っていた。

 

「今とそんなに変わらない気がするが…」

「これは仕事よ。兄さんたちが提示してきた条件なの。だから仕方のない事」

「クラスの連中は納得しないんじゃないのか?」

「………一応昼前の一時間だけは協力したわよ」

 

 眉間に皺が寄る。もうあんな思いは二度とごめんだわ。あの子たち、一時間を最大限利用するために私だけしか出さなかったもの。何着着せ替えさせられたことか。しかも、兄さんの社員さんたちまでメイクにかり出していたし。

 

「………あのクラス、申請していた内容とやっていることが違うわ」

 

 さあ、嫌な記憶はここまでにして仕事をしましょう。

 

 

 

 比企谷くんを伴って見回りしているとしばらく経った。腕時計を見れば、そろそろ兄さんと姉さんの出し物が始まる時間だった。

 

「………そろそろ時間ね」

「なんの?」

 

 私のつぶやきに比企谷くんが反応するが、私は内容を答えることなく足を体育館に向けた。

 

「比企谷くん、行きましょう」

「ん、ああ」

 

 比企谷くんが私の後を追ってくる。どこまでも従順に、そして彼の脳内ではそれすら捻くれた考えを以って肯定しているだろう。

 体育館が近付くにつれて人通りが増していく。扉付近では混雑時の駅中のように渋滞状態だった。それを横目に私たちは関係者用の扉から中に入った。

 

「あ、雪ノ下さん。丁度良かった」

 

 関係者室に入ると、有志担当の子が寄ってくる。

 

「予想より何倍も人数が多くなっちゃって、勝手に私の判断で椅子を撤去してから立ち見の形を取ったの。それから、人の流れをスムーズにする為に列整理に人員を割いたんだけど、よかった?」

 

 この子、すごく優秀だった。

 

「賢明な判断だわ。ありがとう」

「私、ライブ会場とかでバイトしたことがあるからさ。皆が見れるようにあの感じでいいかなって」

「素晴らしいわね」

「うん、雪ノ下さんの同意を得られてよかったよ」

 

 彼女は笑顔を浮かべ、自身も列整理に向かうそうだ。私と比企谷くんは体育館の二階に上ってステージを中央に捉えた。実行委員ならではの位置だ。

 

「えらく騒がしいが大丈夫かこれ?」

「大丈夫よ。すぐに静かになるから」

 

 私の予感は的中し、ざわついていた空気が徐々に萎んでいく。開演の兆しを感じ取ったのか、セッティングされた楽器たちが放っている格式高いクラシックな気配に大衆が気圧されていた。やがてステージには様々な楽器を携えた女性たちが華麗なドレスに身を包み、髪型をばっちりと決めた男性たちと一緒に続々と入場し始めた。大衆からは拍手が沸き起こった。そして一際大きな体躯の男性が入場した時、前列側が騒めく。燕尾服を着た兄さんだ。

 

「………なんかお前の兄ちゃんってラスボス的な雰囲気あるよな」

 

 隣にいた比企谷くんが兄さんを見て言った。他の男性陣と比べても服装の違いはあまりないのだけれど、可憐な衣装を身に纏った女性に負けず劣らず目立っていた。兄さんが楽器を準備して座ると、オーボエから音合わせが始まった。

 やがて、音合わせが終わる。すると、ステージ脇から悠々とした足取りで姉さんが登場した。絢爛たるスポットライトに照らされ、体のラインを強調する細身のロングドレス、闇の如くに暗い衣は一歩歩く度に翻り、会場を釘付けにする。胸元と髪留めにあしらわれた黒いバラのコサージュは遠目にも華があり、真珠とスパンコールの煌めきが姉さんの輝きを一層強くしていた。

 姉さんがスカートの裾を摘み上げ、淑やかに一礼する。高いヒールで指揮台に上がり、タクトを手にした。手を上げて動きが止まった。会場全体に緊張が走る。

 そして、タクトがレイピアのように鋭く振り下ろされた時にそれは起こった。

 旋律が走り始め、楽器たちが音色を奏でる。見てる者全員に鳥肌が立ったことだろう。やがて徐々に徐々に曲の正体が判明し始める。姉さんが指揮棒を左右に振った時、聞き覚えのあるフレーズが聞こえた。次に、姉さんは半身になり、タクトを奏者へ、手を観客へ向けた。観客に笑顔を浮かべて参加を求め、時が来た。姉さんが勢いよく手を振りかざした。大衆が飛び跳ね叫ぶ。

 

「Mambo!」

 

 熱狂の渦の中、次の波がやってくる。

 

「Mambo!」

 

 その場にいる全ての人たちを巻き込んで、自然に味方につけた。曲はそのままラストに向けて疾走していく。観客の視線は姉さんに集中していた。

 

「………二人とも流石だわ」

「あん?」

 

 私の囁きが聞こえなかったみたいで、比企谷くんは首を曲げて耳を傾けていた。私は体を少しだけ近付けて口元を寄せた。

 

「姉さんは流石だわ、と言ったのよ」

 

 比企谷くんは距離の近さに戸惑ったのか少し身を引いて、思い直したように半歩近付いた。

 

「意外だな。お前が褒めるなんて」

「………そうかしら?私はこれでも姉さんを相当高く評価しているのよ」

 

 場の空気に紛れて目立たないように楽器を奏でる兄さん。姉さんが主役と言わんばかりに鳴りを潜めていた。しかし、圧倒的な実力を以って演者全体を纏めているのが分かる人には理解できる。

 

「私もああなりたいと思っていたから」

 

 兄さんがいつも傍に居る姉さんが羨ましい。姉さんが輝く理由は決してそれだけではないのだけれど、私にも兄さんのような存在がいればと考えてしまう。

 

「………ならなくていいだろ。そのままで」

 

 私は姉さんじゃない。私は姉さんみたいに明るく振舞うことはできない。私は姉さんみたいに万人へいい顔できる程大人になれない。私は姉さんみたいに兄さんを振り向かせられない。兄さんは私を対等に見ることはない。

 そんな劣等感はいつも私を蝕んできた。

 

 

 ────

 

 実行委員長である相模が行方不明になってから少し経った頃、陽人と陽乃はステージで一緒に演奏した仲間たちと喋っており、二人はそろそろ幼馴染みである葉山隼人のステージがある為、一旦仲間と離れることにしていた。

 陽乃の携帯がポケットの中で震える。

 

「…雪乃ちゃん?」

 

 携帯の表示を見た陽乃が首を傾げた。

 

「もしもーし。どうしたの雪乃ちゃん」

『姉さん?今すぐ舞台袖まで来て』

 

 雪乃はそう言うやいなや通話を切った。切断された画面を見ながら陽乃は疑問を浮かべたままだ。

 

「陽乃?」

「雪乃ちゃんが舞台袖に来いって」

「………そうきたか」

「予想通り?」

「想定の範囲内ではあるな」

「ふーん、まあいっか。取り敢えず行こう」

「ああ」

 

 二人は舞台袖に歩き出した。道中では在校生がチラチラと憧れや尊敬を含んだ眼差しを向けてくる。それは二人のステージが成功したことを意味していた。舞台袖の扉をくぐると、中には雪乃を始めとした見知ったメンバーが勢ぞろいだった。

 

「はーい、雪乃ちゃん。なんか用?私たち隼人のバンドを見ようと思ってたんだけど」

「姉さん兄さん、手伝って」

 

 雪乃は双子の兄姉に対して単刀直入に用件を言った。瞬間、双子の表情が笑顔から冷たいものへと変化した。液体窒素をぶちまけたように周囲の空気すらを凍てつかせる。

 

「へぇ………いいよ。雪乃ちゃんが私にちゃんとお願いするなんて初めてだし、今回はそのお願い聞いてあげる」

 

 遥か高みから掛けられる陽乃の言葉は慈悲めいて聞こえても、そこに甘さは見当たらない。すげなく断るよりも見方によってはなお辛辣だ。だが、雪乃は首を傾げる。そして、小さくフッと笑った。

 

「…お願い?勘違いしてもらっては困るわ。これは実行委員としての命令よ。組織図を見ていないの?指示系統上、この場では私が上の立場にあることを認識なさい。有志代表者の協力義務事項はたとえ郊外の人であっても適応されるわ」

 

 雪乃は絶対的上位者である態度を崩さない。一方、陽乃はクスクスと楽し気に笑う。

 

「で、その義務に反した場合のペナルティは何かあるの?別に強制力なんてないでしょう?出場停止なんて私たちにはもう関係ないし。どうする?先生に言い付けちゃう?」

 

 陽乃の言い分はかなり現実的で、だからこそ反論できない。雪乃に分が悪いと感じた八幡が何か言おうとした時、その気配を感じた雪乃が手で制した。首を回して周囲を安心させるように微笑んで見せる。

 

「ペナルティはないわ。………でも、メリットはある」

「どんな?」

 

 興味深そうに陽乃は問うた。美しく歪んだ笑顔の圧力に、雪乃はそれを跳ね除けるように自身の胸に手を当てる。

 

「この私にひとつ借りを作れる。これをどう捉えるかは姉さん次第よ」

 

 堂々とした物言いに、陽乃の動きがピタリと止まった。

 

「ふぅん………。雪乃ちゃん、成長したね」

「いいえ」

 

 冷たい表情になった陽乃に対して、雪乃は勝ち誇った笑顔を浮かべる。

 

「私は元々こういう人間よ。十七年一緒にいて気付かなかったの?」

「そう………」

 

 陽乃は目を細めて隣立つ陽人を見上げた。その表情からは何を考えてるかは読み取れない。

 

「ははッ」

 

 八幡が思わず笑う。今の雪乃は、彼が四月にあった頃の彼女だった。

 

「何か?」

「いいや、何も」

 

 雪乃の冷たい視線に八幡はまた笑ってしまう。

 

「それで?どうするの?」

 

 陽乃が気を取り直したように腕を組み、雪乃に問いかける。

 

「場を繋ぐわ」

「だから、どう………ああ、そういうことね」

「ええ。私と姉さん兄さん、あと一人いれば何とか。欲を言えば二人」

 

 雪乃はステージ袖の楽器に目をやる。

 

「おい、雪ノ下本気か?」

「楽しいこと考えたねえ。それで?曲は?」

「ぶっつけ本番でやるのだから、私たちができるものをやるしかないでしょう。三年前姉さん兄さんがやった曲、今でもできる?」

 

 すると、陽人と陽乃がまるで示し合わせたかのように鼻歌を奏でた。その場に居た全員が感心したように惚ける。

 

「これだけでいいのか?」

「足りなければ兄さんと姉さんにまた十分ほど稼いでもらいたいの。無理なら構わないのだけれど」

「陽乃、卒業式にやったやつ」

「うん。それならピアノさえあれば伸ばせるしね。でも、陽人が一人で歌った乾杯の方が文化祭にあってると思うけど」

「うーん、そうだな。一応その二曲を準備しとくか。ハーモニカは頼む」

「おっけい」

 

 二人は余裕そうに段取りをつけていく。

 

「ところで、雪乃ちゃんこそちゃんとできるの?」

「誰に物を言っているのかしら?兄さんと姉さんが今までやってきたことなら大抵のことはできるわ」

「そう。なら大丈夫ね。じゃあ、しーずーかーちゃん!」

 

 陽乃が頭を押さえる静に声を掛けた。

 

「はあ。仕方がない。私がベースをやろう」

「めぐり、サポートでキーボード、いけるね?」

「はい!任せてください!」

 

 めぐりはむんっ!っと両手を握って気合を入れた。

 

「ギターは陽人がやるとして、ヴォーカルは雪乃ちゃんかな?」

「それでもいいのだけれど………」

 

 雪乃は傍にあったマイクを持って結衣に近付く。

 

「由比ヶ浜さん」

「へ?」

 

 驚いた表情の結衣に、雪乃は思いつめた顔で頼みを言う。

 

「あなたを頼らせてもらっても、いいかしら?」

「あ、えっと、自信はないっていうか、…たぶん上手くはできないし、迷惑かけちゃうと思うんだけど、そう言ってくれるのを待ってたよ」

 

 結衣が雪乃の手を包み込む。

 

「ゆきのん!一緒に歌おう!」

「………ありがとう」

「でも私、歌詞とかはうる覚えだからね。その辺は期待しないでね」

「正しくはうろ覚えと言うのよ。今の言い間違いで少し不安になってきたわ…」

「ゆきのんちょっとひどいよ!」

 

 握った手をぶんぶん振り回して結衣が抗議する。雪乃は楽しそうに微笑んだ。

 

「冗談よ。だからその、頼ってもらって、構わない、から」

「…うんっ!」

 

 雪乃と結衣は暗がりでも分かるほどに明るく笑い合っていた。

 その姿を見届けた八幡が集団から背を向ける。

 

「比企谷くん」

「ヒッキー!」

 

 八幡の背中に不意に声が掛かる。

 

「よろしくね」

「頑張って!」

 

 八幡は返事をせず、振り向くこともなく手を振って姿を消した。

 

「彼、本当に見つけられると思う?」

 

 陽乃が小声で陽人に尋ねた。

 

「こういう時の奴はしっかり結果を出すさ。静ちゃんから話を聞いたとこによると専業主夫志望だそうだが、あれは根っからの社畜タイプだ。文句を言いながらも上に逆らうことをしないからな。ああ、なんか欲しくなってきた。あいつが大学入学したら誘ってみるか」

「ふふっ。なんか楽しそうだね」

「就活しなくてもいいから万々歳だろうな。まあ、死なせはしねえからあいつも安心だろ」

「在学中にあの手この手で逃げようとする彼が容易に想像できちゃう」

「蜘蛛の巣にかかった獲物が逃げれる訳ないんだけどな。あがけばあがくほど俺が楽しいだけさ」

「あーあ、私もやること見つけなくちゃなぁ」

「ゆっくりでいいさ。何かあっても俺が何とかする」

「ありがと。でも、いつまでも陽人ありきじゃヤダ。陽人が本当に私を欲しいと思えるような戦力になるんだもん」

「そうか………」

「うん。それに、ちゃんと相応しい女で居続けたいから」

「………そうか」

 

 陽人は陽乃の髪をサラリと触った。その慈しむ触れ方には確かな兄弟愛が見て取れた。

 

 

 

 

 ────

 

 文化祭の全てのプログラムが終了し、文化祭実行委員会は終わりを迎えた。厚木先生が解散を指示し、相模さんが感謝と感想を述べた。

 今、私の目の前で比企谷くんが城廻先輩と話していた。

 

「比企谷くん、お疲れ様」

「お疲れ様っす」

「ありがとね」

「え?い、いや、お礼を言われるようなことは何も………」

 

 戸惑いを隠せない比企谷くんに、城廻先輩はほんわかした笑顔を向けた。

 

「君は不真面目で最低だったけど、文実には必要だったんだね」

「え?」

「ふふ、それだけ」

 

 城廻先輩は上機嫌な足取りで去って行った。

 

「よかったわね」

「あん?」

「貴方をちゃんと評価してくれる人がいて」

「………」

 

 苦虫を嚙み潰したような表情の比企谷くん。孤高の悪役として終えたかったのかもしれない。

 

「本当に誰でも救ってしまうのね」

 

 クスッと笑いながら話す。

 

「普通に考えれば、責任を放棄して逃避した相模さんは許されないはずだった。けれど、戻って来た時の彼女は貴方の心許ない言葉によって傷付けられた被害者だったわ。彼女の取り巻きだけではなく葉山くんという証言者もいる。立派な被害者」

「深読みしすぎだ。そこまで考えてやってない」

「そう?けれど、結果としてはそうなったわ。だから貴方が救ったと言ってもいいと思うけれど」

「まあ、仮にそうだとしても、そりゃ葉山がいなきゃ成立しない。だから俺のおかげとは言えないんじゃないか」

 

 むっ。謙遜が過ぎれば嫌味に聞こえるわよ。

 

「またまたぁ、ご謙遜を~」

 

 私に似た声がした。比企谷くんが私を見るが、首を横に振る。私は声のした方向に顔を向けた。

 

「………姉さんまだいたの?早く帰ったら?」

 

 姉さんが扉の脇に寄り掛かってこちらを見ていた。後ろには兄さんと平塚先生もいる。

 

「いやー、比企谷くんは最高だね。みんなから聞いちゃったよ、そのヒールっぷり。私好きだなー。雪乃ちゃんにはもったいないかもねぇ」

「もったいないのは姉さんと話している時間よ。早く帰って」

 

 私が冷たくあしらうと、姉さんは大仰に傷付いて見せた。

 

「雪乃ちゃんひどいっ!一緒にバンドをやった仲じゃない。仲良し姉妹じゃない」

「よく言うわね。あれだけ勝手に突っ走っておいて。兄さんがどれだけ苦労して合わせてるか知ってるの?」

「陽人が私に合わせられない訳ないじゃん。それを言うなら陽人だって、私と二人のステージでアドリブ満載だったし。それに、盛り上がったんだしいいじゃない。ね?比企谷くん?」

「まあ、確かに超盛り上がっていましたね」

 

 私は何度か目を瞬かせた。

 

「…見ていたの?」

「お前等のステージは最後の方だけな。………まあ、なんだ、結構よかったんじゃないか?見てて感心、したわ」

「あ、あり………あれ、あれは完璧とは言い難いわ。私の歌詞ミスも一度や二度ではなかったし、何よりバラバラだった。観客が盛り上がっていたから勢いで誤魔化せたけれど、冷静な状態だったら聞けたものではなかったでしょうね。そもそも原因はぶっつけ本番というのが大きいのだけれど、各人の意思統一が足りてなった部分に起因していて、とはいうものの、由比ヶ浜さんを引っ張るはずの私がミスを犯して、結果……」

「わあ、照れてる照れてる。雪乃ちゃん可愛いなぁ」

 

 姉さんが茶々を入れてくる。私は軽く咳払いして調子を整えた。

 

「………兄さん、早く姉さんを連れて帰って」

「ええーっ!雪乃ちゃん冷たい!」

「連れて帰れと言われてもなー。これから打ち上げまでの間は別行動する予定だし。持ち場の片付けとミーティングが残ってるからな」

「姉さん、ホントに帰って」

「はいはい。帰りますよっと。じゃ、またね。楽しかったよ。今日のこと、お母さんに話したら驚くだろうなぁ。………ね?」

 

 私を試すように母のことを聞かされて、表情がこわばった。あの人は今日のことをどのように評価するのだろうか。

 

「確かに、らしくないことをしたのは自覚してるわ」

 

 なんとか絞り出した言葉。姉さんは若干驚いた顔で固まる。

 

「ふーん、………雪乃ちゃんはいいなぁ」

 

 抑揚の無いリズムで喋った姉さん。姉さんの視線の先には私がいる。しかし、私を見ている訳ではない。彼女の虚ろな瞳はぞっとするほど冷たく思えた。

 

「一番つまらないのは私か………」

 

 姉さんはそう言い残して私たちに背を向けて歩き出した。私たちとの距離が離れた頃、平塚先生が腕時計で時間を確認した。

 

「さあ、そろそろホームルームの時間だ。君たち二人もそろそろ教室へ戻りたまへ」

「はい、それでは。兄さん、今日はありがとう」

 

 兄さんの笑顔に見送られ、私もこの場を去った。

 

 

 

 

 ────

 

 雪乃が体育館の扉から姿を消した。

 

「じゃあ、俺もこれで」

 

 八幡も雪乃に続く。

 

「比企谷」

 

 不意に後ろから呼び止められた。

 

「スローガン決めといい、相模の一件といい、結果的に君の尽力は大きかったように思う。あれで文実は機能し始めたし、今日も結果だけを見れば成功したといえるだろう」

 

 静は八幡の両肩に手を置いた。

 

「だが、素直に褒める気にはならない」

 

 困ったように静は苦言を呈した。優しく触れる手は慈愛がこもっており、八幡のことを本気で心配しているのが窺える。

 

「比企谷。誰かを救うことは、君自身が傷付いていい理由にはならないよ。君はそろそろ、君が傷付くことで悲しむ人間がいることを理解するべきだ」

「傷付くってほどでも──」

「たとえ君自身の重荷になっておらずとも、私は君が自己犠牲を働くことが悲しい。覚えておきたまえ」

 

 静はゆっくりと八幡から両手を離した。

 

「お説教は終わりだ」

「………うっす」

 

 八幡は特にアクションを起こす訳でもなく、素直に説教を受け入れた。

 

「俺は比企谷くんが間違ってるとは思わねえよ」

「え?」

 

 二人の横から陽人が口を挟んだ。

 

「この世で最も必要なことは結果を出すことだ。比企谷くんは難しい状況下でそれを成し遂げた。正直言って、今回の文化祭の中で俺はお前を一番評価する」

 

 八幡は自分が擁護されている状況に困惑した。なぜなら、彼が取った行動は決して褒められるべき物ではないからだ。

 

「確かに一般的には悪手かもしれない。だが、お前の取れる最善の策だったことに変わりはない」

「陽人、よせ。比企谷が自己犠牲を肯定し出したら今後に何があるか分からん」

「平塚先生、人を爆弾魔みたいに言わんでくださいよ」

「それはお前が捻くれた思考を改善したら考えてやる」

 

 静が陽人に注意した。八幡にとって良くない肯定感を植え付けることになるかもしれないから。

 

「比企谷はもう行きたまえ。時間がない」

「あ、うっす…」

 

 静が行動を促し、八幡は二人に会釈した。歩き出した彼を、大人二人が見えなくなるまで見送る。やがて、静が陽人の方を見ずに口を開いた。

 

「陽人も満足か?」

「あん?どうして俺だよ?」

「君だろう?今回のことを裏で糸を引いていたのは」

「俺が黒幕だって?俺が学校に来たのは今日で二度目なんだけど?それくらいで何をすれば今回のことが引き起こるのさ」

「君の最大の狙いは陽乃だな?」

「………」

 

 陽人は押し黙った。静に続きを促す。

 

「最終的に、奴は気付いたみたいだがね。人を踊らせている側だと思っていたら、実は自分の方が試されていたのだと。殻から抜け出せていないのは奴も一緒だったからな」

 

 静はタバコを一本取り出して火をつけた。一息吸って煙を吐く。

 

「君は何事にも優先順位がはっきりしている。今回もそうだ。しかし、君は大事なことを隠したがる傾向がある。雪乃の成長の為?…いいや、はなから君は陽乃しか気にしていない」

「………妹に優劣なんてつけるかよ」

「普通であればそうだろうな。だが、君たちは普通じゃない」

 

 静はジッと陽人の瞳を見つめた。

 

「…いつまで俺の先生気取るつもりだ?」

「私はいつまで経っても君の先生だよ。間違いも犯すが、それは変わらない」

「生徒を堕とす奴がマトモな先生かよ」

「そう言った意味では私もマトモじゃない。お互いに似た者同士じゃないか」

「………修学旅行の時に、俺を誘い出して体の関係を結んだのはワザとか?」

「さぁな」

「陽乃に肉体関係に対して強い嫌悪感を植え付ける為に、愛してもいない俺と寝たのか?」

「さぁな」

「陽乃は今も、俺に特定多数の女と寝るように強要している。いったいどこまで計画通りなんだ?」

「さぁな」

 

 陽人の問いに全く答える気のない静。お互いに目を逸らすことなく、深層心理を探るような攻防を行なっていた。

 

「ただ」

 

 静が自嘲するように笑った。

 

「唯一の誤算は君を本当に愛してしまったことだな」

 

 静の吐いた煙は瞬く間に空気中へ消えていった。




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