逃げ水   作:ピト

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 会社形態や仕組みは全然詳しく無いので多めに見ていただけると助かります。今回、現実世界でのUber様や出前館様等の事業を雪ノ下兄の会社が発祥ということでこの発想をお借りしている形となっています。ご了承の程よろしくお願い致します。


雪ノ下陽人

 ──────8月中旬

 

 リンゴンリンゴンと鐘の音が鳴った。海浜幕張のお高めのホテルが並ぶ区画。その中にある教会と結婚式場では、今日も一人のカップルが新たな門出を踏み出そうとしていた。参列した人々からは新郎新婦に対して温かい祝福の言葉が発せられ、どこもかしこも明るい雰囲気で彩られていた。

 しかし、光がある所には必ず影が付随する。結婚式という華やかな催しにもそれは例外ではないのだ。式場の雰囲気が明るければ明るい程、その黒いシミはより濃く存在していた。

 

「アンタも早く結婚してくれるといいんだけどねぇ」

「次は静ちゃんの番だね!」

「静ちゃん、おばさんね、いい人見つけたのよー。上手くいくと思うから会ってみない?」

「静。お父さんな、孫の為に貯金始めたんだ………」

 

 会話の矛先がその黒いシミに向く度に、黒々としたシミはビクンビクンと跳ねた。偶然にもその光景を見てしまった八幡は黒いシミの存在に見覚えがあって足を止めていた。新しいラーメン屋を開拓しようとして家から出て来た道中、結婚式という幸福な舞台に何故か引き寄せられて覗いた結果だった。今の八幡は非常にいたたまれない気持ちと後悔の念を抱いていた。もう見るのは止そうとした瞬間、件の黒いシミなる存在と目が合った。深淵を覗いている時、深淵もまたこちらを覗いている。八幡は後ずさった。

 

「あっ、比企──」

「──ほら、静、行くよ」

 

 黒いシミが八幡を捉えて藁にも縋る気持ちでその名を呼ぼうとした。しかし、それより早く彼女の母親と思わしき人物に隣接したホテルへと引っ張られて行った。引きずられて行く彼女を見て、八幡は合掌して深くお辞儀をした。そして姿が見えなくなると安堵のため息を零した。

 

 

 

 ──────

 

 ズルズルと手を引かれる黒いシミこと平塚静。実際の彼女はただ黒いドレスを着て黒い手袋をしているだけなのだが、独身と結婚式という水と油程に網合わない組み合わせに負のオーラを放っていた。故に黒いシミとなったのである。

 披露宴会場に向かっているまばらな集団の最後尾で、母親に手を引かれている。

 

「あれ?静ちゃん?」

 

 静が心の中で「くたばっちまえ!アーメン」と呟きながら歩いていた時、不意に自分の名前が呼ばれてその方向に振り向いた。するとそこには、今回の結婚式の参列者ではないのだが、見知った顔があった。

 

「──陽人?」

 

 静とその周囲が足を止めた。スーツ姿の見知らぬ青年に首を傾げた。陽人が静の手を引いている彼女の母親に会釈をすると、母親の方も条件反射で応えた。静は母親から離れて陽人に近付いた。教え子に見られたくない所を見られた羞恥心と抜け出す口実になるかもという若干の期待を持って。

 

「久し振りじゃん。今日ここで結婚式してたのって静ちゃんの親戚か何かだったの?」

「そうだが、何故お前がここに?」

「あれ?知らなかった?このホテルの系列は俺の子会社なんだけど?」

 

 周囲が目を見開いた。しかし、すぐに冷静になって考える。『俺の子会社』→『俺の勤めている子会社』だと。

 

「それは知らなかったな」

「言ってくれれば秘書を通して口利きくらいできたのに」

 

 秘書?周囲は混乱した。

 

「ところで、今日の静ちゃん凄く綺麗だね。良く似合ってるよ」

「世辞を言うな」

「お世辞じゃないんだけど………」

「──社長、お待たせしました」

 

 社長!?新たな女性の登場に周囲はさらに混乱した。

 

「柊、時間は大丈夫だよな?」

 

 柊と呼ばれたスーツ姿の眼鏡を掛けた女性は、陽人の隣にいる静を見て訝し気に眉を顰めた。

 

「………一応、次の予定は16時過ぎからということになっています」

「なら少しそこで待っていてくれ」

「………はい」

 

 柊は力なさげに頷いてから最後に静をキッと睨んだ。当事者たち以外には分からない程度に。

 

「さてっと、俺の時間ができたのはいいものの、静ちゃんたちは大丈夫?」

「あと30分は始まらんよ」

「そう。ならよかった」

「あの、静?こちらの方はどなた?」

 

 静の母親が口を挟んだ。

 

「ああ、こいつは雪ノ下陽人。私の元教え子だよ」

「雪ノ下陽人です。先生には非常にお世話になりました」

 

 静の紹介に、陽人が母親に名刺を差し出した。

 

「あ、ご丁寧にどうも………Sun And Snow Holdings最高経営責任者?」

 

 母親が読み上げた名刺の内容に、周囲の幾人かが息を飲んだ。特に男性陣の動揺が大きかった。静はマズイと感じた。

 

「陽人!場所を変えるぞ!あっ、あと母さん、私祝儀も置いたしもう帰るから」

 

 静はこの機会を逃すまいと早口に述べてから陽人の手を掴んだ。

 

「え?静ちゃん帰るの?ならこの後フリー?」

 

 しかし、陽人は動かなかった。

 

「そうだから早く──」

 

 静が焦って陽人を急かす。それでも陽人は動かず、隣に控えていた柊に話しかける。

 

「柊。この後の予定は事前の協議通りに進めといてくれない?」

「なっ!?社長!?」

 

 柊が陽人の意図を察して頓狂に声をあげた。

 

「いけません!」

「もう俺がいなくてもいいくらいに話はまとまっているはずだけど?」

「それはそうですが………」

柊さん(・・・)

 

 ピクンと肩を震わせる柊。

 

「だっ、ダメですからねっ!」

 

 つっかえ気味になりながらも陽人を窘める。

 

「柊。君も取締役だよ?それに近々この系列の指揮は君に任せることになってるんだからそろそろ俺がいなくてもやってもらわないと」

「ぐっ………」

 

 公開株式会社であるSASは三人の取締役がいる。柊は本人の強い希望で陽人の秘書をしているが、前提として社内での肩書は副社長である。

 

「柊は一番信頼のおける部下だと思ってる。だからこういうことを言えるんだけど、俺の勘違いだった?」

「ぐっ………」

 

 柊が再度ぐぐもった声を出した。しかし、今度は少し嬉しそうだった。

 

「こっ、今回だけですからね!」

「ありがとう。先方によろしく頼むよ」

 

 柊は手提げ鞄の中からタブレットを取り出して操作し始めた。

 

「体調不良につき、大事を取る形にします。ここ最近の社長は働き過ぎでしたから皆さんも納得されるでしょう」

「悪いね」

 

 陽人は柊を労わる。

 

「では社長、私はこれで。お疲れ様でした」

「お疲れ様。気を付けて」

 

 これを最後に柊は陽人たちから去って行った。

 

「静ちゃん、お待たせ」

 

 陽人は待ちぼうけをくらっていた静に向き直った。

 

「陽人、お前、よかったのか?」

 

 静が今の一連のことを心配そうに問いかける。

 

「ん?ああ、まあ、俺が絶対に必要なことは昨日で丁度終わってたし問題ないよ」

 

 陽人は笑顔で静に答えた。そして、静の親族たちに体を向けた。

 

「………では、私も失礼致します。当グループ傘下で何かございましたら先生を通してご連絡いただけるとお力になれるかも知れませんのでご留意の程よろしくお願いします」

 

 呆然となる静の両親などを気にすることなく、陽人はそのまま静に腕を差し出した。

 

「行こうか、静ちゃん」

「あっ、ああ」

 

 静は差し出された陽人の腕を自然に取ってから肘の内側に手を添えて歩き出した。そのあまりに自然な行為に、静の両親は驚いて意識を浮上させた。

 

 

 

 

 ──────

 

 陽人と静はホテルの地下駐車場に来た。そして、二人は一台の車の前に立ち止まる。

 

「………FDとはまた珍しいものを」

「知り合いから誕生日に貰ったんだ。実は結構気に入ってるんだよね」

 

 陽人が運転席に入り、静が助手席に乗った。

 

「ふむ………やはり狭いな」

「静ちゃんのも同じだろ。ほら、シートベルトしてくれ」

 

 静がシートベルトをしたことを確認すると陽人はエンジンをかけた。ロータリーエンジンの独特な駆動音が車内に響いた。

 

「いいな。ワクワクする」

「だろ?出すよ」

 

 一台の青いFDが動き出した。

 

「静ちゃん、俺昼食食ってないんだけどどっか寄っていい?」

「ん?ああ、そういえば私も受け付けやら何やらで食いっぱぐれていたな。喜んで付き合うぞ」

「ならラーメン行く?」

「分かってるじゃないか」

「静ちゃんと飯行ったらだいたいが焼肉かラーメンなんだから分かってるも何もねぇよ」

 

 FDは公道に出た。

 

「今朝見たことない店を見つけたんだけどそこでいい?」

「おっ、新店舗開拓か?」

「すぐ近くにあるんだけど結構良さそうな所だったよ」

「それは楽しみだ」

 

 やがて、陽人たちはパーキングに車を止めて歩いた。スーツとドレス姿で歩く二人は周囲からの注目を浴びている。両名が容姿に優れているのだから注目度は殊更高い。しかし、普段から常に視線を受け慣れている二人にとってそれは今更のことで気にも留めていない。

 

「静ちゃん、アレだよ!──おや?」

 

 陽人が目的地を見つけると同時に見覚えのある顔を捉えた。目が合った。ギョッとする相手を見て、その存在を思い出した。

 

「確か………比企谷くんじゃん!」

 

 八幡を見つけた陽人は笑顔を浮かべて近付いた。

 

「………ども」

 

 八幡は汗をかいていた。それは普通なのだが、彼の表情は強張っていた。陽人は不思議に思いながらも、まあ夏だからで片付けた。

 

「比企谷くんもこの──」

「──ひ~~き~~が~~や~~!」

 

 陽人の言葉がその後ろからの存在に掻き消された。

 

「ひっ!?」

 

 静が八幡に詰め寄って首根っこを掴んだ。

 

「どうして私を見捨てた?あの時確かに目が合っていたはずだよな?うん?ほら、何とか言ったらどうだ?」

「いっ、いや、何のことでしゅか?お、俺はなんのことだかしゃっぱり」

「こんな腐った目の奴を見間違えるはずがなかろう?」

 

 八幡の前が動いたので、陽人は後列の人に先に進むように動かした。

 

「あっ、アレっスよ!あんな幸福絶頂なイベントに先生がいるとは思わなくて………つい魔が差してしまったんです!俺は悪くない!間が悪かっただけなんすよ!」

「ほう?それは私に対する侮辱と捉えていいか?」

 

 陽人は行列の最後尾に並んだ。昼下がりになりかけだった時刻なこともあってそこまで行列も長くない。もう少し遅ければ並ばずとも入れるようになるだろう。

 

「ちょっ、ちょっと待って!お願いですからその握った拳を下げてぇ!れっ、冷静になりましょう!ちょっと頭を冷やせば分かりますから!」

「私はこの上なく冷静だが?」

「いやそれ冷静じゃない人が言うセリフだからぁ!」

 

 ジャージ服の集団客が退店した。並ぶこと1分も経たずに順番が回って来た。非常にラッキーなことだった。

 

「はいはい、二人ともそこらへんにして入るよ」

「「は?」」

 

 陽人は路上漫才を繰り広げていた八幡と静に声を掛けた。そして、事態の整理が追い付かない二人を置いて入店し、券売機で迷わず豚骨を買った。

 

「二人は?」

 

 陽人は自分の購入が済んでも券売機から離れずにすごすごと入店してきた八幡と静に尋ねた。

 

「………豚骨で頼む」

 

 静も迷うことなく選んだ。

 

「比企谷くんは?」

「え?いや、いっすよ。自分で払いますんで」

 

 しかし、八幡は陽人の厚意を拒否した。

 

「遠慮すんな」

「いや遠慮とかそんなんじゃないっす」

「おや意外だな。君は金を持ってそうな奴には代金を払わせて当たり前くらいの腐ったゴミみたいな感覚の持ち主だと思ってたんだが…」

「それじゃただのヒモじゃないですか。俺は専業主夫になりたいんです」

「な、何が違うんだ…?」

 

 八幡の力説に静が戸惑い押された。

 

「プッ、アハハハハハ。おもしれーな。でも今は素直に奢られとけ。さっき順番を遅らせた詫びだ」

「いや、………まあ、そういうことなら」

 

 八幡は渋々陽人に従うことにした。これ以上の押し問答を繰り返しても後がつかえることや八幡にとって奢られる理由があるのならという二つの要因がそうさせた。テーブル席に一行は座った。静と陽人が隣で、その正面に八幡が一人。店員がお冷やを運んで来る。

 

「「コナオトシで」」

「…ハリガネで」

 

 食券を店員に渡しながら陽人と静が声を合わせて全く同じ麵の硬さを注文した。八幡は少し遅れて陽人たちとは一段下の硬さを選んだ。

 八幡は目の前の二人を観察し始めた。陽人はスーツ姿というラーメン屋にさほど不自然ではない格好ではあるが、彼の容姿は浮世離れしているために周囲の視線を同性異性関わらず集めてやまない。逆に静は黒い派手なドレス姿で、ラーメン屋にいるというよりは高級な洋食店に居そうな格好をしており、それでいて容姿も男性の目を惹き付けてやまない程整っている。こんな二人が並んでラーメン屋にいるのには違和感が生じそうなのだが、それはほとんどない。なぜなら、八幡の前にいる二人はウキウキとした表情で紙ナプキンを用意したり、黒ゴマや餃子のタレ、高菜の位置を確認していたりとラーメンガチ勢さながらの行動を取っていたからである。今は高菜の味をお互いに批評し合っていた。

 

「ん?どうした、比企谷くん?俺の顔に何かついてるか?」

 

 ぼーっと陽人を見ていた八幡はその視線に気付かれた。

 

「いや、なんか意外だなと思ったんで」

「意外?」

「雪ノ下さんもこういう店にくるんだなと………」

 

 陽人はそんな八幡からの印象を聞いて首を傾げた。

 

「そりゃ、俺だってラーメンくらい食うさ。俺はいったい君にどういう人間だって思われてるんだ?」

「そうだぞ、比企谷。コイツは私とラーメン巡りをしたことがあるくらいラーメン通なんだ」

「いや別に俺はそうなろうと思ってたわけじゃねぇよ。静ちゃんに任せてたら自然と詳しくなっただけだし」

 

 雪ノ下という名前はこの地域周辺では名家として名が通っている。県議会議員の父が建設企業を営んでいることは雪乃から聞いているところであり、加えて八幡には一番身近にいる雪ノ下家の次女がラーメンを食する姿が想像できない。それ故に、その思い込みが陽人にも移っていたのかもしれない。

 

「そう言えば雪ノ下さんって」

「陽人でいいよ。三人もいるし区別し辛いだろ?」

「あ、はい」

「んで?何を言いかけてたの?」

「あ、陽人さんってウチの卒業生なんですか?」

「ああ。そうだよ」

「ちょうど比企谷と入れ替わりだ。私もよく覚えているよ。いい意味でも悪い意味でもこれほど印象に残る双子はこの先も出会わないだろうな」

 

 懐かしむように静が喋る。

 

「陽人も陽乃も成績はとにかく二人でツートップ。その上、コイツ等は何をやらせてもできた。加えてこの容姿と陽乃の容姿だ。男女双方から神如き扱いだった」

 

 今度は誇らしげに。

 

「コイツ等が文化祭実行委員長と副委員長を務めた時は過去に類を見ない程人と金が動いた。史上最大の動員数でな。私も引っ張り出されてベースを弾かされたよ」

 

 あまり思い出したくない記憶だったのか、静は苦笑いになる。

 

「あれほどの文化祭も到底見れないだろうな。なあ、陽人」

「当たり前じゃん。俺と陽乃が全力を尽くして、その上で実家のコネも俺のコネも総活用したんだ。やすやすと他人に真似されたくねぇよ」

 

 ふふん!と陽人が尊大に胸を張った。嫌味な感じが一切無く、あっけらかんとした物言いにむしろ好感が持てるほどだった。

 

「陽人さんのコネ、ですか?他校と提携でもしたんですか?」

 

 八幡は陽人の言葉を読み取れなかった。実家のコネは分かる。雪ノ下家のパイプだろう。しかし、陽人自身のコネと言われてはいささか分からなかった。せいぜい先に言ったようなことを想像できるくらいだ。疑問を投げかけると、陽人は懐から一枚の名刺を取り出して八幡に渡した。

 

「………これは?」

「それ、俺が立ち上げた会社。知らない?」

 

 八幡は驚いていた。SASの存在は知っていた。だが、目の前の青年が設立していたとは知らなかった。

 

「はあ、まあ、知ってはいますけど………」

 

 八幡は驚愕を他所に努めて冷静を装った。いや、驚きが大き過ぎて逆に自然とそうなったのかもしれない。

 

「おや?あまり驚かないんだな」

 

 意外そうに陽人が言った。

 

「いや、よくよく考えればあり得る話かなっと思ったんで。社名は妹さんたちから取ったんですか?」

「おっ?それ聞いちゃう?めざといね~、比企谷くんは」

 

 陽人の声は弾んでいて嬉しそうだった。

 

「お前たち、話がズレてるぞっと、その前に来たな」

 

 茹でる時間を短めに設定していたおかげか、ほとんど時間が経たずにラーメンが運ばれてきた。

 

「うまそ~!いただきまーす!」

 

 らんらんと目を輝かせる陽人はいの一番に蓮華を使ってスープを掬い、一口含んだ。すると、幸せそうな満面の笑顔になって箸を進める。陽人の食欲をそそられる姿に、八幡たちは後に続く。無言で食していき、残りが四分の一くらいになったところで全員が替え玉を頼んだ。

 

「静ちゃんも高菜入れる?」

「おや?どうした?にんにくはいいのか?」

「うーん、後のことを考えるとちょっとさ」

「………私は別に気にしないんだがね」

「俺が気にするの。つうか、静ちゃんの方が普通は気にすんじゃねぇの?なあ、比企谷くん?」

「は?」

「替え玉に何入れるかって話」

「俺はにんにくだけにしようかと思ってますけど」

「おお~、いいね。この後は帰るだけ?」

「はあ、まあ、そうっすけど?」

「なら何も気にせずにんにく食えるな」

「陽人さんはこの後も仕事って感じなんですか?」

「いんや。今日はもう上がりだ」

 

 八幡は首を傾げた。

 

「俺と静ちゃんが一緒にこの店に来たことを疑問に思わなかった?」

「………まあ、それは思いましたけど、正直聞いてもいい類いのものかが分かんなかったんで」

「なんだ意外と気を遣うじゃないか、比企谷」

「聞いていいなら聞きますよ。抜け出してきてもよかったんですか?せっかく出会いがあるかもしれないのに」

 

 その時、八幡の背中にクーラーの風が当たってヒヤッと冷気を感じた。

 

「構わんさ。祝儀も置いて来た。それにあの結婚式は従妹のものでな。私はお呼びじゃないんだ。そもそも私は行きたくなかったんだ。従兄弟は年下で気を遣われるし、親戚のおばちゃんたちには結婚の話ばかりされるし、両親もうるさいし……。だいたい祝儀を払って親戚から小言を言われるなんて割に合わん……」

 

 静は早口で捲し立てた後、グイッと水をあおった。

 

「………ちょっとトイレ」

 

 陽人が席を立った。八幡は陽人の背を見送ってから静に問いかける。

 

「雪ノ下兄妹ってあんま似てないですよね。特に姉妹が」

「それを言うなら君たち兄妹も一緒だろう?」

 

 八幡の漏らした感想に、静が失笑する。

 

「まあ、そうなんすけど」

「そうだな、あの双子は優等生ではなかったからな」

「………優秀だったんじゃないんですか?」

「優秀だったさ。だがそれは成績面の話さ。授業中はうるさいし、制服は改造するし、自由奔放だった。知ってるか?ウチの校則の髪の色やらピアスやら休み時間の携帯の使用等の他校から見て羨ましがられる緩さはあいつらの功績だ」

「そうなんですか?てっきり元からかと…」

「そんな訳がなかろう」

「よく学校側は認めましたね」

「いや、当初学校側は断固として認めようとしなかったさ。だからちゃんと学校側と生徒側の全面戦争が勃発した」

 

 苦々しい思い出なのか、先程までよりも暗い渋面を作る静。

 

「それはまた………」

「そのおかげでな。生徒指導とあいつらの担任をやりたいと思う教師はいなかったよ。いつも若手に押し付けられるんだ。ほら私、若手だから、若手だから」

 

 若手を強調し、静は自分を指差した。

 

「花火大会やら祭りやらで生徒監視の一環として駆り出されるんだが、必ずと言っていいほどあいつ等を見かけたよ。遊び歩いていたと言ってもいい。それ故に友達も多かった」

「でしょうね」

「もっともそれも………」

 

 静がそこで言葉を区切った。

 

「それも外面、ですか?」

 

 八幡が続きを引き継ぐ。それを聞いた静はニヤリと笑った。それはさも悪事を共有したヤンチャな少年みたいな表情だった。

 

「ほう?気付いていたか」

「まあ、そっすね。陽人さんの方は偶々でしたけど」

「それはおそらく性差だろうな。私は陽人の方を先に気付いたから」

「そう、かもしんないっすね」

 

 八幡は少し考えながら答えた。彼が父親から施されたクズを育てる英才教育は女性相手限定で、男性版などない。それが理由であると断言できる訳ではないが、理由に足る理由だとも思えた。

 

「外面も陽人と陽乃の魅力だよ。それに気が付いた奴は逆にそのしたたかさと腹黒さを好ましく思い始める」

「カリスマってやつですか?」

 

 静はうん、と頷いた。

 

「だがな──」

 

 逆説の言葉が用いられた。

 

「──他所から完璧に見える双子も人間だ。失敗や手に入れられない物もある。あいつ等の最大の欠点はそれを知らなさ過ぎたことだよ」

 

 静の表情は苦し気で憂いを帯びていた。

 

「陽乃は他の全てを捨ててでも欲しいものが手に入らないと知った。陽人は自分に捨てられないものがあると知った」

 

 八幡は続きを待った。しかし、それが語られることはなく、次に静が口にしたのは別の内容だった。

 

「雪ノ下も双子の兄姉のようになるのが良いとは言わない。むしろ、なってはいけないんだ。あの子はあの子の良い所を伸ばせばいい」

「雪ノ下の良い所って?」

「前にも言ったと思うが、正しくて優しい所だよ」

 

 八幡はその言葉を覚えていた。思い出したというのが正しいか。あの時、静は続けて「それ故に苦労する」とも言っていた。世界は正しくないし、優しくもないのだから。

 

「君も正しくて優しい。雪ノ下とは相容れない優しさだがね」

「なんか矛盾してません?」

「正解が一つとは限らんよ」

「いや、かのコ〇ン君も言ってるじゃないですか。真実はいつもひとつって」

「あいにく名探偵より未来少年派でね」

 

 静はニヒルと笑った。替え玉が運ばれてきたのはその時だった。

 

 

 

 

 

 

 ──────

 

 三人が揃って店を出た。

 

「食った~!比企谷くんは帰りどうすんの?よかったら送ってくよ?」

 

 陽人は背伸びをしながら八幡に尋ねた。

 

「いや、大丈夫っすよ。バスで帰るんで」

「そっか。まあ、俺の車の後部座席に乗ろうと思ったら窮屈だもんな」

 

「あ、ガムいる?」と陽人は静と八幡に差し出した。

 

「あの、これはどうすれば?」

 

 八幡が店内で受け取った名刺を取り出して聞いた。

 

「持ってたらいいよ。どっかで役に立つかもしれないからさ」

「………っす」

 

 素直に財布にしまう八幡。

 

「俺はコッチなんで」

「そうか。ならまたな、比企谷くん」

「気を付けて帰れよ、比企谷」

「うっす。ごちそうさまでした」

 

 八幡は会釈をして二人に背を向けた。

 

「俺たちも行こっか?」

「ああ」

 

 陽人と静も歩き出した。パーキングに着いて車の扉を開く。すると車内からもの凄い熱気が放出された。

 

「うわっ、やっぱり夏だな。静ちゃん、ドア開けたままにして入るのはしばらく待って」

 

 車内の冷房を効かせる間に、二人はお互いにファブリーズを掛け合って臭いを消した。駐車料金を払って車に乗り込む。

 

「あー涼しい!」

「美味かったな」

「そだね。当たりだった」

「また来たいくらいだな」

「あーいいなぁ。俺、来月には東京帰んなきゃなんねぇし」

 

 陽人はクラッチからアクセルを踏んだ。

 

「向こうの方がもっとあるだろう」

「そうだけど、ラーメンは静ちゃんとでしかほぼ食わねぇからな」

 

 陽人は苦笑いしながら言った。

 

「普通に食いたくなったら食えばいいじゃないか」

「いや単純に向こうじゃ食わしてもらえない」

「………」

 

 静が陽人の横顔を見た。

 

「会社の付き合いじゃまず使わないしな」

「………」

 

 信号で止まった。陽人は前方を見据えたままだ。車内は無言になった。FDの駆動音だけが響く。やがて信号が変わり、FDは動き出した。

 

「不満はねぇよ」

 

 陽人はポツリと零した。静はその言葉を聞き、ため息を吐いて首を振った。それからというものの、二人のドライブは単調にほとんど会話もなく続いていた。二十分ほどで陽人は目的地を視認して減速を始めた。ウインカーを出してPと書かれた地下へと降りて行く。

 

「ここは?」

「見せたいものがあるんだ」

 

 駐車して車外へ出る。静は差し出された陽人の腕を取った。二人は上に続くエレベータに乗り込む。着いた先はホテルのロビーだった。それも煌びやかな装飾に彩られ、そこかしこが高級感に溢れていた。静はその光景に圧倒されてしまい身を引いた。

 

「ようこそいらっしゃいませ。お名前をお伺いしてよろしいでしょうか?」

 

 スリーピースを着こなした細身の男性が陽人たちに恭しく話しかけてきた。

 

「雪ノ下陽人です。支配人と話がしたく参りました。SASから来たと伝えてくだされば話は通ると思います」

「SASの雪ノ下陽人様でございますね。確認して参りますので少々お待ちください」

 

 ホテルマンはお辞儀して離れた。陽人は勝手知ったるといった様子でロビーのソファに静を連れて座らせた。陽人もその左隣にドカッと腰を下ろして長い足を組んだ。左肘を背もたれに乗せ、借りてきた猫のように小さくなっている静を見て微笑み、彼女の艶やかな黒髪をいじった。

 

「あれ?静ちゃん緊張してる?」

「あっ、当たり前だ。こんな高そうな所なんて来たことない」

「じゃあ、静ちゃんの初体験だね」

 

 陽人の少し弾んだ声。そのからかい混じりの言葉に静は過剰に反応した。

 

「はちゅたっ………う、うるさいっ」

 

 静がポコンと陽人を小突いた。抗議をしようとした出だしで噛んでしまったのがよほど恥ずかしかったのか、静は目を潤ませて頬を赤くしていた。そんな静の姿は陽人の嗜虐心を存分にくすぐった。しかし、この場所にはまだ他人の目があることが陽人の奥底から湧き出るそれを押し止める。結局は益々笑みを深めるだけに留まった。

 

「笑うな!ニヤケるな!私で楽しむんじゃない!」

 

 周りに響かないくらいの小声で叫びながら静は陽人のほっぺたを抓る。

 

「ひずかひゃん、いはいいはい」

 

 陽人はトントンと静の手を叩いてギブアップを表明する。静は手を離してフイッと陽人から顔を背けた。

 

「いつつ…。静ちゃん怒らないで。皺が増えるよ」

「一言余計だ」

「イタッ」

 

 静が陽人にチョップを落とす。

 

「………ここも君のか?」

 

 静は陽人に顔を背けたまま呟いた。

 

「まあね。ウチが扱っている中では一番高級なとこだよ」

「その調子なら会社も順調そうだな」

「すこぶる。新事業も都内じゃ軌道に乗り始めたし」

「新事業?」

「そっ。もう少しでこっちにも手を伸ばすつもりだからすぐに知れると思うよ。人間のめんどくさがりな性質を突いた単純な事業なんだ」

「???」

 

 静が首を傾げた。静が興味を持ったと察した陽人は得意げに口を動かす。

 

「出前ってあるだろ?あれをより手頃な形にしたんだ。大手経営も個人経営も巻き込んだ数百数千の飲食店と連携してね。ウチが配達を請け負う。まあ、委託業務みたいなものさ。飲食店は人件費削減して新たな客層を得られて嬉しい。客は自分で出向かずに注文を受取れて嬉しい。ウチはその仲介料で儲けられて嬉しい。WinWinWinの関係だよ」

「………話は分かるが、それで本当に儲けが出るのか?」

「儲けをどれだけ出せるかが経営者の手腕だと思わない?」

 

 陽人が不敵に笑った。その声には自信が満ち満ちており、不安などは一切感じられない。静は過去にも同じ表情を見たことがある。陽人が高校二年生の時の文化祭だ。正確に言えば、文化祭準備の期間に総武高全体を引っ張っていた時の表情だった。

 

「君がそう言うならそうなんだろうな」

 

 静が陽人の姿に毒気を抜かれてソファにもたれた。人を従わせる気質とでも言うのだろうか、陽人にはそれが備わっていた。周囲は陽人をコミュニティーの中心に据えることを疑問に思うことはないし、陽人自身もまたそれが当然だと思っている。陽人について行けば必ず結果が出ると周囲は確信している。それは、持って生まれた陽人の才能だった。

 

「雪ノ下社長、お待たせしました」

 

 横から二人に声が掛けられた。静と陽人が声がした方に顔を向けると、そこには中年と思しき男性が歩いて来ていた。

 

「持主さん、わざわざお呼び立てしてすみません」

 

 清潔感の漂う皺の無いワイシャツにノーネクタイ姿の中肉中背の男性に、陽人は立ち上がって軽く一礼した後、握手を交わした。静も慌てて立ち上がり、頭を深く下げた。

 

「雪ノ下社長にお呼ばれしたとあってはこの持主、どんな場合でもかけつけますぞ」

「相変わらず口が上手いですね」

 

 陽人がクスクスと、持主は手を頭に当てて豪快に笑った。

 

「それで、…そちらの女性の方は?雪ノ下社長はまだご結婚されていないと伺っていたのですが…?もしや!ついに身を固めますか!?」

 

 ニヤニヤとした表情で陽人に尋ねる持主。

 

「なっ!?」

 

 しかし、持主の揶揄いに反応したのは持主が本来標的にしようとした側ではなかった。

 

「おや?初々しい反応ですな」

「持主さん、あまりから揶揄わないであげて下さい。この人は俺の高校時代の恩師で平塚先生と言います。平塚先生、この方は持主さん。このホテルの支配人をしてくださっている人だよ」

「御紹介に預かりました持主憲吾と申します」

 

 スッと慣れた動作で名刺を差し出した持主。

 

「あ、平塚静です。ご丁寧にどうも。私、お察しの通り教師をしておりまして名刺の類いを今は持ち合わせておらず申し訳ございません」

「ああ、お気になさらずとも構いませんよ。私どもの職業柄というものでして。まま、立ち話もなんですから社長も先生も座ってくださいませ」

 

 持主が二人の正面に腰を下ろした。

 

「社長。さっそくですが、私をお呼びになられたのは?」

「上の階のことです。今日明日と空いていると記憶していたのですが?」

 

 ピンっと右の人差し指を上に向けて陽人が尋ねた。

 

「ええ、その通りです」

「では、急なのですが今から二人で入ることはできますか?」

「う〜む。社長であれば問題はございませんが………」

 

 難しい表情で腕を組む持主。

 

「何か引っかかっていらっしゃる?」

「実は上の階の専属シェフが休暇を取っておりまして……。お部屋のご提供自体は問題無くできますが、サービスはホテルとしても一般的なモノにならざるを得ません」

「なるほど。ですが、それで構いません」

 

 陽人が即答する。その即答の言外に込められた意図を持主はなんとなく察した。

 

「…では、御案内させていただきます」

 

 持主が立ち上がって先導する。陽人も腰を浮かせて、静に手を差し出した。

 

「静ちゃん」

「………ここではマズくないか?」

 

 静が差し出された陽人の手を見て窘めた。

 

「今更過ぎない?ほら、前までの癖でほんの数時間前にはもっと見られたらマズい人たちに見られちゃったんだしさ」

「だが………」

「大丈夫。これはただ、こういう場所でのマナーだから」

 

 陽人が静を急かす。静は若干の逡巡を経て、結局は陽人の手を取った。二人並んでエレベーターまでの道のりを歩く。

 

「ほう?仲睦まじいですな」

 

 エレベーターを開けて待っていた持主が二人をこう評した。静は恥ずかしげに俯き、その頬を淡い朱色に染めた。

 三人を乗せたエレベーターはぐんぐんと上昇し、表示回数の最大へと辿り着く。扉が開いた。その先に見えたのは広い空間だった。広大な面積のフロアには様々な家具が設置させており、南側にはベランダというよりもガーデンとでも言うべき広さのオープンスペースがあった。設置されている家具等の品々にはどれを見ても一級品だと一目で分かる物であるし、何より今三人がいる高さよりも高い建造物は遠く離れた場所にしか見当たらず、窓を覗けば周辺の景色が一望できるようになっていた。

 

「社長ですので一般的な説明は省略させていただきます。つきましては、コチラがこの階に出入りする為のカードキーになります」

「確かに」

 

 持主が陽人に一枚のカードを差し出した。

 

「では、私どもに御用がございます際にはフロントまでご連絡下さい」

 

 チンッと音が鳴り、エレベーターが閉まり始める。持主は扉が完全に閉まり切るまで頭を下げていた。持主が居なくなれば、陽人と静の二人っきりになる。

 

「………これ、いったいいくらするんだ?」

 

 恐る恐る訪ねる静。眼前に広がる光景に慄き、組んでいる陽人の腕に力を込めてしまう。

 

「え?う〜ん。そうだなぁ、本来のサービスは受けられなかったから割とリーズナブ──ううん、まっ、知らなくていいよ。ほら、静ちゃんも靴を脱いで上ろう」

 

 陽人は備え付けのスリッパに履き替えた。このフロアは外靴そのままでも構わないのだが、陽人はどうにも部屋の中を土足で上がる感覚が嫌いだった。

 

「ちょっ!ちょっと待て!落ち着け陽人!」

 

 ぐいぐいと陽人は静を引っ張ってフロア南のオープンスペースに出た。

 

「ほらっ!静ちゃん、どう?いい眺めだろ?」

 

 そよそよと優しく吹く風。太陽が煌々と照り付ける真夏でもそれほど嫌な暑さではない。風に揺らぐ静の長い髪。静は頬に垂れる髪を耳にかき上げた。

 

「いい景色だ………」

「来月から本格的にオープンする予定なんだ。今はウチの得意先にプレオープンしてる最中でさ。今日はたまたま空いてるのを思い出したから、静ちゃんにも見せたくて連れて来たんだ」

 

 隣で得意げに胸を張る教え子に静は柔らかく微笑んだ。

 

「そんな重要な場所に私なんかを連れて来て良かったのか?」

「静ちゃんだから特別」

 

 陽人は悪戯な笑みを返した。パッと二人の目が合う。静はなんだか恥ずかしくなって目を逸らした。静の視線の先では入道雲が顔を見せていた。

 

「………」

「………」

「………静ちゃん」

「んっ………」

 

 静の体がビクッと震えた。ミントの味と微かな豚骨ラーメンの味がした。陽人が静を引き寄せる。

 

「プハァ!ま、待てっ!せめてシャワーを──」

「気にしないよ?静ちゃん、いい匂いだし」

 

 陽人が再び静を喋れなくする。静は陽人の胸板を力一杯押した。

 

「──私は気にするっ!」

「さっきは気にしないって言ってたじゃん」

「キスだけならな!だが君は絶対キスだけで終わるつもりないだろう!」

「何を根拠に?」

「経験則だ!」

 

 顔を赤くさせて怒る静に陽人は口を窄めた。

 

「分かったら離れんっ──」

 

 陽人の様子にホッと一息吐いて体を離そうとする静を陽人は逆に離すまいとホールドしている腕の力を強めた。

 

「陽人っ!」

 

 静の一喝。

 

「ちゃんとスル前にシャワーは浴びさせてあげるよ。でも今キスをしていい言質は取ってるから」

「は?んっ………」

 

 陽人は真剣な表情になって静の唇に深く合わせる。

 

「屁理くっ………」

 

 隙を見て喋ろうとする瞬間に舌を侵入させて黙らせた。なんとか動こうとする静の右手首を掴み、右手で静の左手もろとも腰を強く抱いて逃さない。視線が交差する。静は反抗的な瞳で陽人に離れろと訴えていた。陽人は目を晒さず、しかし益々舌を絡めに行った。静の表情に焦りが見え始める。

 

「ふーっ、ふーっ」

 

 三十秒ほど経つと、静が鼻で一生懸命酸素を求めていた。しかし、それが上手くできていないのか鼻息が荒い。やがて、静の瞳が許しを請う弱々しいものへと変わっていく。唾液の甘さがとめど無く増していく。陽人の背筋にゾクゾクとした高揚感が走った。目の前の女への支配欲が溢れ出て、攻勢そのままに静の口内を蹂躙し続けた。

 

「ふー、ふー、ふー」

 

 静の息遣いが安定し始めた頃には交換を繰り返す唾液は熟し切っていた。夏であるにもかかわらず、二人は自然と湧き出てくる汗を気にすることなく密着している。むしろ暑さこそが彼らにとってのスパイスであり、情欲をそそられる要素となっていた。寸前の果実に食らいつかんばかりにお互いがお互いを貪る。陽人はトロンとした静の瞳に内心でニヤけた。今の静に反抗的な態度は微塵も無く、ただ目の前の快楽に考えず従う姿だけが見てとれた。自分から舌を絡めに来ている静の表情はこの上なく蕩けたもので、長時間の接吻によって溶かさせた脳は静の情欲を最大限に引き出していた。このまま次のステップに移っても問題は無い。先刻のことなど静の頭の中には残っていない。それを示すように静の手が陽人のネクタイに伸びた。しかし、それが流されようとした時、静の手は陽人によって止められる。

 

「プハッ!フー、フー」

 

 同時に陽人から唇を離す。いや、解放した。二人の間に架かる一本の銀色の橋がプツリと切れた。両者が十数分ぶりに新鮮で清涼な空気を吸った。口内の湿り気と粘性、それに体の奥底からグツグツと煮える熱に対比して、外気はこれ以上ないくらい清涼に感じた。

 静が荒い呼吸のまま、潤んだ瞳で陽人を見つめた。ご飯を取り上げられた子猫のようにしおらしい表情で続きを訴えていた。訴えるしかできなかったのは、第一に立ったままの状況では静から自発的に続きを行うことは二人の身長差によって物理的に不可能であるし、第二に力ずく屈ませることは体の力が抜け切った今の静では出来ないことだからだ。だから静は陽人の腕の中で何とか気を引こうと嫋やかに媚びることしかできない。陽人は静の要求に内心でほくそ笑む。しかし表面上は優しげな微笑みを携えて頷いた。すると、静は蕩けた表情のまま喜色を示して目を瞑った。だが、陽人はおでこに軽く触れるキスを落としただけに留まった。瞬間、静が目を開けて激しく首を横に振った。自分の唇を突き出して場所を指定する。静のその行為は陽人の嗜虐心を存分に満たした。せがむ静を横抱きにして抱き上げる。

 

「今はおあずけ。まずはシャワーを浴びたいんだろ?」

 

 浴室に運びながらそう言うと、静はやっと冷静さを若干取り戻して大人しくなった。焦らしに焦らす。今の静には効果的だと分かっていた。静は現状を理解した今でもキュッと体に、特に下腹部に力を入れているのが伝わってくる。陽人は静を浴室で下ろし、彼女の耳元に口を近付けた。

 

「準備ができたらさっき以上に凄いことをしてあげる。だけど、もし浴室の中であの頃を思い出したり、これからを想像したりして一人でしようものならその時点で今日は終わり。我慢、できるよな?」

 

 陽人の高圧的な口調に静は生唾を飲み込んでコクリと頷いた。それを見た陽人は満足そうに静の頭を撫でて浴室から出て行った。

 

 

 

 

 ──────

 

「君に抱かれたのはいつ振りだろうか………」

 

 カッポーンと音が浴室に響いた。部屋に備え付けられた浴室は大きく、様々な機能を有していた。乳白色のお湯に静が陽人の膝の上に座り、背を預ける形で浸かっていた。陽人の右肩に後頭部を乗せ、心身を脱力させた状態でポツリと呟いた。

 

「一年半振り」

 

 陽人がぶっきらぼうに答えた。その拗ねた口調に静はクスリと笑った。

 

「そうか。思ったよりも長かったな」

 

 静が状態を起こす。簡易的なアップの団子を作ったことによってできたうなじは非常に艶めかしかった。静は体をひねることで正面から陽人に向き合う。

 

「それで?その間に私以外の女を何人鳴かせてきた?」

 

 両手で陽人の頬をつねり、横ににゅいーんと引っ張る。女性並みの滑らかさともちもちした弾力のある陽人の頬っぺたはよく伸びた。

 

「………ひょーこへんと」

「ほら、正直に吐け。別に怒ってないからな、な?」

 

 ニコニコと陽人に迫る静。陽人は静の両手首を掴んで自分の頬から離させた。

 

「目の前にイイ女がいるのに他の女の話なんてしたくねぇよ」

「私はそんなことで騙されんぞ」

「変な所で初心(うぶ)なのに変な所で図太いんだから、相変わらず………」

 

 静はフッと笑い、両手を今度は陽人の頬に優しく添えて額同士をくっつけた。

 

「私が一から数えるからその人数分上書きしてやる」

「ゼロかも知れねぇじゃん」

「まず一人目」

「んっ………」

「次二人目………、ほら三人目………、よ──」

「──終わり」

 

 陽人は迫り来る静の唇に人差し指を添えた。

 

「おや?存外に少ないな」

 

 静が意外そうに目をパチパチさせる。

 

「そこまで暇じゃないって」

「もっとブイブイいわせてるものだと思ってた」

「いやブイブイって死語だし年齢が──」

 

 今度は長かった。

 

「──減らず口を叩くのはこの口か?」

「静ちゃん必死過ぎ」

 

 陽人はカラカラと笑った。静は陽人の首筋に顔を埋める。

 

「逆に静ちゃんは?誰かに抱かれた?」

 

 陽人が静の後頭部を優しく撫でる。

 

「………だったらどうなんだ?」

 

 瞬間、陽人の動きが止まった。

 

「………抱かれたの?だれ??」

 

 陽人の声は底冷えするほど低くなった。

 

「おや?どうした?そんな声を出して。別に今の君は私の夫でも恋人でもないのだから、私がどこの誰に股を開こうと勝手だろう?第一、君も他の女を抱いてるくせに」

「………」

「そんな目で私を見ても怖くないよ。君の怒りは筋違いだ」

 

 静は陽人の肩に顔を埋めたままで彼の雰囲気を敏感に感じ取る。

 

「………分かってる。捨てられた方はやっぱ惨めだな…」

 

 陽人は深く諦念の籠ったため息を吐いた。

 

「私との別れを切り出したのは君じゃないか」

「いや違ぇよ。俺がその選択しかできないように誘導したのは他でもない静ちゃんなんだからな」

「それこそ違う。元々君はあの選択しか取り得ないように生まれた。私はそれを気付かせただけにすぎない」

「………」

「私はあの時の私の選択が間違ったとは思っていないよ。今でもね」

 

 静が状態を起こして陽人と目を合わせた。そして、一気に破顔する。

 

「にしても、君が嫉妬してくれるなんて初めてだな。一応言っておくが、私は君と出会ったあの日から君以外の男は知らない。安心したまえ。私はもう、君以外の男に抱かれるのはごめんだよ」

 

 静は陽人に完全に体重を預けて深く唇を合わせた。謝罪の意味を込めてか、優しく穏やかなキスだった。

 

「私は今でも君が好きだよ。愛してる。この世の誰よりも愛している。それこそアイツよりもな」

 

 陽人の淡いピンク色した唇をペロッと煽情的に舐めてから静は告白した。

 

「あの時、私が君に振られたのはこれからの私たちには必要なことだった。でなければどうして君を手放したりできようか!」

 

 静が急に語勢を強めた。

 

「君の中にはアイツがいる!こんなにも狂おしい程君を愛しているというのに!アイツが君の中でのうのうと居座っているのがたまらなく憎い!」

「………俺は、陽乃を捨てられない」

「知ってるさ。だから逆にアイツに分からせるんだ。これは私と君との間の問題じゃない。私と陽乃の戦争だよ」

 

 陽人の表情が悲痛なものになる。

 

「あの頃の俺たちは──」

 

 静が再び陽人の口を塞いだ。

 

「──それは無理だよ、陽人。私たちはめんどくさい女なんだ。そんな女たちを惚れさせた君が悪い。そして、そんな女たちを同時に愛してしまった君が悪い」

 

 力無く笑顔を見せる静。

 

「君は私と陽乃の問題には何も手を出さなくていい。むしろ君が何かする方がかえってややこしくなる。君はただ、私と陽乃の醜い戦争が終結するのを待っていればいい」

 

 浴槽に一粒の滴が落ちた。

 

「その間、君が君の周囲に跋扈するおもちゃといくら戯れようと構わんよ。むしろ、今の内にせいぜい他の女を存分に知っておきたまえ。もう少しでそんな有象無象のことなど忘れてしまうのだからな」

「………そんなことを無理して言うんじゃねぇよ。だいたい静ちゃんがベットの上で俺に勝てたことなんて無いくせに」

 

 陽人が静の目尻にそっと指を這わせた。

 

「なら聞くが、私以上に相性の良かった女はいたか?」

「それは、………一人しかいねぇ」

「ならそうなるさ。その一人すらも時が来れば私が消してやる」

 

 静の瞳にはドロドロとした禍々しい感情が占められていた。陽人は静のその姿を見て背筋に悪寒を感じた。静の表現が誇張だと分かっていても、今の静なら実際にやりかねない空気があった。

 

「物騒な言葉だな」

 

 陽人がそう評すると、静から黒い感情が霧散する。

 

「私の偽らざる本心だよ。アイツも同じことを思ってるさ」

「………だろうな」

 

 陽人は双子の妹を思い浮かべて心を痛めた。静が数度パシャパシャと顔をお湯で拭い、ザバァとお湯を纏いながら立ち上がった。

 

「そろそろ出よう。私は久々でまだたぎっているんだ。今日は寝かせんぞ」

 

 女性らしく柔らかそうな体の曲線に水滴が艶めかしく這う。静の抜群のプロポーションが取れた体は陽人の情欲を嫌が応にも刺激する。それを理由に陽人は自分を取り巻く問題から目を逸らし、一旦横に置くことにした。

 

「静ちゃんが満足するまで相手してやるよ」

 

 陽人が湯船に浸かったまま答えた。静はそれを聞いて嬉しそうに微笑み、少しかがんで陽人の頭を撫でてから浴室を後にした。




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