逃げ水   作:ピト

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実家

──────

 

 夕焼けに染まる部屋の中、一人の女性がベットに腰かけた。傍らに置いてあった煙草を箱から一本抜き出して先端に火をつけた。一糸纏わぬ姿で立ち上がって大きな窓の方へ歩き、カラカラと音を立てて開ける。外気と内気の気温差によって部屋の中に籠っていた熱気が外に逃げた。女は霧散していく熱気に続いて煙草の煙を吐き出した。頬に張り付いた髪を少し鬱陶し気にしながらかき上げて耳に乗せる。

 

「………また煙草始めたんだな」

 

 女が声のした方向へ振り返った。視線の先には女と同じく裸姿の男が胡坐をかいてベットに座っていた。

 

「ん?…ああ、まあな」

 

 女は自嘲な笑みを浮かべて窓に背中を預ける。

 

「前までは止めてたのにな………」

「最近はどうも口が寂しくてね。それにあの頃は君が嫌がっていたしな」

「やめて欲しいって言ったら?」

「ふん。私の楽しみを奪うんじゃない」

「むう………」

 

 男が口を窄めてあからさまに拗ねると、女は男を愛おしそうに見つめて笑った。

 

「そもそも煙草を吸う私がカッコイイと言ってたのは君だろう?」

 

 女が煙草を持ったまま、男の隣にベットから足を出して座った。

 

「確かに文句なしで似合ってるしカッコイイと言えばそうなんだが………」

 

 男は薄い掛け布団を女の腹が冷えないように掛ける。

 

「それでキスはしたくない」

 

 男がそう零すと、女はおかしそうに不敵に笑った。そして、女の方から男の唇にソフトなキスをする。男はそれを受け入れつつも顔を顰めた。

 

「………煙草臭ぇ」

 

 女は愉快そうに失笑した。

 

 

 

 

──────7月下旬、千葉村

 

 八幡は管理人棟にある風呂に入り、割り当てられた部屋に戻って来た。彼は暗い室内を抜き足差し足で進む。疲れて寝入っている級友たちを起こさないように。

 

「ヒキタニくん」

 

 八幡が自らの布団に潜った時、あきらかに自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

 

「葉山?ワリィ、起こしちまったか?」

「いや、単に寝付きが悪かっただけだよ」

 

 八幡はその理由をなんとなく察した。

 

「ああ。悪かったな。嫌な役を押し付けて」

 

 鶴見留美の現状を何とかしようとした時、八幡たちは彼女を取り巻くグループの関係性を破壊することで解決を図ろうをした。人間の醜さを露呈させることで一つの女子グループを解体させたのだ。その計画の実行の中心となったのが葉山だった。

 

「構わないよ。それについては逆にすがすがしい気分なんだ。昔、似たような状況があって俺は何もできなかったからね」

 

 葉山は自嘲するでもなく、悔やんでる訳でもなく、単に懐かしむように過去を振り返っていた。

 

「雪ノ下さんもお姉さんみたいになれればよかったんだけどね」

「いや、ああはならなくていいだろ。愛想の良い雪ノ下とか不気味で寒気がしそうだ」

「ハハッ。確かに。………あれ?ヒキタニくんは陽乃さんに会ったことがあるのかい?」

 

 葉山が思わずという感じで噴き出した後、疑問を呈した。

 

「兄ちゃんの方ともな………」

「陽人さんとも会ったのか。どうだった?」

「あん?どうってお前、あの人たちについて語る必要あるのかよ。お前の方がよほど詳しく知ってんじゃねぇの?」

「まあ、そうなんだけどね」

 

 鈴虫の鳴く声が山の中で合唱している。

 

「陽人さんはさ、俺の憧れなんだ。常に人の上に立って周囲の人を従わせる。あの人には自然と人が寄ってくる。そんなカリスマ性を持っている。時代が違えば為政者にでもなっていただろうと思う程にね」

「…お前も似たようなもんだろ」

「ははっ。陽人さんに直接会ったのに本気でそう思っているのかい?あの人と比べれば俺なんて猿山の大将でしかないよ」

 

 今度の葉山は完全なる自嘲だった。八幡には葉山の表情が見えない。そこにある感情は表面しか分からない。

 

「あの人に憧れて、あの人みたいになりたいと思って、いつもあの人の背中を追いかけた。でも、その背中はいつも見えなくなるばかり。いつも挫折を味わわされる」

「………」

「みっともない話なんだけどね。一度あの人に本気で立ち向かったことがあるんだ。ああいや、立ち向かったっていうのはおかしいかな。自棄になって殴りかかったことがあるんだ」

 

 八幡は息を飲んだ。

 

「中学生の頃のあることがキッカケでね。あの人のように行動しようとして失敗したんだ。あの人は珍しく静かに怒っててな。首根っこを掴まれて人気のない所に連れて行かれたよ。そこで説教をされた。内容は全くもってあの人が正しかった。それに、完全に悪いはずの俺に対して気を遣っているのも分かった。でも当時は若くてね。あまりに完璧なあの人に筋違いな怒りが沸いて、気付けばあの人に殴りかかっていた」

 

 葉山が天井に手を伸ばして手の平を開いたり閉じたりしていた。

 

「何度も殴ったよ。ガムシャラに、泣きながら。そして殴り疲れた頃、やっと冷静になってあの人に対して何をしていたかを認識した。その時、あの人はどうなっていたと思う?」

 

 葉山は疑問形を使ったが、八幡は葉山が答えを求めていないと分かった。

 

「無表情に俺のことを見つめていたんだ。唇から血を流しながらも、何のダメージも感じていないかのようにただ俺のことを冷たくじっと見ていた」

 

 葉山がため息を零した。

 

「それでな、呆然とした俺に向かってこう言ったんだ。『満足か?』ってね。鳥肌が立ったよ。思えばあの人が簡単に殴られること自体がおかしかったんだ」

 

 八幡は先月に会った青年、雪ノ下陽人を頭の中で思い浮かべた。陽人の体格の良さは服の上からでも十分に窺うことができ、握手をした時も腕っぷしでは絶対に勝てないと誰もが思う程に陽人の手の感触が固かったのを覚えている。おそらくあれでも手加減はされているだろうと八幡は思っている。痛かった記憶も鮮明である。

 

「腹に衝撃が来て、次に目覚めたのは学校の保健室のベットだった。鈍い痛みの後にすべてを思い出して、あの人には一生敵わないことを悟ったよ。それが悔しくて泣いた。みっともなくて泣いた。なによりあの人が怖くて泣いたんだ」

 

 八幡は総武高でトップのヒエラルキーに君臨する葉山のエピソードに聞き入っていた。あの葉山がこんな弱音を吐くのかと疑ってもいた。偽物だとさえ思った。しかし、葉山という人物は普段見ている姿が実は偽物で、本当の姿は今の姿なんじゃないかとも思った。

 

「それから俺は逃げた。表面上はいつも通りに過ごしながらも、後ろめたい過去から目を背け続けた。やがて原因の事態は収束した。あの人たちが動いてすぐに落ち着くべきところに落ち着いたんだ」

 

 八幡は昨日の雪乃と葉山の確執を思い出した。自動的にその時の話だと当たりをつけた。雪乃が言った、葉山ではダメだったあの時。今回の先例はここから来ているのだろう。

 

「あの時から5、6年は経つけど、未だに陽人さんに対して謝罪はしていない。でも、あの人は気にしていないだろうね。たぶん忘れている可能性すらある。たまに家の用事で会うことがあるけど、あの人の目には俺は映っていないから」

「………結局何が言いてぇの?」

 

 八幡はやっと口を挟んだ。

 

「俺はさ、君が羨ましいんだと思う。確固たる自分のやり方を持っていて、今回のことを解決した君を」

 

 葉山の回答に八幡は嘲るが如く笑った。

 

「俺は何もしてねぇよ。問題を解決したってのも違う。あれはただ問題を無かったことにしただけだ」

「………それでも、君の考えが現状を変えたことに変わりはないよ」

「あれは本来最後の手段だ。俺が言わなくても話し合いが行き詰まりゃあ最終的に誰かが思い付く類いのモンだ。俺は最初にそれを提示したに過ぎない。お前みたいに取れる選択肢が多くないんでな」

「君は、………いや、…なあ、もし俺と君が一緒の小学校にいたらどうなってたと思う?」

 

 葉山は一度口にしかけたことを飲み込み、唐突に別の話題を出した。

 

「あん?どうなるって、お前の学校にボッチが一人増えるだけだ」

 

 八幡は当然のように答えた。

 

「そうかも知れない。でも、俺は色々なことが変わっていたと思う。だけど、やっぱり君と仲良くすることはできなかっただろうな………」

 

 葉山は確信を持った表情で喋った。

 

「やっぱりって言っても、今までお前と仲良くなったことなんてねぇよ」

「それもそうか」

 

 めんどくさそうにツッコみを入れる八幡に、葉山はクツクツと軽く笑った。

 

「そろそろ寝るよ。おやすみ」

「………おう」

 

 会話が終わった。八幡は外の鈴虫が鳴いていないことにふと気が付いた。

 

 

 

 

──────

 

 私たち奉仕部に戸塚くんと小町さんを加えた5人は千葉村での活動を終え、平塚先生の運転するワゴン車で学校へと戻って来た。解散の号令を受けた私たちはそれぞれ帰路につく。比企谷くんと小町さんは私と方向が一緒ということで同行を誘われた。その誘いを受けようとした時、学校の正門に一台の黒いハイヤーが止まった。同時に私は動けなくなる。ハイヤーの運転席から初老のスーツを着た男性が下車し、私たちに、正確には私個人に深く一礼してから、スモークガラスで内側が窺えない後部座席の扉を開いた。

 

「やっほー、雪乃ちゃん」

 

 ニコニコとした笑顔で姿を現したのは私の姉の雪ノ下陽乃だった。

 

「姉さん………」

 

 私の眉間に皺が寄る。

 

「えっ?ゆきのんのお姉さん!?」

「ほえー、似てる」

 

 由比ヶ浜さんと小町さんが驚いていた。

 

「なんでこの人がいんの?」

「多分携帯のGPSを追跡したんでしょうね」

「およ?比企谷くんじゃん!デート?デートだな!このこのー!」

 

 「うりうり~」と比企谷くんの脇腹を突く姉さん。比企谷くんは非常に鬱陶しそうにしながら逃げようと試みている。

 

「あっ、あのっ!ヒッキー嫌がってますからっ」

 

 由比ヶ浜さんが姉さんを止めに掛かる。すると、姉さんはジロジロと由比ヶ浜さんを観察する。

 

「おや?新キャラさんだ。もしかして比企谷くんの彼女?」

「ちっ、違いますっ!ヒッキーと私はそんなんじゃ………」

「そうなの?よかったー!雪乃ちゃんのライバルが出現したのかと思っちゃったよー。比企谷くんは雪乃ちゃんのだから手出しちゃダメだよ?」

 

 テキトーなことを宣う姉さん。

 

「違うわ」

「違いますよ」

 

 そして偶然にも、私と比企谷くんの声が重なる。

 

「ほら息ぴったり」

 

 ニヤニヤと下世話な表情の姉さん。ハイヤーの中を確認すると兄さんがいない。どうすれば姉さんの暴走が止められるか途方に暮れそうになった。

 

「陽乃、その辺にしておけ」

 

 この状況を打破したのは平塚先生だった。姉さんは平塚先生を見て一瞬だけ私にしか分からないような影を顔に落とし、その後すぐに元の笑顔に戻った。

 

「静ちゃん、久し振り~」

「静ちゃんはよせと言っているだろう」

 

 姉さんの軽い口調に、平塚先生はこめかみを手で押さえてため息を吐いた。

 

「知り合いだったんですか?」

「元教え子だ」

「それって………」

 

 比企谷くんが姉さんと平塚先生の関係性を尋ねる。比企谷くんが察した通り、姉さんと兄さんはこの学校の卒業生だ。そして、平塚先生は姉さんと兄さんを3年間受け持った担任の先生であった。

 

「まあまあ、静ちゃん。積もる話はまたの機会にして、行くよ、雪乃ちゃん」

 

 姉さんにハイヤーに乗るように促される。しかし、私は実家ではなく、通学中に使っているマンションに帰るつもりだった。

 

「お母さんも待ってるよ」

 

 姉さんに付け足された言葉に、私の行動を強制させる理由が現れた。ビクッと体を思わず震わせてしまい、由比ヶ浜さんと小町さんに心配げな目で見られてしまう。

 

「ごめんなさい、小町さん。せっかく誘っていただいたのだけれど、姉が迎えに来たから貴女たちと一緒に帰ることはできないわ」

「いえ、おうちの用事なら仕方ないですし………」

 

 私は胸の内を悟らせまいと努めて冷静に振舞った。幸い、小町さんは一歩引いた姿勢で理解を示してくれた。由比ヶ浜さんと小町さんに別れの挨拶を済ませ、先に乗車していた姉さんに続いて我が家のハイヤーに乗り込んだ。

 

「都築、出してちょうだい」

 

 姉さんが我が家の執事たる都築さんを促した。

 

「じゃあ比企谷くん、またね~」

 

 やがてハイヤーが静かに走り出す。由比ヶ浜さんたちの姿が段々小さくなっていくのを頭の中で想像しながら前方をぼーっと見つめていた。

 

「おかえり、雪乃ちゃん」

「ええ。ところで兄さんは?」

 

 ありきたりな姉妹の会話。二人の時の会話の役6割は兄さんが主題となる。それほど私たち姉妹にとっての兄さんは偉大で、私たちの中心だった。

 

「陽人なら自分の会社の仕事をしてるよ。三年前にM&Aしたホテル系列が佳境なんだって」

「そうなの?」

「そ。だからあと数日は忙しいらしいよ。お陰でここ数日手持無沙汰だしさぁ。雪乃ちゃん構って~」

「ちょっと姉さん、暑苦しいから離れて」

 

 狭い車内で抱き着いて来た姉さんを引き剥がす。

 ところで、今の私たちの会話から分かるように、実は兄さん、学生の身でありながら現役の企業社長なのだ。建設関係の会社を立ち上げた兄さんは、兄さん自身で発案した技術を軸に会社をオンリーワン企業へと成長させ、二ヶ月と経たずに業界内で知らぬ者はいないくらいに名を馳せた。その後、数か月で元の会社を主戦力とするホールディングスカンパニーを設立し、経営の多角化を推し進め、新事業の開拓を行い、見事に成功する。今や数年しか経っていない驚くべき短い時間で大企業にまでなった。そんな兄さんが会社に付けた名前が『Sun And Snow Holdings Group』。通称SAS。姉さんの『陽』と私の『雪』を合わせた結構安直な名前だが、初めてこの話を聞いた時にはすごく嬉しくなって姉さんと一緒になって兄さんを押し倒したことを覚えている。今思い出しても恥ずかしい出来事だ。現在は冷静になって少し改名して欲しいと思ったり思っていなかったりする。………まあ、兄さんが社長であり続ける限りはそのままでもいいかな。

 

「雪乃ちゃんが冷たいぃ」

「文句ならお母さんに言ってもらえるかしら?」

「………上手い事言ったと思ってる?」

 

 私は窓の外を眺めた。ああ、文句無しにいい天気だ。

 

「ねえねえ、雪乃ちゃん。今どんな気持ち?」

 

 由比ヶ浜さんや小町さんは今頃バスや電車の中だろうか。比企谷くんは、………そうね、アレだわ。うん、あれ。よくは分からないのだけれどアレだわ。

 

「ねえねえ、どんな気持ち?ねえねえ、どんな気持ち?」

 

 ぷにぷにと私の頬を楽しそうに突いてくる姉さんは放っておく。二つも信号を過ぎる頃には姉さんの方が飽きてくるからだ。

 

「そういえば、雪乃ちゃん。今晩一緒に夕食作らない?」

「………ええ、それは構わないのだけれど」

 

 姉さんの提案に私は素直に頷いた。

 

「何作ろっか?」

「決めてないの?」

「だって作るのだって今ふと雪乃ちゃんと作りたいなーって思っただけだもん」

「はあ。ならそうね、夏野菜の麻婆豆腐でどうかしら?」

「おっ!いいね!それにしよう!都築、買い物するからスーパーに寄ってちょうだい」

「畏まりました」

 

 都築さんの運転で実家から程々近いスーパーに入った。留守を都築さんに任せて姉さんと共に買い物に出かける。照り付ける太陽の日差しを早歩きで駆け抜けて建物内に急ぐ。入店した瞬間、おびただしい程の冷気が私を襲った。外との温度差に辟易しそうになる。カートとカゴを携えて小さく気合を入れた。ちょろちょろと動き回るであろう姉さんは好きにさせておく。私は目的物を優先的に確保するために動いた。旬ということもあってか、夏野菜は総じて安めだ。麻婆豆腐を作る予定なのだがゴーヤが凄く安いため、追加でチャンプルも作ることにした。夏バテ予防にゴーヤチャンプルは最適だ。兄さんは忙しそうだからこれで英気を養って欲しい。スーパー内を移動しながらヒョイヒョイとレシピにある材料を取っていく。全てを一通り終えてレジに向かうだけとなった。傍に戻ってきている姉さんを見つめ、カゴに手を伸ばした。

 

「どうしたの、雪乃ちゃん?早く行こうよ」

「ええ。そうしたいのは山々なのだけれど………」

 

 キョトンと首を傾げる姉さん。私はカゴからある物を取り出した。

 

「これは何かしら?」

「えっ?お酒だよ?」

「………これは?」

「えっ?おつまみだけど?」

 

 私の口からため息が零れる。

 

「戻してきなさい」

「えぇ~!別にいいじゃんこのくらい!」

 

 「ぶぅ~」と幼い子供のように口を窄める姉さん。非常に可愛らしく見えるが、決して騙されてはいけない。甘やかしてはならない。調子に乗らせてはならない。姉さんのちょっとを許せば際限がなくなるからだ。

 

「ダメよ。元あった場所に戻して来なさい」

「………雪乃ちゃん、おねがい」

「上目遣いで見てもダメなものはダメよ。ほら、わがまま言わないの」

 

 周囲の視線を集めている私たち姉妹。全く、これではどっちが年上なんだか…。

 

「むぅ………あっ!」

 

 突然、姉さんが手をポンッと叩いて私の耳元に寄った。

 

「雪乃ちゃん、陽人にお酌しなくていいの?」

 

 ピクッと私の耳が動いた。そして、私の中の悪魔が顔を出す。

 

「先月で陽人もお酒を飲めるようになったんだよ?まだお酌されたのは私だけだろうけど大丈夫?」

 

 そう言えば、兄さんは7月7日をもって姉さんと共に二十歳だ。お祝いの言葉は例年通り言ったのだけれど、お酒を飲めるようになったことは失念していた。

 

「雪乃ちゃん、小さい頃から時代劇に出てくる女の人みたいに陽人にお酌をしたいって言ってたもんね」

 

 どうしよう。戻して来なさいと姉さんに言った手前今更………。

 私の悪魔は、さっき言った言葉なんて忘れて兄さんにお酌なさいと言っている。

 私の天使は、夫婦のように気持ちを込めて兄さんにお酌しなさいと言っている。

 相反する2つの意見。私はいったいどうすれば………。

 

「陽人もいつ雪乃ちゃんにお酌してもらえるのか楽しみにしてるよ?」

「………仕方ないわね。今回だけよ?」

 

 私はついに陥落してしまった。兄さんがして欲しいと思っているならやらない訳にはいかない。仕方なく、そう、兄さんの為に仕方なくだ。

 

「わーい!雪乃ちゃん好き!」

 

 抱き着いてくる姉さん。うっとうしいが甘んじて受け入れた。

 

「はいはい、分かったから。兄さん用のお酒は?」

「私と嗜好は同じだからこれでいいんだよ~」

「なるほど」

 

 姉さんと兄さんは双子だ。ならば嗜好が似るのは納得できる。

 

「さっ!行こっ!雪乃ちゃん!」

 

 姉さんが私の手を取って繋ぐ。周囲の視線が生温かくなった。指を絡めてくる姉さん。

 

「ねっ、姉さんっ!分かったから手を離してちょうだい!」

「いいじゃん!いいじゃん!」

 

 私が照れているのを理解している姉さんは繋がれた手を離そうとしない。注目が集まって赤面する私は車に戻るまで苦行に耐え続けた。

 

 

 

 

──────

 

 兄さんが実家に帰って来たのは日付けが変わる少し前だった。私は兄さんを玄関で出迎える。

 

「おかえりなさい、兄さん」

「雪乃?…ああ、そっか、確か今日だったなっと。ただいま」

 

 スーツ姿の兄さんは私を見て少し驚いていた。忙しくて忘れていたのだろう。お疲れ様だ。兄さんが持っていたカバンを受け取る。いや、差し出すように促したというのが正しいか。

 

「ありがとう」

「いいのよ。兄さんは疲れているのだから家でくらいゆっくり休んでちょうだい。仕事が佳境なのでしょう?」

「おや?知ってたのか?ん、まあ、陽乃あたりから聞いたのか。ところで、陽乃は?」

「兄さんの帰りが遅いからってふてくされて部屋でいるわ」

 

 姉さんの現状を教えると、兄さんは苦笑いになった。

 

「夜はもう食べてきたのかしら?」

「いや、まだ食べれてない」

「そう。なら先にお風呂に入ってもらえるかしら?その間に用意しておくから」

 

 気分が上がってきた。兄さんの為に作った夕食は無駄にならないようだ。

 

「いや、もう日付けも変わるし雪乃も眠りたいだろ?自分でするから大丈夫だぞ?」

「こんなことで遠慮しないで。いいから任せない」

 

 私は兄さんを脱着所に押し込んだ。そして、そのままキッチンに向かうのではなく兄さんの部屋に足を運ぶ。ノックして中に入ると、姉さんがベットに転がって本を読んでいた。

 

「兄さんが帰ってきたわよ」

「………知ってる」

 

 兄さんと姉さんは昔から一緒の部屋だった。実家には一人一部屋が十分与えられるのだけれど、姉さんは兄さんと頑なに部屋を分けようとしなかった。一度母が強引に部屋を分けさせたことがあったが、姉さんがその部屋を使おうとする気配は全くなく、兄さんの部屋で寝起きし、姉さんの所有物が段々と兄さんの部屋を侵食していった。そして気付けば元の兄さんと姉さんの共同部屋に戻っているのだ。それからというものの、母ですら何も言わなくなった。タンスの中から着替えを取り出す。男物の下着は一人暮らしでもカモフラージュ用として所持しているから慣れたものだ。部屋を後にして脱衣所に戻る。

 

「兄さん、ここに着替え置いておくから」

 

 シャワーの音が丁度途切れたタイミングで中に声を掛けた。

 

「ああ、ありがとう」

「ご飯の準備はしばらくかかるからゆっくり入ってちょうだい」

「はいよ~」

 

 せめて私ができることはしてあげたくてこう言った。浴室から間延びした声が聞こえてクスリと笑った。キッチンに行き、冷蔵庫から姉さんと一緒に作った夕食を取り出す。兄さんにゆっくりしろと言ったのだけれど、実際にすることなどほとんどない。強いて言えばおかずとスープを温め直すくらいだった。すぐに手持無沙汰になり、食卓の椅子に座ってテレビをなんとはなしに点けた。

 兄さんが姿を見せたのはそれから二十分ほどしてからだった。濡れた髪をタオルで拭きながらTシャツ短パンの非常にラフな格好をしていた。まあ、それを用意したのは私なのだけれども。

 

「座ってて。用意はできてるわ」

 

 私は立ち上がって、あらかじめ準備していたおかずを運び、ご飯とスープをお椀によそった。

 

「はい、どうぞ」

「ありがとう。いただきます」

「召し上がれ」

 

 兄さんの隣に腰かける。点いたままのテレビを眺めながらチラチラと兄さんを窺う。

 

「雪乃」

「…何かしら?」

「おいしいよ」

 

 兄さんに褒められて心がポカポカした。破顔してしまうのは不可抗力だ。

 

「そう。今日は姉さんと作ったのよ」

「ああ、だからか。あとで機嫌を取っておかないとな」

「仕事なのだから仕方ないわ」

「そうは言ってもな………」

「明日にはどうせケロッとしているわよ。今までもそうだったじゃない」

「あ~、あれはな………。いや、うん、まあ、そうか」

「………?」

 

 歯切れの悪い兄さんの返事に私は首を傾げた。

 

「まあ、とにかく久し振りに雪乃の手料理を食べれて嬉しいよ」

 

 兄さんが誤魔化すように私の頭を撫でた。こんなことで誤魔化される私ではないのだけれど、この気持ちよさに免じて兄さんの思惑に乗っかることにした。兄さんの食事が半分ほど進むと私は席を再び立って冷蔵庫から冷やしたグラスとお酒を取り出した。かねてからの目的を果たす予定だ。

 

「兄さん。これ買って来たのだけれど飲まない?」

「ん………?」

「お酒。姉さんが選んだから兄さんの好みには合っているはずなのだけれど」

 

 お盆に乗せたグラスとお酒をテーブルに置いた。

 

「せっかくだしもらおうかな」

 

 兄さんがお酒に手を伸ばす。私はそれを優しく止めた。

 

「お酌するわ」

 

 すると、兄さんは微笑んでグラスを私に差し出した。私は慣れない手つきで兄さんにお酌をした。クイッとグラスが持ち上げられ、注いだお酒が嚥下されていく。兄さんの男らしく隆起した喉ぼとけが揺れて、それと同時に私は唾を飲み込んだ。兄さんが「ふう」と一息吐いて私を見つめる。テレビの音だけが単調に流れるダイニング。私と兄さんの二人だけの空間に、私はなんだかドギマギとしてしまう。

 

「おいしい。今までで一番おいしいよ」

 

 紡がれた感想にどうしようもなく嬉しくなる。照れくさくなってプイッと兄さんから顔を背けた。

 

「………まだ一ヶ月程度しか経ってないのだからそう思うだけよ」

「そうかも知れないね。でも雪乃がお酌してくれたことは一生覚えてる。今日のお酒が特別おいしかったと思うのは後から必然的に分かるんだよ?」

 

 『一生』『特別』『必然』。歯に衣着せぬ兄さんのセリフに顔が熱くなった。

 

「どうせ姉さんにも同じことを言ったのでしょう?」

 

 誤魔化そうとして早口になった。すると、兄さんはイタズラな表情で口角を上げた。

 

「バレた?」

「…全くもう」

 

 悪びれる様子の無い兄さんに大袈裟に呆れる仕草をする私。

 

「それでも、今雪乃がお酌してくれたお酒が間違いなく一番だよ」

「………」

 

 無言で二杯目をグラスに注ぐ。この日、私は何年か振りに兄さんを寝るまで独り占めできた。




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