「ええじゃないか」は、1867年(慶応3年)8月から12月にかけて、日本各地で空から御札が降ってくるという現象が起こり、それを喜んだ人々が「ええじゃないか」と唱えながら踊り続けたという騒動。誰がこのようなことを始め、なぜ一気に全国に広がり、どのように終息したかは諸説あり、よく分かっていません。一般的には、幕末の行き詰まった世相や、各地で相次ぐテロ事件、苦しい生活などでストレスを蓄積した民衆が、世直しを切望して同時多発的に起こしたものと解釈されています。一方、江戸幕府を倒そうとする人々が、自分達の工作活動から江戸幕府の目をそらせるために起こしたという説もあり、本当のことは今も分からないままです。
1867年(慶応3年)8月4日、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)にある東海道の御油(ごゆ:現在の愛知県豊川市)宿で、「秋葉神社」(あきばじんじゃ:火伏[火災を防ぐ]の神様、静岡県浜松市)の御札が降ってきたために、人々が大いに喜んだという記録があります。これが、ええじゃないかの始まり。その後、ええじゃないかは一気に全国に拡大します。
10~12月にかけては、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)から伊勢国(いせのくに:現在の三重県北中部)一帯、東は横浜・江戸・甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)・信濃国(しなののくに:現在の長野県)、西は京都・大坂(おおさか:現在の大阪府大阪市)から安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)まで、実に全国31ヵ国に広がりました。
しかし不思議なことに、討幕派の拠点である、長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)などの西南日本地区と、また逆に親幕派の諸藩が多い東北日本地区では発生していません。
この騒動の掛け声は、全国共通で「ええじゃないか」だと思われがちですが、実は人々の掛け声も1種類ではなく、地域によって異なっていました。
「日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊りはおめでたい」
(阿波:あわ、現在の徳島県阿波市)
「長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか」
(西宮:にしのみや、現在の兵庫県西宮市)
こうした掛け声は西国に多く、発祥の地と言われる東海地方では、特定の掛け声について記録されていません。
また、人々はただ踊るだけではなく、ええじゃないかと唱えながら金持ちの家に押し入り、家具などを強奪した地域があれば、「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう:栃木県日光市)の葬儀を模した仮装行列を行い、江戸幕府の滅亡を暗示した地域もありました。
発生当時、この騒動は各地で「お下り」(おくだり)・「御札降り」(おふだふり)・「おかげ騒動」・「大踊り」・「雀踊」(すずめおどり)・「チョイトサ祭り」・「ヤッチョロ祭り」などと呼ばれていました。「ええじゃないか」という用語で定着したのは意外と新しく、後年の1931年(昭和6年)のことです。
このとき、ええじゃないかの定義として、①発端は神の御札が降ってきたこと、②降ってきた御札を祀る、③数日にわたって祝宴が行われる、④男性の女装、女性の男装など性的規範の無視、⑤「ええじゃないか」などの掛け声を繰り返して踊る、⑥最後は領主側の命令・指導によって鎮静化する、という6つの特徴が定められました。
他にも江戸時代には、「伊勢神宮」(いせじんぐう:三重県伊勢市)の御札が空から降り、全国からそれを祝して多くの人が伊勢参りをするという「お陰参り」(おかげまいり)が定期的に発生。ええじゃないかが、お陰参りに影響を受けたことは確かですが、2つは別物と考えられています。
江戸時代末期に始まった「百姓一揆」(ひゃくしょういっき:農民による集団抵抗)、「打ちこわし」(町民・農民による、裕福な商家の破壊)といった江戸幕府への抵抗が、ええじゃないかによって弱まったとする説、ええじゃないかは封建制度(ほうけんせいど:土地を通じて結ばれた支配関係)からの脱却を目指す「世直し運動」のひとつであるなどの説もあります。
いずれにせよ、歴史的に「ええじゃないかとは何であったか」という定説はありません。
一方、この騒ぎのおかげで討幕派が暗躍しやすくなったことは確実でした。そのため、ええじゃないかは、討幕派が世の中を混乱させるために仕組んだという説もありますが、想像の域を出ていません。