垢抜ける。優等生の消失。
垢抜けるとなぜまずいのか。いや、悪いとは言えないが、優等生というペルソナを失うと、いきなり馬鹿に見えるのは確かである。これは演技の問題で、たとえば映画でエリートを演じればそれっぽく見える。現実においても、演技は重要である。優等生っぽい少女が垢抜けると白痴になったかのような印象を受ける。たとえば広末涼子などは中高生の頃はそれなりに優等生キャラであったが、早稲田大学への進学で凄まじいバッシングを受けた。一般入試が守られていた最後の世代なので、仕方あるまい。この10年後くらいなら、芸能人が(一般入試では到底無理なレベルでも)早稲田や慶応に行くのは普通だった。ともかく早稲田進学でのバッシングが原因なのか、広末涼子はこのあたりからまったく優等生ではなくなり、とても頭が悪くなった。いや、知能が上昇したり低下したりするわけではないので、印象の問題でしか無いが、優等生という役柄を放棄したのだろうし、垢抜けると馬鹿に見えるのは、そういうものであろう。たまたまわかりやすく広末涼子の事例を出してみたが、一般人でも、優等生でなくなる瞬間はある。他人を中身だけで見ればいいのかもしれないが、他人の頭を開くわけにもいかないし、そもそもわれわれが求めているのは「優等生っぽい言動」である。本物の知性が何なのかそれは今ひとつわからない。黒髪で清楚で品が良さそうだと、頭脳も優秀だろうと、(まったく相関関係がないのに)勝手に思うのである。われわれが他人の学歴や職業を知りたがるのは、そうでもしないと、他人の知性は蜃気楼のようなもので当てにならないからだろう。知性に価値があるかどうかは別、もしくは、価値があることはあるのだろうが、他人と接していても、それはブラックボックスというか、よくわからない。とはいえ、派手な格好をしたり、入れ墨をしたりして「人間を外見で判断するな」というのは説教強盗みたいであるし、それが中身と関係ないとしても、やはり何かを放棄してしまった人というのも確かである。上品な言動とか下品な言動があるとして、そういう立ち振舞いは内面と外面のどちらに帰属するのだろうか、という問題でもある。