無職転生 - 蛇足編 - - 27 「アイシャ」

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無職転生 - 蛇足編 - 作者:理不尽な孫の手

アイシャがメイドを辞める時

27/28

27 「アイシャ」

 アイシャ・グレイラットは生まれついての天才だった。
 物心ついた時には、すでに言葉が理解できた。
 言葉だけではない、母が教えてくれることを模倣することも簡単だった。
 物事一つ一つに対し、なぜそれをしなければいけないのか、というのも早い段階で理解できた。
 掃除、洗濯、言語、数学、歴史、地理、理科。
 アイシャはスポンジのように知識を吸収していった。

 転移事件が起きてからも、その優秀さは変わらなかった。
 シーローン王国の王城に転移したリーリャとアイシャ。
 二人はロキシー・ミグルディアの知人ということで、パックス・シーローンに捕らわれ、そのまま侍女として働くこととなった。
 アイシャはまだ小さかったが、パックスにとっては関係の無いことだった。
 だが、だからこそ良かったのだろう。
 シーローン王国の侍女たちは、パックスの犠牲者でもあるリーリャと、小さなアイシャに同情してくれた。
 唐突に現れた二人に、良く接してくれた。
 特に、小さなアイシャに対しては、その境遇を哀れみ、色んなことを教えてくれた。

 アイシャは彼女らから、様々なことを学んだ。
 主に学んだのは、処世術だ。
 敬語に加えて、コケティッシュなしゃべり方。
 礼の言い方、モノの頼み方、断り方、挨拶の仕方、相手を笑わせる方法。
 優秀なアイシャは、すぐに処世術が生きていく上で重要であることを悟った。

 アイシャにとって、世の中は簡単に見えた。
 教えられたことは全て簡単に覚えることが出来たし、模倣も改良も簡単だった。
 出来るようになってしまえば、柔軟に応用していくことも容易だった。
 そこで、周囲の人間の能力の低さに気がついた。
 周囲の侍女は様々なことを教えてくれるが、考え方に柔軟性は無く、知識はあれども知恵は無かった。
 同い年の子とはほとんど接したことはないが、その限られた人間は、知識も知恵も無かった。
 端的に言えば、アイシャには周囲の人間が全て馬鹿に見えていた。

 だからといって彼女は、自分の将来を楽観視してはいなかった。
 パックスに囚われている状況が、自分の将来を暗くしていることを理解していた。
 母の言うとおり、顔も憶えていない、女児の下着に興味のあるという兄に仕えるのも暗い未来だが、
 パックスがそんな兄より下劣な人間であることは、母や侍女たちの反応から理解できた。
 そんな人間の所に居続ければ、自分がどうなるかなど、火をみるより明らかだった。

 ゆえに、打破しようと動いた。
 自分は幼く、身体能力も低い。
 だが、今のうちに動かなければ、取り返しのつかないことになるから。

 そうして出会ったのが、兄ルーデウス・グレイラットだった。

 その後、アイシャにとって、ルーデウスは特別な存在となった。
 アイシャから見て、唯一の優秀な人間であったからだ。
 ルーデウスは、常に先を行っていた。
 人に出来ないことをやってのけていた。
 それは、天才であるアイシャから見ても、自分には出来ないと思えるレベルのことであった。
 高度な魔術を使いこなし、柔軟な思考力を持ち、強い味方を従え、
 しかし決して驕らず、アイシャと同じ目線で物事を考えてくれる兄。
 最初に持っていた印象とのギャップもあり、尊敬するに値する人間に見えた。

 この兄になら、仕えてもいい、と。
 女児のパンツが好きなことなど、些細な問題だ、と。
 そう思えた。

 それはいわゆる、吊り橋効果だったかもしれない。
 なにせ、アイシャにとっては生まれて初めてのピンチだったからだ。
 侍女の技能と、勉学、処世術を学んだものの、まだまだ物事を知らないアイシャが、見知らぬ町に出て、自分の2倍はあろうかという大人に手を掴まれ、命綱だと思っていた手紙を破り捨てられる。
 そんな場面を颯爽と救われたのだから、好きになって当然だ。

 だが、アイシャにとってはどうでもいいことだった。
 アイシャは将来、侍女としてルーデウスに仕え、母のように子供を生むのだと考えていた。
 そういうものだと思っていた。
 無知からくるものではない。
 世の中には様々な生まれの人間がいて、様々な人生を送る。
 それをわかった上で、アイシャは自分の生まれと育ちを鑑みて、そうなるのが必然だと考えたのだ。

 もちろん、他にやりたいこと、なりたいものがあったなら、アイシャは別の方向に進んだだろう。
 だが、アイシャのやりたいことは、別の方向に進まなければできないものではなかった。
 アイシャのやりたい事は、給料さえもらえれば、兄の下で働きつつも、十分に出来た。
 なら、尊敬できる人物の下で働きつつ、給料をもらい、好きに生きればいい。そう考えたのだ。
 そして、アイシャにはそれが実現できるだけの力が十分にあり、その将来はいとも簡単に実現した。

 それからというもの、アイシャは好きに生きた。
 家事と炊事をしつつ、植物を育てたり、可愛い物を飾ったり。
 特に、植物を育てるのは面白かった。
 土、種、日当たり、水。
 様々な要素を組み合わせて、理想のものを作る。
 まったく同じ組み合わせでも、同じように花が咲くとは限らない。
 前例の無い植物の栽培は思い通りに行かない事も多く、しかし理屈が通らないわけではなく、必ずうまく育つ組み合わせがある。それを探すのが面白かった。
 一番いいのは、文句を言わないことだろう。
 元々、アイシャは理屈の通らない文句を言う相手が嫌いだった。
 足を引っ張られるから。

 そう、気づいた時には、アイシャは能力で人を差別するようになっていた。
 出来る人は好きになる。
 出来ない人は嫌いになる。
 例外は成果を出したやつで能力が低いなりに成果を出した者は認める。そういう子になっていた。
 自分よりも優秀という点において、アイシャはルーデウスを尊敬しているし一番好きだと言っていい。
 もちろん、それは恋慕的な"好き"とは、ちょっと違う、歪んだものだった。

 それはアイシャの最も歪んだ部分で、リーリャが産みつけたものだともいえる。
 リーリャは、アイシャがどれだけ優秀なところをみせて 成果を出しても相応の褒美を与えなかった。ノルンを優先しろ、ルーデウスを優先しろと言い続けた。
 だからアイシャは反動で差別をするのだ。

 そして普段から差別してるから 自分の失敗に対しても敏感だ。
 失敗するとアイデンティティが崩壊し。見捨てられるんじゃないかと不安になる。
 だから失敗は即座にフォローしようとするし、時には失敗の責任を他人に押し付けた。

 無論、ルーデウスの妹として、メイドとして暮らしていくうちに芽生えた感情は嘘ではない。
 彼女は彼女なりに嬉しがったり、寂しがったり、時には怒ったり泣いたりしながら生活していた。

 しかし、彼女が人を評価する時の差別は変わらなかった。
 彼女は必ず能力で人を判断した。
 そして、「好き」という気持ちがわからなかった。
 理屈抜きで誰かを好きになるという感覚が、わからなかった。
 愛がわからなかった。


---


 そんなアイシャにとって、転換点となる出来事が、二つあった。

 一つは、アルス・グレイラットの誕生だ。

 アイシャはルーシーにララと、二人の娘の出産を手伝ってきた。
 生命の誕生に立会うことで、アイシャも感動を覚えた。
 わー、すごいなー、と。
 その程度だが、確かに感動はしていた。

 だが、アルスが生まれた時は、ひと味違った。
 彼が生まれた時、その場にルーデウスはいなかった。
 エリスは初産だったが体力もあり、リーリャやアイシャもすでに三人目。
 その場にいるのはベテランばかりで、エリスも無駄にやる気があり、出産自体も難しくないものであった。
 そうした状況もあってか、最初にアルスを取り上げることになったのは、アイシャだった。

 アルスを抱いた時、アイシャはルーシーやララの時には感じなかった何かを感じた。
 生まれたばかりのアルスが大きな声で泣くのを聞いて、胸の奥から今までに無い感情が芽生えた。
 口では説明出来ない、切ないような、もどかしいような、そんな感情だ。

 その感情は出産が無事に終わり、エリスがほっと一息をついて眠り、アルスもまた同時に眠りについて、夜になり、アイシャが自分のベッドに潜り込んでも、なお続いた。
 やけに目が冴えて、眠れない夜になった。
 アイシャはベッドに仰向けになって、両手を上にあげて、アルスを抱き上げた感触を思い出した。
 手に残る感触はルーシーやララとよく似たもの。
 全く同じではないのは、男の子だったからだろうか。

 わからない。
 だが、アイシャはその時、自分がとても心地良い気分であることに気づいた。
 早く明日になって、泣いたり叫んだりするアルスの面倒を見たいと思った。
 アイシャにとって、アルスは何か、特別だった。
 何がどう特別かはわからなかったが……。

 とにかく、その日から、アイシャは少し変わった。
 今までの生活は、メイドとしての仕事、好きなこと、兄からの頼みごと、傭兵団の顧問、この四つから構成されていたが、その全てを大幅にサボるようになった。
 何をやっていたかというと、アルスの世話だ。
 それは、ある意味メイドとしての仕事の一環と言えたかもしれない。
 だが、アイシャにとっては違うものだった。
 では好きなことか? というと、それも少し違う。
 ただ、アルスを見ていたかった。できれば、話をしたかった。
 早く大きくならないかな、と期待しながら。

 それは、アイシャにとって始めて、能力に関係なく特別だと思った瞬間だった。


 もう一つは、ノルンの結婚だ。

 ノルン・グレイラットは、ルイジェルド・スペルディアと結婚した。
 アイシャから見ても、ありえない相手だと思った。
 種族も違うし、年齢も違いすぎる。

 ただ、ノルンは言った。
 ずっと前から、好きだったのだ、と。
 恋をしていたのだ、と。

 アイシャは好きという言葉がわからなかった。
 恋とか、愛とか、そういう感情を実感したことは無かった。
 父や母はもちろん、ルーデウスの事は好ましく思っている。
 シーローン王国で再会した時から、ずっとそうだ。
 だが、結婚したいか、子供を産みたいか、と言われると首をかしげざるを得ない。
 ルーデウスから迫ってくれば断りはしないが、あくまで侍女としての仕事の延長になるだろう。

 幸いにしてルーデウスにそのつもりはなく、心地よい関係を保っている。
 だが、だからこそというべきか、そういう感情がわからない。

 そう言うアイシャに、ノルンはきょとんとした顔をしていた。
 なんでわからないんだろう、って顔だ。
 その顔を見て、アイシャは敗北感を覚えた。

 アイシャは昔、姉ノルンのことが好きではなかった。
 幼い頃のノルンは理屈より感情ばかりを優先して、ワガママを言う。
 そんなにワガママを通したければ、もっと自分で行動して変えていけばいいというのに、嫌というだけで動こうとしない。
 兄と比べて、なんと愚かな事だろうか。

 そのくせ、母や祖母は、ノルンのことを自分よりも優遇するのだ。
 優遇するのは生まれが違うから。
 そう納得出来ても、馬鹿の下に仕えるのは、アイシャとしてはストレスの溜まることだった。
 きっとこの先、彼女は兄や自分を苛つかせることしかしないだろう。
 そんな風に思い、見下してきた。

 そんな愚鈍なノルンに対し、アイシャは「なんでわかんないの?」と言い続けてきた。
 幼少期、ミリスで再会してから、ノルンが魔法大学の寮に入るまで、ずっとだ。
 その時、きっと自分は、こういう顔をしていたのだろう。
 別に、勝ったと思った事なかったつもりだが、心のどこかでは優越感を覚えていたのだろう。
 だからこそ、敗北感を覚えたのだ。

「いや、負けた。多分あたしは、ノルン姉に負けた」

 アイシャは、そう結論を出した。

 ノルンに負けた。
 人生において、初めてノルンに負けた瞬間だ。

 だが、不思議と悔しくは無かった。
 それはノルンが、アイシャの知らないうちに、成長していたからだろう。
 ノルンはアイシャが行かなかった魔法大学で、様々なことを学んでいた。

 それは、魔術、剣術、歴史、数学といった、所謂『勉学』のことではない。
 アイシャにとってそうしたものを取得するのは、成長とはいえない。
 そうしたものはアイシャがちょっと頑張れば、すぐに追い抜けるものだから。

 成長というのは、もっと根本的なことだ。
 ノルンは生徒会に入り、多くの人間に接した。
 その結果、周囲の言うことを聞くようになり、ワガママをあまり言わなくなった。
 感情より、論理的なことをきちんと選択できるようになった。
 でも感情を蔑ろにせず、時に自分より年下の相手の言い分を、じっくりと聞くことが出来た。

 ルーデウスのように……。
 とまでは行かないが、いつしか見下せるような相手ではなくなっていたのだ。
 だから、アイシャは悔しくはなかった。
 悔しくはなかったが、少し羨ましくはあった。
 一部とはいえ、アイシャの知らないことを知り、アイシャの知らない領域に到達したから。

 そう思っていたのだが、どうにも、こればかりは不可能であった。
 なにせ、好きという感覚がよくわからないのだから。
 結婚したい相手がいないのだから。
 だからアイシャは、結婚を羨ましいと思いつつも、自分はしないだろうなと結論づけた。

 きっと自分は、ノルンのように幸せにはなれないだろう。
 アイシャはそう思った。
 だが、それでもいいやと考えていた。
 自分は今の状態でも十分に幸せだし、別に変わる必要は無いな、と。

 それからは、以前と同じような、平和な日々が続いた。
 侍女としての仕事をしつつ、アルスの面倒を見ながら、傭兵団に顔を出したり、兄の頼みを聞いたりする。
 何時も通りだ。
 きっと、死ぬまで続くだろう。
 ルーシーやララ、アルスが結婚しても。
 リーリャやゼニスが死んでも。
 ルーデウスが死んでも。
 きっと自分は結婚もせず、今のまま変わらずグレイラット家に仕える侍女でいつづけるだろう。
 それでいい。
 そう風に思っていた。

 だが、心のどこかで、こう思っていたのだろう。
 きっと自分は、誰かを好きにならないと、本当の意味で幸せにはなれないな、と。
 過去の呪縛、他人を能力で差別することをやめなければ、
 でなければ、わざわざノルンの所に、行って「好きって何?」などと聞きはすまい。

 だからだろう。

「俺、アイシャ姉と結婚したい」

 唯一能力で差別していないアルスにそんな事を言われて、動揺してしまったのは。


---


 アイシャはアルスに告白され、動揺した。
 自分の心中から湧き上がる心がわからなかった。

 アイシャは何度も自分に問いかけた。
 この気持ちは何?

 アルスは特別だった。
 アイシャはどれだけアルスが失敗しても、アルスのことが嫌いになれなかった。
 他の誰かが同じ結果を出せば、アイシャからの評価が最低になるような失敗でも、アルスだけは違った。
 もちろん、グレイラット家の他の子供たちとて同様だ。
 ルーシーやララが失敗した時、アイシャの評価が最低限になることはなかった。少しは落ちたが。
 だが、アルスだけは違うのだ。
 彼が失敗すると、むしろアイシャの中で評価が上がることすらあるのだ。
 もちろん成功すれば、もっと評価が上がった。

 特別。
 能力に関係なく、評価が上がる。
 つまり、無償で好きになる。
 無償での好意……恋。

 恋かもしれない。

 そう思ってしまえば、あとはなし崩しもいい所だった。
 アイシャはアルスに絆されるようにして行為に及んだ。
 最初はそう、ルーデウスに対して言ったように、練習のつもりだった。

 自分がアルスと結ばれてはいけない、というのは本心だ。
 ルーデウスは、家族間でのそうした関係を酷く嫌がっている。
 理由はわからないが、アルスに手を出せば、当然ながら怒るだろう。

 それにアルスは長男で、ルーデウスの大事な息子である。
 いずれグレイラット家の当主になるかもしれない。
 あるいはアルスも言っていたように、どこかの姫君と婚約し、グレイラット家を安泰へと導くかもしれない。

 アイシャはそれが理不尽だとは思わなかった。
 シーローン王家でも、ミリス神聖国でも、ルード傭兵団の中においても、そうした政略結婚的なものは何度も見てきたからだ。
 別に政略結婚をしたからといって、誰もが不幸になるわけではない。
 むしろ、政略結婚は互いの利益になる場合が多い。金銭的なものだったり、争いを止めるためのものであったり。

 結婚してしまえば、あとは当人同士の努力次第。
 互いを尊重するつもりさえあれば、まあ、なんとでもなるだろう。
 実際、アイシャは政略結婚で幸せになった人物を、何人も知っていた。

 だが、思考に対し、体は言うことを聞かなかった。

 行為は二度、三度と続いていった。
 アルスが学校をサボるようになっても咎めることが出来ず、
 自身も傭兵団をサボりながら、アルスの相手とした。
 最初こそ、こんなことを続けていてはダメだと思う反面、自分が上手にコントロールすれば問題ない、と思う気持ちもあった。

 コントロールは出来なかった。

 思考はあっけなく追い出され、欲望が勝った。
 仕方ないなぁと思いながら相手をしてしまった。
 そこに計画性は無く、場当たり的な対処ばかりが続いた。

 そんな状況で隠蔽がうまく行き続けるわけもなかった。
 結果として、アイシャとアルスの情事は、予定よりも早く帰ってきたルーデウスに見つかり、明るみに出た。

 最初は、練習という言葉で乗り切るつもりだった。
 練習。
 この気持ちは、あくまで練習。
 アルスも自分も本気ではない。一時の気の迷い。
 そういう事にしてしまうのが、一番誰も傷つかない。

 だが、シルフィに看破された。
 自分の気持ちは明るみに出され、無様にも愛を叫んだ。

 それでもアイシャは、まだ甘えた考えを持っていた。
 ルーデウスは怒るだろうが、何だかんだ言いつつ、許してくれる。
 もしかすると、アルスとの仲も許してくれるかもしれない。
 そんな風に思っていた。
 実際、シルフィもそんな空気を作ってくれていた。

 だが、蓋を開けてみると、全然違った。
 ルーデウスは二人の仲を認めなかった。
 アイシャが今まで見たこともないような頑固な態度でもって、二人を引き離そうとした。

 それは、アイシャが一度も見たことのないルーデウスだった。
 融通さは無く、論理性も無く、ただ強い視線と強い口調で押さえ込む論調で、ダメと言った。
 こんなに話の通じない兄は、生まれて初めてだった。

 しかし、その顔は見覚えがあった。
 忘れもしない。
 オルステッドと戦う前、魔導鎧を作りながら、険しい顔をし続けていた時の顔だった。

 アイシャはその顔に恐怖を覚えた。
 今この瞬間、自分はルーデウスの敵に回ってしまったのかもしれないと直感した。
 そうだ。
 自分は今、ルーデウスが時間を掛けて、ゆっくりと構築してきたものを、ぶち壊そうとしているのだ。
 そう考え、とっさにその場はルーデウスの言葉に頷いた。
 だが心にしこりは残った。

 部屋に戻り、一段落すると、アイシャの中の心のしこりは大きくなった。
 これから、自分はアルスと引き離されるだろう。
 そして、アルスはきっと留学先で、誰かと結婚する。
 あるいは、自分に結婚の話が持ち上がるだろう。
 自分なら、そう仕向ける。
 それが、アルスにとっても、自分にとっても、幸せな道だからだ。

 そこでふと、アイシャは思った。
 幸せ。
 幸せとは、何なのだろうか。

 自分はどうすれば、幸せになれるのだろうか……。

 アイシャとて、わかっていた。
 自分が間違っていることを。
 このままズルズルとアルスとの関係を続けていけば、よくない結果が待ち受けていることを。
 ルーデウスの行動は、きっと正しい。
 自分はアルスとは、別れるべきだ。
 このしこりは、気にしてはいけない。
 そうしなければ、ルーデウスだけではない。
 家族みんなを裏切ることになってしまう。
 アルスのことを信頼して任せてくれているシルフィや、エリス、ロキシー。
 自分のことをアイシャ姉、アイシャ姉と慕ってくれている、別の子供たち。
 彼らはアルスのように特別ではない。
 ないが、しかし、アイシャにとってかけがえのない存在だ。

 だが、アイシャは思った。
 もしここでアルスと別れたら、きっと自分は幸せにはなれないだろう。
 今までどおりの日常は送れるが、きっとそれは幸せではないだろう。
 幸せそうなアルスを見ながら、後悔するだろう。
 なんであの時、行動しなかったのか、と。

 アイシャは思った。
 自分も幸せになりたい。

 そしてアイシャは駆け落ちを決意した。


---


 その日の内に計画を立て、深夜にアルスを連れて家を出た。
 早朝までに情報撹乱を済ませ、そして、計画通りにアスラ王国に。
 アスラ王国から、建設途中の転移魔法陣を利用して、王竜王国へ。
 王竜王国でペルギウスの配下を呼び出して、伝言を頼む。
 王竜王国の傭兵団に忍び込み、予め設置してあった魔法陣から、オルステッド事務所の地下へ。
 オルステッド事務所の地下を経由して、ミリス神聖国へ。
 そこで、傭兵団の仕事で作っておいたコネを使い、名も無き小さな村へ。

 そして、名前と身分を変え、情報撹乱を続けつつ、アルスと過ごした。

 完璧だった。
 いくらルーデウスでも、ここを見つけることは出来ないだろう。
 ここまでの足跡は完全に消した。
 根回しも済んでいる。
 どうしようもないのはペルギウスとキシリカだが、ペルギウスへの根回しは、すでに済ませてあった。
 確約は得ていないが、積極的には手を出さないと言ってくれた。

 木材流通の中継地点である、名も無き村。
 地図には当然のっていないし、数年もすればなくなるだろう。
 そこで、運送業者の経理や、木材運送の効率化などを手伝いつつ、村の移動についてあちこちに移動する。
 当然ながら、自分の正体がバレないように、常に情報操作を行っていく。
 情報網からの情報で、見つかりそうな気配があれば、住んでいた痕跡を消して別の潜伏先へと住居を変える。

 ルーデウスが相手でも見つからない自信があった。
 自分は失敗しない。
 大丈夫。
 アイシャはそう自分に言い聞かせていた。

 アルスとの二人での生活。
 それは満ち足りていて、幸せとはこういうものなのかとアイシャは思った。
 しかし、心のどこかにしこりが残っていた。
 アルスと暮らすこと、これはいい。
 でも、アルスは昔のように、自分になついてはくれない。
 笑ってはくれるが、でも何か、どこか張り詰めたような空気を常に持つようになった。
 ルーデウスのように、ノルンのように。
 あんな風に、ほんわかと笑ったり、満足気な顔はしていない。
 自分もきっと、そうだろう。

 何か、何かやっぱり、これは間違っているのではないか。
 これじゃ、幸せにはなれないんじゃないか。
 間違っているのではないか。
 自分は失敗しているのではないか。
 そんな風に思っていた。
 でも、アイシャはそれから目をそらすように、自分のやりたいことをやった。
 アイシャは自分が失敗したとは認めなかった。
 それを認めることは、アイシャには出来なかった。


 そして、アイシャは妊娠した。


 次第に重くなる体。動かなくなる足。
 情報操作はうまくいかなくなり、このままでは、ルーデウスに見つかるのは確実と悟った。

 そこでようやく、アイシャは失敗を認めた。
 人生で最も大きく、そして誰のせいにも出来ない、大失敗を。
 そして、もし失敗だとしても、アルスの責任にすることも、出来なかった。
 特別で、愛するアルスのせいにするなど、出来るわけもなかった。

 アイシャの自己評価は、その瞬間、地に落ちた。

 すでに逃げ場は無かった。
 自分はアルスを誘拐同然で連れてきた。
 アルスは自分の意思でついてきてくれたと思うが、ルーデウスに逆らったのは確かだ。
 きっと、自分はもう家族には見られていない。
 仮にまだ見られているのだとしても、皆を裏切ってここにきたのだ。家族に見られるべきではない。
 その上、一年も逃げ続けたうえ、子供まで作ってしまった。
 絶対に、許されない。

 アイシャは、観念した。 




--- ルーデウス ---


 アイシャはベッドで横になっていた。
 小さいが、粗末な感じのしないベッドだ。
 シーツも毛布も、アイシャ好みのオシャレな模様のものだ。
 窓際には人形や、小さな鉢植えが置かれていた。
 それらの間から差し込む日の光が、髪を下ろしたアイシャを照らしている。

 アイシャの姿を見て、俺は悟った。
 なぜ、アイシャとアルスが見つかったのか。
 彼女が本気を出せば、誰にも見つけられないだろうと、誰もが口を揃えて言っていたのに。
 事実、一年間も影も形も見つけることが出来なかったのに。
 どうしてこんな、唐突に。

 その答えは、ひと目でわかった。
 ベッドに横たわるアイシャのお腹が、大きくなっていたからだ。
 妊娠しているのだ。
 そして、妊娠の影響で、今まで通りに軽快に動くことができなくなり。
 結果的に、雲隠れに穴が空いてしまった、というわけだ。

「……アイシャらしくないな」

 俺はぽつりとそう言ってしまった。
 隙の少ない、アイシャらしくない失敗だ。

 妊娠すれば、今まで通り軽快には動けなくなる。
 そんなことは、アイシャならよく知っているはずだ。
 シルフィ達と妊娠期間を共に過ごしてきた彼女なら、知らないはずもない。
 自分の身に起きていないから実感はないにしても、アイシャなら結果は予測できたはずだ。

「あたしも、そう思ってたよ。これから先、ずっとアルス君と二人で暮らしていけるって。お兄ちゃんが相手でも、見つからないって……」
「……」
「でも、どうしようもなかった」

 アイシャは俯いて、手でお腹をなでた。

「だってアルスが好きなんだもん、妊娠するってわかってても、したくなるんだもん。それが嬉しいんだもん。あたし、アルス君を愛したいんだもん」

 アイシャの目の下には、クマがあった。
 きっと、彼女は散々悩んだのだろう。
 理論的には、こうしなければいけない、これは我慢しなければいけない。
 そう思っていても、体は言うことを聞かず、ズルズルと悪い方向に進んでしまった。
 感情のコントロールが出来なかったのだ。

「ねえ、お兄ちゃん、コレ、なんなのかな?」
「さぁな、でも、俺もシルフィと結婚した頃、そんな感じだったよ」
「そっか……じゃあ、やっぱりこれが恋だったのかな」

 恋。
 か、どうかは俺にはわからない。
 ただ、人を好きになることと性欲は、切っても切り離せない。
 本能だからな。

「なんで、誰にも相談しなかったんだ?」
「反対されるの、わかってたもん」
「そうでもないさ」
「そうだよ。あたしが悪いんだもん。誰も味方してくれるわけないよ」

 リーリャは大反対だったが、シルフィはむしろ、応援していた。
 ちゃんと事前に根回ししておけば、俺だって意固地にはならなかったかもしれない。

「ねえお兄ちゃん、アルス君は無事?」
「……ああ、エリスに叩きのめされたけどな」
「だよね。アルス君は、大事な子だもんね……でもよかった……」

 アイシャはほっとしたように息を吐いた。

「お兄ちゃん、これからあたしをどうするの?」
「これから考える」
「少なくとも、あたしは許されないよね?」
「そんなことはないさ」
「どうして? お兄ちゃんの大事な子供をさらって、子供まで作ったんだよ?」
「お前だけが悪いわけじゃない。駆け落ちまでさせてしまったのは、俺にも非があった。アルスにだって――」
「アルス君は悪くないよ。まだ小さいんだもん。そんな小さい子を、騙して、自分の思い通りにしようとした、あたしが悪い。お兄ちゃんだって、そうわかってるでしょ?」
「……アルスは、もう小さくなかったよ」

 未熟ではあるが、自分の意思で何も決められない子供ではなかった。
 あの子は、ちゃんと決めて、ここにいた。
 騙されたなんて思っていないだろう。

「お兄ちゃんはこの子、認めてくれないよね?」
「認めがたいのは確かだけど、まあ、仕方ないさ。できちゃったものは」
「お腹を切り開いて、赤ちゃん引きずりだして、殺しちゃう?」
「そんなこと、できるわけないだろ……」
「できるよ。ミリスの貴族は、望まない子供を作ったらね、薬で眠らせて、お腹を切って、子供だけ殺して、治癒魔術で元通り。でも治癒魔術がヘタだと、二度と子供が作れなくなっちゃうんだって」
「なにそれ怖い……いや、まあ、堕胎って概念は知ってるよ」
「それで、あたしはアルス君とは引き離されて……いや、流石に殺しちゃう?」
「殺さないよ。なんだよ。さっきから怖いことばっかり言って。やめろよ。俺がそんな人間に見えるのか?」
「だって、あたし、お兄ちゃんに逆らったんだよ!? お兄ちゃんが、オルステッド様に楯突いてまで守ろうとしてたものを、勝手に攫って、自分のものにしようとしたんだよ!? あたし、お兄ちゃんが、皆のこと、どれだけ大事にしてきたか、知ってる! 誰かに危害を加えられたら、絶対に許さないって知ってる! あたし、一年前にお兄ちゃんが怒った時、思ったもん! あたし、お兄ちゃんの大事なものに手を出しちゃったんだって、ぶち壊しちゃったんだって、もう敵に回っちゃったんだって。それでも、逃げきれるって思ってるウチはよかったけど、でも、お腹、どんどん大きくなって、どんどん動きにくくなって、傭兵団も、情報操作も、思い通りに行かなくなって、怖くなって、眠れなくなって、お兄ちゃんが、いつか来るって思ってても、なんにもできなくて、今日だって足がすくんで……!」

 アイシャの声は、悲痛だった。
 俺の知っているアイシャは、こんな悲観的なことばかりを言うタイプではなかった。
 この一年で、何かが変わったのだろうか……。
 いや、単なるマタニティブルーかもしれない。
 少し、落ち着かせよう。

「アイシャ、今回のは、ちょっとした兄妹喧嘩だ。まあ、やり過ぎたとは思うけど、敵だとまでは思ってないさ」
「でも。あの日、一年前、怖い顔してたよ。ロキシー姉のことを薄汚い魔族だ、って言った貴族に思い知らせた時と、同じ顔」

 思わず顔を触ってしまう。
 マジか。
 そんな顔してたのか。 
 えぇ……アイシャ相手にか……。
 でも、そうだな、あの瞬間は、理屈よりも感情が先んじていたから、そうかもしれない。

「……今は?」
「ノルン姉が引きこもった時と、同じような顔」
「じゃあ、もう大丈夫だ」

 俺はそう言って、ベッドの脇に腰掛けた。
 アイシャの足が出ていたので、なでてみる。
 アイシャはビクリと身を震わせたが、特に拒絶はしなかった。
 細いけど、固くしっかりとした足だ。この一年で、たくさん歩いたのだろう。少しカサついている。
 そして震えていた。

「アイシャ。俺はさ、やっぱり兄妹とか、姉弟とか、そういうので関係を持つのは、良くないと思うんだ」
「うん……」
「でも、それはさ、俺も過去に、そういう経験があったからでさ、でも、俺の場合はもっと汚くて、一方的で、許されない感じでさ、当然ながら、怒られて、殴られて、失望されて……その時のことで、そういうの、生理的にダメなんだ」

 口に出してみると、やはりそれが一番、すんなりくる。
 それはある意味、俺が今、ここにいる発端でもある。
 結果的に、今の自分の現状は悪くはない。 
 だが、そうした悪事が踏み台になっていた事実は、消しようがない。
 結局俺は、謝罪すらしていないのだ。

 しかしさて、どうやって前世のことを切り出そうか。
 この真面目な状況で「実は俺、別世界から来たんだ!」なんて言って、信じてもらえるだろうか。
 何か訝しげな顔をされて、何を企んでいるんだろうって顔をされるんじゃなかろうか。

「それって、お兄ちゃんが前に住んでた世界のこと?」

 唐突に聞かれ、アイシャの足を撫でる手が止まった。

「…………言ったっけ?」
「あたし、ナナホシさんとよく話してたし、あとオルステッド様とか、お兄ちゃんの行動とかからの推測」
「ああ……そう」

 アイシャならわかるか。
 この子は、色んなものを、よく見ているからな……。

「隠してるんだよね?」
「言うの、怖いしな。特に母さんには。せっかく産んだ子供がおっさんだったら、嫌だろうし……お前はどう思った?」
「別に。オルステッド様だって前世の記憶、持ってるし。珍しいけど、そういう人もいるって聞いたことあるし、それに途中から変わったわけでもないんだし、あたしにとっては最初からお兄ちゃんはお兄ちゃんだよ。ちょっと年齢が増えたぐらいで、そんな変わんない」
「……そっか。ありがとう」

 そういう考え方もあるか。
 確かに、オルステッドを含め、この世界では転生しまくってる連中が大勢いる。
 俺が一人混じってるぐらいで、

「皆、きっと薄々は感づいてるよ。シルフィ姉も、ロキシー姉も……エリス姉は、ちょっとわかんないけど」

 エリスは、前に俺の前世について聞いていたはずだが……。
 でも、あの時は内緒だと言ってくれた。
 きっと、その約束を守ってくれているのだろう。

「……そうか?」
「言わないの? 皆きっと、それがどうしたの? って言ってくれるよ?」
「俺はもう、ルーデウスだからね。お前だって、お腹にいるその子が、実は前世の記憶を持つおっさんだったら、嫌だろ?」
「お兄ちゃんみたいに、ちゃんとあたしたちのことを見てくれるなら、嫌じゃないよ」
「あ、そう……」

 そういうもんかね。
 俺はやっぱり嫌だと思ってしまうが……。
 多分それは、俺が前世の自分のことを嫌っているからだろう。
 どうしても、似たような奴がくると思ってしまうのだ。

 アイシャが体を起こした。
 もぞもぞと体を動かし、俺の隣に座った。

「話、詳しく聞かせてもらっていい?」
「ああ」

 言われ、俺は立ち上がり、近くにあった椅子を持ってきて、アイシャの前に置いた。
 向い合って座ると、アイシャの大きなお腹が目についた。
 もう、臨月が近そうだ。

「前世の俺は、クズだった。小さい頃は普通の子供だったけど、中学生ぐらいの時に――」

 俺は、前世の自分のことについて、話した。
 自分がどういう人間で、どういう敬意でこっちの世界にやってきたのか。
 何が心のしこりになっていて、何が許しがたかったのか。

 そう、多くを語れることはなかった。
 俺の前世での一生は、34年も生きたわりに、そう濃密ではなかった。
 その代わり、今世でのことを語った。
 パウロにどれだけ助けられたか。
 ノルンとどんな気持ちで接したか。
 ゼニスやリーリャを、どんな風に思っているか。
 そして、アイシャについても、妹として、家族として扱ってきた、と。

 アイシャはそれを黙って聞いていた。
 時折相槌を打ちながら、黙って、ゆっくりと。

「そういうわけで、俺は今、前世でクズだった頃とは比べ物にならないぐらい幸せな日常を手に入れて、それを大事にしたいと思っている」

 最後に、そう締めくくった。

「やっぱり凄いね、お兄ちゃんは」
「そうかな」
「もしあたしが今、ここでお兄ちゃんに殺されて転生しても、そこまで頑張れないよ」
「……殺さないから」
「あたしだったらきっと、家族なんて作れない」
「そうか?」
「うん。あたし、アルス君のことは愛してるけど、でもきっと、このままここで暮らしても、アルス君と家族には、なれなかっただろうから」

 それは一体、どういう意味なのだろうか。
 アルスはアイシャを愛していた。必死に守ろうとしていた。
 でも、アイシャは違うということなのだろうか。

「あたしは、アルス君が生まれた時、すごくわくわくしました。その時は、別に恋をしているとか、そんな感情ではなかったと思います」

 そうして、アイシャの口から、今までの事が語られた。
 アルスが生まれて、わくわくしたこと。
 この子がどんな風に成長するのか、楽しみで毎日を過ごしたこと。

 アルスの成長を見守る日々。
 そして、ある日唐突に言われた、アルスからの告白。

 それからの、制御出来ない日々。
 自分でもダメだと思いつつも、致してしまう日々。
 そして、俺に見つかった。
 家族会議で反対され、話し合う余地を完全に潰され、でもアルスは好きで……幸せになりたくて。
 どうしようもなく、駆け落ちを提案したこと。

 そして妊娠して、自分が間違っていたと確認したこと。
 こんな方法じゃ幸せになれない。
 皆が不幸になるだけだ。

 アイシャの口調は淡々としていた。
 もう、半分以上、諦めていると言わんばかりに。

「……二つ、聞いていいか?」
「はい」
「ヒトガミは、接触してこなかったのか?」

 話を聞いていて、ふとそんな可能性もあると思いついた。
 妊娠中は運命が弱いらしいから、ヒトガミも手を出しやすいそうだし。
 俺の所から駆け落ちしたのは、ヒトガミが助言を授けたから……。
 そうだったら、俺としても気は楽だ。
 あいつが悪い、さぁ帰ろう。
 そんな風に言える。

「いえ、ありません。あたしの意思です」
「そっか……」

 まあ、そうだろうな。
 今まで散々、ヒトガミの助言には乗るなと言っておいたのだ。
 まあ、言った所で、駆け落ちした時のアイシャの心情では、きっと抗えないだろうが。

「もう一つは?」
「避妊、しなかったのか?」
「お兄ちゃんの作ったあれ、購入ルートが限られてるから、買うと足がつくんです」
「ああ、そうだな」

 うちの地下には箱で置いてあるんだが、普段使っていると、入手の困難さがわかりにくくなるものだ。

「もう一つ聞いていいか?」
「二つじゃ……いえ、どうぞ」
「お前、幸せになりたかったのか?」

 そう聞くと、アイシャは視線を落とした。
 口元をキュっと結んで、顔に力が入る。
 そして、口を開いた。

「はい」

 そうか。
 幸せか。
 アイシャなら、これじゃ幸せになれないと、わかりそうなもんだが。
 いや、何をすれば幸せになるかわからないからこそ、駆け落ちしたのかもしれない。

「俺が見つけなかったら、幸せになれたか?」
「……」

 アイシャは力無く、首を振った。

「アルス君は、今のままじゃ、きっと、あたしの操り人形のままだし、あたしは、きっと、何も変わんない……これじゃ、きっと……」
「そっか」

 まあ、そうでなきゃ、アイシャだって、こんな風に観念したりはしてないだろう。
 きっと身重でも、アルスと一緒に隠れたり、逃げたりしようとしたはずだ。

「こほん」

 俺は咳払いをして、アイシャを見た。

「……そろそろ本題に入るか」

 そう言うと、アイシャも落としていた視線を戻し、俺を見た。
 クマがあるが、強い視線だ。
 先ほどまでの、死にそうなそれとは違う。
 腹をくくった目。

「あたしの要望は二つ。
 アルス君を許してあげてください。
 それから、この子の、アルス君の子供の命だけは、助けてください」

 この子、とそう言って撫でるのは、アイシャのお腹だ。
 もう臨月に近い大きさ。
 産むつもりだろう。

「……」
「あたしは……あたしのことは、こ、ころ……処分してください。あたしはお兄ちゃんに家族って言ってもらえて嬉しいけど、でも今回のことは、きっと許しちゃいけないから」

 俺は前傾姿勢だった体を、後ろに倒した。
 椅子の背もたれに体重を掛けて、天井を見る。
 少し、言葉を整理した。
 すぐにまとまる。
 一年。たっぷりと時間をもらったおかげだろうか。

「俺の前世のことを考えるに、お前とアルスの仲は正直な所、認めがたい」
「はい」
「前世の事とは別にして、信頼してたお前に裏切られた気持ちってのも、あったんだろう」
「はい」
「でも俺は、お前たちのこと、認めようと思う」
「……え?」
「まだ抵抗もあるけど、その抵抗も、俺自身にトラウマのせいだってのはわかっている。つまり感情的なことなんだ。感情的なことは、ひとまず置いとこう」
「いや、それはダメです。あたしを許しちゃいけません……感情的なことではなく……えっと、あたしを許したら、グレイラット家は舐められます。すでにグレイラット家には威光があって、守られてますから」
「俺は別にそんなの……」
「お兄ちゃんだけじゃないです。ルーシーちゃんにララちゃん、ジーク君、リリちゃんにクリスちゃん……きっと皆、嫌な思いをします。危害を加えられるかもしれない……だから、あたしは処分した方がいいです。誰に聞いたってそう言います」

 うじうじとそんな事を言い出すアイシャに、少しイラッときた。
 さっき、アイシャのことも家族だと言ったのに、聞いてなかったんだろうか。

「俺は歪でも、家族を切り捨てはしない。外部の人間でお前を殺せなんて言う奴がいたら、俺がそいつを殺すよ。子供たちに危害を加えようなんて奴は、言わずもがなだ」

 体を前傾姿勢に戻し、アイシャを見る。
 アイシャは目を見開いて俺を見た。

「アイシャ。お前は今回、間違えた。駆け落ちなんて、最悪の手段だ。でもお前、さっき言ったよな。どうしようもなかったって。お前は初めてかもしれないけど、俺みたいな凡人にとっては、そういう事はよくあるんだ。頭で思っていても、体はその通り動かない。やり方を知っているはずなのに、上手に出来ないってな」

 さらに俺は、アイシャの顔を覗き込むようにして、続けた。

「もしお前が連れてったのが他所様の子だったり、アルスが廃人同然にボロボロになってたら、俺だってお前をどうしたかわからない。でもアルスは元気だったし、歪だけど成長もしてた。さらに言えば、アルスはうちの子だ。お前だってうちの子だ。うちの子同士ってのは、そりゃ俺としては生理的に嫌だけどさ。でも両方ともうちの子である以上、家庭内の問題だ」

 つらつらと並べ立てる。
 感情的なことは置いておけといったが、結局はこれも感情的ではないのか。
 そんな思いがよぎりつつ、結論を出す。

「家族が失敗したってだけで、殺すことはない」

 そう言うと、アイシャは唇を噛んで、黙った。
 その目には、涙が溜まり始めている。
 だがアイシャはそれをすぐに拭った。

「問題を、一つずつ潰していこう」
「はい」

 アイシャは頷いた。
 理論的な解決を目指そう。
 今日は落ち着いて、冷静に話す。

「まず、アルスのことだ。アルスは俺の大事な息子だ。その上、幼い。手を出すなんてのは、いけないことだ」
「はい」
「でも、人は成長する。お前はアルスは変わらないと言ったが、一年前よりは立派になってた。まだまだ未熟な部分ばかりだと思うけど、そんなのは皆一緒だ。未熟な部分の無い奴なんていない。お前も、今回の事で自分が未熟だって学んだだろ」
「うん」
「でも、未熟は未熟だ。アルスはちゃんと学校に通って、未熟ではなくなってほしい。それに、もし結婚するなら成人するまでは許せない。それだけは絶対だ」

 少なくともアルスはアイシャを守りきれていない。
 守ろう、守ろうという気概はあるものの、追いついていない。
 確かに肉体的に強くなり、覚悟もできただろう。

 でも、見ての通り、アイシャは顔面ブルーレイだ。
 精神面を守ることは全然できていないってことになる。
 ……いや、それを言うなら俺が妻の精神面を守れているかというと、疑問が残るが。
 それはさておき。

「ちゃんと学校を卒業して、成人して、仕事について、分別もつくようになったら、お前との結婚を許そう。いや、むしろ結婚しなきゃダメだ。子供まで作ったんだから、半端は許さんぞ」
「アルス君は、長男だよ? 家を継ぐんじゃないの?」
「我がグレイラット家に、そんなしきたりはないよ。別にルーシーが次期当主でもいいし、アルスが継ぐにしても、別にお前が奥さんで構わないだろ」
「ダメでしょ、メイドだよ? あたし」
「メイドがダメなら解雇するよ。寿退社だ」
「はは、なにそれ」

 アイシャが笑った。
 少しだが、ようやく笑った。
 ほっとした。
 久しぶりに聞いたアイシャの声に、ほっとした。

「さて、次はアイシャ、お前のことだ」
「……はい」
「まず、お前は相談が足りなかった、手を出す前に、駆け落ちする前に、誰かに相談して、根回ししておけば、俺が反対した時に味方をしてもらうことはできたはずだ。俺だって心の準備が出来た」
「……そうだね。なんでしなかったのかな……お兄ちゃん相手にそういう汚いこと、したくなかったのかな?」

 そんなことは俺にはわからんよ。
 まあ、そんな感じで封殺されてたら、俺のストレスは半端なかっただろうな。

「それから、駆け落ちも良くなかった。色んな人に迷惑を掛けた」
「……みんな、怒ってましたか?」
「みんな心配してた」
「……どうすれば、いいでしょう」
「まあ、まずは反省だ。悪いことをした、どうすればよかったか。今後どうすべきか。それから謝ろう」
「謝って許されることじゃないでしょ?」
「なら話し合って、償い方を決めよう」

 特にリーリャだ。
 我が家のおばあちゃんは、とてもとても、心に深い傷を残した。
 何をどう話すにせよ、避けては通れない。

「あと、お前が手を出した時、アルスは幼すぎた。これも我慢すべきだった」
「……はい」
「まあ、お前もいい年頃だし、ちょっと焦ったのかもしれない」
「いや、それは……多分、違います。うまくいえないけど……」
「……なんにせよ、せめて成人まで待つべきだった。それでお前とアルスが並んで「もう一人前です、結婚します」って言えば、俺だって……まあ反対しただろうけど、最終的には折れるしかなかったと思う。やましい部分は無いんだからな」

 まあ、その場合、俺はやっぱり理由もなく反対したし、リーリャだって反対しただろうから、一悶着は避けられなかっただろう。
 ただ、引き離すだのなんだのという案は、出てこなかったはずだ。
 俺の家から出てけー、となったかもしれんが。
 最終的には、シルフィか、ロキシーか。
 その辺りに説得されて、なんか妥協案を見つけただろう。

「あとはそうだな……俺も悪かった」
「お兄ちゃんは悪くないよ」
「俺はお前に、ずっと自由に生きろって言っておいて、いざとなったら頭で抑えこんだ。やっぱり良くなかった。結論を出す前に、自分の気持ちに整理を付けるべきだった」
「あの流れじゃ、しょうがないよ。あたしが卑怯だったもん」

 まあ、これはひとまず俺が気をつければいいことだ。
 反省、反省。

「ひとまず、そんなもんか? あとはなんだ?」
「……お兄ちゃんは、もっと自分の子供と、話した方がいいよ」
「ああ……そうだな。うん……何話せばいいかわからないけど、もっと機会を作るよ」

 今回の件で言えば、アルスとは、確かにもっと話をすべきだった。
 アルスからもっと信頼を得ていたば、今回のことも起きなかったかもしれない。

 アルスだけじゃないな。
 他の子とも、たくさん話そう。
 もっと、子供のことを、よく知ろう。

「あとは?」
「……」
「無いなら、一度、家に戻ってきてくれないか?」
「……」
「お前とアルスの処遇はさ、その後、皆で決めよう」
「……」

 アイシャは少しだけ悩むような顔をした。
 まだ何か、わだかまりがあるのだろうか。
 だが、それは口にせず、ゆっくりと頷いた。

「はい。わかりました」
「じゃあ、みんなを呼んでくるよ」

 立ち上がる。
 あとは家に戻って、リーリャを説得すれば、元通り……。
 というわけではない。
 元通りではないのだ。
 やはり、大きく変わりすぎてしまった。
 家族も一人増えるわけだし。
 でも、変わってしまったものは仕方がない。
 あったこととして受け止めて、次に進まなければいけない。

「お兄ちゃん」
「ん?」

 あれこれ考えていると、アイシャがそう言った。
 振り返ると、アイシャは打ちのめされた顔で、泣いていた。

「ごめんなさい」
「ああ」
「ごめんなさい……あたし、馬鹿でした……ごめんなさい」
「……」

 俺はぽろぽろと涙をこぼすアイシャの所まで戻り、頭をなでた。
 アイシャは泣き続けた。
 シルフィたちが心配顔で家の中を覗き込んできてもなお、泣き続けた。
 優秀だから気付かなかったが、もしかすると俺の下の妹は、上の妹より、ずっと子供だったのかもしれない。


 こうして、アイシャとアルスの駆け落ちは終わった。
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