大阪の商店街
紺染めの暖簾をくぐったその店で、私ははじめてかすうどんを食べた。
昭和も30、40年代あたりからありそうな、古くて渋くて、決して綺麗ともおしゃれともいえないただずまいのうどん屋。
ベビーカーで入るのには躊躇ったけれど、ベビーカーと一緒に入れますかと夫が尋ねたところ、出口に近いテーブル席の椅子2脚を退けて、ベビーカーを畳まずとも娘と一緒の席で食べられるように快く案内してくれた。
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その店は地下鉄今里筋線の今里駅からほど近い商店街の中の一店だった。
地元横浜から大阪に引っ越してきて4年目。大阪に住むようになって驚いたことはたくさんあるけれど、そのうち1つに商店街の多さがある。
今の職場への入社面接で横浜から新幹線で恐々と大阪にきた時、梅田から中崎町の方に向かって阪急デパートを背に歩いていたら、突然アーケード付き商店街が道路の反対側に現れて驚いた。オフィスビルだらけの丸の内感とヨドバシやショッピングビルが立ち並ぶ新宿感とを併せ持った梅田を歩いていたはずなのに、突然蒲田が出現したような衝撃だった。
その後、実際に大阪に住み始めて最初に桜ノ宮、次に福島、今は森ノ宮と、3回も居住地を変え、いつも環状線沿線にばかり暮らしているのだけれど、そのどこにいっても必ず昭和チックな商店街がそこかしこにあった。
桜ノ宮からは、散歩がてら大川を渡れば天神橋筋商店街もそう遠くない。ちょうど天四あたりに行きつくので、天六方面にも天一方面にも足を伸ばしやすく、日本一の長さを誇る天神橋筋商店街も北に南に歩き尽くした。
JR環状線の福島駅から家までは「売れても占い」とよくわからん駄洒落の暖簾がはためく昇天通があったし、家を福島駅と反対方向に歩いたところにあった野田界隈にも商店街があちらこちらに伸びている。(ちなみにこの「野田」という地名は私が思っていたイントネーションと違った。バカボンのパパの「これでいいのだ」の「のだ」と同じイントネーションで読む)
他にも行く先々で、必ず商店街がそこにあった。
初めて心斎橋に行った時、高級ブティックが凛と立ち並ぶ御堂筋だけをみて銀座っぽいなと思っていたら、御堂筋の一本隣に並行して心斎橋筋商店街があった。そのアーケードの下にはガヤガヤとした喧騒が詰め込まれていたのだった。
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大阪で商店街を歩くたびに思い出す。
子どもの頃、母に連れられて歩いた地元戸塚の商店街。
駅の反対側にずらっと立ち並ぶ店々は、子どもの目に少しダサくみえていて、商店街というのは流行と縁遠いおじさんおばさんの世界なのだとなんとなく思っていた。
親は、ここは懐かしい感じがすると言っていたような気がするけれど、その「昔懐かし」の商店街も再開発で大部分が取り壊されてしまった。工事が始まった頃に駅裏手に出現しただだっ広い空き地を見た時は呆然とした。戦後の空襲の後の焼け野原ってこんな感じだったのかな、どこに何があったのかまるでわからなくなっちゃった、と寂しさを覚えた。
今は、空き地の上に新しく建てられた建物の中に、商店街の端にあった区役所が移転してきた。なにかと引き換えに、街は綺麗で便利になった。
私は大阪で商店街を歩くたび、親が懐かしいと言っていた戸塚の商店街とその死をいつもいつも思い出す。
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大阪の商店街は、取り壊されずに昔のまま残っている。
あるところは生まれ変わり、あるところは昔のままに。昭和も平成も令和もずっとずっと温故知新で生き続けてきたんだなと、そう思わせる味わい深い商店街が縦横無尽に市内を巡る。昔ながらの店も今風のおしゃれな店も、地図のまま、建物そのまま、どこもかしこも今なお生きている。
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大胆にもベビーカーと一緒に入ったうどん屋があるのは、今里新道商店街(いまざとしんみちしょうてんがい)というところだった。
夫が「次の休みの日、地下鉄に乗って隣駅の商店街に行こう」とわざわざ休日の計画として行ってみた場所だった。
私が岡山の倉敷に行ってみたいと言っても「やだよ、何もないじゃん」と一蹴するくせに、観光地でもなんでもない今里の商店街には「行こう」という夫。夫の性格をわかっているので、もはや突っ込むこともせず、まったく期待しないで夫についていったら、今里新道商店街は今まで大阪で見てきた商店街のどこよりも素敵だった。
それは、比較的若手が集って個性豊かな店を構えている福島の昇天通とは全然違った。それは、アーケードの下にダイソーとか大手ドラッグストアの大型店舗が時々出現する天神橋筋商店街や心斎橋筋商店街とも違った。それは、お店の佇まいはそれっぽく見えるけれど歩いているお客さんは観光客だらけの千日前商店街や大門大通りとも違った。それは、全国のいろいろなところで見かける昭和のまま時代についていけずシャッター街となっている商店街とも全然違った。
今里新道商店街は、昭和30年代の装いを残したままに生きていた。平日に行ったのにものすごく人が多かった。みんなここに生活を深く深く根付かせているような人たちだった。
ここにいる人たちみんなの生活圏であることはひと目でわかるので、「ほねつぎ」と渋い達筆で書かれた看板も、昔ながらの製氷器で作るかき氷も、店頭でキムチをつくっている韓国惣菜屋も、アンティークな入り口の喫茶店も、写真に撮ることは憚られたほどだった。
大阪の商店街の多分にもれず、今里新道商店街もなかなか長かった。
はじからはじまでベビーカーを押しながら夫と歩いて、どのお店も渋くてディープで、なにより活気に溢れていた。
関西ローカルの街歩きとかで紹介されていそうだなと思っていたら、しっかり関西テレビの「となりの人間国宝さん」に認定されてるお店とかもあった(この記事を読んでいる横浜の父は関西テレビの人間国宝なんて、何のこっちゃと思うだろう)。
昭和30年代40年代からほとんど変わることなく毎日を歩み続けたと思われるような店ばかり。だけどそれでいて、ところどころおしゃれにリノベされた今どきのパン屋やカフェもあるのは、中崎町と天満方面を結ぶ天五中崎通商店街のようでもあった。
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私たちが商店街のうどん屋の席に着くと、厨房からおばちゃんが出てきてベビーカーを覗き込んだ。
アイラインで黒く縁取った目の上にブルーのシャドウを乗せたおばあちゃん寄りの元気なおばちゃん。
「あらぁ、おとなしくして。よう寝てはるわ。起きてらたらいっぱい触るのになぁ(娘に向かって両手でツンツンつつく仕草をしながら)。静かによう寝てるわ。起こしたらあかんな。シー🤫やわ。シー🤫。かわいいな。でもな、親が食べはじめたらこれがまた絶対起きるねん。わかるんやろな。食べ始めると起きるねん。絶対起きるで〜」
はたして娘は、親がかすうどんを啜る間全く起きることはなかった。
私は、娘を触りたかったおばちゃんが「なでなで」じゃなくて「ツンツン」と触ろうとしてたことがずっとおかしかった。
はじめて食べたかすうどんはとてもおいしかった。物足りなく見えたけれど、一杯で十分にお腹がいっぱいになった。
牛肉の旨味がよく染み込んだだし汁を飲み干し、私たちは狭い店内にベビーカーを受け入れてくれたことにお礼をいって会計を済ませて店を出た。するとおばちゃんはまた厨房を抜け、店の外まで私たちを見送りに来てくれた。
「ずっと起きんかったなぁ。そや、スタンプカード。持ってはる?持ってないん?(店内に向かって叫びながら)ちょっと、スタンプカード持ってきてや!(スタンプカードを夫に渡して)今日の分のスタンプ押しといたから、持っていってや。これな、全部貯まると500円分サービスになるから。500円。よう寝てるなぁ。今度は赤ちゃん起きてる時に来てな。そんで触らせて。ひひひ」と笑って見送ってくれた。
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標準語で会話する私たちは、大阪の街ではいつもどこか異邦人のように感じる。
私が勝手にそう感じているだけかもしれないし、話すと言葉からよそもんだと通りすがりに実際に思われているかも知れない。
自意識過剰か本当かはわからないけれど、もし私たちが夫婦二人だけでそのうどん屋に入っていたら、おばちゃんは一見客の私たちにスタンプカードをくれることはなかったような気がする。
今まで所在なさを感じることなく歩けたのはなんばの戎橋筋商店街のようなコテコテの観光地だけだった。
だけど赤ちゃんを連れていると、急によそ者じゃなくなるみたいで、かすうどんを食べたその日、なんだかまた大阪の中にひとつ深く入り込めたような気がしたのだった。
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