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祝・ベイスターズ二軍監督就任!帰ってきた革命児【仁志敏久連載#1】

はじめに

 今週末は待ちに待ったプロ野球開幕。オープン戦で新人最多本塁打を記録した阪神の佐藤輝明内野手や楽天の早川隆久投手などルーキーの活躍を楽しみにしている人も多いだろう。一方、選手ではなく指導者として注目のルーキーイヤーを迎えるのがDeNAの仁志敏久二軍監督だ。かつての天才打者は横浜でどんな采配を見せるのか。現役引退直後の2011年に紙面で掲載された連載を復刻します。

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小5から父のスパルタ教育が始まった

 東スポ読者の皆様、仁志敏久です。突然、担当の方に「仁志君、今年で40歳(※掲載当時、現在は49歳)だよね。ここまでの区切りをつけるという意味で野球人生を振り返ってみない?」と電話を頂き、「誇り」というタイトルで連載することになりました。常総学院高での木内幸男監督、巨人では長嶋茂雄監督桑田真澄さん清原和博さん松井秀喜君など素晴らしいチームメートとの出会い。そんな懐かしい思い出を聞いていただこうと思います。どうかよろしくお付き合いください。

紙面連載1(仁志と桑田真澄、2012年)

仁志と桑田真澄氏(2012年)

 2011年9月14日、桑田さんに誘われ「桑田真澄・BCリーグドリーム選抜」の一員として「福島県社会人野球県北選抜」と試合をするため、福島県へ行ってきました。巨人のユニホームを着たのは2006年の移籍後初。キャッチボールは1年ぶり。最後に投手のボールを打ったのは1年以上前のこと。

 桑田さんの後ろで守り、常総学院1年の時に夏の甲子園の決勝で戦った時から憧れだった立浪和義さんと一、二塁間を組みました。元気な大塚光二さんや同級生の野々垣武志君とも久しぶり。ショートに入った桑田さんとの併殺プレーは最高でした。お客さんには十分楽しんでいただいたと思いますが我々の方が楽しんでいたかもしれません。

 3月11日に発生した未曽有の大震災、今なお不自由な環境で不安な生活を送っている人たちがたくさんいます。そんな生活に少しでも楽しみと希望を持ってもらえれば、そう思っていました。しかし、試合前に訪問した南光台小学校の子供たちに会い、元気をもらったのはこちらの方でした。元気な子供たちの姿は野球をする喜びに目覚めたころの自分を見ているようで、あのころがふと頭の中によみがえってきました。

仁志ファーム監督

DeNAのユニホームに身を包んだ仁志二軍監督

 野球を始めたのは茨城県古河市立第三小の4年生の時です。古河市はサッカーが盛んですが、野球を選んだのは父の影響でしょう。古河市ではスポーツ少年団に入ることができるのは4年生からと決まっていました。それまでは父とのキャッチボール、友達と原っぱで野球をする程度。市でつくる「全古河」に入ったのは6年生の子に誘われて。

 4年生のころは試合に出ることはありませんでしたが、土日に40~50分かけて通うことは苦ではありません。レギュラーになったのは5年生。ポジションはショート。

 このころから、父のスパルタ教育が始まったのです。5、6年生の2年間、イヤな毎日でした。朝6時に起きて3キロのランニング、足には片側数百グラムのアンクルウエートを付けていました。夜には素振りを200回、500回振らされることもありました。さらに腹筋と腕立て伏せを50回ずつ。ハンドグリップを左右100回ずつ。これが毎日のノルマでした。

 4番、ピッチャー、キャプテンとなった6年生ではさらに拍車がかかります。夕方、仕事を終えて帰宅した父と小学校の校庭でピッチング。ワンバウンドや暴投しようものなら父が遠くまでボールを投げ、それを走って取りに行かなければなりません。友達が哀れむような目で見ていたのが忘れられません。ただ、プロになるにはこれくらい耐えなければいけないのだと思いこらえました。

 古河市立第三中でもそう目立ったわけではありませんから、有名校からの誘いはありません。常総学院を選んだのはひょんな出来事がきっかけでした。運命の糸に引かれていったような気がします。

木内監督との出会いは〝脱輪〟がきっかけ

 古河市立三中の3年時、近隣では知られていたのでしょうが、強豪校からの誘いはありませんでした。常総学院を選択したのは全くの偶然。チームメートだった子のお父さんが常総学院の試合を見に行った際、車が側溝に脱輪したらしく、当時は携帯電話はありませんから球場本部席に電話を借りに行ったそうです。するとそのお父さん、そのままそこに居座り、木内幸男監督と話し始めました。「仁志という子がいるんですが」。売り込んだわけではないでしょうが、監督も名前は知っていたそうです。

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木内監督との出会いが、野球人生の基礎となった

「とにかく見てみないと分からん」ということでその場は終わり、後日練習見学に行くことになってからはとんとん拍子。受験を決め、運命的な師との出会いは思いもよらないことがきっかけでした。1987年に常総学院野球部に40人弱が新入部員として入部。目立っていたとは思いませんが、選抜に出場していた上級生が戻ってからはレギュラーと一緒に練習に参加していました。

 初めて試合に出場したのは代走。打席をもらったのは練習試合2試合目でした。1打席目は投ゴロ。そしてその後の人生を左右したかもしれない2打席目。「走者一塁でサインはバント」。そこに運命があったのです。

 小中学校と中軸でしたから送りバントは久しぶり。ボールに「当たれ」と祈るようにバットを出したところうまく当てることができた。「よし当たったぞ」。そう思った瞬間に目に入った打球は投手の頭上へ。「まずい」。ところがバントに備えた内野手とともに投手も前へ出てきたため、打球はマウンド付近へポトリ。内野安打になりました。

「良かった、でも怒られるだろうな」。そう思っているとベンチから木内監督の声が聞こえてきました。

「仁志は相手の動きをよく見ている」

 うれしいやら、恥ずかしいやら。しかし、ここから、レギュラーとなったのです。

 木内監督に心酔した要因の一つにこんなことがあります。1年春の県大会。攻撃中、「カーブが来たらバッターの勝ち。真っすぐが来たらピッチャーの勝ち」と言い切ったのです。結果はカーブが来てレフト前ヒット。心底すごいと思った瞬間でした。

 コーチから「お前は1年生なんだから監督の横に座って話を聞いておけ」と言われていたため、常に近くに座っていました。結局卒業するまで木内監督の声を聞き逃さないよう耳を傾け、何を伝えようとしているのか、何を要求しているのかまで考えるようになりました。

 木内監督の采配は時に“木内マジック”と称されることもありますが、解説を常に聞いていた者からすれば非常に理にかなったことなのです。「バカ野郎早く行けっつうの!」そんな盗塁のサインもありました。

 木内監督のもとでやる野球はとにかく楽しかった。そうそう“あのこと”さえも喜びでした。

1年生で甲子園準優勝すると地元で追っかけギャルが出現

 常総学院に入学してすぐにレギュラーに抜てきされ、毎日が楽しく丈夫だったこともあって、練習は一日も休みませんでした。あまりに痛い、かゆいと言わないので「お前、明日学校休んでいいから家に帰れ」と木内幸男監督に命令されたくらいです。そんな愛情の裏返しでよく叩かれました

 初めて叩かれたのは入学して間もない練習試合。走者三塁でスクイズのサインが出ました。入って間もないこともあってかサインを見落としてしまったのです。当然、走者はアウト。だいたいそんなときは打てないものです。凡退してベンチへ帰ると木内監督がこちらへ向かって来る、「んっ?何だ」。そう思った瞬間バチーンと平手が飛んできました。耳はキーンとなり、何が起きたか分からずにいると目の前から声が飛んできました。

「お前はもう1年生じゃない。レギュラーなんだよ」

 ハッと目が覚め、その言葉があまりにもうれしく、少しほほ笑みながら守備へと走っていきました。

 その後よく叩かれましたが、2年生になると結果に対してが大半。さすがに3年生になると立場があるので叩かれなくなりましたが、叩かれたことに一度として不満を持ったことはありません。喜びでもありました。意味があることは分かっていましたから

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夏の甲子園には3年連続で出場した

 1年生のときのチームは本当に強かった。夏までに負けた記憶は2、3試合くらい。付いていくだけの1年生でしたが甲子園に行けることをほぼ確信していました。

 やはり県予選は順当に勝ち上がり、いざ甲子園へ。まさかでした。1年生でレギュラーとなって、しかも準優勝。はっきり言ってこんなことになるなんて入学前は思いもしませんでした。

沖縄水産の上原晃投手

超高校級の剛速球で知られた沖縄水産の上原晃投手

 この大会、素晴らしいピッチャーとの対戦ばかり。2回戦で沖縄水産の上原晃さんと対戦。当時、その剛速球は超高校級と言われ、初めて見る145キロに驚きを隠せませんでしたが途中で意外と冷静になり、真っすぐで口をとがらせるクセを見つけ、2安打。

伊良部川島甲子園

尽誠学園の伊良部秀輝や東亜学園の川島堅といったエースとの対戦が仁志を成長させた

 その翌日の第1試合。3回戦の相手は尽誠学園の伊良部秀輝さん。前日の速球に目が慣れていたのか、速かったのですが、何とかなるという印象がありました。準々決勝は中京高。巨人でチームメートとなった木村龍治さんを撃破。準決勝は広島にドラフト1位で指名された、東亜学園、川島堅さん。決勝ではPL学園、後に大洋(現横浜)に行った野村弘樹さんが相手でした。

伊良部野村木村川島

のちにプロ入りする好敵手たちと甲子園の舞台で戦った(右上から時計回りに木村龍治、伊良部秀輝、野村弘樹、川島堅)

 そうそうたる顔ぶれを相手にして準優勝。地元へ帰ると状況は激変。追っかけギャルまで現れ、下手なサインを何枚も書きました

 でも、ふと現実に返るとまだ先があることに気づく。いわゆる“燃え尽き症候群”。新チームには4人の甲子園メンバーがいましたがなんと県南大会で敗退し、県予選にも進めませんでした。目標のない、長く、つまらない冬となってしまったのです。

「キャプテン辞めろ」、木内監督から突然怒声が…

 巨人時代の歯に衣着せぬ言動などと皮肉られたことから想像できないかもしれませんが、常総学院時代は木内幸男監督から「お前はおとなしい」と、注意を受けることはしばしばでした。殻を破るきっかけとなったのはやはり監督のひと言。

 2年連続で出場した夏の甲子園は2回戦で敗退。最上級生となる新チームではキャプテンを任されることに。「プレーで示すんだ」。大声を張り上げるとか、強引さを前面に出さなくても実力で引っ張る。そう心に決めてたくましいキャプテンを目指したのです。

 秋の地区予選前、土浦市内の大会での出来事。やや格下のチームを相手に中盤までリードを許していました。「いずれ逆転するだろう」と、高をくくっていると終盤に差し掛かり、いよいよまずくなってきた。守りから帰って円陣を組んだところでベンチから大きな声が聞こえてきました。

「お前はおとなしくてキャプテンに向いてねぇ。キャプテン辞めろ!

常総学院の木内幸男監督

木内監督には柔軟なところもあったという

 一瞬、あぜんとしましたがすぐにスイッチが入った。「よ~し、この試合負けたらキャプテン辞めるわ」。結局その試合は見事に逆転勝ち。キャプテンとして初めて気持ちの強さを見せた場面でした。木内監督にとって必要だったのは、態度や言葉でもリーダーとしての姿を見せること。その後、辞めろということは一切、言わなくなったのです。木内監督はこんな強い姿勢を求めていたのです。

 木内監督の采配は時に“マジック”“奇策”といわれましたが非常に柔軟なところもあります。例えば、セーフティーバントのサインが出ても、守備陣形を見てプッシュバントに切り替えるということが許される。「ヒットエンドランだぞ」と言われても「バスターエンドランでいいですか」と聞くと「いいよ、やりやすい方でやれ」という指示をくれる。あらかじめ打席に入る前に口頭で指示をくれるため、こんなやり取りもできる。

 2011年の夏が(木内監督が常総学院で指揮する)最後でしたが、ランナー一塁で2ストライク後にバントをさせたのを見て、やっぱりすごいと思いました。

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3年夏は1回戦で敗退。ベンチ前で整列する木内監督(左から2人目)とキャプテン・仁志(左から3人目)

 3年の夏に甲子園出場を果たしたものの、1回戦で敗退。とうとう高校野球が終わったその夜、コーチの先生に進路を聞かれ、「法政大学を受けようと思います」。そう答えました。すると先生は「あれ? 早稲田に行くんじゃないのか?」。先輩が特別選抜試験で行ったため、そこを目指すのだと思ったらしく、学校もそのつもりだと言うのです。

「そんなに簡単に行けるのなら早稲田がいいや」。軽い気持ちでそう切り替えたのですが、結局、練習会には一人で参加。願書、試験など両親に手伝ってもらってやっと一通り終えることができたのです。「学校がなんとかしてくれるんじゃなかった?」。受かったから良かったですが…。

 次の夢は伝統のユニホームと神宮。どんな舞台が待っているのか。夢は大きく膨らみましたが…。

にし・としひさ 1971年10月4日、茨城県古河市生まれ。常総学院では1年春からレギュラーになり、準優勝した87年から3年連続で夏の甲子園出場。早稲田大、日本生命を経て1995年のドラフト2位で巨人入団。96年新人王獲得。99年から4年連続ゴールデングラブ賞。2007年に横浜移籍。10年米独立リーグ、ランカスター入団。同年6月、現役引退。2021年シーズンからDeNA二軍監督に就任。プロ通算1587試合、5933打数1591安打、打率2割6分8厘、154本塁打、541打点、135盗塁。

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※この連載は2011年10月12日~12月29日まで全44回で紙面掲載されました。noteでは10回に分けてお届けする予定です。



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