16才。
生まれて初めて乗ったレーサー
はヤマハTD-3だった。
FISCOで30度バンクが廃止され
た翌々年だった。
TD-3は世界チャンピオンマシン
となったワークスマシンRD05A
のノウハウを引き継いで製作さ
れた市販レーサーだった。
ヤマハの幻のワークス50cc2気筒
マシンの隣りに私が所属したチ
ームのTD-3は普段置かれていた。
数台のMT125と共に。
RD05A
1973年には全日本選手権ロード
レースで旋風が巻き起こった。
ワークスマシンを抑え、プライ
ベーターの25才の根本健選手が
市販レーサーTZ350で全日本チャ
ンピオンとなったのだった。
ヤマハは1957年のレース参加
当初から突き抜けた速さを見
せた。
1960年代から2010年頃までは
世界の二輪開発の歴史の中で
ホンダ、スズキ、カワサキも
大健闘した。
スズキは伊藤光男選手が1963
年に日本人で世界初WGPマン
島TTレースを制した。
モーターサイクルレースの世
界にあって、日本の二輪メー
カーが世界の頂点に君臨し
始めたのが1960年代だった。
その一角で常にヤマハはトッ
プ域を占有していた。
スズキも速かったがヤマハは
さらに速かった。
ヤマハのマシンが優勝を続け
たのは、1960年代後半に確立
したハンドリングの特筆的優
位性によるものだった。
国内二輪メーカーでは、ヤマ
ハのみが開発において独自路
線を歩んだ。
ヤマハ2ストスポーツは世界
で初めてレーサー開発のノウ
ハウを市販車と共通化させた
のだった。
初期の全日本選手権は市販車
ベースのレース車両でないと
参加ができない規定だった事
を射程に入れたマシン開発を
ヤマハは実行したのだ。
他のメーカーはレーサーと
公道市販車はきっぱり区別し
た別々開発だった。
ワークスマシンと同じ部品構
造を持つヤマハの市販二輪は、
公道用の低パワーエンジンに
おいては市販フレームでも充
分なマッチングを見せ、逆に
操安性の向上をもたらし、グッ
ドハンドリングをさらに補助
した。
ヤマハはレースと公道市販車
を高次に融合させる二輪開発
に世界で唯一成功したメーカー
として世界トップに君臨した。
1987年にホンダがその手法を
模倣して市販公道車にNSR
250Rを登場させた。
1985年度WGP世界チャンピオン
マシンをベースに公道市販車
を開発して1986年に完成させ
たのだった。
1986年当時、国内では公道市
販車ベースのレースF3(フォー
ミュラ3)が純レーサークラス
のGPマシンレースよりも人気
があったからだろう。
そして、HY戦争という80年代
市場争奪戦の中でホンダが王
者ヤマハを撃墜するためでも
あった。
だが、レーサーから公道市販
車への技術ノウハウの落とし
込みという手法はヤマハが
すでにレーサーTD-3を公道
市販車DX250開発に投入する
事で1970年に既に実行してい
た。
ホンダはそれから遅れる事
16年後に、対ヤマハ戦略とし
てヤマハと同じ方法を採った
のだった。
あまり二輪の歴史を知らない
人たちは、1980年代後半の
ホンダNSR250Rの登場はレー
サー開発技術を公道市販車に
採用したものとして狂喜した
が、その方法はヤマハが遥か
昔から採っていたマシン開発
のやり方だったのだ。
速く安全で操安性の高い二輪、
それは唯一ヤマハが作り続け
て来た。
「レーサーレプリカ」という
単語が登場したのは1980年代
だが、ヤマハは1960年代末期
から既にレーサーも公道市販
車もほぼ共通の構造と部品構
成だった。
2ストスポーツマシンはヤマハ
が世界一だったのである。
とりわけ250/350クラスでは、
レーサーも市販車もヤマハが
世界頂点に立ち続けた。
だが、1970年代中期頃から一
般市販車では4スト大排気量モ
デルが人気となり、軽量超速
の2スト中排気量クラスと4スト
大排気量クラスの人気が二分化
して行く。
そして21世紀に入り、2ストが
消滅するに至り、4スト全盛時
代となった。
同時に1996年以降の限定解除
制度の廃止による大型二輪免
許超絶簡易化により、人々の
人気は4スト大型バイクに集ま
った事も相乗効果となり、大型
4スト二輪が日本国内では人気
の中心となった。
新制度大型二輪免許は1975年
免許制度改正前と同じく最初
から大型二輪に乗れる制度だ。
1975年以前は、最初はライト
ウエイトクラスからミドル
クラス、そして大型クラスに
移行乗車する人が殆どだった
が、免許取得後いきなり大型
車で、しかもかつてない750cc
縛りさえも無くビッグバイク
に乗れるようになった。
当然、運転技術が乏しく未熟
で事故を起こす人がかなり増
えた。跨ったまま二輪車を
倒してしまったり、自分で
起こせないというそれまでに
は見た事も無い前代未聞の事
態が1996年以降日本国内に多
発した。
日本の二輪文化の健全な発達
はそれらにより消滅に向かい
始めた。
また、乗り方について大嘘教
えの勢力が官民共に登場し始
め、悪貨は良貨を駆逐するの
如く蔓延しだした。
結果、それが二輪事故増加の
潤滑剤となり、多くの無知で
不見識なライダーの嘘乗りに
より事故が多発増加するに至
っている。
閑話休題。
日本の二輪メーカーは世界の
モーターサイクルを牽引して
きた。つい2010年頃までは。
その中で、ヤマハこそは日本
の二輪産業と世界の二輪文化
の礎の中心幹だった。
YAMAHA as number one.
Yamaha Handling Vol. 2 –
The Birth of a Legend.
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