只見線が全線開通した1971(昭和46)年8月29日。福島県只見町は雲一つない快晴だった。
午前11時35分。只見駅に着いた祝賀列車から降り立つ人の中に、当時通産相だった田中角栄元首相の姿があった。新潟県選出国会議員として小出―只見線全通期成同盟会長を務め、危ぶまれた全通を実現に導いた立役者の1人だ。駅前で大勢の町民らが日の丸の小旗を振って歓迎した。当時只見町職員で元町長の小沼昇さん(86)は「町全体が沸き立つようだった」と感慨深そうに思い返す。
1957年、只見町の田子倉ダム建設現場への貨物輸送のため、電源開発の専用鉄道が会津川口(金山町)―田子倉駅間で開通すると、只見町の様子は一気に変わった。「人口が3千人以上増えた。診療所が開業し、住宅も立ち並んだ」。小沼さんが当時の活況を語る。
小出駅(新潟県魚沼市)まで順調につながると思われたが、1959年のダム完成に合わせて専用鉄道が運行停止し、先行きは不透明となった。新潟まで通さなければ小出駅経由による東京行きの時間短縮や、奥会津、中越両地方の往来の活発化は見込めない。「何としても通さねば。皆がそう思っていたはずだ」
只見町関係者、そして田中氏らを核とした福島、新潟両県による復活運動が起こり、1961年に電源開発路線の旧国鉄編入が決まった。六十里越トンネルの大工事を経て悲願は達成された。
全通当日。小沼さんは駅から式典会場の只見小まで田中氏の送迎車に同乗した。わずかな時間だったが、「暑いね」と話しかけられた。ざっくばらんな人柄との印象を受けた。
田中氏は会場で演説した。「只見線の全線開通は鉄道を考え直す新しい歴史のスタートだ」。1970年ごろ、車が普及し始め、鉄道は岐路を迎えつつあった。「赤字線やペイしない鉄道はやめるべきだという考え方を転換し、国の総合開発のために再評価すべきであり、それに先鞭(せんべん)をつけたのが只見線。福島も新潟の人たちも協力して広い視野でこの意義をかみしめ、大きく育ててほしい」。地方路線の重要性にも触れた田中氏の「日本列島改造論」に通じるものだった。
全通後の只見線は過疎化や車の普及による利用者の減少、豪雨災害など、多難な道のりを歩んできた。小沼さんは田中氏が唱えた地方路線の在り方に共感する。「経済的な側面で議論があるのは理解できるが、只見線は奥会津にとって生活、産業、歴史の基盤。路線の維持は、この地域の永続に絶対に必要だ」
全線再開通し、観光路線に活路を見いだす只見線。地道な情報発信が人を引き付け、魅力の再発見につながっている。