363.幕間 あれからの聖女は 後編
「――お久しぶりです、教皇様」
早朝。
レイエスは教皇アーチルドと対面していた。
祈りの時間の前。
いつかのように、教皇はわざわざ部屋までやってきたのだ。
かなり早い時間である。
だが、早起きは日課なので、レイエスは起きていた。
「おはよう、レイエス。また少し背が大きくなったかな」
優しく微笑む教皇。
なんとなく、好きな顔。
なんとなく、そんな風に思う。
「そうですか? 以前会ったのは二、三ヵ月前ですが」
魔術学校に輝魂樹が生えた。
その様子を見に、教皇がやって来た時だ。
ついでにレイエスの周辺環境も見て帰った。
多忙な教皇にしては、かなり思い切った行動だと、レイエスは今も思っている。
実際、かなり早く帰ってしまった。
「子供の成長は早いものだよ。もうすっかり立派なレディだ」
レディ。
同期がいつも言っているような軽いことを言われた気がする。
いや。
教皇の言葉は、彼ほど軽くはない。
「申し訳ありません。昨夜遅く到着したので、帰還の挨拶は控えました」
レイエスたちが大神殿に帰還したのは、昨夜遅くだ。
出先から帰った時は、顔を見せるよう言われているのだが。
しかし教皇は多忙。
時間によっては公務中だったり就寝中だったりするので、その場合は控えている。
だから昨夜もそうした。
恐らく教皇も寝ていたことだろう。
それに、疲れていた。
旅の疲労もあったのだと思う。
だから、植物がまったくない私室でも、問題なく安眠できた。
携帯用植物を抱えることで事なきを得たのだ。
遠征に出る直前、霊草アヴュ・フランの変わり種を見つけた。
だから、これだけは持っていくことにしたのだ。
逐一記録を取りたかったから。
帰ってから育てればいいだろう、という選択肢もあったが。
それまで我慢できなくて、結局植えてしまった。
「もちろん構わないよ。
さあ、朝のお祈りへ行こうか」
「はい」
かつては、植物の世話を優先して断ったが。
今は世話する植物がないので問題ない。
教皇は満足げに頷くと、レイエスを部屋の外へと促した。
――そこに、彼女がやってきた、
「あら、教皇様。早いのですね」
レイエスが部屋を出たところで、声が掛かった。
コツコツと。
ヒールの音も高らかに現れた、女性。
少々華美な修道服を着ていて、もう四十を超える年齢だが。
そうは見えないほど、若々しく、美しい。
本当に三十前後、二十代後半と言われても、信じてしまいそうだ。
「おはよう、大司教クレフィナンス」
「おはようございます、教皇猊下様」
お互い微笑んで挨拶を交わす。
――そして、一瞬間が空いた。
二人の持つ見えない重圧がぶつかり、ひしめく。
決して交わらず。
決して押し切られることもなく。
そして均衡は呆気なく崩れる。
「おはようレイエス。遠征、楽しかった?」
大司教の視線が、レイエスに向いたからだ。
――二人は仲が悪いわけではない。
ただ、レイエスの教育方針で意見の相違があるだけだ。
教皇はレイエスを大切にしすぎている。
もっと自由に、色々なことをやらせた方がいいと、クレフィナンスは思っている。
レイエスが魔術学校に行ってからは、特に何もなかった。
揉める原因がいないのだから、当然だ。
しかし。
今、レイエスはいる。
ここに。
ならば、ぶつかり合う意見をまた持ち出す必要がある。
まあ、レイエスは知らないことだが。
「おはようございます、大司教様。貴重な体験ができました」
大司教クレフィナンス。
少々派手で、毛皮や装飾品が好きで。
保守的な年寄りには少々嫌われている、大神殿の異端児。
なんでも、女性の政治進出の一環で、大司教の役目を仰せつかったらしいが。
詳しいことは、レイエスにはわからない。
ただ言えることは。
教皇アーチルド同様、彼女も、レイエスによくしてくれた人だということ。
何くれと面倒を見てくれた。
派手な見た目に寄らず、細かいところにも目が付く、優しくて繊細な人だと思っている。
――そして、今。
レイエスは思うのだ。
魔術都市ディラシックで多くを学び。
俗世に触れそれを理解し。
聖女ではなく、ただの魔術師として成長したレイエスは、思うのだ。
――あ、大司教様って結構えっちだ、と。
胸が大きいのは、まだいい。
それは個人の肉体の問題だ、どうにもならない。
だが修道服をしぼっているのはいただけない。
そのせいで身体のラインが丸わかりだ。
「レイエス? ……レイエス? レイエス? え? レイエス?」
返す言葉はなく。
レイエスは大司教の周りを回って、つぶさに観察する。
この身体はなんだ。
こんなのディラシックでも見なかった。
胸は大きいくせに、あの腰の細さはなんだ。
尻も大きいぞ。
なんてこれ見よがしな尻だ。
あんなにぴっちりした修道服なのに、もちろん下着のラインなんて出ていない。きっと紐みたいなパンツを穿いているに違いないと、今のレイエスにはわかる。勉強したから。というか、なんだ。胸当てのラインも見えないのはどうなっているんだ。どういう原理だ。どうなっているんだこの身体。この修道服の下はどうなっているんだ。いやそれは知っている。一緒に風呂に入ったことがあるから知っている。……いや、本当に知っているのか? 今と昔では見ている景色が違うのではないか? あの頃の自分は何を見ていた? 大司教のえっちな身体を見ていたか? 否、見ていない。何も見ていない。ただ一緒に風呂に入ったという記憶があるだけ。
どうなっているんだ、この服。
そしてこの服の下。
観察してもわからない。こんなの本当にディラシックでも見たことがない。
大神殿にこんな謎があったなんて。
レイエスは衝撃を受けていた。
無表情で。
「どうしたのレイエス? 私に何かあるの?」
――無言で周囲を回るレイエスに、さすがの大司教も心配げだ。
こんな時は、なんと言えばいい?
確か、雑貨屋の子供が言っていた気がする。
そう、こんな時は、こういうのだ。
「けしからん」
「は?」
「けしからん身体をしているな、と思っていました」
「……」
呆気に取られる大司教と、教皇と、お付きの神官フォン。
その後、大司教は爆笑した。
「あっはっはっはっはっ! ああ、そう! レイエスもそういうことに興味を持つようになったのね!
何? 好きな男の子でもできたの? いいわね、それでいいのよ」
――いいわけあるか、とアーチルドは思ったが、言えなかった。
昨夜の神官フィレアの話を思い出していたから。
なんだろう。
人の身体的特徴への興味、そして個体差への関心、と言えばいいのか。
煽情的な大司教を見て、彼我の性的な差を理解したのか。
もしくは、人自体に興味を持つようになったのか。
あるいは――本当に好きな男ができたのか。
いずれにしろ、思春期の女の子、という気がした。
「私がレイエスくらいの頃は、たくさん恋をしたものよ」
「だからそんな身体に?」
「うーん。……身体は努力の賜物ね。ついでに言うと美容もね」
「そしてそんな身体に?」
煽情的な異端児が、聖女に色々と吹き込んでいるこの様。
まるで、無垢な少女に悪魔が悪いことを囁いているかのようだ。
――ますますレイエスから目が離せない、と強く思った。