1976年阪神退団選手

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1976年
松永美隆投手の場合。球団が世話したのは某運道具メーカー。だが「条件が話しにならないほど悪い」(松永)のでいったんは断った。ところが、婚約者の父親から「職の決まっていない男に大事な娘はやれない」と猛反対され、泣く泣く悪条件を承知で運動具メーカーに就職した。表浩太郎投手は指圧師の免状を取るため、大阪のある指圧師のところへ弟子入りした。来年一年間は先制の手伝いをやり、それから指圧学校に通う予定とか。「野球をやっていたら、とても両親と一緒に住めないと思っていましたが、今度は金沢から呼び寄せて親子水入らずの生活をします。手に職を持つのはなんといっても大きいですからね。もう失業の悲哀を感じなくてもいいでしょう」と、第二の人生に胸をはずませている。野球に未練タップリなのは中島孝盛、浅野憲一両内野手。球団から他の球団へ声をかけてもらっているが「ウチでクビにした選手はやはりどこの球団もとりに来ません」(吉田監督)とナシのつぶて。「どうしたらいいのか気が狂いそうです」二人とも行き先の決まらぬ不安に顔を暗くしている。

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大内貴志

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1991年
アッと驚く指名だった。練習試合とはいえ十一、十二日の試合では古田、池山ら主力選手も出場している。一軍はおろか、二軍でも1試合も公式戦の登板経験がない大内にとって、これは大きなチャンスでもあり、また試練の場でもある。二軍戦では、ネット裏でスコアラーを務めていた男なのだ。「今しかないチャンスです。(ヤクルトの)主力は一生懸命じゃないでしょう。向こうが手を抜いていようが関係ないですよ。抑えりゃ自信になるし、ヤクルトの主力を抑えたって言われるし…。こっちは本気でいかなきゃ」1989年、東海大四高からドラフト外で入団の右腕。背番号は91。エリートとは程遠い。浮上といえるのが、今年、アリゾナ教育リーグに選ばれたこと。しかし、6試合に登板したものの、防御率は5点台。宮崎秋季キャンプのメンバーには入れず、居残り練習の日々を送っていた。そんな大内にとって幸運だったのは、木田の腰痛が思わしくなく、キャンプから強制送還されたことだ。すでにキャンプは後半に入っていたが、首脳陣は渡辺と大内を呼び寄せた。「言われたのは四日か五日です。でも代わりとか、そんなことは関係ないです。チャンスはチャンス」補欠合格ではあるが、一軍でやれるのは大きい。そしてこの抜てきだ。しかし、今はスタートラインにようやく立った段階。十二日、藤田監督は「意外にまとまっている。いいね」と評価したが、続けて「それより渡辺が良かったよ」とも言っている。まだまだ、の印象も強い。「(首脳陣が)どこを評価して起用してくれたのかは今はいい。投げてから、外から評価される方がいい」球種はカーブ、スライダー、ウイニングショットのシュート、そして「いいときで142~143㌔」のストレート。これらを武器に新しい星が生まれるか。

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