死後の世界

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こんにちは。

 

今回は、死後の世界について聖書を基に考察するとともに、伝道についてもいくつか申し上げておきます。

 

世間では、テレビ等のマスコミが言うように、死んだ人が天国に旅立ったと、何の根拠も無く、毎回お決まりの台本通りに言っています。およそ他の人間の評判を気にした結果出てくる発言です。わざわざ悪く言う必要は無いのは当たり前ですが、悪く言わなければ良いと安易に考えているだけで、逆に無理に褒めちぎりすぎて違和感を感じますし、本心でもなければ、確信に基づいた発言でもありません。そして、コメンテーターやアナウンサー等は何の根拠も無く、同調して生前大して深い交流も無いのに悲しむ素振りをします。はっきり言って、死者についてあれこれ言ったり、追悼とかというのも無意味です。それらはすべて、生きている人たちの自己満足のための行いに過ぎないからです。勿論、悲しみという感情を全否定しているのではなく、悲しみという感情を抱くことは人間としてあって当たり前のことです。

しかし、死んだ人は、あなたの様子や言動を知ることはできません。その逆も然りで、あなたも死人の様子や考えを知ることなどできないのです。ですから、生きている間の日頃の行いが重要なのです。親孝行も生きている間しかできず、死後にいくら立派な墓を建てても意味がありません。死んだ人のことより、生きている人の心配をしてください。

人は死んだら終わりなのです。これを否定する者はいないはずです。しかし、終わりというのは、もう取り返しがつかないという意味です。具体的には、もう悔い改めたくてもできない、やり直しがきかない、あの時やっておけばよかったという後悔も無駄という取り返しのつかなさを意味します。

本当に死んだら終わりと信じているならば、何故死者を追悼したり、墓参り等をするのでしょうか。死んで終わりなら、そんなことをする必要がないはずなのに、人々は生きている周囲の人間の目を気にして善人と思われたいがため、または、意味をよく考えず、異教の慣習に従ってそのような行為をします。しかし、これは死者という偶像を礼拝する行為に他なりませんし、考えと行動が矛盾している実におかしな行動なのです。

このように言う私は非情だとか、おかしいと思う人もいるでしょうが、そのように肉の思いに支配されている人には私の言うことは理解できません。

 

夏になれば、怪談話という実にくだらない話で盛り上がるのも日本の特徴の一つでしょう。何故、あのような話が出回り、それを信じる人がいるでしょうか。それは、ただ聖書を知らないからに他なりません。霊に対して間違った認識を持っている証拠です。

テレビや本、ネットでも、相変わらず、心霊現象だとか、心霊スポットだとか言っていますが、そのようなものに興味を示すのは、真のクリスチャンならばやめてください。関わりを持たないようにしてください。

 

当たり前の認識だと思いますが、人間は死ぬと肉体から霊が離れていきます。当たり前だというこの認識も聖書にはあります。霊のことを非科学的だとか言ったり、疑ったりする人間は論外ですので無視します。

生きている人間が無知ゆえなのか、サタンが故意に欺くためなのか、勝手な空想話で撹乱して、霊に対する正しい認識をさせないようにしています。

聖書において、死者のことがどのように書かれているか確認していきます。

 

旧約聖書 コヘレトの言葉 9章5~6節

生きているものは、少なくとも知っている。

自分はやがて死ぬ、ということを。

しかし、死者はもう何一つ知らない。

彼らはもう報いを受けることもなく彼らの名は忘れられる。

その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ、太陽の下に起こることのどれひとつにももう何のかかわりもない。

 

旧約聖書 コヘレトの言葉 9章10節

何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。

いつかは行かなければならないあの陰府には仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。

 

旧約聖書 詩編 6編6節

死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず

陰府にはいればだれもあなたに感謝をささげません。

 

旧約聖書 詩編 115編17節

主を賛美するのは死者ではない。

沈黙の国へ去った人々ではない。

 

旧約聖書 イザヤ書 38章18節

陰府があなたに感謝することはなく

死があなたを賛美することはないので

墓に下る者はあなたのまことを期待することができない。

 

いかがでしょうか。これらの言葉だけで分かると思いますが、死者の霊は、この世とは切り離され、この世と何の関わりもなくなるのです。だから、くどくどした葬式、靖国神社で英霊が云々、墓参りというのも無駄なことです。そこには生きている者の自己満足以外に何もありません。死者の霊は、この世に影響を及ぼすことはありません。及ぼせないのです。悪影響を及ぼすのは、昔から存在している悪霊やサタンです。

因みに、上記聖句で出た陰府というのは地獄ではありません。真のクリスチャンならば、陰府と地獄を混同してはなりません。陰府は、最後の審判が終わるまで留め置かれる場所です。地獄は、最後の審判が終わった後にサタンと悪人たちが行く所です。死と陰府も火の池に投げ込まれると書かれています(黙示録20:14)。

旧約時代は、主イエス・キリストが地上に来られる前で、死後すべての人が陰府に行きました。旧約聖書にそれを窺わせる記述がいくつかあります。

 

旧約聖書 創世記 37章35節

「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」

 

イサクの次男ヤコブ(後のイスラエル)の息子の一人であるヨセフが死んでしまったと勘違いして悲しんで述べた言葉です。この時、天国に行くなどと言っていません。

 

旧約聖書 詩編 88編4節

わたしの魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府にのぞんでいます。

 

旧約聖書 詩編 89編49節

命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。

陰府の手から魂を救い出せるものがひとりでもあるでしょうか。

 

上記の詩編からも、旧約時代の人々は、死後に天の国に行けると思っていませんでした。旧約時代、神に忠実であった人たちは、不信仰の者と同じく皆、陰府に下ったのです。

 

しかし、以下の新約聖書では陰府に関する記述が旧約聖書と矛盾したように見えますが、実際は違います。

過去記事「神の救いは予定か人の自由意志か」で軽く言及した、金持ちとラザロ(ルカ16:19~31)の話です。主イエスは、すべてたとえで話をされました(マタイ13:34、マルコ4:34)。この話は具体的な名前が出てくるので実話に思えますが、たとえ話です。

慰めの場所(ルカ16:25)とありますが、陰府とは書かれていません。そこには、アブラハムがおり、ラザロが同じ場所に天使によって連れて来られました(ルカ16:22)。陰府には金持ちがおり(ルカ16:23)、炎の中でもだえ苦しんでいるとあります(ルカ16:24)。そして、その両者の間には、大きな淵があって、行き来できないのです(ルカ16:26)。

この話で主イエスは何が仰りたいのかは、同じルカによる福音書16章内で分かります。過去記事「ヨブ記にみる正しい信仰と大艱難」で触れたように、ルカ16:13に「神と富とに仕えることはできない」とあります。ルカ16:14にも「金に執着するファリサイ派の人々」とあり、一貫してこの章では神と富が相反することを述べているのです。つまり、金持ちとラザロの話も、神の御言葉、即ち、聖書の教えを蔑ろにして富に執着する者は滅びるということです。人を救うのは、富ではなく、神の御言葉なのです。主イエスが荒れ野で誘惑を受けて返された御言葉で「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)のとおりです。

また、この話で気付かない人が多いと思いますが、貧しい人はラザロという名前が出ているのに、金持ちは名前が出てこない点です。これは何故か分かりますか。主イエスから名前を知られていないからです。聖書を信じて、神を愛して掟に従い、悔い改めた生活を送らなかったからです。複数の過去記事で触れてきたように、この金持ちは、主イエスが知らない(マタイ7:23)と言われるような人だったということです。

 

陰府は、主イエスの十字架での死以前は、肉体的な死を迎えた人は誰でも行った場所でした。しかし、十字架以後、世の終わりまで、陰府は、天の国に入れない人を懲罰するために、最後の審判まで留置する場所です。

以下の聖句のとおりです。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 2章9節

主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。

 

信仰の薄い者や不信仰の者で、生きていた時の行いが悪かった人は、死後に行く陰府での日々がどのようなものかは分かりかねますが、聖書の記述どおり何も無い所でしょう。上述した旧約時代の創造主である神に従順だった聖徒たちは、死後に陰府に下ったものの、主イエス・キリストが昇天された時に連れて行かれました。それが楽園と呼ばれる場所です。

 

新約聖書 ルカによる福音書 23章43節

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 12章2~4節

わたしはキリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。

 

上記2箇所、原語のギリシア語でもΠαράδεισονが使用されており、パラダイス、即ち、楽園なのです。この楽園は、コリントの聖句から第三の天と分かります。

 

新約聖書 ペトロの手紙一 3章19節

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。

 

主イエスは、十字架での死後、霊は陰府に行かれて宣教されたとあります。地上での肉体は死という形で安息なさり、霊は休みなく働かれていたことが分かります。安息日は、創造の記念と人のために神が作られたという話は過去にしたとおりです。肉なる人間には安息は必要ですが、完全なる神には、何もしないという休みはありません。

多くの人が、この聖句で言われる対象が、ノアの時代での不信仰の一般人と誤読しています。これは不信仰の人間たちのことを指しているのではありません。

ここで言われる従わなかった者とは、神の子ら(堕天使)のことです(創世記6:4)。ノアの時代に、堕天使は人間の女に欲情し、妻にしたとあります(創世記6:2)。堕天使については以下にも記述があります。

 

新約聖書 ユダの手紙6節

一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 2章4節

神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。

 

つまり、ペトロ一3:19での宣教対象は、陰府という暗闇に閉じ込められて捕らわれている堕天使たちに対するものでした。この堕天使らは、天使としての領分を弁えず、人間と交わり、ネフィリムという巨人を生み出す等数々の罪に対する罰として、暗闇で拘束されているのです。しかし、すべての堕天使が拘束された訳ではなく、ノアの時代に人間と交わることをしなかった堕天使は悪霊として今も存在しています。ですから、決して、悔い改めなかった人間たちのことではありません。主イエスは、堕天使たちに十字架での出来事で罪への勝利とそれが全人類に救いをもたらすことを教えられたのでしょう。

ペトロ二2:4では地獄と訳されていますが、これは地獄行きという意味です。ペトロ一3:19の聖句を誤解して、二度目の機会(所謂セカンドチャンス論)があるようなことを言う者がいますが、それは欺瞞です。過去、携挙について説明したように、キリストの二段階再臨の嘘のようです。陰府に下ってもそこで信じればいいから地上では好きに暮らして良いというのは欺瞞でしかありません。そのような邪な考えを持つ者が救われると思っているのですか。陰府で二度目の機会があるのが本当ならば、上述した旧約聖書の陰府に関する記述は何だというのでしょうか。死んで肉体を失った霊だけの人間は、もはや愛、情熱、知恵も知識も何もないとあるとおりで、意識が無いのです。だからこそ、復活ということに意味があるのです。主イエスに救われた人が死後に永遠の命があるというのは、肉体的に一度死んだ後に復活した状態を指しているのです。

よって、実際には、二度目の機会は無く、金持ちとラザロのたとえ話のように、生きているうちにモーセと預言者の言うこと、即ち、聖書を信じることが重要だということです。もし、二度目の機会を用意するならば、この世で必死に伝道したり、福音を聞いたり、聖書の真理を知る意味も、神の掟に従って生きる意味も無くなります。

生きている時に、主イエス・キリストのことを聞いたことがあり、聖書の存在についても知っていながら、他の神々を信じたり、無神論者になって、故意に福音を知ろうともせず、信じようともせずにこの世で好き放題する者に二度目の機会はありません。ですから、陰府で二度目の機会があると思ってはいけません。

したがって、セカンドチャンス論をあたかも真実かのように主張する人は、この世での堕落、即ち、滅びを招き、それを誤信させた場合は取り返しのつかない罪を犯したことになるのです。

 

以下の聖句も誤読する者が多いです。

 

新約聖書 ペトロの手紙一 4章6節

死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

 

上記聖句についても誤読する人が多く、この「死んだ者」というのは、死んで陰府にいる人間の霊ではなく、神の視点で人間がこの世で罪の奴隷となって死んだようになっている状態のことを指します。ですから、人間の見方と書かれているのです。真のクリスチャンが受ける試練、過去の実例で言えば、鞭打ちや投獄等の経験が肉における裁きで、最終的に肉体的な死を迎えます。これが、無知、または不信仰の者たちの目からすれば、神が救わなかったように思えても、霊は楽園に上げられ、主の日、即ち、キリストの再臨時には復活してまた生きるようになるということです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 27章52節

墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

 

旧約聖書 イザヤ書 26章19節

あなたの死者が命を得

わたしのしかばねが立ち上がりますように。

 

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 4章8節

「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」

 

旧約聖書 詩編 68編19節

主よ、神よ

あなたは高い天に上り、人々をとりことし

人々を貢ぎ物として取り、背く者も取られる。

彼らはそこに住み着かせられる。

 

旧約時代はイザヤ書によって神に忠実な者は復活することは周知の事実であり、イザヤ26:14では「死者が再び生きることはなく死霊が再び立ち上がることはありません。」と書かれていますが、その直後の聖句から分かるとおり、「逆らう者」、即ち、不信仰の者等を指し、神が「逆らう者を罰し、滅ぼし」ます(イザヤ26:14)。上記聖句から分かるとおり、主イエスが昇天された時、お一人ではなく、陰府にいた旧約時代の聖徒たちを復活させ、引き連れて行かれたのです。そして、主イエスが天に昇られた以後、主イエスを唯一の救い主(キリスト)として信じて従順な人の霊は、上述したように、楽園で待機となるでしょう。霊は楽園にいますが、肉体は分離されて復活していないので、これが聖書で表現される眠りです。

 

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 四章十五節〜十七節(私訳)

確かに、わたしたちはあなた方に主の言葉よって次のことを告げます。主の再臨まで生き残るわたしたちが、死んだ人たちより先になることは決してありません。即ち、号令と大天使の声と神のラッパと共に、主御自身が天から降って来られるでしょう。すると、キリスト者である死者たちが最初に復活し、次に、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲で連れ去られるでしょう。このようにして、わたしたちはいつも主と共にいるでしょう。

 

携挙と同じ聖書箇所ですが、ここに「死んだ人たち」とあります。ラッパが鳴ると、楽園にいる霊は起きて不死の肉体と一緒になって復活します。生きて携挙を経験する人は不死の体に変えられて天に引き上げられます。主イエスを信じない不信仰の者、口先だけの信仰で行いで否定する者や間違った信仰をする者、背教者は、死後に陰府に行くことになるでしょう。キリストが再臨して、この世が滅ぼされ、この者たちは最後の審判を受けることになります。そして、命の書に名前がない者は火の池に投げ込まれます(黙示録20:15)。

 

サタンの最初の惑わしは、最初の女エバに対するもので、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:4)でした。それ以来、サタンは人間を惑わし続けているのですが、サタンが人間たちに、死者の霊が地上にいると何故信じ込ませる必要があるかを考えたことがありますか。これは、サタン、悪霊(堕天使)の存在があらゆる悪事の主犯であることを隠し、「光の天使を装う」(コリント二11:14)ためです。複数の過去記事で触れたように、聖書で心霊術や霊媒、魔術等が罪と定められている理由が分かりましたか。まさに、悪霊と交信するからに他ならないからです。サタンは、人間に対して、死者の霊は近くにいるとか、死んでも交信できると誤信させて悪霊と交信するように誘惑しています。悪霊と交信した人間(霊媒師、魔術師等)は、悪霊の虜になっていきます。その占い師や霊媒師が他の人間をも虜にして、洗脳されたと世間を騒がせたニュースがあったと思いますが、あれは人間の力ではなく、悪霊の力なのです。肉の人間はただの媒体に過ぎません。早くこの事実を認識して、騙されないようにしてください。サタンは、「大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするから」(マタイ24:24)です。だから、前回記事「聖書預言の正しい解釈方法」でも奇跡に安易に騙されないように忠告したのです。

 

この世で好き放題している者たちは、どういうつもりでそのようなことをしているのでしょうか。本人たちに自覚は無いかもしれませんが、サタンや悪霊に惑わされているのです。キリストに結ばれていない者は、このようです。回心する人は、サタンや悪霊の呪縛から解かれた人です。しかし、安堵は禁物です。サタンは常に隙を狙っていますので、死ぬまで気を引き締め続けてください。

聖書の定めのとおり、サタンの暗躍で反キリスト、偽教師、偽預言者等になる者がいることは確かです。ですから、彼らの運命は私には変えられませんし、いかなる人間にも不可能なことです。いかなる人であっても主イエスを信じることを拒絶する者はどうあがいても申し開きのしようがありません。神を知らなかったという言い訳は通りません。

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 1章20~21節

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。

 

新約聖書 ペトロの手紙一 4章5節

彼らは、生きている者と死んでいる者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。

 

主イエス・キリストを拒絶することにいかなる正当な理由も根拠もありません。拒絶する者は、自ら滅びへと進んでいるだけであり、天の父なる神にどのように申し開きをするつもりなのでしょうか。主イエス・キリストに対する正しい認識や信仰を持つことは非常に重要なことであって、聖書の真理も知らない人が表面的に信じると軽々しく言うことは、信じる者の数に入りません。にわかクリスチャンは、陰府を経て、後で地獄に行きたいと思っていないはずです。なぜなら、地獄での滅びを喜んで受けると言う者は誰もいないからで、滅びるよりは主イエスを心の底から信じていなくても、掟を守れなくても、行いで信仰を示せなくても、信じると口先で本心ではない事を言ったり、お決まりの儀式のように讃美歌を歌い、聖書を少しかじって信じて救われていると自己満足しているのです。私は、複数の過去記事で行いが重要だと述べてきました。それこそが信仰の義の表れだからです。主イエスを信じていると言いながら、または、そう思いながら、実際は、悔い改めず、どんな人の前でもどんな場でも主イエスを信仰していると公に言うことができなかったり、偶像礼拝をしたり、金銭欲にまみれたり、利益のために媚びへつらったり、みだらな行い(結婚した男女間の性行為以外すべての性に関する行い)をしたり、同性愛に陥ったり、盗んだり、酒に溺れたり、殺人をしたり、すぐに怒ったり、嫉妬したり、恨んだり、誹謗中傷等の迷惑行為を働く等、聖書の教えに反した行動をし続けるのは矛盾でしかないからです。行いが信仰を表すのです。サタンに仕える者は、肉の欲に従って行動しますが、神に仕える者は、主イエス・キリストに従い、神の御心を行います。私は、これまでにわかクリスチャンを糾弾してきましたが、これは叱咤激励です。実際に、世には、にわかクリスチャンが多いのは事実であり、少なくとも真理を求めて私のブログを読みに来る兄弟たちには大多数のにわかクリスチャンや反キリストのようになって欲しくないために私は一生懸命説明しているのです。決して、高慢になっている訳でもなく、悪態をついているのでもありません。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 1章17~18節

「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」

 

天地創造の時からおられる主イエス・キリストだけが、死と陰府の鍵をお持ちなのです。いいですか。地上のどんな権力者も、偽りの神々にも肉体的死後には何の権力も無いのです。どの国の大統領や首相等、秘密組織、または宗教指導者が人間を陰府に送ったり、魂をも滅ぼし得る権限があると思っているのですか。主イエス・キリストを除いて他に誰もいません。天の父なる神がすべての権能を主イエスにお授けになっているのです。

 

新約聖書 マタイによる福音書 28章18節

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」

 

主イエスは上記のように仰いました。サタンも、反キリストも、地上の権力者も、富める者も、主イエスを前にして誰も抗えないのです。このことを弁えていなさい。

 

死後のことを考えるのは、あなたが重い病気になった時だけですか。それとも誰かの死を見聞きしたり、葬式に参列した時だけですか。天国で会おうと何故軽々しく言えるのですか。日々、何故そんなに呑気なのですか。今はもっと短いでしょうが、地上での人間80年余り(現代の平均寿命)と死後の永遠と比較して、どちらに重きがあるか何故分からないのですか。短い地上での生活に関することは熱心になるのに、永遠に繋がることについては熱心にならないのは何故でしょうか。

 

新約聖書 ペトロの手紙一 2章11節

愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

 

この世は、仮住まいであり、分かり易く言えば、テスト期間だと思うべきです。短い地上の人生において、信仰が無く、神に忠実ではなく、忍耐も無く、最後まで人生を頑張れない人が、悪の無い天の国に入れると思わないことです。

 

私は、聖書を読む前、小さい子供の頃からこの地上での夢がありませんでした。周囲の子供が元気良く将来就きたい職業名を挙げる中、私は将来大人になってどんな職業に就きたいかと訊かれる度、答えるのに窮していました。この世でなりたいものがなかったからです。それは小さい子供の頃にとどまらず、大きくなった学生時代の時も相変わらずでした。周囲の人は目標を見つけて邁進していましたが、私は特定の職業への執着や目標といったものがなく、消去法で仕方なく考える有様でした。ある職に就いても満足感は無く、周囲の人間と適度な付き合いはあっても、聖書で言われるような心から励まし合う深い仲を築こうとする気は起きませんでした。周囲は肉の欲を求める者でこの世の事ばかり考えており、心の底では違和感を感じていたからです。性格や趣味が合わないという表面的なものではなく、根本的なものです。霊的に違いを感じ取っていたのかもしれません。それは今はもっと顕著になりました。世のことばかり気にしている人と会話を持つのが苦痛で、必要最小限にしています。私は昔から饒舌ではありません。くだらないことを口にすることも無意識に控えていたのかもしれません。ですから、私の身近にいた人は私を面白くない人と思っていることでしょう。しかし、私は彼らを楽しませるために生きているのではないので、何と思われようとも気にしません。

これらは、無意識のうちに、この世に属していないことの表れだったのかもしれません。聖書の真理を悟ってからはこのことを確信するようになりました。真のクリスチャンは、この世に倣ってはいけないからです(ローマ12:2参照)。また、過去記事でも説明したとおり、世の友になることが、神の敵となり、世の友となりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです(ヤコブ4:4)。

また、神は、私に挫折と試練を経験させ、この世で高慢に繋がる道を閉ざし、悪への道から遠ざけてくださいました。私が真のクリスチャンとしての道を歩む前から、主イエス・キリストは私を導いてくださいました。

過去記事「最近の周囲の様子と大半の人々が陥る罠」で愛国心の話をしました。この世の多くの人間は愛国心があることでしょう。これも私は理解できないのです。愛国心というのは、世に属する人間たちが、自分たちの居場所を必死に確保するための動機付けです。仮住まいの者にとって、もはやこの世の国という概念も国籍もどうでもいいのです。本国は天にあるからです(フィリピ3:20参照)。歴史上、あまたの国が興っては滅亡していきました。今後も同じで、この地上にあるものは永続しないのです。

 

死んだら何もかも終わりなので、生きている内に好きな事をするというのはサタンの思想です。なぜなら、サタンは、どうあがいても地獄行きの運命が聖書で定まっているからです。だから、その時までは好き放題したいのです。人間も、このような思想を持っている人はサタンに惑わされているのです。死んだら終わりなので、この世での生活が一番と考え、物欲から金銭に執着したり、快楽に耽る等、世俗的欲求を持って利己的に生きるようになります。自分が幸せなら、他人がどうなろうと構わないという態度、即ち、隣人愛が無い状態です。

また、あなたがたが聖書の真理を聞いて、自分だけはこのとおりに従って生きて救いを得るが、他人は知ったことではないと思うような人は真のクリスチャンではありません。そのような器に聖霊は宿りません。私が過去に聖書の福音、真理を宣べ伝えなさいと何度も述べてきたのはそれが理由です。聞く耳のある者は聞き、実行してください。信仰に入っていない人に強制してはなりません。声をかけても耳を傾けない者は放っておきなさい。神が引き寄せてくださらなければ無駄なことだからです(ヨハネ6:44参照)。

また、あなたがた兄弟のうち、多くが教師になってはいけません。以下のとおりです。

 

新約聖書 ヤコブの手紙 3章1節

わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。

 

福音を伝えるのに、あなた自身が他人に説教するようにと言っているのではありません。人に文章で説明する能力に自信が無いならばやめておく方が賢明です。きちんとした文章を書くというのは簡単そうで実はそうではないからです。世には、書くだけ書いて非論理的で支離滅裂だったり、結局何が言いたいのか伝わらないような内容だったり、誰にでも分かる表現ができず誤解を招く表現を書いたり、聖書を曲解した内容だったり、聖書の丸写しや筆者の憶測しかないような読む価値の無い文章で溢れかえっています。その場合は、身近で福音の内容、聖書の真理について日常会話で話をすればよいだけです。無理せずにできる範囲で行えばいいのです。難しく考えないでください。舌を制御できずに大言壮語や暴言を言ったり、中途半端な状態で教師ぶって説教することは良くないというのは上記聖句の他、「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」(マタイ23:1~36、マルコ12:38、ルカ20:45~47)にもあり、知らずに間違った教えをしたり、人から慕われたいとか注目されたいという名誉欲に囚われて高慢になって、偽教師Amir Tsarfatiや偽預言者RAPT、聖書を曲解する者たちのような状態に陥ることもあるからです。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになると聖書にあります。兄弟を探す、増やすという形であれば良いと思います。兄弟となり得るかの判断も重要です。そのためにまず自分自身が本物の信仰を持たなければならず、信仰の薄い者同士が群れて話し合っても迷路を彷徨うようなもので、何の役にも立たないからです。

 

冒頭でお話したように、世間では死者の霊が地上に存在すると信じられています。クリスチャンでもこの点に確信を持てない、分からないという人が多いと思いましたので私が説明しました。理解できましたでしょうか。死後の世界についても誤った教えをする偽教師や牧師等がそこら中にいますが、騙されないでください。愛する兄弟たちが、正しい死後の世界観を持って、最期まで主イエス・キリストに従順で人生を全うすることができますように。私は一人でも多くの人が救われることを願っています。


以上

 

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