塩湖にて
6.0後の時系列。
恋人をヒカセンに殺された女が、ヒカセンを恨む話。ヒカセンは男です。外見はひろしをイメージしてはいますが、詳細な描写はありません。
黄金のレガシーへ向かう前に、彼の罪と向き合っておかなければ。と思い。
※ヒカセンの同行者として、ラハが居ます。念の為、光ラハ(ひろラハ)としていますが、ラハとの関係性は、原作ストーリーの範囲内のつもりで執筆しています。(前回投稿との繋がりはありません。)
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女が冒険者を続けることを諦め帰路に就くと決めた頃、既に故郷と呼べる場所は無かった。
世界はあるひとりの「冒険者」により救われたそうだ。その冒険者、もしくは英雄、もしくは解放者、それとも闇の戦士、いや光の戦士か。
呼び名なんざどうでも良いが、せいぜい、国境をひとつかふたつ跨いだ程度の旅だった女にとっては、その男が向かった旅がどれ程のものであったかなど知る由もない。
女にとってはただ、その男が自身の恋人を殺したという事実だけが確かであった。
女がギラバニア辺境地帯を進み始めて、半刻と少しの時間が経った。黒衣森からイーストエンド混交林を抜けるまでは、手持ちのギルで少しは食糧を補給出来たし、万が一、妖樹と出くわしたとしても、草木に隠れてやり過ごすこともできた。ただここからハイバンクまでの道のりを思うと、なるべく削ぎ落とした筈の装備すら、重くのしかかって来るようだった。
岩肌が剥き出しになった道のりは、先ほどまでと同じように身を隠すこともできない。あの男ほど強い冒険者であれば、たとえ岩陰からグリフィンが現れても一撃で伸すのだろう。女は話したことも無いその男を恨めしく思ったが、そこに微かな羨望が含まれていることに気付き、息を吐いて打ち消した。
せめて呪術か、巴術を習えば良かった。そうすれば、遠くから燃やし殺す事だって出来ただろうに。いいや、その才能が無かったし、誰かを護る人間になりたかった。だから剣と盾を取ったのだ。
女の歩く道のりに強い陽射しが照り注ぐ。額の汗がこめかみを通り、顎の先へ伝って落ちる。目的地までの道のりは、女が自身の歩んだ旅を振り返るに充分な時間を与えていた。
ギラバニア湖畔地帯には、一帯に広がる塩湖がある。赤髪のミコッテ男性の隣に居る男──「世界を救った光の戦士」は、陽の光を反射する塩湖を見つめ、眉間に皺を寄せた。男にとって、塩の塊が蠢く化物などはさしたる問題ではない。問題は、釣り餌を食い尽くしても手に入らない、その標的であった。どうしても、魚拓にしたい。しかし釣れない。
その様子に赤髪の男は目を細めた。天の果てまでも向かい、幾度目かの命懸けの戦いも終えたというのに、まるで星たちの終わりなど知らないかのように「冒険」を謳歌する男を、赤髪のミコッテ男性──グ・ラハ・ティアは心から喜ばしく思う。
きっと、冒険ってこういう事だ。財宝を求め、挑戦を繰り返して、ようやく手に入れる。そして手に入れた時の喜びを仲間と分かち合う瞬間。今回の「財宝」は塩湖の主だが、手に入れた際には目一杯、尻尾も耳もピンと立てて喜ぼう。もっとも、それらは完全に自分の意志でどうこう出来るものでもないが、意識せずともそうなるだろう。
世界を救った光の戦士が釣り餌を取り出し、もう一度釣竿を振る姿を心の中で応援しておく。主はきっとまだ手強い。グ・ラハは、先にソルトリーの方へ向かうことにした。
ソルトリーの製塩業は強力な後ろ盾もあり順調で、「元」暁として手助けが必要なことは特には無かった。とはいえ稀に凶暴な魔物は出ることがある。もう少し奥まで歩いて、サリ僧院の方まで向かおうか。
グ・ラハは男のいる塩湖の淵へ顔を向け、未だ小難しい顔をして釣竿の先を見つめる様子に顔を綻ばせた。
次の冒険まで時間があるからと、釣竿を持って各地を回る彼に着いてきたのは正解だった。釣りを口実として、自分たちが救った各地の様子を見たかったのか、それとも本当にただ釣りをしたかったのかは定かではないが、解放者の帰還に沸くポルタ・プレトリアの面々の表情を思い返すと、俺まで誇らしい気持ちになる。
サリ僧院の方角に向き直り、道標にしてきたその英雄譚を思い返す。グ・ラハは、その場所に他でもない、自分の足で立っていることを噛み締めていた。
女がポルタ・プレトリアへ到着する頃、陽は沈みかけようとしていた。薄暗い上に、霧が掛かっていたため、数メートル先のエーテライトすら輪郭がぼやけていた。砂埃が身体中に貼り付いている。覚束ない足取りでエーテライトへの階段を登ろうとするが、女がここへ辿り着くまでに体力のほとんどが奪われていた。この階段を、一段足を持ち上げる事すら敵わない。
よろめく黒い影に気付いた衛兵が駆け寄ったが、この霧のせいか、差し出した手は女を支えることが出来なかった。背負っていた装備が、鈍い金属音を立ててばらばらと床へ落ちる。女は、この剣と盾で護りたかった相手が居たのに、と恨めしく思った。
衛兵が女へ声をかける。大丈夫か、水は飲めるか。女が同郷か、もしくは近しい出身だと気付いたようだった。女は衛兵に薄くうなづき、肩を借りて衛生班が待機するテントへと向かった。
一時期、そのテントの下にあるベッドの数では到底足りないほどの人数がここへ送られたが、我らが解放者が脅威を退けたおかげで、今は余っている程なのだ。 そう話す衛兵は誇らしげだった。身体を支えられているお陰で、その喜びに満ちた抑揚が身体に響いてくるのを、女は苦々しい思いで聞いた。衛生班のテントにようやく腰を落ち着けると、衛兵が、ここで良いだろうか、と女が座るベッドの脇に荷物を置く。礼を伝えると、気にするな、と女に笑顔を向け、駆け足で定位置へと戻っていった。 もうこの場所は、他人を気遣う余裕があるのだ。たった今会話をしていた仲間が、ただの肉塊になるかも知れない緊張感からは、もう、解放されたのだ。 女は、ポルタ・プレトリアの現在を羨み、自身の見窄らしさと比べ、憎いとすら思った。 実際のところ、生活は楽になったわけではないし、拠点を離れれば強力な魔物も居る。剣や盾が不要になる日は、おそらくまだ遥かに遠いのだが、女はここへ辿り着くまでの時間、自身がいつ肉塊になるかという恐怖と向き合っていた。 その道のりは女に怨嗟を蓄えさせた。ただ差し伸べられた手すら、自身の自尊心を削り取るもの、惨めさをより濃く感じさせるだけの「施し」へと変貌させていた。 サリ僧院から塩湖へ戻ったグ・ラハは、先程と変わらない体勢で釣竿を垂らす男を見て、今日一日の釣果を察した。どうやら、かなり手応えのある相手らしい。もう、陽も落ちようとしている。グ・ラハは男に、拠点へ戻って食事を取ることを提案した。 ロッホ・セル湖は、一見浅瀬が広がっている様に見えるが、ところどころに大きく穴が空いている。一度そこへ身を落としでもすれば、大量に塩分を含んだ水中では目は開けられず、入り組んだ湖の中から元の穴へと生きて戻ることは困難だろう。その点、男は色々あって水中でも呼吸が出来るし、グ・ラハも魔法を使えばそれほど困ることがない。二人は危なげなく塩湖から遠ざかる。ソルトリーの面々は、道具を仕舞い始めていた。男とグ・ラハは彼らへ軽くあいさつをして、ポルタ・プレトリアへと向かった。 女が目を覚ますと、辺りは夜になっていた。エーテライトの光が穏やかに回っている。エーテライトの向こう側には、拠点下のテントへ向かう階段が続いている。あすは、そこから降りてロッホ・セル湖を抜けなければ。 女は、自身の持つ装備がこの拠点に居る誰よりも劣っていると理解していた。装備の強さは、そのまま、持ち主自身の能力をあらわしている。この心許ない装備で湖畔の魔物を追い払う不安よりも、湖を抜ける為には、より、力のある者に頼んだ方が賢明だという事実に、辟易としていた。 階段に目を向けたままでいると、奥から、こちらへ登ってくる人影が見えた。先の衛兵が歩いてくるようだ。その手に持ったカップには、湯気立つスープが入っていた。 女が目を覚ましたことに気付いた衛兵は、よかった、目を覚ましたか。と安堵の表情を見せた。手に持っているスープは衛兵自身の補給のためだったが、女が栄養をつけるのが先だな、と、衛兵は女へスープを差し出した。 女は一瞬躊躇したが、好意を無碍にするのも不自然だと考え、受け取ることにした。毒など入っていないことは分かっていた。ただ自分が「施し」を受けていることが、こんなにも目に入るもの全てを恨めしく感じさせるとは。恨む相手は、目の前の衛兵ではない。 女はスープを見つめ、ひとくち、すする。温かい。何が入っているのか、全ての判別はつかなかったが、おそらくトマト、香草、干した牛肉、そのほか滋養が付きそうな食材がふんだんに使われている。ポルタ・プレトリアへ到着するまで、ろくに水分も摂ることが出来なかった身体に染みていくようだった。 近くで待機していた衛兵が、女がスープを飲み干した様子を確認し、声をかける。まだ食べられるようであれば、階段を降りて下へ行けば煮込み料理もある。我らが解放者が、ここへ来る道中にガガナの卵が手に入ったからとシャクシュカを作ってくれているのだ。 衛兵が続ける。 そのスープも解放者が作ってくださったのだ。どうだ、美味かっただろう? 焚き木にかけられた鍋に、「解放者」の作った料理が入っている。スパイスと、たっぷりと入った野菜。ガガナの卵は、分ければ充分ひとりひとりに行き渡る個数が入れられている。 グ・ラハは、ポルタ・プレトリアで野営をするのは初めてだった。この場所が渦中であった頃が、自身が眠っていた時期だったこともあるが、いまだに少し、物語の中に立っているような心地がする。 広い湖畔は静かで、星々の瞬きもよく見える。そう遠くない過去、ここで多くの血が流れた。今のこの穏やかな時間は、それを経て得たものなんだ。そうぼんやりと考えながら、カップに注がれたスープを一口飲んだ。 ポルタ・プレトリアの周辺は、乾いた土地で覆われている。ソルトリー目的で交易が増えたとはいえ、充分な栄養を得るための食材は、そう簡単に得られるものではない。グ・ラハが同行した男は、それを知ってか荷物に大量の食材を抱えてこの土地へ来た。ただ整理されていなかっただけという可能性もあるが、とにかく、その食材から作られる料理は、ポルタ・プレトリアの衛兵たちと、ソルトリーから引き上げた人々を喜ばせた。 ひと通りの調理を済ませたその男が、食事を摂る人々の輪から少し離れた場所にいた、グ・ラハに声をかけた。グ・ラハは夜空を見上げるのをやめ、男の声がした方を向く。男は、ひと休みしたらもう一度釣りへ行こうと思っている、と、カップに入ったスープをすすりながら伝えた。 男の「冒険」への熱心さには改めて驚くというか、呆れるというか。グ・ラハはこの男の冒険を間近で眺めるか、それとも、キャンプに残って「解放者さま」の話題で盛り上がろうか少し迷ったが、夜釣りの心地を味わうこともそうそうないだろう、と、平和になってすら落ち着く様子のないこの男に、同行することにした。 ポルタ・プレトリアで解放者の作ったスープを飲んだ女は、衛兵の言葉をようやく理解した。 解放者。 解放者がここに居るのか。 その男が。 女が、空になったカップを握りしめる。エーテライト下のキャンプでは、「解放者」を讃える人々が、その男の施しを喜んで受け取っている。 男が殺した恋人は、女にとって、ただひとりの心の拠り所だった。女が孤児だったことなどは、この一帯では珍しくもない。女は、長い間孤独に生きた。地を這いずり、泥水を啜るような日々だった。 出自が不幸であれ、弱く、持たざる者であれ、他人に好かれて「うまく」生きることが出来る者は居た。ただ、女は、身の丈に合わない高い自尊心と、他人を見下し、測り、驕る癖のあった性格も災いし、ろくに友人を作ることも、助けを求めることも出来なかった。 女の恋人は、そのような女の性格を見抜いた上で赦した。女は、彼のように優しくあれる性格はまるで兵士向きではないから、自分が彼を護るのだと決心した。 恋人の死、そしてそれが「光の戦士」の手によるものだと知ったのは、ギラバニアが戦地ではなくなったあとだった。恋人は、とうの昔にモードゥナで息絶えていた。あの壊滅した帝国兵の一員として派遣され、慣れない槍を持っていたそうだ。 彼が女にとっての故郷だった。帰る場所を失った女にとって、終末ごと世界が破壊されたとしてもなんの問題もなかった。むしろそれを望んですらいた。しかし、世界は救われた。自身の恋人を屠った男の手によって。 女は衛兵に、スープの礼をしにエーテライト下のキャンプへ向かうと伝えた。長い階段の上からも灯が見える。数人の衛兵らしき人間と、装備の違う解放軍かなにか。それから、おそらくソルトリーでの労働を終えた者たち。それらが集まって、火を囲んでいる。 女は片手に空になったカップを、腰には剣を、背には盾を背負っている。階段を一段、一段、降りるたび、装備が擦れる音がする。先ほど飲んだスープの匂い、衛兵が言っていた煮込み料理らしき匂いが、一歩進むたび近づいてゆく。 降りてくる女に気付き、食事をとっていた一人が声をかけた。さっき倒れていた女か、もう平気なのか。衛兵が女の表情を見ると、先ほどよりも血色が良いように見てとれた。澱み、虚ろだった目は、前を見据えた、意志のある眼差しとなっているように見えた。 衛兵が女に、シャクシュカも食べるかと聞くと、それよりも解放者へ礼をしたい、と抑揚のない声で答える。解放者は、先ほどまた釣りに出かけたはずだ。解放者が衛兵たちと食事を交わし、夜釣りへ出かけるなんて、平和になったものだよな。そう、女に笑いかける。女は一言、釣りか。と呟いた。 彼が釣りに集中していたとしても、自分が居れば多少の露払いは出来るだろう。グ・ラハは、釣りをする男に着いて行く理由をそう考えた。 ロッホ・セル湖の湖畔で、改めて釣竿と向き合う男を見る。この湖に棲むという古代魚が、本当に居るのかも定かではないが、伝承や先人の知恵を吸収するのも上手い、この男のことだ。きっと確信あって何度も湖へ向かっているのだろう。蠢くフォーバットを払うと、湖の方向から、ありがとうグ・ラハ。と男の声が聞こえた。釣竿に集中していて構わないのに、律儀な男だとグ・ラハは思う。 男の釣竿を投げる音、時折吹く風に塩の香りが混じっていること、瞬く星の遠く美しいこと。男が今ここに生きていて、その側に自分自身も立っているということ。ただの平和そのものであるこの時間が、どれほど得難いものだったかと、冒険録に思いを馳せながら、軽く、息を吸い込んだ。 ふと、魔物ではない足音が聞こえた気がして、ソルトリー側の方向に目線をやる。人影が歩いてくる姿が見えた。見ると、帯刀してはいるが、かなり心許ない装備だ。グ・ラハは、先ほどこのあたりの魔物を払っていて良かった、と思った。もし、襲われでもしていたら彼女はひとたまりもなかっただろう。 女が、二人の男に近付く。女の目線は真っ直ぐに「光の戦士」を見ていた。 「こんな夜更けに湖畔を渡るのは、危ないぞ。向こうへ行くなら……」 同行しようか、グ・ラハがそう言い切る前に、女が腰元の剣を引き抜いた。 女は目線の先の「光の戦士」に斬りかかったが、女に気付いた男は慣れた動作で釣竿から武器へと持ち替える。女が振りかざした剣は、男の剣に簡単に弾かれた。 グ・ラハは、女の行動に気付かなかったことを恥じた。まさか、そのような装備で彼に切り掛かるとは思いもしなかったのだ。もし女が冒険者ならなおさら、力の差は歴然だと分かるはずだ。その装備、その実力では、「光の戦士」たる彼に傷ひとつ付けられる訳がないのに。 剣を弾かれた女が、体勢を崩す。グ・ラハは、その隙にスリプルか何かをかけ、女を落ち着かせようと杖を握った。 女は、崩れた自身の体勢を立て直したが、塩湖のざらりとした足元に、踏み込む力が吸い取られるようだった。女の目線の先には、釣り道具を持つ平和そのものの格好から、正義の名を表すに相応しい、剣士の姿へ転換した男が見えた。その男が、自分という敵に対し剣を向けている。 その剣と盾は、光り輝いていた。光の戦士とはいえ、ただ一人では手に入れられない光だった。 強さも、仲間も無い、愛する人も失った女には、もはや到底手の届かない輝きだった。女は一層強く、男を睨み付ける。 お前などに、お前を信じる仲間が居るというのか。 お前は、殺したことなど刹那と言って、仲間と共に過ごせていたのか。 それとも、過ぎたことだと笑い飛ばして、殺したことすら忘れているのか。 私の、私の大事な人を殺したお前が。 金切り声で女が叫ぶ。女が、男へ向けた言葉は、グ・ラハにはまるで縋り、祈り、懇願するようにも聞こえた。 生きていて欲しかった。 その感情は、グ・ラハにとって他人ごととするには余りに長い間抱え続けた、覚えのあるものだった。詠唱を始めようとしていた口元が止まる。 女は今一度、剣の柄を握る手に力を込める。唯一の故郷を失った絶望ごと投げつけるように、剣を男へと振りかざした。 女が向けた殺意は、その場しのぎに受け流し、なだめすかせば落ち着くようなものではなかった。男は咄嗟に、反撃する。女の腹を男の剣が裂いた。 ──ああ、私を愛した人も同じように、ただの一撃で殺されたのだろうか。 女は痛みを感じるより先に、自身の恋人の最期を思い浮かべた。女の腹から血が流れる。手にしていた剣が手から滑り落ち、安物の鉄の、鈍い音が響いた。 グ・ラハは、自分や暁の人々と遥かな冒険をした男が、今、切りつけた、女の傷を見た。 今ならまだ、全力で回復魔法を使えば助かるかも知れない。ただ、彼女がそれを望むのだろうか。生きたいという意志が、自分たちに生かされてすら生き延びたいという意志があるだろうか。魔法は万能ではない。本人に生きる意志がなければ……。 男の方へと視線を動かす。グ・ラハの居る場所からは、男の表情は見えなかった。 女は、自身の命が程なく終えようとしていることを悟った。 女は冒険者だった。自分の力では、この男に傷ひとつ付けられる事などないと理解していた。ただ、この男が憎かった。男の剣がはらわたを切り裂こうが、男への怒りと憎悪が収まることはなかった。 女がふらつき、塩湖の淵へ足をかける。あと一歩でも後ずされば、盾の重みで身体ごと塩湖の奥底へと沈むだろう。 女は、腹と、口元から流れる血を拭いもせず、男を睨み付けて低く叫んだ。 お前が、殺した者の数を、忘れることを許さない。 殺した者の、未来を閉ざした事を、知らずにいるのを許さない。 一瞬でも、穏やかな時を過ごすことなど、許さない。 お前が、幸福を感じる資格がある訳がない。 女の口から流れる血が、男へと投げ付ける声を遮ろうとする。女は、この後に及んで自身がどれ程弱い人間かを思い知らされた。 情けなさと、悔しさが涙となって溢れてゆく。拭われない涙が頬を伝い、口元を流れる血に混じる。叫ぶ言葉と同時に、ぼたぼたと足の上に落ちた。 女は、男から目を逸らさない。 お前が、どれほど感謝され、 慕われ、憧れられようが。 私と、私が愛した人を、お前こそが殺したことを忘れない。 魂に焼き付けて、生まれ変わっても、 ずっと、ずっと、 お前を憎み続けて許さない。 お前がいつか、死の間際に後悔する日が来ようとも。 女が男を睨み付けたまま、その足を一歩、後ろへとやる。女の身体は水面にずるりと滑り落ちた。背中に抱えた盾が、女の身体を湖の底へと引き込んでゆく。女の眼は男を睨み続けている。男の付けた傷が女の命を奪い切るまで、その眼が閉じられることは無かった。
男は、女が沈んでゆく塩湖の底を、その姿が見えなくなっても見つめ続けた。グ・ラハは男に何か、声をかけようと口を開いたが、賢人としての知識をもってしても、かける言葉を選ぶことが出来なかった。 男は、塩湖を見つめた体勢のまま、元の漁師姿に転換した。身体をひとつも動かす様子なしに、拠点に戻るとグ・ラハへ伝える。 グ・ラハは、そうだな、とだけ返した。 拠点下の野営で、食事を終えた者たちが談笑している。光の戦士が施した鍋の中身は、すっかり空になっていた。 衛兵、解放軍、ソルトリーで働く人々は、拠点へと戻って来る釣り人姿の男を囲んで次々に礼を伝えた。スープも、シャクシュカも、人々の腹と心を満たし、明日からの日々の英気となった。 男とグ・ラハは、エーテライトへ向かう階段を登る。野営から離れてゆくと、外気の気温はもう少し低かったことを思い出す。吹いた風がひやりと頬に当たった。エーテライト経由でシャーレアンへ戻り、それぞれ、暖かい寝所へと帰っても構わないのだが、グ・ラハはそれを提案しないことにした。 ポルタ・プレトリアのエーテライトはゆっくりと回っている。拠点下の賑わいとは反対に、エーテライトの周りは静かだった。数人の衛兵は、それぞれの役割を全うしている。 三都市から派遣された後も残っている者。拠点の入り口で侵入者を警戒する者。今はもう、ほぼ使われなくなったベッドを整える者。 ベッドを整えていた衛兵が、男とグ・ラハに気付き、にこやかに声をかけた。おかえりなさい、解放者さま御一行。今日はこのベッドを使う者もいないようです。良ければ、ここへかけて休んでください。 グ・ラハと男は、それぞれベッドへと腰掛けた。男は装備に付いた砂を落としている。何か言葉を発する様子はなかった。 グ・ラハは、夜空をもう一度見上げた。英雄譚には、英雄を恨む者の言葉は書かれていないのだと、当然のことを改めて思う。それをあえて考えることもなかったと、星の瞬きが揺れる姿を見つめた。 英雄、とは、その偉業を指して言うのだろうか。その偉業とは、倒した敵の数のことなのだろうか。彼ほどの英雄であっても、殺された者やその者を愛する者にとっては、その仇に変わりないのだ。 『でも、あんたがやってきたことは、実際、多くの人々を救ったし、あんたは、それを誇っていい。歩んできた道の途中で、不幸になってしまった人が居たとしても、あんたは、幸せに生きたっていい。 だってあんたはきっと、誰に対しても優しかったはずだ。 あんたは、いつだって、目の前の相手を救いたいって、思ってきたはずだ。』 男へと伝えようとしたその言葉を、出さずに、グ・ラハは飲み込んだ。それらが嘘ではないにせよ、今はまだ、彼へと伝わる気がしなかった。 ベッドに腰掛ける二人のもとへ、先ほどの衛兵が声をかけた。ギラバニアはもとより、世界を救った一員である二人と会話が出来ることを喜びながら、衛兵は、先ほど口にした食事を満面の笑みで絶賛した。ベッドに腰掛けている男の服装を見て、衛兵が思い出したように言う。 ときに、夜釣りはいかがでしたか。あの辺りはフォーバットが蠢いていて、ここらの者たちはあまり近づかないようにしています。ああいや、貴方がたでしたら少しも問題ないのでしょうがね。 男は、衛兵にあえて何かを返さず微笑んでいる。 「そういえば……」 衛兵は話を続けた。 「お二方は、ギラバニア地方に伝わる逸話をご存知ですか? あの辺りのフォーバット。 あれは、振り返らずに街を出るように、と壊神の啓示を受けながらも、 振り返ってしまった女の成れの果てだ、と言われているんですよ。」 神罰とは恐ろしいものですね、どうせなら何かを成して死にたいものだ。そう言って衛兵は、二人へ丁寧に礼をして去って行った。男は何も言葉にすることはなかった。 グ・ラハは、男へと声をかける。もう寝よう。明日の朝に、ここを出よう。そしてまた来よう。その時はまた、俺も来たい。グ・ラハが男を気遣ったことに気付いたのか、気付いていないのかは分からないが、男はグ・ラハの言う通り、ベッドへと横になった。グ・ラハも、自身のベッドでごろりと横になる。 夜空に星が瞬いている。あの光の先が全て、最期の結論を出していることを思い出す。 天の果てまで行った俺たちは、想いの力が世界を動かすことを知っている。彼女の憎しみもまた、星海を巡って世界を動かす一端となるのだろうか。 それとも彼女の憎しみや苦しみをも星海は洗い流し、新たな命として迎え入れるのだろうか。 思考を巡らせていると、男の寝息が聞こえてきた。それに気付いたグ・ラハも目を閉じることにした。遠くから微かに聞こえて来ていた人々の話し声が聞こえなくなってゆく。男の寝息が深くなって来た頃、ようやくグ・ラハも眠りに落ちた。 まぶたの向こうに光を感じたグ・ラハは、目を覚ました体勢で伸びをした。陽が充分に昇り、エーテライトに反射していたらしい。隣のベッドで寝ていた男はすでに起きて、漁師姿のまま荷物を整理している。どうやら、寝ている間に目当てのヌシを釣り上げたようだ。 グ・ラハが起きたことに気づき、男は、よく眠れたか、と声をかけた。あまり深く眠れたとは言えないが、ああ、と返事をする。男の方こそ、昨日の今日でまた早朝から塩湖に向かって、大丈夫なのだろうか。グ・ラハは男へと、出来るだけ重さを感じずに済む声色を選んで聞く。 大丈夫。俺はすべて乗り越えて、次の船出を楽しみにしているさ。 男の声には思いのほか、明るさがあった。あの女の憎しみ、悲しみを向けられ、最期を目の当たりにしてもなお、そう言ってのける事が出来るからこそ、この男が英雄たり得たのかもしれない。 そうでなければ、殺した者の心を受け止め続けて生きてゆくことなど出来るだろうか。 今朝のポルタ・プレトリアは快晴で、からりとした空気に強い陽射しが差し込んでいる。全ての冒険を喜び、押し出してゆく光だ。 照り注ぐ陽の光のもとで、か弱く足元も覚束ない者は干からび絶え、何者をも押し除けても強くあれる者だけがそれを力と変え、まだ見ぬ冒険へと踏み出すことが出来る。 あと数日もすれば、次の冒険への報せが来るだろう。男の心はもう、新しい舞台への期待と高揚に塗り替えられたようだ。 不意にグ・ラハの目の前に、切り裂かれた腹から血を、男を睨む眼から涙を、流し、叫ぶ女の姿が浮かんだ。 お前が忘れることを許さない。 お前を憎み続けて許さない。 支度を終えた男はまるで無邪気な笑顔で、グ・ラハへと笑いかけた。 さあ、出掛けよう。旅の準備はいくらし尽くしても足りないぐらいだ。 (了)