ロアナプラより愛をこめて   作:ヤン・デ・レェ

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Politic toys *R15

 

 

 

 

 

 

豪邸の一角。薄暗い部屋の中で、煙草の火だけが揺れていた。

 

ホットパンツに黒いタンクトップの女ガンマンが、愛銃の銃口を車いすに乗った干乾びた老人の後頭部に押し付けていた。

 

「連中はとにかく太いもの、長いもの、硬いものが好き過ぎるのさ。松明しかり、旗しかり、小銃しかり、グースステップに、亀頭じみたヘルメットしかり。ドイツもこいつも、全身から生臭いものが滲み出ていやがる」

 

口に布を詰め込まれた老人はうめき声しか漏らせない。女…レヴィの周囲には、暗視ゴーグルで目元ですら判別がつかない完全武装の兵士が数人静かに佇んでいた。

 

「劣等感と責任を全部民族だの人種だのにコスりつけるに飽き足らず、手前の男性機能の不足まで権威の皮を被って悦に浸りやがる。手前らが着てる軍服なんざ、見方を変えれば手前のナニに被れてる不潔な皮っピラと同じだってことを、いつになれば気がつくんだ?」

 

抵抗する暇も無かった。例の絵が届いたその日の夜に、襲撃者が老人の屋敷に押し入った。老人の足元には既に彼の家族の死体が転がっていた。

 

「お国から貰える勲章とて、所詮は子供騙しの大袈裟な玩具なのさ。カッコいいのは当たり前だろ?ガキの心を掴んで離さない、他人にマウントを取るのに最適なように出来てんだからよ。反吐が出る。反吐が出るぜ。あんなもんに、命を賭けるのも、あんなもんを後生大事に仕舞い込むのも、額縁に入れて飾るのも…どれもこれもクソったれだ。清々しいまでのクソ溜めだ」

 

家にはいなかった孫と息子と娘も、物言わぬ死体に換えられて、老人の足元に無造作に積まれていた。わざわざ運んでくると、死体袋から取り出して積み上げたのだ。生憎と、目隠しはされていなかった。幸い、暴行の痕はない。全員が一撃で始末されていた。苦痛もなく、呆けた顔で死んでいた。事態を最後まで理解することもなく死んだのだろう。

 

「結局よ、ユダヤ人も、ドイツ人も、最後まで追っかけ回してたのは亡霊ってなわけよ。ODESSAも、シオン長老の偽書も。どれもこれもまやかしだ。等身大の人間から湧き出た影画に、みんな挙って踊らされてたのさ。恥も外聞もねえ。信じたいものを信じたのさ。みんな同じさ。連中はな、別にご大層な何かの為にお前らを助けたわけじゃないのさ、逃げるのに協力したわけじゃないのさ、世界組織なんて最初からなかったんだよ。もっと普通の人間の集まりだったのさ。助けた理由なんて、イイやつだから、嫌いなアイツよりは好きだから、日頃お世話になったから、お隣さんで挨拶をする仲だったから、仕事で関係があったから…もっと、もっと身近で、しょうもない理由だったのさ」

 

ふと、後頭部にあった銃口の圧迫感が消えた。かと思えば、金属が革に擦れる音がした。背後の女が銃をしまったようだ。

 

「金持ちにも貧乏人にも、ゲシュタポ野郎にもユダヤ人にも、普通があって日常があって、悲しいこともあれば嬉しいこともあったのさ。家族が居て、子供を腕に抱いてよ、お隣さんがいて、何気ない近頃の景気の話なんかをしてよお…そうやって、仕事に行って手前の分を熟してたのさ。その仕事の内容だってな、何も全員が金貸しでも、何も全員が殺戮者でも無かったのさ。高利貸しをする奴もいれば、人間を家畜みたいに貨物車に詰め込んでガス室に送り込む奴だって居ただろうさ。だが、それだけじゃなかったのさ。捕虜にパンを恵んでやる奴もいれば、ケチつけてブーツを奪う奴もいる、娘を犯す奴もいれば、乱暴を率先して止めた奴もいたのさ。ナチスの幹部連中だって、手前のお気に入りのユダヤ人を逃がすことだってあったんだ。思想もクソもねえ。結局、個人様のご都合次第でいいように捻じ曲げられちまう道具に過ぎないんだよ」

 

武器を構えた兵士たちが近づいて来た。包囲の輪を狭めるように。

 

「だからよ、お前らが信じてきた民族共同体なんざ、民族の守護者なんざ、とんでもねえペテンに過ぎなかったのさ。お前らが必死こいてやってきた全てはな、ユダヤ人とも、ロシア人とも、アメリカ人とも、黄色人種(イエロー)とも、何一つ大差のないことなのさ。そこには人間しかいねえ。勿論、優れた人間は古今東西いるもんさ」

 

言い終わるや、視界が暗黒に飲まれた。黒く染められた麻袋が老人の頭に被せられたのだ。

 

「ただ…手前はそうじゃなかったんだよ。クソナチスの中でも一人前のクソ野郎である手前にとっちゃあ今更の話かも知れねえがな」

 

その言葉を最後に、最早何も聞こえなくなった。何も見えなくなった。腕に薬液が注入されて意識を喪失した老人は、何処かへと運ばれていった。

 

「姐御、終わったぜ」

 

「ご苦労、レヴィ。同志諸君!…撤収だ。屋敷に火を掛けろ。痕跡を遺すな」

 

了解(ダー)

 

作戦に従事した全員が離脱したことを確認してから、焼傷顔(フライフェイス)が屋敷に火を放った。老人の家族は一族まとめて行方不明。資産は知らぬ間にスイスの違う口座に移し替えられ、不動産と動産は彼らの痕跡を残すものは徹底的に破壊され、それ以外はブラックマーケットへと放流された。屋敷は朝日が昇る頃には完全に焼失していた。老人の帰る場所は無くなってしまったのだ。

 

だが心配はいらない。何故ならば、老人がこの家に帰ることは二度と無いのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《ブリュンヒルデに導かれし十二名の騎士》と言う絵画がある。ナチスドイツお抱えの画家が描いた古典的な物語画だ。はっきり言って象徴主義や表現主義、シュルレアリスムの台頭により既にいくつもの変革を経験したあとの個人性が…尊重されたかはさておき…持て囃された画壇においては、このような伝統的な物語画は傑作と呼べる代物ではなかった。

 

案の定、個性も何も感じられない面白みのない絵画で、だが、だからこそ全体主義的なナチスのイデオロギーとの相性は良かったのだろう。アカデミーという権威に統制された時代の花形だった型にはまった絵画が、よりにもよって20世紀に賞賛された政治的な背景は、ナチスと言う独裁政権の盛衰をみれば明らかである。

 

とはいえ、だ。伝統的物語画がもてはやされた時代においても、さほどの絶賛が期待できる構図でもなし、はたまた鮮烈な描写でも無し。所詮は、芸術を知らない人間が知ったかぶって持て囃す作品に過ぎなかった。権威を着飾るには相応しい、如何にも厳格な絵画らしい絵画と言えばいいのだろうか。

 

さて、絵画の批評はさておき、理由もさておきこの絵を欲しがる人間がいた。マドリードの古物商からの依頼が、ラグーン商会に入ってきたことで、この絵画の物語は50数年の年月を経て再び動き出した。

 

絵画の在り処は公海上の海底だった。着底したドイツ海軍のUボートの中で、SS将校の腕に抱かれて眠っているらしかった。「ウンザーマリン」と「旗を高く掲げよ」の二重奏を聴きたいとは思えなかった。聴くにしたって前者に限る。何が悲しくてアホのナチスの鎮魂歌に耳を傾けねばならぬのか。

 

辛気臭いネタだったが、経費別で5万ドルのボロい仕事だとダッチは言っていた。楽観的なのも無理はなかったが、結論から言って出来レースの茶番劇に踊らされることになった。

 

ラグーンに仕事を依頼した古物商は、同時にネオナチの武装集団にも絵画の回収を依頼していたのだ。最悪のドッキングが余人のあずかり知らぬところで予想された。

 

そして、案の定ラグーンとネオナチは鉢合わせてしまい、絵画を巡って殺し合いを展開した。一度はネオナチに絵画を奪われたものの、浮かれて油断したネオナチの調査船に夜襲を仕掛けて奪い返したラグーンの勝利に終わったかに見えた。

 

だが、この茶番劇を仕組んだ黒幕…元SS将校でナチス幹部のアルフレードからのネタ晴らしを通じて、この茶番の勝者が、端からこの辛辣な老人一人きりだったことを、勝ち残ったラグーンの面々は知る事になったのだ。

 

ナチス関係者の互助組織の集合体ODESSAの創始者にして、アーリア民族の守護者を自認する老人が欲したのは絵画そのものではなく、その絵画の中に隠された思想に共鳴した同志たちの口座ファイルだった。民族を守護するための活動資金として隠されたそれは、いわば青春と熱意の結晶のような…年季の入った思い出のトロフィーと呼んで差し支えの無いものだった。

 

マドリードの古物商こと、アルフレードの画策は成功した。損などなく、そもそも資産形成に成功した現代の経済的な勝者であるこの老人にとって、Uボートの中に眠っていた絵画など、郷愁を呼び起こす思い出の産物でしかなく、必要不可欠なものですらなかった。見つけたから取り戻しただけ、とアルフレードは言った。確かにそうなのだろう。

 

命懸けの茶番に付き合わされたことに腹を立てることがあっても、腹いせに絵画を破棄したところでラグーンが、ダッチが手に入れることのできるものは何もなかった。寧ろ、仕事を放棄したという悪評が流れるだろう。それは信頼を旨とするアウトローにとって致命的だった。初めから選択肢など与えられていなかったのだ。

 

癪だったが、それでも絵画を受け渡すところまでが仕事だ。そう、割り切って、5万ドルと経費と引き換えにカビの生えた絵画をアルフレードに送って、そこでこの物語は終了…

 

…のはずだった。

 

だが、現実は誰にとってか非情である。

 

物語は思わぬ形で、周囲を巻き込んで延長戦に繋がることになったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全ては個人的な話だった。ただの趣味に過ぎなかった。自慰の道具に他ならず、陳腐な理由だったのだ。

 

それは権威をレイプしたいという、歪んだ欲望の発露だった。

 

レイジの最近の趣味が、偶然にも勲章や軍服の蒐集だったという…ただそれだけの理由だった。

 

それはパリ観光を楽しむヒトラーにも近い何かだったかもしれないが、根本的には全く違うものだった。そこにあったのは芸術への愛などではなく、寧ろ勲章に被せた権威への憎悪からくるものだった。それは壮大な自慰に置き換えることができた。ナチスに限らず、権威への、イデオロギーへの、その欺瞞への憎悪故に、彼は勲章と軍服を蒐集し、それを自ら着るのではなく、飾るでもなく、性の玩具として消費したのだ。

 

買い集めるだけだった骨董品を身に着けて使うことを言い出したのはレヴィだった。

 

「ずっと見つめてるけどよ…それ、そいつを着たあたしを、抱いてみてえか?」

 

「物は試しだ。やってみようぜ」

 

「…案外、スッキリするかもしれねえだろ?」

 

そんな一言で始まった退廃的なブームは、レヴィに始まり、エダとロザリタへと広がり、シェンホアも続き、遂には本業の軍人だったソーフィヤにまで辿り着いた。

 

彼女らは、本物の軍服に袖を通し、買い集めたメダルや略綬をぶら下げて、縫い付けて、嬉々として彼とまぐわった。市場に出回る特に稀少な勲章を、片っ端から買い集めては貢ぐことを繰り返して、山ほど集めて消費したが、それでも追いつかないほどに彼らはこの淫靡で退廃的な行為に熱中した。

 

高位の勲章ほど、貴重な勲章ほど、使い捨てる時の快感は大きかった。階級章も、略綬もそうだ。一度切りのセックスの為だけに、使い切りのスキンと同じように使い捨ててやったのだ。ボタンが千切れることも厭わずに、胸もとを力任せにこじ開けて、せっかく縫い付けた勲章を剥ぎ取って床に投げ捨てた。興奮が終わる頃には、糸が解れて、千切れたボタンが転がった。体液まみれの軍服を炉にくべて燃やしてしまうまでがセックスだった。放り捨てた勲章も、全部まとめてハンマーで粉々にしてしまうのだ。金銀で出来ていようが、エナメルや七宝だろうが、人工ダイヤが嵌め込まれていようが、宝石も貴金属も関係なかった。一緒くたに粉々に変えて、ゴミに堕として、炉で溶かしてわざわざ無価値な鉄屑に換えてから不潔な路端に捨てさせた。持ち主の兵隊手帳や受勲の証書も忘れずに火にくべて灰に換えてしまえば、ああ、ようやくひと心地がつく頃だ。

 

滅茶苦茶になったベッドに潜り込むと、彼は毛布を被って泣き喚く。涙が上手く流れないので、荒い息と嗚咽ばかりが漏れた。

 

そんな不安定な彼を、彼女たちは愛おしそうに抱きしめた。毛布の上から抱きしめて、何も言わずにじっとしておく。そうしておけば、肌恋しくなった彼の方から毛布の中に彼女たちを招いてくれたから。

 

泣く男を、強い女が慰めた。飽きもせず、倦みもせずに。穏やかで甘い時間だけがゆっくりと過ぎていく様は、過激で退廃的な行為の裏返しのように静寂で満たされていた。

 

裸の男と女が、そうやって幾度もの夜を明かした。

 

「また、あの夜を味わいたいな」

 

彼らの狂乱の宴によって、市場から消えつつあった希少な高位勲章と軍服の品ぞろえを眺めながら、ぼんやりと彼がそんな趣旨の言葉を呟いた。その一言が、《ブリュンヒルデに導かれし十二名の騎士》という絵画と、それを手に入れたアルフレードの運命を破滅へと導くことになったのだ。

 

嗚呼、哀れなアルフレード。彼は文字通り、根こそぎ毟り取られてから、しわがれた裸を不潔な路肩に晒して野垂れ死ぬ羽目になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルフレードの運命が破滅へと向かう少し前のこと。

 

レヴィとロックはUボートの中へとブリュンヒルデを探しに乗り込んでいた。魚のように滑らかに水中を泳ぐレヴィの姿に、改めて自己との身体的なスペックの差を感じずにはいられなかったロックだが、ダッチからの指示で潜水夫に抜擢された時こそ不満たらたらだったものの、Uボートに乗り込んでみればそれは単なる不満から後悔へと変わった。

 

「れ、レヴィ!骸骨が!骨ッ!?頭の骨だ!」

 

浸水に気を付けつつ入り込んだ潜水艦の中には淀んだ空気が充満していた。浸水と同時に濁流に押し流されて腰をついたロックがふと手に取ったものが、死人の頭蓋骨だったのだ。

 

「あたしら生者はお呼びじゃないのさ。ここじゃ…死者のが多いんだよ。死んだ兵士は良い兵士だって、よく言うだろ?心配しなくても連中は噛みつきゃしないよ」

 

「…やけに落ち着いてるね、レヴィ」

 

「肉も血もねえんだ。腐りきって鼻が曲がる臭いもしねえ。黴臭いくらい屁でもないね。ロック、お前も生っぽい死体よりは気が楽だろ?」

 

気負う素振りもなく、平然と物色を始めたレヴィの後に続きながら、ロックもまた狭い潜水艦の通路をライトで照らしながら進んでいった。二人の足音だけが響くが、それ以外には何も聞こえなかった。不気味な静寂が、ここには物言えぬ死者のみが存在することを訴えていた。

 

「ロック、さっさと盗るもん盗ってここを出ようぜ」

 

「盗るもんって…僕たちは仕事で来てるんだし、それに持ち帰る絵の持ち主は誰でもないんだろ?」

 

「どうでもいいよ持ち主なんざ。絵なんざ、高い値を付ければ価値を知らねえ勘違いバカが買うんだよ。一番高い金を払う奴が持ち主さ。何時だってな。そいつが価値を決めるのさ」

 

芸術に物言うレヴィは、やはり教養人には見えない。話し方と話している内容がちぐはぐで、ロックの脳が混乱した。何時ものことだ。こういう時は決まってあの日のことを思い出すのだ。イエローフラッグで大立ち回りをした時の、あのレヴィの冷たい顔が脳裏を過るのだ。

 

「イヤな話だ…」

 

「そう言うもんさ…っと、コイツだな。見ろ、一人だけ制服が違う。コイツは確かSDのだったな…ほら、腕のとこにSDの文字がある。絵はここにあるはずだ」

 

無理矢理絞り出しようなロックの声に気を留めず、レヴィがライトで照らしだしたのは背中を預けて死んだ一つの死体だった。確かに、色合いも他の船員とは異なった。直ぐ近くには白い制帽も落ちていた。弾が後頭部に抜けて血に汚れていた。

 

「レヴィ、これが艦長じゃないかな?」

 

ロックが艦長のものと思わしき帽子を手に取った。酷く傷んで埃を被っていた。沈痛な面持ちのロックに対して、レヴィは平素と変わらない表情で物色を続けていた。見返るのも一瞬だ。

 

「うん?ああ、みてえだな…アーべは騎士鉄十字章の受勲者だ。どっかにソイツが落ちてるはずなんだが…お?コイツは、ゲシュタポ野郎の帽子か」

 

「……」

 

レヴィの声音は愉し気にさえ聞こえた。ロックは眉をひそめて、居心地の悪さを感じていた。まるで死者の骸骨に睨まれているような気分だった。

 

「チッ…やっぱりな、流石にコイツは無理だ。使えそうにねえ」

 

足元で埃を被っていた帽子を拾い上げたレヴィが残念そうに言った。革が傷んでいて、修繕しても使えそうになかったのだ。彼女は無造作に髑髏マークの制帽をベッドの上に放り捨てた。

 

「使うって…まさか、この人たちの身包みでも剥ぐつもりだったのか?」

 

使うと言う言葉に驚いたロックはぎょっとして言うが、レヴィはきょとんとした顔で振り返ると悪びれもせずに言った。

 

「まあな」

 

「レヴィ…その、そう言うのは…」

 

「その話はあとでな。先ずは絵を見つけよう。給料分の仕事を済ませてからだ」

 

ロックを邪険にしているわけではない。ただ、どこかでズレを感じた。レヴィにそんな風に言われては仕方がない。ロックは不承不承屈んで、自身も周囲を物色してブリュンヒルデを探し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

探し始めてすぐに絵画は見つかった。ロックの御手柄だった。

 

「お手柄だぜロック。それに…おお、コイツは使えるぜ。Sold Buch(兵隊手帳)だ」

 

レヴィはロックの肩を労うように叩きつつ、拾った手帳を防水の袋に仕舞い込んだ。戦利品を入れるための袋だったらしい。

 

「なあ、レヴィ…少し調べてみてわかったんだけど、彼らは同士討ちをしたみたいだね…」

 

話題を変えたくて、ロックがそう言いだすと、レヴィは素直に応じた。

 

「おう、みてえだな。だが、死ぬことが決まってる人間が自殺以外で殺し合うってのもおかしな話だ。ましてや潜水艦の乗組員同士ってことは考えにくい…先に抜いたのはそっちの野郎で決まりだな」

 

「じゃあ、このSS隊員が原因でこんなことに?」

 

少なく見積もっても三人は死んでいる。狭い通路だ、銃弾を避けることもできないデスゲームは悲惨な結末にしかならなかったのだろう。

 

「十中八九そうだろうな…SSってのはドイツ人の中でも飛び切りのイカレ野郎共の寄り合い所帯だったのさ。質の悪いインテリの成れの果てだよ、ロック」

 

「艦長の敵討ちで撃ちあったのか…同じドイツ人同士」

 

ドイツ人同士、だからなんだというのか。レヴィはニヤッと笑った。

 

「殺し合いに人種は関係ねえよ。日本人は日本人を殺さねえのか?」

 

「いや…確かにそうだ」

 

「…さっさと絵を梱包しな。あたしは駄賃を漁って来る」

 

「駄賃って…」

 

「艦長は百人といないダイヤモンド付きの柏葉剣付騎士鉄十字章の受賞者の一人だったんだ。オークションでも中々お目にゃかかれねえ…ここで朽ちさせるにはちと惜しいもんだろ?」

 

「あ、ちょっと!」

 

「そこでブリュンヒルデの鑑賞でもしてな、どうせすぐに送っちまうんだ」

 

そう言うとレヴィはさっさと船室に物色に行ってしまった。船室が部屋ごとにレヴィのライトで照らされる光がチカチカと通路に漏れた。

 

「はぁ…」

 

絵画を見つけた部屋でベッドに腰かけたロックは溜息を吐いた。盗掘の如き振る舞いにうんざりしつつも、大人しくレヴィの帰りを待つことにしたのだ。

 

「うッ!?……そんな目で見るなよ…」

 

ふと顔を上げて後悔した。真向かいのしゃれこうべが空っぽの黒い眼窩で見つめていたからだ。

 

「……別に、俺だっていいことだとは思ってないよ」

 

ロックは指をさしながら名も知らぬ誰かへと言い訳じみた、そんなことを独り言ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大漁大漁♪お目当ての十字章から、マニア垂涎の小物まで。黴臭い海底の墓場まで来た甲斐があるってもんだぜ…ん?ロック、どうしたんだよ辛気臭いツラしやがって」

 

暫く時間を置いて、レヴィが戻ってきた。その手には大きく膨らんだ防水袋が握られていた。ロックは、後ろめたい思いを、これ以上我慢できそうになかった。

 

「なあレヴィ…それはここに置いて行かないか?」

 

「…なんだよ、人のものを盗るなってのか?今更だぜおい…ならお前、その絵もここに置いて行けよ。でなけりゃ筋が通らねえだろ?お前の好きな筋ってもんがよ」

 

レヴィから、予想通りの反応を返されたロックは訥々と言葉を重ねた。

 

「いや、違うんだ。ただ…その、僕たちにとってはただの勲章にしかみえなくても、ここで死んでしまった人たちにとっては、お金に換えられない思い出なんじゃないかな?ほら、この写真を見てくれ…艦長は家族を残してきたんだよ」

 

「……そうかい」

 

見せられた写真には妻と子供と共に写る艦長のアーベが微笑んでいた。妻の腕には生まれたばかりの子供が抱かれていた。この赤子が生きていれば、今頃は死んだ父親の享年を超えているだろう。

 

「レヴィ…こいつを見ても、君は何も感じないのか?」

 

「感じるさ。お前が感じてるもんとは違うかもしれねえが…感じるよ」

 

ロックの真剣な声に、レヴィの目がドロッとした暗いものに変わった。

 

「なあ、レヴィ、少し考えてみたんだが…その勲章を手に取ることが出来るのは、この写真に写っている艦長の家族だけなんじゃないかな…勲章はその人の積み重ねてきた、成し遂げてきたことの証だろう?形見でもあるわけだから…だから、それを受け継ぐ権利がある人にしか…」

 

「いい。もういいよ。わかったよ」

 

「…そんな簡単な話じゃないと思うけど………へ?」

 

レヴィを説得するのは骨が折れると考えていたロックは、余りにも聞き分けのいいレヴィの返答に気の抜けた声を上げた。

 

「だーかーら!置いていけばいいんだろ?」

 

「あ、ああ…うん。その通りだ」

 

ロックが頷いたのを確認してから、レヴィは無造作に袋をロックに押し付けた。

 

「ほらよ」

 

「え?なんで俺に渡すんだよ?」

 

「渡して来いよ」

 

「え?ええ!?」

 

困惑するロックを他所に、レヴィは通路の壁に背中を預けて煙草を咥えた。

 

「遺族にでも親戚にでも、探せば見つかんだろ。ベニーにでも頼めば何とかなると思うぜ。今じゃエニグマなんかよりうんと優秀なコンピューターだってあるんだしよ」

 

「その、レヴィ…俺が言いたかったのはそうじゃない。ここに置いていくべきじゃないかって話だよ。ここがアーべ艦長たちの墓所なんだから」

 

レヴィの言い分は確かにその通りだったが、いささか意地悪でもあった。要するに、ロックは理想的なベストよりも現実的なベターを選ぼうと言いたかったのだが…レヴィにはその、ビジネスマン的な論理も、倫理的・道徳的な正解も当てにはならなかった。

 

「死者に敬意を払うってのも、理解できる話だ。そいつに世話になったんなら尚更な」

 

煙を吐き出して、口の中を舌でなぞってから、レヴィがおもむろに口を開いた。平然としていて、怒りも悲しみも感じられない表情だ。レヴィは酷く、落ち着いていた。

 

「いや、世話になってはいないけど…そうじゃなくて」

 

「ロック、アンタ勲章はもらったことあるか?」

 

「え?いや、ないけど。それが何の関係があるんだよ?」

 

「こいつらは、何を成し遂げて勲章を貰ったんだ?」

 

レヴィが、ロックに問いかけたことは、またしても意地悪なものだった。何もレヴィはロックを打ち負かすことが目的などではなかったが、ただ、互いの論理の違いを明らかにしておきたかった。

 

「国や家族を守るために、戦ったんじゃないかな…それで功績を評価されて」

 

「人殺しだよ。ロック。こいつらは、人殺しで勲章を貰ったのさ」

 

「そんな言い方無いだろう…」

 

ロックは苦々し気に俯くが、レヴィは淡々と言葉を続けた。

 

「船を一隻沈めるたびに潜水艦を浮上させてたら、あっという間に沈められちまう。そもそも溺れてる敵の船員を入れるようなスペースはねえ。この中を歩いたんだからわかるだろ?」

 

「ああ、わかるけど…」

 

「いいか、ロック。勘違いするなよ?あたしはな、何もこの勲章を金に換える気なんざないんだよ」

 

レヴィの言葉に、ロックは顔を上げた。あからさまに驚いた表情だ。

 

「え?じゃ、じゃあ何のために集めたんだよ?まさか、勲章の蒐集が趣味だなんていわないよな?」

 

痛ましい苦笑が見えたが、レヴィの心と思考は小動もしなかった。

 

「レイジの奴がハマっててな。最近、アイツはコレに凝ってるんだ」

 

顔の横でチャリチャリとアーベの騎士鉄十字勲章を揺らしながら、にっこりと挑戦的な微笑みでレヴィが言った。

 

「そ、そんな理由で!?」

 

詰め寄るような勢いで、明らかに驚愕と不愉快を感じたロックが腰を上げた。だが、レヴィもまた背筋を伸ばしてロックの目を真正面から見つめ返した。瞳は凪ぎ、澄んでいた。ここで一つ、レヴィは核心をつくような問いかけをロックに与えた。

 

「なら、どんな理由なら好いんだ?どんな理由なら、()()()()、納得できるんだ?」

 

「……」

 

ロックは答えられなかった。そのことに、レヴィは意外性を感じなかった。優越感も感じなかった。

 

「人を喜ばせたり、幸せにしたり、救うってのは悪いコトか?それとも良いコトか?アンタにとってどっちだ?」

 

「それは良いコトだ」

 

選択肢に対して、ロックは素直に答えた。とても答えやすい問いだったからだ。これまでの人生で何度も繰り返し答えてきた問いだったからだ。常に答えが同じ問いだったからだ。それは殆ど反射だった。

 

「そうか、じゃあ次だ。生きてる奴と死んでる奴。大事にするならどっちだ?どっちが正しいんだ?どっちが間違ってるんだ?アンタの中じゃどっちなんだ?」

 

「生きてる方が大事に決まってる…」

 

ロックも、薄々自分の欺瞞とも傲慢とも呼ぶべき論理を無視できなくなっていた。浮き彫りにされたそれは、不気味で生臭かった。怖気を抱いていた。レヴィに対しても、自分に対しても。

 

「そうか、アンタの考えは理解したよ。そこで一つ聞きたいんだが、あたしがコイツを持って帰れば、生きているレイジが喜んで幸せになってくれてな、アイツの心を一時でも救ってやれるんだ。どうだ?アンタの許可を貰えるかな?頭を下げれば許してくれんのか?」

 

「なあ、レヴィ…君は、何を言っているのか理解してるのか?」

 

頭を下げると、あのレヴィが言っている。信じられないことだった。同時に、今更になってレイジも、そして目の前のレヴィも、自分とは全く違う人間だと言うことをロックは理解した。理解できないということを、理解したのだ。

 

ロックの困惑に対して、レヴィは初めて嘲る様な表情を浮かべた。それはロックと自身に向けたものだった。自戒の微笑に違いなかった。

 

「それはこっちの台詞だぜ?今のアンタ、日本人の悪い所が全部出てやがるぜ?実力行使を前提にしていない所為で、誰も話を聞いてくれない。ガンジーもキング牧師もリンカーンも銃で死んだんだ。常識も正論も理想も、銃が無ければ誰の耳にも届かないんだよ。アンタの振る舞いはまるっきりソレだ。相手は自分よりも頭が悪い遅れた人間だ。だから俺なら説き伏せられる。なぜなら俺の言ってることの方が正しいから…勝手に勘違いした挙句勝手に失望して、イスラムもキリストも最後は話を聞かない相手を片っ端からぶん殴って奴隷にしてここまで来てんだ。そのことを忘れて素晴らしき教え云々ほざいちゃいるが…ぶくぶく太った豚野郎が、手前が殴ったことだけ忘れて、殴られたことだけ覚えて喚きやがんのは、古今東西同じなんだよ…」

 

「悪い、その、レヴィ…」

 

耐え切れず、ロックの罪悪感と自己嫌悪が堰を切った。こういう時、ロックには謝る他に手段を知らなかった。が、レヴィはそんなことを望んでいないことも明らかだった。マウンティングなど、目的ではない。知らなかったことを知れ。知っていた方がいいことを知れ。現実の必要に駆られて、ただそれだけだった。

 

「気を付けなよロック。今のまんまで口を回すと、命が幾つあっても足りないよ?アンタが今まで生きていた場所じゃあ、コッチの世界のが幻想だっただろうけどさ。今のアンタの現実は、その幻想の方なんだよ。正義とか常識に照らして考えて喚いたが最後、後悔する頃にゃここでくたばった連中と一緒で海の底さ」

 

「……」

 

吸殻を足で踏み躙り、レヴィがゆっくりと煙を吐き出した。彼女の眼差しが真っ直ぐにロックを貫いた。

 

「勘違いするなよ、ロック?あたしは謝って欲しいわけじゃない。謝れってのは、良くも悪くも影響を受けたやつが言うことだ。だけどよ、アンタの言葉であたしのことを好きに動かせるって考えがそもそも間違ってんのさ。だから謝るんじゃねえよ。わかったな?」

 

「ああ…わかった」

 

「謝る必要なんてないのさ。ここは日本じゃねえ、それに…アンタは相棒だと思ってる。あたしよっか頭も気も回る。だからさ、これは寧ろ老婆心ってヤツさ。アンタがうっかり地雷原でタップダンスを踊っちまわないように、な?…長生きの秘訣、っと。まあ、そういうこった」

 

レヴィはそこで話をやめた。防水袋には絵だけを入れて、律儀に勲章も何も、持っていくことはなかった。結果だけを見ればロックの思い通りになった。レヴィはロックの言葉通りに行動を改めた。ロックの指示に従ったように見える。

 

だが、現実は違う。

 

レヴィにとって、口論をしてまで持ち帰るほどの価値が無かっただけだ。気分を害してまで持っていくほどの価値すら認められていなかっただけなのだ。それこそ、彼女にとっては使い捨ての避妊具とも大差のない代物なのだから。ロックは結果的に、レヴィが勲章に認めていた最後の価値さえも奪ってしまった。そのことを彼がその場で理解することはなかったが、彼の言葉は巡って勲章の価値を貶めたに過ぎなかった。

 

ロックとレヴィが語り合ってから間もなく、ネオナチが潜水艦に乗り込んできた。そこからの戦闘と、その後のネオナチの壊滅とアルフレードによる種明かしに至るまでの物語は、この場で論ずることを控えさせていただく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルフレードよ永遠なれ。音声データとして永遠なれ。

 

Panasonicのレコーダーに録音されたチープな断末魔だけが、アルフレードという一人の人間の人生に与えられた唯一の価値となった。

 

ロシア人とアメリカ人とアカとユダヤと黄色人種の快楽と平穏の為の道具として。

 

バラライカとエダとロザリタとレイジとレヴィとシェンホアの快楽と平穏の為の道具として。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナチスが1番憎んだ相手から、その人生を賭けて築き上げてきたものを奪われてしまったのだ。軍服も、勲章も、資産も、社会的地位も、家族も…その全てを根こそぎ奪われた挙句、その命と尊厳まで、自分が軽蔑してきた相手の快楽のためだけに消費される運命が待っていた。雑魚で敗北者の劣等種なゴミ雄として詰られ、ダメダメなヒモ男なんかと徹底的に比較されて、否定されて、生まれてきた意味も何もかもを便所の痰カスと同等に吐き捨てられてしまう…嗚呼、アルフレードのなんと哀れなことだろう。ざまあみろ。

 

「とはいえ、高齢だろうが、篤志家だろうが関係ない。そんなものは犬が食らい尽くしてしまった。救った数より奪った数だ。悪に正義の鉄槌が下されることはあり得ない。そんな非現実的な幻想は唾棄するに限る。成すべきは、不幸になるべき不愉快な人間を自分の主人の願い通りに不幸にすることだけだ。絶望に溺れて無様に死ね。悲劇など与えない。ありふれた統計上の1に還元してやる。根こそぎ奪ってから殺し尽くしてやる。お前の歴史も、時間も思い出も焼却炉の高い煙突から吐き出される黒煙に換えてやる。お前が、他の誰かにしたように」

 

「これは因果応報ではない。これは正義ではない。これは、彼を不愉快にしてしまったことに対する罰だ。彼の気分を害した罰だ。お前たちが、そのくだらない理由で命を足蹴にしたのと同じなのだよ。私は、お前に合わせてやってる。お前の選んだ死にざまだ。高潔な死は高すぎる。貴様の低俗な人生が顧みられることは許されない。回顧されることなき、無数の1として、呆気なく、指先一つでくたばってしまえ。その時ようやく初めて私の大切な彼の溜飲も下がると言うものだ。彼が不機嫌だと私も不機嫌になる。それだけの話なのだ」

 

「単純だろう?小難しいイデオロギーは魂を腐らせる。理性の過信は人間を惨劇に導く。どちらもお前たちのことを言っている。だから、貴様の吐く息は酷く臭うのだ」

 

「お前を殺す理由を教えてやる。息がクサい。それだけよ」

 

バラライカはそう言って引き金を引いた。パンと乾いた発砲音がして、アルフレードだったものがロアナプラの寂れた街角で転がった。干乾びた老人の死体はそのままだ。特に暴行も何も加えていない。攫ってきて、個室で小一時間、罵倒しただけだ。それから一発だけ弾を撃ち込んでお終いだった。なんてことの無い作業だった。レコーダーからの音を確認してから、バラライカは戦利品を部下から受け取った。今日は運がいい。なんといっても自分の番だったからだ。

 

仕事を終えた彼女はボリスに後を任せると、安全運転でロアナプラ一番地一号に向けて車を走らせた。入念に消毒させた親衛隊の軍服に袖を通すと、胸が突っ張って苦しかった。式典ですら履いた覚えのない黒革の長靴を履いて、髪を後ろに流して革製の顎紐まで磨いた制帽を頭にのせた。アルフレードの持っていた制服と勲章類は今日で使い切りだ。惜しみもせずにメダルバーと喉元に吊り下げると、丁度彼の家の前に車が止まった。

 

「似合わんな」

 

自嘲気味に苦笑してから降車した。三軒隣までバラライカの所有物件だから誰に視られることも無い。

 

合鍵でドアを開ける寸前で扉が開くと、メイドに招かれてバラライカは彼の待つ寝室に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルフレードの人生は、バラライカが彼と少しでも気持ちいいセックスをする為だけの隠し味としてたったの一度切り、消費される為だけに、その人生を燃やし尽くされてしまったのだ。

 

ナチスの生き字引にして歴史に名を遺すスーパーエリートの人生を踏みつけにして、唾を吐きかけて、筆舌に尽くし難い優越感に浸りながら、愛する女のナカに生臭いエゴを吐き出す快楽も、余韻を残していつかは消えゆく。焼傷だらけの、引き締まって出るとこの出た、熟れ盛りの肉体に必死にしがみついて腰を振る。温もりと柔らかいに閉じ込められて、香水では誤魔化しの効かない、女の匂いに知性を踏み荒らされながら、あの凶相の影も形もない柔和な微笑みで、在らん限りの母性をドクドクと注ぎ込まれてしまった。傷ついた肌には似つかわしくない、しっとりと吸い付くような肌理細やかな感触と、消えない傷痕のカサついていて少し突っ張ったような感触が、幻想と現実の間を行ったり来たりするような心地にする。噛み付けば、薄皮が破れて血が出るだろう。

 

だから、優しく舌を這わせた。

 

ベッド脇のテーブルに置かれたレコーダーから、バラライカがアルフレードを詰る声が響く。腹の底からアルフレードを見下げ果てた声だ。徹底的に扱き下ろすことに躊躇などなかった。何処までも尊厳を足蹴にして、豊富な語彙で笑えてくるほど下品な罵声を浴びせかけ続ける。それは現実に起きたことだ。現実の彼女だった。

 

そして、貴方にとっての現実は、優しい手付きで、恐る恐る、でもしっかりと手の平の柔らかさと温かさが伝わる力で自分の頭を撫で続ける彼女。どちらも彼女だ。知っている。それでも不安になる。チラリと覗いた気で見上げれば、蕩けた青い瞳が貴方を見守っていた。

 

残念ながらアルフレードはスパイスにすらなれなかったのだ。

 

初めからそうだった。考えてみれば簡単で、互いで完結された世界を持っているのだから当然だった。入り込む隙間など無かったのだから。

 

彼女の顔は可愛らしかった。今にも溢れそうなほどに涙を目一杯に溜めながら、笑えばいいのか泣けばいいのかわからない歪な顔で。それは歓喜であり、受け止めきれない幸福を処理しきれない人間の顔だ。幸せ過ぎると、胸が詰まって苦しくなる。いっそ辛くなるほどに。笑いたいのに泣きたいのに、どっちも上手くできなくなる。勿体なくて、切なくて。やっぱり、そんな可愛い顔もできるんだね。一度、別れた時もそうだったね。そう言う顔に、弱いのだ。何をしていたのかも忘れて、大事なものを逃さないように胸に閉じ込めようとする彼女の束縛も振り払って、両手で顔を押さえて、鼻先を突っ込むみたいにキスをした。

 

途端に、堰を切って涙が伝う。目が一瞬見開かれて、直ぐに眠りに落ちるように半目になって、遂には閉じてしまう。腰から背中へ、背中から肩へ、肩から首へ、首から頭へ彼女の両手が這って、もう逃さないとがっちり捕まえてしまった。互いに頬も額も、時には耳も擦り合わせながら、味わうように唇と舌が這いずった。彼は耳が弱点だ。そんなことはお見通しだが、彼女も今は唇に夢中だった。この魅惑の肉が、彼女を狂わせた。

 

思えば、上品な味がするようになったものだ。吐瀉物と酒と彼の血の味だったはずだ。唇も舌も噛み切ってやったのに、それでも口の中を蹂躙する舌を止めることはできなかった。初めて負けて、それからずぅっと負け続けている。だが、それでいい。彼の前でだけは、誰も彼も、弱いまま。弱いままで息ができる。赦してもらえる。だから、そのままでいい。彼がそうしてくれたように、貴方の弱い部分は全部私が守るから。私たちが補うから。私たちが赦すから。どうかこれからも無様で惨めで弱いままでいて。

 

弱い私を赦してね。弱い私を愛してね。それだけが…それだけなの。私は、それだけで、満たされてしまうの。一度知れば、その味を知れば最後。二度と戻れない。二度と抜け出せない。逃げ出したいとも思わない。戻りたいだなんて思えない。だから、ずっと一緒よ。私が貴方のお母さんになってあげる。お姉さんになってあげる。貴方を守ってあげる。貴方の願いを叶えてあげる。どんな願いも叶えてあげる。だから、ずっとずっと一緒よ。私の可愛い可愛いひと。私だけのおちびさん(クローシカ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あのバラライカを組み敷いて、彼は彼女と獣のように交わった。火事場の馬鹿力なのか、それとも権威への憎悪が為せる業なのか、四度、五度と回を重ねて冷静を取り戻した時には、ボタンは全て弾き飛ばされて、中に着こんでいたシャツも乱雑に開かれていた。視線が喉元から下がると、首筋を撫でて、デコルテを噛んで、胸元を舐めるように伝い、引き締まりつつも柔らかい腹を辿り臍に行きついた。白いベッドに流れるように広がる鮮烈な金髪が眩しく、真っ白い肌が幻想的だったが、白いカラダに走る稲妻のような焼傷痕が、激しい痛みと熱を彼の脳裏に刷り込んだ。過酷なイメージが朦朧とした意識の中で立ち込めて、途端に現実が二人の夜を襲った。

 

「ソーフィヤ!助けてくれ!死にたくない!痛いのは嫌なんだ!どこにも行かないでくれ!」

 

彼が喉奥で水に溺れたように呻いた。絶叫は濡れていた。

 

権威への憎悪は、裏を返せば権威に守られたいと言う切なる願いでもあった。だが、権威に守られることは権威に屈することだ。それは出来なかった。権威に屈することなど耐えられなかった。

 

「大丈夫。大丈夫なのよ。坊や、私の坊や。ほぉらお目目を開けてご覧なさいな、私はここよ。可哀そうなおちびさん(クローシカ)。こんなに怯えてしまって。可愛いお顔が水浸しね」

 

狂ったように喚きだした彼の狂態を見ても、ソーフィヤに動じた様子はない。寧ろ、彼女は彼の弱さにより切実に母性を駆り立てられていた。何かを愛した経験が浅い余りに、一度覚えた愛情の注ぎ方に固執しているのかもしれない。いずれにせよ、彼女は過剰なまでに彼の全てが愛らしいものに見えて仕方が無かった。

 

「ソーフィヤ!手を握っておくれ!離さないでくれ!何処かに行ってしまいそうなんだ!嗚呼!僕を連れて行かないで!お願いだ!」

 

「ほら何処にもいかないわ。私はここよ。ずっと一緒よ。ずっと傍に居るわ」

 

そっと壊れ物を扱うような、けれど捕まえてしまって強く縛り付けたい欲望との葛藤が滲む、絶妙な力で二人の手は繋がっていた。手を彼の好きにさせてやり、空いている方の腕ですっぽりと彼を呑み込んでしまう。半身を使ってじわじわと締め上げるように、年頃に熟れ始めた柔らかい肉に沈めるように抱きしめた。

 

「……ソーフィ、ヤ…怖いよ…殺しに来るんだ、皆、僕のことを憎んでいるに違いないよ…どこにも行かないで…ずっと一緒にいて…抱きしめて…砕け散ってしまいそうなんだ…何処かへ、流されてしまいそうなんだ…」

 

彼は震えながら、頭を抱えて、目を覆った。ソーフィヤの手を伝い、腕を伝い、胸の谷間に顔を押し付けた。やはり、そこが一番落ち着くらしい。

 

「ええ、ええ…わかっているわ。安心できるまで、ずっとくっついて居ましょうね…さあ、いらっしゃいな。可愛いお耳を、胸に当てて…心音が聞こえるでしょう?」

 

息が落ち着いて来たのを確かめるように、彼女もまた彼の熱い吐息に合わせて深呼吸をした。シンクロさせて、少しでも一体感を感じるために。

 

「嗚呼…きこえるよ…でも、あ、ああああああああああ!嫌だ!怖いよ!僕に近づくな!ずっとずっと、遠くに行け!あっちに行けェッ!」

 

落ち着いたかと思えば、ふと見上げた瞬間に、目に入ったSSの襟章がダメだったみたいだ。ダイナマイトみたいに爆発してしまった。逃げようとする肉体と、立ち向かおうとする精神の葛藤が、意味を為さない絶叫と、ポロンポロンと音を奏でるように可憐な大粒の雫となって頬を伝った。シーツを被って、なのにそのシーツを破いてしまおうと七転八倒。頭を隠すように、ベッドの中に抉り込ませるように暴れまわる彼の姿は、正気のものではなかった。喉の奥から血を吐くような粘った嗚咽が漏れる。

 

「あははは…うふ…うふふ…怖がりのウサギさん(ザイチク)。悪い奴はもういないわ。ほぉら、もう脱いだわよ…大丈夫大丈夫。誰にも貴方を傷つけさせたりしない…だから、怖くないの。私の腕の中は、貴方だけの居場所だ。だから、何も怖くないぞ…そう、何も怖くないのよ…」

 

レイジの狂気を前にしたソーフィヤの反応は、彼の狂気を包容するが如き狂気だった。静かで穏やかで優しい狂気だった。するすると羽織るばかりの制服を脱ぐと、見せつけるように乱暴にベッドの下に投げ捨てた。抱きしめた彼の頬に自らの頬を寄せて、ベッドの下で落ちぶれた制服を勲章と制帽ごと踏み躙って見せた。

 

「ほら、大丈夫でしょう?貴方の敵は死んだのよ。噛みついたりしないのよ。私が殺したわ。ほらこうやって…だから私は貴方の敵じゃないわ。私が貴方を守ってあげるわ。私が貴方の欲しいものを何でも用意してあげるわ。怖いかしら?信じられないかしら?もしもそう思うなら…貴方の好きにしていいわ。貴方になら撃たれたって好いの。貴方になら殴られても好い。貴方になら刺されようが、踏まれようが、絶対にやり返したりしないわ。寧ろ、褒めてあげる。強い男の子だって褒めてあげるわ。だって、私に勝てる男の子だなんて、それこそ貴方以外は世界中どこを探したところで見つからないんですもの…貴方が一番。だから、誰にも盗られる心配なんてしなくてもいいのよ…何度でも、不安になるたびに教えてあげる。何度でも、この可愛らしいお耳に囁いてあげるわ」

 

体液まみれになったアルフレードの制服を足蹴にして、憎悪を込めて踏みつけながらも正反対の愛情深さで彼をあやし続けていた。ソーフィヤに撫でられ、瞼に、耳に口付けられるたびに、荒い息や泣声が鎮まっていった。そうしてふとした瞬間に、唐突な鎮静と覚醒が起きた。ようやく、理性の欠片が正しい位置に嵌ったらしい。

 

「ああ…ソーフィヤ、か…なんだ、そうか…嫌だよ。君を殴るぐらいなら、君に殴られたい。君を撃つくらいなら、君に撃たれたい。君を刺すくらいなら、君に刺されたほうが幸せだ…ああ、でも痛いのも怖いのも面倒くさいのも嫌だ…眠ってるうちに殺してくれ…」

 

薄らぼやけた目が労しかった。理性が戻ると羞恥も戻るのだ。くしゃくしゃの顔が水浸しになった。今度は普通に泣き始めた。ソーフィヤは不満など微塵も感じていなかった、ただただ優しくて穏やかな気持ちだけが胸の内側を押し上げるように満たしていた。眠りこけた彼の顔を見守っていると、胸をつく切なさに涙が滲んだ。彼を抱いたまま、前のめりになって嗚咽を堪えた。顔が歪んで、歯を食いしばった。可哀そうなのに可愛くて辛かった。自分は悪い人間だと、ソーフィヤは自嘲した。でも、それが幸せだと感じて堪らなかった。彼を見るソーフィヤの目はいつまでも、どこまでも優しくて甘いものだった。

 

「お前のことを殺せるわけがないだろう…馬鹿者め……こんな女に眼をつけられて、全く気の毒な男だ…だが、ずっとこのままでいろ。弱いままでいろ。私に縋って生きていろ。離れないからな……ずっと、ずっと一緒だ」

 

陳腐な言葉だが、ソーフィヤはこのイカれた男のことが愛おしくて仕方ない。可愛くて仕方ない。狂気に呑まれている今を、寧ろ理性を失って甘えるしか能のない無垢で純粋な彼の姿だと歓迎してさえいる。美しい姿を目に焼き付けられる素晴らしい状況だと感じていた。共感できるものは同類だけだろう。エダなどは積極的に理解を示すだろう。

 

ガルシア・ラブレスの事件があって以来、彼は狂ってしまった。もともと狂っていたのに。前にも増して、今やこの有様だった。もう、本当に、一人では生きられなかった。彼女たちの助けが無ければ、最早日常生活もままならないことは明白だった。あはははははは…あはは…あは…なんて素敵な事だろう。レヴィも、エダも、ロザリタも、ソーフィヤも、シェンホアもだ。皆みんな、安堵した。彼が彼女たちを手に入れた時と一緒だった。もう逃がさないし、そもそも逃げられない。そんな状態に堕ちてしまった。可哀そうな可愛そうなレイジ。これはエダに言わせれば正しく主の再生の奇跡だった。レイジはあの日、一度死んで、より聖なる存在として生まれ変わったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドロドロのままソーフィヤの胸に抱かれて夜を明かしたレイジは、朝起きる頃には随分と落ち着いていた。自分の番の次の日は、全員が必ず休みを入れてある。お陰で朝食も一緒に摂る事が出来た。滅茶苦茶になった軍服や勲章は、無造作に洗濯のバスケットに詰め込まれていた。

 

「ロザ、焼け」

 

「畏まりました」

 

これも一つの変化だ。彼は時折、ゾッとするほど冷たい声を出すようになった。出せるようになった、と言うべきか。覇気と言うよりも、腹の底からせり上がる恐怖感を抱かせる声だった。色の無い声と言えばいいのか。そんな声で、主人に冷たく命じられることが、最近のロザリタの楽しみの一つになっていた。

 

「昨日はどうだった?あの爺のヤツを使ったんだろ?」

 

燃やす為だけにレヴィに強請って買ってもらった小さな焼却炉にバスケットを抱えてロザリタが向かって、食卓にはレヴィとソーフィヤだけが残った。ロザリタの料理が日進月歩で成長していたりもするが、軍服プレイの翌日は著しく彼の食欲が減退するので、今朝の彼のメニューは温かい卵のスープだけだった。スープもなくなる頃に、レヴィが問うた。何のことかは言うまでもない。

 

「……飽きた」

 

彼女たちが金をつぎ込んで散々勲章や軍服を搔き集めて貢いでくれていたことを、彼が知らないはずがない。ないのだが、その上でハッキリと彼は言った。心の底から、何と言うか、飽きたのだ。虚しくなったのだ。つまらなく感じるようになってしまったのだった。ブレーキとアクセルが完全に壊れてしまった彼にとって、一度走り出せば自然に止まるまで止めることなどできないし、一度止まってしまえば暫くは文字通り再起不能である。そんな躁鬱の鬱にめり込んだ彼の、生ぬるくダウナーな言葉に対するレヴィとソーフィヤの反応は劇的だった。

 

「アッハハハハハ!!おい姐御!聞いたかよ?『飽きた』だってよ!」

 

「ふっふっふ…あはは、あはははははは!!飽きた!なるほどな!飽きた、そうか、そうか…嗚呼、相変わらず、格の違いと言うものを見せつけてくれるわね…」

 

レヴィとソーフィヤは腹の底から笑い声をあげた。ツボに入ったのか、暫く笑いが止まらなかった。笑うレヴィの目尻には涙が浮かんでいた。ソーフィヤなど、ティーカップを持つ手が震えていた。

 

アルフレードの人生をプチっと潰してまで得た全てを、飽きたの一言で全否定して一蹴した男だ。アルフレードが死んでも尚、その全てを無価値に還元する最好の結論を導き出して、後味まで最高に無慈悲に仕上げてしまう男だ。きっと、次も過激で刺激的な結末を、悪党ですらあっと驚く最高の答えを選び取ってしまうに違いない。

 

レヴィもソーフィヤも、次が待ちきれないくらいに楽しみになった。やはり人生は楽しまなければ。これくらい張り合いが無いとつまらないというものだ。

 

「っふふふ…クククク…あぁ~ッ!ッ最ッ高だぜベイヴィ!てめえこの野郎!相変わらず、アンタといると退屈しねえよ…本当にさ、はぁー…あー…くくく」

 

レヴィが徐に立ち上がって彼の首に腕を回した、耳に吐息を流し込むほど近い。あの、光を食らい尽くすような黒々した瞳で彼の横顔を恍惚の表情で見つめていた。

 

「なあ、アンタはあたしのボスだ。あたしはアンタの忠実な犬だ。さあ教えてくれよ、次は何がしたいんだ?何が欲しいんだい?」

 

レヴィにとって、それは運命だった。定められた天命だ。神の意志だ。毎日毎日、カラダを密着させて祈ってるんだ。ご利益は見ての通り。麻薬にも負けない即効性で、麻薬よりも長く持続し、麻薬よりもハッピーになれて、麻薬なんか目じゃない依存性だ。危険すぎるが、気づいた時にはもう遅い。手放せないし、幸せ過ぎて、この現実が幸せ過ぎて、手放す気なんて未来永劫起きないのさ。

 

彼はその場では何も言わなかった。ただ、レヴィの息が耳にかかって擽ったそうに小さく笑った。レヴィもソーフィヤもその時は、その穏やかな表情だけで満足してしまった。その顔を見れば、何も言えなかった。自分なんかにゃ勿体ないくらい、彼の目が優しすぎたから。むずがゆくて、罪悪感まで感じてしまいそうだ。今となっては彼との間にしか成立しない、罪悪感という感覚に酔いしれてしまいそうだった。

 

「ご主人様、焼却が終わりました。ロザリタが塵も残さずに焼いて参りました。これでもう何の心配もございません」

 

少し煤けたロザリタが戻ってくると、彼はスープのお代わりを頼んだ。頬に色艶が戻ってきた主人の顔をまじまじと観察してから、ロザリタは嬉しそうに空の器を手にキッチンへと向かった。

 

レイジの家の庭先にある小さな焼却炉の長い煙突から、黒い煙がか細く伸びていた。煙は空に昇って筋を引き、風に吹かれてどこへともなく消えていった。

 

何時の日か、あの煤を含んだ雨も降るのだろうか。その時には、綺麗な雨粒が降るのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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