360.幕間 七日目の夜に 前編
「――では失礼します。また明日」
時刻は夕方から夜に代わる頃。
長かった魔人の腕開発実験。
それが無事終わり。
しかし、あまり感慨は湧かなかった。
喜びより何より、疲労が勝っていたから。
今回の実験では、一番の年長者になるロジーも。
今し方帰った、少々足元がふらついているように見えたクノン・グリオンも。
傍目にはあまり変わりはなさそうな、女の子二人も。
とにかく今は休みたい。
その気持ちで一致していた。
その証拠に――
「……ふう」
玄関先でクノンを見送ると、ロジーは深く溜息を吐いた。
やっと気が抜ける。
クノンの前では、最後まで頼れる先生でいたかったから。
実際は、もう立っているのもつらいくらいだ。
「……あ、まずい。立ったまま寝てた」
ふらついた拍子に目覚めたのか、シロト・ロクソンは右手で顔を覆う。
どうやら、少々意識を失っていたようだ。
凛々しい顔をして前を向いたまま。
「眠い……」
アイオンは、もう右目が開かないくらい疲弊しているようだ。
彼女らも、ロジーと同じだ。
――後輩のクノンの前だから、頼れる先輩として気を張っていただけだ。
最後の最後まで。
後輩に間の抜けた顔や態度は、見せたくなかったから。
もしくは――魔術師のライバルとして、だろうか。
あれは本当に逸材だ。
魔術学校二年目で。
あの歳であの実験に挑み。
足手まといにならずにいられたなんて。
きっとロジーよりも。
在校生であるシロトや、グレイ・ルーヴァの直弟子であるアイオンの方が、脅威を感じていることだろう。
うかうかしていたら追い抜かれるぞ、と。
……だが、今はいい。
「今日のところは、もう休もうか」
細かいことは明日だ。
レポートも、後片付けも。
実験に関する質問、疑問のすり合わせも。
完成した魔人の腕も。
明日、再びクノンがやってくる。
後のことはそれからでいい。
「お言葉に甘えます、先生」
「同じく」
シロトとアイオンは、貸している客間へと向かった。
「……私は、まだ、か」
ロジーはまだ、休めない。
「――終わったか、ロジー」
私室に戻ると、仮面を着けた男がくつろいでいた。
本を片手にソファーに座り、グラスに酒を注いで。
実に優雅な過ごし方だ。
使用人三号である。
「なんとかね。
もう歳だね。危うく足を引っ張りかけたよ」
と、ロジーは三号の前に座る。
「いい後進が育っているじゃないか。
あの実験に、在校生が二人参加したんだろう?
はっきり言って人選ミスだ。実力が足りない。
おまえとアイオンの負担は相当大きかったんじゃないか?」
彼の言う通りではある。
「現に何度か危険があっただろう。
おまえにしては抜かりが多い実験と言わざるを得ない」
「可愛い娘に頼まれたからね。断れないさ」
三号は鼻で笑った。
「俺は失敗すると思っていたぞ。
もしくは、誰かが死ぬか」
「はは、縁起でもないことを言わないでくれ」
「――その心配をしたから俺を呼んだんだろう?」
ロジーは応えず。
三号の前にあるグラスを取って、芳醇な琥珀色を胃に流し込む。
「おい」
「私の部屋にあった酒だろう? 文句があるかね?」
「……フン、まあいい。
無事に完成したんだな? グレイに報告するぞ?」
「頼むよ。できれば深夜に来るよう伝えてくれ。
私も限界だ、このまま少し仮眠を取る」
「わかった」
ロジーは目を閉じた。
胃の中で暴れる酒精が、少し心地よい。
そして、足音が遠ざかって行った。
日程で言うと。
今は、七日目の夜ということになるだろうか。
朝になったら八日目だ。
もう、意味のない日付になったが。
「――おう、ロジー。久しぶりじゃのう」
玄関の前で待っていたロジーの傍に。
いつの間にか。
黒い人影が立っていた。
「ご無沙汰しております、グレイ」
グレイ・ルーヴァだ。
そして――
「君はまた来たのか」
「ご挨拶だな、ロジー」
使用人三号――仮面を外した友人ノアダンティもいた。通称ノアだ。
黒に近い焦げ茶色の髪に、浅黒い肌。
遠い砂漠の民の特徴を持っている
二十から三十歳くらいの若々しい男に見えるが。
実際は、四十半ばの中年だ。
そして、彼もまた、グレイ・ルーヴァの直弟子の一人でもある。
アイオンとは面識がないが。
「君、三本開けただろう」
この男は、ロジーの部屋にストックしていた酒を三本も吞んでいた。
ロジーが地下にこもっている間に、だ。
「実に旨かった。おまえのおごりだと思えば尚更な」
悪びれもしない。
嫌な友人である。
「では今回の報酬はそれでいいね」
「おいおい、酒三本だけのタダ働きか? 俺は『重鏡』まで使ったんだぞ」
ノアは、特別な職業――昔の言い方をすれば、偉業を負う者だ。
勇者や聖女、呪詛師といったものと同じ、特別な魔術を持っている。
彼の偉業は、共鳴師。
固有魔術は「重鏡」。
別人に化ける幻魔術だ。
ただし、彼のそれには実体が伴うし、化ける人の特徴も持っている。
たとえば、別人となった者が魔術師だったら。
その別人の属性の魔術が使える。
――使用人一号は、化けたノアの姿だ。
ちなみに二号はちゃんといる。
ノアの弟子で、彼が共鳴師であることを知っているし、臨時採用助手という仕事をしているのも本当だ。
「酒の話か? 儂に酒の話をさせると長いぞ」
「あ、では、実験室にご案内しますね」
「……うむ」
グレイ・ルーヴァの声は、なんだかつまらなそうだった。
酒の話をしたかったのかもしれない。
いや。
彼女はとても忙しい人だ。
そんなわけないだろう。
異界に拘わる実験は、全てグレイ・ルーヴァに報告すること。
これは教師だけに伝えられる約束事だ。
生徒だけで異界に拘わる実験は、まずできない。
とかく全てに高い実力が求められる。
材料を集めるだけでも大変だ。
だから、知るのは教師だけでいい。
グレイ・ルーヴァには、レポートの提出などを求められる。
そして、もし何かしらの開発実験を行ったのなら。
開発した物を、直接確認しに来る。
世界一の魔女と言われる彼女でも、異界の解明はできていない。
だからこそ情報を求めているのだ。