345.灼熱の光輪は世界を歪ませる
侍女が持ってきた荷物を確認する。
着替え。
眼帯。
日用品にメモ用紙。
頼んだ通り、全部ある。
予備もあるようだ。
これなら、あと十日くらいは大丈夫だろう。
やはり食事の心配がないのは大きい。
ここに食料や水といったものまで入ると、荷物の量が大いに増えるから。
「ちょっと外すよ」
と、ロジーが魔法陣から離れた。
「着替えてくる。足のベルトも代えたいからね」
ズボンの下に貼っている、補助筋帯ベルトのことだろう。
数日は持つはずだが……。
まあ、それこそ、今後を考えて代えておきたいのかもしれない。
――丸一日以上空いたら、異界から大物がやってくる。
そんな話を聞いた直後だから。
「先生」
付いて行こうとしたシロトを、ロジーは手で制する。
「二人同時に離れるのは避けよう。上には使用人がいるから、手伝いもいらないよ」
「……わかりました」
そうして、ロジーは階段を上っていった。
主導のロジーがいなくなった。
どうしても緊張感が高まる。
「――ただいま」
まあ、すぐ戻って来たし、何もなかったが。
素早く着替えて戻ってきたロジーだが。
しかし、彼が戻ってきても。
常にない緊張感が満ちていた。
時間が経つにつれ、それは高まっていく。
「――お疲れ様です」
使用人一号が昼食を運んできた。
じりじりしながら過ごしていたが。
当然のように、時間は待ってくれない。
これで、もうすぐ丸一日だ。
前のネズミから、何も来ていない。
ロジーが言う限りでは、かなりまずい状態らしい。
そして、クノン以外の三人は、どれほどまずいかを知っている。
経験も知識もない。
ゆえにクノンはピンと来ないが。
あの頼もしいロジーでさえ、今、緊張している。
それが伝わってくる。
その事実には、クノンも身構えざるを得ない。
――しかし、何も来ない。
こうなると、何もないことがつらく……。
「あ、そうか……」
クノンは納得した。
この実験、何が一番大変かと言えば。
異界からの訪問者の対処ではない。
こうして身構えて待っている時間だ。
特に、丸一日以上間が空いた時。
つまり今の状態だ。
すぐに動けるよう身構えて、待ち続けること。
微塵も気が抜けない状態で。
これがいつまで続くのか、どこまで続くのか。
仮に今回を乗り切っても。
次がないとは限らない。
そんな約七日なのだ。
高ぶる神経に、精神が摩耗する。
果たして、いつまでこうして警戒していればいいのか――
いっそ来てほしい。
今すぐにでも。
しかし、大物が来るとなると、やはり対処が困難で、
「あ」
クノンは声を漏らした。
もしかしたら、他の人の声も揃っていたかもしれない。
それほどまでに。
自然に。
なんの前兆もなく。
それは、そこにあった。
気が付けば、そこに。
魔人の腕が育っている水槽の上。
何なら、四人が一番警戒している真正面。
そこに、いつの間にか、灼熱色の輪が浮かんでいた。
まるで水槽を守るかのように。
恐らくは、瞬きほどの一瞬で現れたのだ。
あまりにも前兆がなさすぎて、わからなかったが。
それは、大きくはない。
少々腹回りが太い男性の腰回りくらい、だろうか。
金属が焼けているような色合いだ。
輪を描く線も、それこそベルトくらいの厚みである。
「――まずい、『火法円環』だ!」
叫ぶようなロジーの声。
いつも冷静で穏やかな彼が、そんな声を上げるほどの存在。
それがあの輪っか――
「ぐうっ!?」
輪が伸びた。
それは一本のまっすぐな線となり。
それは槍のようで。
槍は、ロジーの干渉領域に、突き刺さろうとしていた。
――この魔法陣は、非常に高度な障壁を成している。
だから突き抜けることはない。
ない、が。
離れているロジーの姿が揺らめいたことで、
「まさか!」
何が起こっているか察した。
「クノン!」
シロトの声とほぼ同時に、クノンは「水球」でロジーを覆った。
じゅうううううううう
「水球」の端から蒸発する。
やはり温度だ。
物理的には通らないが、熱は通っている。
揺らめきは、蜃気楼だ。
クノンは蜃気楼を見たことがないが。
火の近くで、景色が歪む現象は見たことがある。
まあ、見えないが。
「クノン、そのまま維持して」
声を張り上げたのは、アイオンだ。
いつもの囁くような声ではなく。
覇気を感じさせる、凛々しい声だった。
それでも、声量は小さかったが。
「そのまま先生を守っていて。ターゲットを刺激しないように。
シロトは換気をお願い。
――それは私に任せて。ゆっくり殺すから」
アイオンの左目の呪紋が淡く輝く。
まあ、クノンには見えないが。