『魔族』
それは人間と似た姿を持ちながらも人間とは全く異なる価値観と生態を持つ魔物。かつて大魔法使いであるフランメは言葉を話す魔物を魔族と定義づけた。その祖先は人を誘き寄せるために物陰から「助けて」と言葉を発した魔物だと言われている。
人語を話しながらも人間を捕食する危険な人食い種族であり人類の大敵。
それを前にして人類もまた抗った。剣や魔法。人の持つ武器や叡智を以て対抗するも徐々に人類側は劣勢へと追い込まれていく。
『魔王』
その名が示すように魔族の王であり圧倒的な力を持つ存在。それに加え、腹心である『全知のシュラハト』さらに魔王直属の幹部『七崩賢』の強さは別格であり人類には為す術がなかった。
だがそんな絶望的な状況の中、一つの希望が現れる。
『勇者ヒンメル』
その二つ名の通り、勇者の称号を持つ一人の青年。彼によって長く続いた人間と魔族の戦争は終わりを告げることになる。彼だけではない。
人間でありヒンメルの幼馴染『僧侶ハイター』
ドワーフである『戦士アイゼン』
エルフである『魔法使いフリーレン』
後に伝説の勇者一行と呼ばれることになる四人の仲間たち。彼らによって魔王は討伐され、世界には再び平和が訪れた。人々は歓喜しその平和を謳歌した。理不尽に命を奪われることがない安息を。
だが時間は流れていく。人間にも、魔族にも。どんな生き物にとっても避けることができない、この世界で最も平等で、残酷で、優しいモノ。
変わらないものは存在しない。どんなに長い時間を生きることのできる生命でも。あるのはただそれを見送るものと、見送られるもの。その違いだけだった────
────勇者ヒンメルの死から二十八年後。北側諸国にて。
穏やかな空気の中にどこか厳かさを感じさせる街並み。それを示すように街中には至る所に教会が建てられている。ちょうど礼拝が終わったばかりなのか。そこから多くの人々が出てくる。老若男女。その全てが敬虔な信者であることを示すかのように皆同じ物を手にしていた。
それは天秤を模した装飾品。この世界で最も信仰されているのは女神であり、それを信仰する者たちは十字架をその心の拠り所としている。しかしこの街の教会にはそれらは見当たらない。それはすなわち、この街の住人たちが信仰しているのは女神ではないということ。
「本日もありがとうございました、リュグナー様。アウラ様にも宜しくお伝え下さい」
「分かりました。今後も変わらず、信仰を絶やさぬように。全てはアウラ様の天秤の下に」
深々と頭を下げる女性信者の言葉を受けながら、どこか慈愛を感じさせながら応じる男性司祭。司祭は堂に入った所作で祈りを捧げながら信者、住民たちを見送っていく。この世界においてはありふれた、なんのことはない光景。だがこの街の住民ではない者たちからすればそれはあり得ない、あってはならない光景だった。
それは角だった。司祭、リュグナーの頭から二本の角が生えている。司祭だけではない。この街の住民の半数以上が角をはじめとする人間ではありえない器官を有している。彼らが人間ではない、魔族であることの証拠。そう、この街、いや国だからこそ成り立っている奇跡。
魔族国家『フリージア』
それがこの国の名前。人間と魔族が共存する、『天秤のアウラ』が統治する唯一にして絶対の楽園だった────
「────宜しくお伝え下さい、か。人間風情がよく言ったものだ」
誰もいなくなった教会でつい本音が漏れてしまう。だが仕方ないだろう。あれだけ忌み嫌い、恐れていた魔族を今は崇め奉っているのだから。つくづく人間の愚かさには反吐が出る。
そのまま自らが纏っている法衣と手にしている教典に目が留まる。最初はその道化振りに辟易していたものだが今はそれすら感じない。いや、人間を欺くという自分たちの在り方からすれば当然といえば当然なのかもしれない。
(しかし、二十年か。こんなわずかな時間でこれだけの変化。やはり人間どもの時間の流れは我々とは大きく異なるということか)
思い出すのは二十年以上前。まだ国どころか街にも至らない信仰集団から始まったものが今や一大国家にならんとしている。数百年以上の寿命を持つ魔族からすれば瞬く間に過ぎない時間。だがそれは人間たちの魔族への恐怖や憎悪を忘れさせるには十分な時間だったらしい。もちろん時間だけではない。その洗脳、いや調教にこそ効果があったといえる。
(流石はアウラ様……ここまで先を見通されていたということか)
思い浮かべるのは自らの主にしてこの国における絶対の支配者であるお方。
『断頭台のアウラ』
かつての『七崩賢』の一人であり、勇者ヒンメルの死後力を取り戻した大魔族。勇者一行も時間の流れには抗えず、そのほとんどが表舞台から姿を消した今こそかつての雪辱を晴らす時。そう考え、風の便りで復活を耳にした自分はアウラ様の下に馳せ参じたのだが、その統治は自分の想像からはかけ離れた方法だった。
人間たちを殲滅するのではなく、支配する。
もちろん理屈としては分かる。その本質が猛獣である我々であっても人間を捕食する種族である以上、人間を根絶やしにしてしまっては意味がない。しかしその方法こそが我々魔族では考えつかない方法だった。
(平等……未だに理解はできないが、人間は本当にそんな不合理を求めているらしい)
改めて自らの手の中に収まっている教典に目を奪われる。
平等を与えること。
それがアウラ様の行った支配の方法だった。かつて魔王様が敷いた恐怖による支配とは真逆のもの。魔族にとっては強さ、魔力こそが全て。弱肉強食という自然の摂理によって支配が成り立っていた。故にアウラ様の支配の方法は自分にとって、いや魔族全てにとって理解できないものだった。
人間と魔族。その両方に同じルールを強いたのだ。
いかなる場合も暴力を振るってはならない。争ってはならない。それを守れるならば全ての者に平等を与えよう。
それがこの国の、アウラ教の教えの根幹。そこに例外はない。魔族であっても人間を害することは許されない。すなわちこの国、フリージアにおいて魔族は人間を食うことは許されないことを意味する。魔族は人間を食べなければ生きていけないわけではないが、本能的にそれを求めてしまう。それを抑えることは生半可なことではない。当初は魔族が人間を害する事案が発生することも多かったが、それもすぐに収まっていった。
断頭台という二つ名が示すようにあのお方によって首を落とされることによって。
今は天秤の二つ名の方が定着してしまっているが本来のあのお方の在り方を表すのに断頭台以外の言葉は存在しない。
(しかし今にして思えば……人間だけでなく、我々も変わりつつあるということか)
知らず自分が高揚しているのが分かる。当初、懐疑的であった自分の浅慮さ。それを示すように信徒という名の住民は増え続けている。人間どもはまだ分かる。魔王様が討たれ、平和になったといっても人間同士の争いがなくなるわけではない。弱肉強食の摂理からは逃れることはできない。だがその例外がここフリージア。裕福な暮らしはできなくとも、アウラ様の教えに従う限り平等な生活が約束される。魔族においてもそれは同じ。人間を食うことを我慢さえすれば、人間に討伐されることはない。
人間には信仰を。魔族には忠誠を。その在り方は人間の言う神に近い。人間どもに隷属させられたアウラ様だからこそできる、魔王様とは違う支配の方法。
(さて……そろそろ向かうとするか)
ふと柱時計に目を向ける。時刻は九時を回ったところ。今日は朝の礼拝を終えた後、アウラ様に謁見と言う名の報告を行う予定となっている。あまりお待たせするわけにはいかない。周辺国の情勢に関しても動きがあったところでもある。そのまま足早に教会を出たところに
「っ! よ、良かった……まだおられたのですね、リュグナー様……!!」
息も絶え絶えに、先程まで礼拝に参加していた人間の女が自分にしがみついてくる。その不快さに思わず反射的に振り払いたい衝動に襲われるも何とか抑え込む。
「どうしたのです。そんなに慌てて……」
すぐさま人間を欺く仮面を被りながらそう尋ねる。そういえば目の前にいる人間の名前は何だったか。すぐには思い出せそうにない。人間の顔など早々見分けがつかない。そも一人一人の名前など憶えてなどいられない。
「向こうの市場で争いが起こっているんです……! 周りの人々も制止したのですが収まらず……どうか仲裁してもらえませんか?」
そんなこちらの内心を知らず、矢継ぎ早に女はそう懇願してくる。瞬間、事情を全て理解する。要するに自分に躾……ではなく、争いの仲裁を求めているらしい。
「分かりました。すぐに向かいましょう」
すぐさま女の案内の下、現場へと向かう。争いの仲裁。それ自体は珍しいことではない。いくらアウラ様が法を敷いても、それを破る愚か者はどうしても一定数出てきてしまう。それを粛正するのが自分のような司祭、もとい神官の務めでもある。もっとも謁見に向かうところを邪魔されたことには苛立ってしまうが。
(あれか……)
間もなくその現場が見えてくる。いや、正確にはその声が聞こえてくる。酷く耳障りな男の声。どうやら怒鳴り散らしているらしい。その先には腕に怪我をした女と子供の姿。男の方が女たちに言いがかりをつけているようだ。見れば男は魔族であり、女と子供は人間。本来であれば人間などどうでもいいのだが、ここはアウラ様の国の中。暴力という禁を犯した以上、それを取り締まるのも神官の役目。それ故に例外的に神官には武力の行使が認められている。説諭で収まればいいが、そうでない場合は実力行使も辞さない。知らず闘争という魔族の本能が刺激されるのを感じながらも、あくまで神官の仮面を被ったままその場に介入しようとするも
「ここで何してるの?」
それよりも早く、幼い少女がその場に割って入っていく。何か面白いことでもあったのかと、どこか野次馬のように。ツインテールの髪形に、コルセットドレスのような洋装をしたその場には似つかわしくない容姿。だが自分にとっては見慣れた存在。
(あれは、リーニエ……?)
自らと同じく、ここフリージアにおいて神官の地位にあたる少女、リーニエ。その地位が示すように彼女もまた魔族であり、アウラ様にとっては右腕といってもいい存在なのだが、その容姿と言動によってこの街においてはどこか偶像的に扱われてしまっている。自分と同じくこの街を管理する役目を負っている者としてもっと威厳を持ってほしいものなのだが。
そんな思考を巡らせている間に、騒ぎはさらに大きくなっていく。主に魔族の男たちが騒ぎ立てることによって。どうやら人間の子供が彼らにぶつかってしまったことがことの発端らしい。程度の低い醜い争い。ある意味魔族らしいといえばらしい。どんなに言葉や態度を偽ったとしても私たちは猛獣に過ぎない。本来なら弱者である人間の親子が喰われて終わりなのだがここは魔族国家フリージア。
「ふーん、ま、それはどうでもいいんだけど。暴力は禁止だよ? ここはアウラ様の国だし。ほら、教典にもそう書いてるでしょ?」
心底どうでもよさげにしながらもリーニエはそう言って、その手に持った教典を見せびらかす。アウラ教の教えが記された、この国において守らなければならない絶対の戒律。実際は人間の僧侶に作らせた物らしいのだが、その真偽は問題ではない。それを破ることはすなわち、アウラ様を侮辱することに他ならない。
「このふざけた本が何だ? 魔族が人間風情と同等だとでも?」
「魔族の国があるからと来てみれば何だこの国は? 大方お前のような力のない魔族が寄せ集まってできた国なのだろう?」
それを理解できないまま魔族の男たちはそうリーニエにまくし立てていく。だがそれは魔族からすれば当然。魔族において弱肉強食こそが秩序であり全て。人間における社会、というものは存在しない。かつての魔王様がそうであったように力と恐怖のみが魔族を支配できる唯一の方法。何よりも魔族にはそれを一目で判別できる。
『魔力』
それが魔族の強さを示す唯一絶対の指標。人間共にとっての地位や財産に当たるらしいが、魔族は相手の魔力で実力を判断する。故に人間のように無駄な争いは発生しない。強者が弱者を従える。もっとも合理的な摂理。その意味において彼らは正しい。それはリーニエの魔力。体外に表出している魔力がわずかしか見られない。最下位の魔物程度の魔力しか持ち得ていない。そんな魔族の言うことなど聞くはずがない。事実仮に私が彼らであったなら同じ間違いを犯しただろう。
「――――そう。じゃあもういらないね」
リーニエのそれが、獲物を狩るための擬態であるということを。
「え?」
それはもう片方の魔族の声だったのか。それとも怯えていた親子の声だったのか。分かるのはまるで断頭台のように首を落とされた魔族の声ではないということだけ。声を上げる暇すらない速さの両断。リーニエの手には先程の教典の代わりの一本の剣が握られている。皮肉にも勇者の剣という名の
「っ!? お前いきなり何を」
その意味を知ることもなく、魔族の片割れはただ恐怖している。当たり前だろう。自分たちよりも遥かに弱いはずの魔族に、一瞬のうちに殺されてしまったのだから。当のリーニエはどこ吹く風。何の感情も見せず、淡々としている。そう、リーニエにとって魔力を制限したまま過ごすことは当たり前のこと。それがどれだけ異常なことか理解していない。恐らく魔族でそんなことをしている卑怯者はリーニエだけ。同じ仲間であるはずの自分ですらそのことに関しては嫌悪感があるほどだが、それは些細なことに過ぎない。
「? だってアウラ様の役に立たないならいらないでしょ?」
アウラ様にとって敵か味方か。ただそれだけ。その存在を侮辱する者をリーニエは許さない。
「う、動くな!? 動けばこの人間を」
自らが虎の尾を踏んでしまったことにようやく気付いた愚か者が、さらに愚かな選択をする。魔族に対して人間の子供を人質にするという愚挙。本来なら何の意味もない行動。だが一縷の望みがあるとすればこの国においては魔族も人間も平等だということ。ならばこの人質も有効になる。相手を欺くという魔族の習性。それは間違いではなかった。あったとするならば
「邪魔」
今は亡き勇者を模倣する彼女の前ではそれすら無意味だった、ということ。
魔族だった者が瞬きする間にその両手と頭は両断され、子供はリーニエに抱えられている。それはまるで勇者に救われた幼子の光景。もっとも抱えているリーニエも少女なので絵にはなっていないどこかアンバランスなもの。
それがこの騒動の顛末。ここ魔族国家フリージアの縮図ともいえるような光景だった――――
「? あれ、リュグナーこんなところで何してるの? もう謁見の時間じゃないの?」
「そっくりそのままお返ししますよ。貴方こそこんなところで何をしているんです?」
ようやく自分に気づいたのか、きょとんとしながらリーニエがこちらにやってくる。その手には真っ赤なリンゴ。救い出した子供からお礼にと渡されたそれをむしゃむしゃとかじっている姿は本当に先程まで魔族を駆除していた彼女と同一人物なのかと疑ってしまうほど。
「ちょっとリンゴを買いに来てたの。でも無料でもらえるなんて得しちゃった」
「そうですか……ですが貴方はアウラ様の神官。衆目での振る舞いには気を付けるように」
「分かってる分かってる。ちゃんと私、仕事してたでしょ?」
そう言いながら歩きつつリンゴを頬張っているリーニエには欠片も威厳は感じられない。もっともそれは今に始まったことではないのでそれ以上追求するのはあきらめる。忠告したところで無駄だというあきらめもあるが最も大きいのは序列の問題。リーニエは全く気にしていないが、彼女は自分よりも格上の魔族。生れ落ちてからの年月も、性別も、アウラ様からの寵愛も関係ない。魔族という一個の生命体として、自分は目の前の魔族に劣っている。もっとも今のまま停滞する気はさらさらないが。生涯をかけてさらなる研鑽を。ただ己の魔法をさらなる高みに。それを捧げるに足る自らの主。
「じゃあ行こうか、リュグナー。早くしないとアウラ様に叱られちゃうよ?」
「そうですね……遅刻の弁明は任せますよ、リーニエ」
その下に馳せ参じるため、自分とは何もかもが対照的な少女と共に足早に向かうのだった――――