なぜいま「大正の美術」が重要なのか?
The Public Times vol.5〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜

2018年、新宿・歌舞伎町のビルを一棟丸ごと使用し、「にんげんレストラン」を開催したことで話題を集めたChim↑Pom。彼らはこれまでも公共空間に介入し、数々のアートを展開してきた。本シリーズ「The Public Times」では、Chim↑Pomリーダー・卯城竜太とアーティスト・松田修が、「公」の影響が強くなりつつある現代における、「個」としてのアーティストのあり方を全9回で探る。第5回は、卯城と松田がいま「大正」の美術に注目する理由を語る。

構成=杉原環樹

望月桂 あの世からの花 制作年不詳、戦後
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いまなぜ「大正」なのか?

ーー前回までの4回では、今回の連載のきっかけとなった大正時代のアートに触れながら、現代のアートシーンが抱えている問題点について議論がなされました。そこで第5回からは、その大正時代のアートについて深掘りしていきたいと思います。

卯城 一度ガッツリ過去にタイムスリップする必要を感じてるんだけど、今日話す大正のいくつかの動きが「一般的にはブラックボックス化していること」への違和感があるんですよね。研究は進んでいる。けど「現在」にあまり接続されていない。リサーチしてみて気づいたけど、そもそも大正自体を「マスト」で知っとかなきゃって認識が一般的にはなさそうなんです。ただの勉強不足っていう個人のせいなのか、構造的な理由なのかが問題なんだけど、研究者間でも戦後のアートと戦前のアートは分断されている/いないって認識はじつは賛否両論。

 気になって『前衛の遺伝子』(ブリュッケ、2012)の著者の足立元さんに聞いてみたら、多くの日本人に、戦前と戦後のアートを隔てる「意識の断絶」があるって上手いこと言ってた。「情報の断絶」ではなくてね。てか、そもそもそんな議論があること自体謎じゃない? ヨーロッパでは、戦後を皮切りに現代アートが始まるなんてどこの国にもありえないじゃん。

卯城竜太

松田 僕も今回改めて何冊も本を読んでみた。五十殿利治(おむか・としはる)さんや足立元さん以外では、『眼の神殿』(美術出版社)で有名な北澤憲昭さんも大正の前衛芸術に触れていて、他にもたくさんの研究者がいる。むしろこんなに研究されてんだって驚いたよ。なんでいままで「マスト」だと思えなかったんだろう。けど、それにしてもほとんどの本が読みにくいね(笑)。

卯城 本とGoogle検索を両手に読み進めないと全然わからない! 固有名とか「知っている」前提で書かれてるからね......。

松田 その点、『前衛の遺伝子』は読みやすかった。

卯城 足立さんはウチらと同世代だし、問題意識も似てるしね。聞いてみたら、実際、研究しながら、Chim↑Pomやカオス*ラウンジ、東谷(隆司)さんの活動を考えたって。それが僕に届くまでに「10年かかった」って言われたけど(笑)。

松田 それほど僕たちの周りでは、大正に対して「マスト」感が薄かった。実際、同じ無人島プロダクションの風間サチコさんが大正にめちゃくちゃ詳しいのに、僕らいままで風間さんをユニークな存在として面白がることはしても、大正を詳しく教えてもらおうとは思わなかった。岡本太郎やハイレッド・センターを知らないでアートに関わる人はゼロに近いけど、マヴォや三科を詳しく知らなくても即モグリ認定なんてされないし(笑)。ましてや「黒曜会」の望月桂や「理想展」の横井弘三に至っては、詳細に語れる人、研究者以外でいなくない?

松田修

卯城 風間サチコがいる(笑)。

松田 そうか(笑)。けど戦前の日本の美術って括りで言えば、岡倉天心や黒田清輝なんかは歴史上「マスト」だと思われてる。岸田劉生なんかの「白樺派」も、教科書で見かける。でもダダイズム以降の大正前衛のムーブメントは......。

ーーそうでもないと。

卯城 そうなんですよ。まあ黒田清輝は近代美術で、その世界のマスターピースでしょ。だから近代の日本を語る上で欠かせないってのはわかる。でも、ダダ以降は現代美術にしか見えないもん。近代美術の本流にとったらただの異端児だったわけで、そういう視点から見たらそりゃ「マスト」ではない。ただ、日本の近代と現代は戦争で区分されるけど、アートの近代と現代はそんなにはっきり分かれてないじゃん。更新自体グラデーションだしね。

 話を「公の時代のアーティスト論」に戻すと、大正の前衛芸術ってハチャメチャだけど、けっこう「苦しい時代」の産物でしょ。五十殿さんの本でも言われているように、日本に前衛前夜が到来するのは、大逆事件で幸徳秋水が死刑になったり、日韓併合があった明治の最後から大正の始まりあたりにかけてだよね。社会運動をしたら絞首刑になるってアピールされて、変節した人も多かった。石川啄木が「時代の閉塞の現状」って評論を出してるくらいだから、閉塞感はハンパなかったんじゃない? 思想の自由なしに表現の自由なんてありえないじゃん。そんな時代なのに、明治43年には『白樺』が、翌年には『青鞜』が創刊されて、日本のフェミニズムや前衛がいよいよって感じになる。

『白樺』第1巻

 その後、大正初期から戦争直前まで実験的なアートが続出するんだけど、その間も、関東大震災、大杉栄の虐殺、治安維持法による取り締まりとか、前衛は苦難続きなんだよ。それに比べて1960年代の前衛は、同じく過激でパフォーマティブなんだけど、世の中の空気的には(こう言っちゃなんだけど)やりやすそうだよね(笑)。もちろん実際見てないから知らんけど、戦後民主主義を背景に、個のハッチャケっぷりと公の大らかさが凄い(笑)。まさに「個」の時代というか。それに比べて、戦前は俄然「公」ありきの時代でしょ。そこにいまがリンクする。

松田 いまはダダカン(糸井貫二)が出現しにくい、チンコ出しにくい世の中ってことね(笑)。戦後は社会や世論が、つまり「公」が、エクストリームな「個」を許容してたというか、大歓迎にも見える。公共事業の大阪万博と岡本太郎の作品である《太陽の塔》の関係なんて、その象徴だね。そう考えると、奇抜なザハ・ハディッド案が廃案になり、比較的無難なデザインに落ち着いた新国立競技場の話も、金だけじゃなくて、「個と公」の問題にも見えてくるね。だって、大阪万博当時はそんな無難なマジョリティの意見を反映させるよりも、強烈な「個」こそが求められたわけでしょ。「公」と「個」の共犯関係がうまくいっていた。オウム事件直前ですら、訳わかんない新興宗教の教祖が公共電波に乗せられても、みんな笑えてた。

 大正が「自由」それ自体を目指す「公」の時代なら、戦後は「自由」を謳歌する「個」の時代だったのかもしれないね。そしていま、僕らは再び「個」よりも「公」が存在感を増している時代に突入していると考えているわけだ。大正の「公」は主に公権力の問題で、いまはそれだけじゃなくて複雑に感じるけれど。

卯城 そうそう。「意識の断絶」の謎について、大正を華麗にスルーしてた当事者として自分のことを振り返ってみると、結局こんな疑問に辿り着くのよ。「じゃあ自分はいままで、大正や『公』の時代の状況にリアリティを持って目を向けれていたのか?」って。みんなもそうじゃない? 実際、《ヒロシマの空をピカッとさせる》(2009)くらいまでは、僕の主題は明らかに「平和なマッドさをどう表すか」だった気がするんだよね。「アメリカの息子」たる「戦後」の「実感のない平和」に生きていて、飢えや戦場にリアリティが無いって開き直るのと同じ。

Chim↑Pom 広島の空をピカッとさせる 2009 ヴィデオ(5分35秒)、ラムダプリント

松田 「大日本帝国って別の国」くらいの感覚だったよね。右翼や左翼は特別すぎる人たちの話だと思っていたし。でも、何も考えずに「戦車カッケー」とか言ってて。街中で監視されてる感覚もないから、歩きションや万引きはよくある日常だった......ってのは尼崎だけか(笑)。

卯城 立ちションじゃなくて? 歩きションは流石に尼崎クオリティでしょ(笑)。ただ、同じ「公」の時代でも、戦中は戦後を産んだ親みたいなもんでしょ。歴史的にも派手だから、反面教師として裏腹に、戦争画や原爆など戦中のモチーフは再三戦後に採用されたじゃん。平和な時代にいて「戦争にリアリティがない」エクスキューズは前提で。それが世界的にも伝えやすく、戦後の日本のアートのひとつの戦略にもなれた。

 だけどいま、報道の自由度ランキングはガタ落ちし(編集部注:2018年のランキングで日本は67位)、表現の自由は形骸化し、炎上とセキュリティ向上で官民による相互監視社会はガチガチになった。こんな来たるべき(いまの)「公の時代」を想う感覚って、以前はSF的なもんだった。みんなもそのストーリーの中で生きていたでしょ。

松田 SF的だった「公」の時代が来ちゃったことにより、大正の状況に対するリアリティが増したってことね。これについては美術評論家の福住廉さんが、「クラスの目立たなかったヤツが、クラスのムードが変わったことにより、急に存在感を増した」って言ってた。つまり、変わったのは目立たなかったヤツそのものじゃなく、クラスのムード。そして大事なのは、その変化により、その目立たなかったヤツをどう評価するかってリテラシーがクラスメイトの中で上がったってことだと思う。10年前といまを比べても、アートの見方もそれを取り巻く状況も、だいぶ変化があると思えるし。

 世界が「公」の時代に突入し、アーティストはより「態度」が重要視されるようになり、ポリティカル・コレクトネスやアート・アクティビズムが主流化し、日本でもスーパーフラットがChim↑Pomやカオス*ラウンジに変異した。それらを踏まえた目線を獲得すると、「あれ? こいつ超『マスト』じゃね?」と、大正のいくつかの前衛美術の動向を見直せるようになった。

卯城 そう。それで僕らに突然刺さったのが、大正にあった2つの出来事なんだよね。望月桂率いるアートコレクティブで、「大正のシチュエーショニスト・インターナショナル」とも呼べそうな黒曜会と、「大正デモクラシー最期の打ち上げ花火」とも言われる大理想展(大正15年)。両方とも偶然アンデパンダン展なんだよね。

松田 2つとも、以前のアートの見方では「マスト」ではなかったでしょ。以前はダミアン・ハーストや村上(隆)さんが「Power 100」でトップアーティストだったのに、いまはアイ・ウェイウェイとかヒト・シュタイエルみたいな、「社会へ直接刺す」ようなアーティストが上位にいたりする。アートの中心地だなんて絶対言えない状況の日本でも、夕方に民放のニュース番組で「社会派の」ストリート・アーティストとしてバンクシーが紹介される。そのくらいの変化がある。そりゃ、「社会へ直接刺しまくろうとした」望月桂がいきなりフレッシュに見えたりもするよ。

卯城 理想展は福住さんが研究中で、望月桂は足立元さんがやっとアナキストの文脈じゃなく美術の文脈でフックアップした。望月桂なんて、僕にはもはや「日本の現代美術の父」くらい重要に見える。美術史ってのは、ほんとに永遠に未完成なもんだな、とつくづく思うよ。なのに新人作家までがその気になって、「美術は文脈」とかいまある「とりあえず」の美術史のストーリーに合わせて作品を作るでしょ。「公」のための「個」になりきっちゃうのと同じ。乗っかるのは良いけど同時に疑えよって思う。

2018年のPower 100

黒耀会の先駆性

——そもそも、望月桂というのはどんな人物なんでしょうか?

卯城 東京美術学校(現・東京藝術大学)で絵画を学んで、同期が、岡本太郎の父親である岡本一平と、画家の藤田嗣治。この同級生3人のその後の運命と影響を戦後まで見ていくと、3人が主役の大河ドラマみたいにドラマチックに楽しめます(笑)。卒業後、3人はバラバラの道を歩むんですね。藤田は渡仏して成功、帰国して国民的な戦争画家になり、戦後は日本を捨てる。岡本は朝日新聞社に入社して人気漫画家になり、太郎を連れて渡仏、太郎は戦後日本のアートの急先鋒になる。いっぽう、前衛の始祖のひとりになる望月桂のスタートはゆるゆるで、「へちま」って定食屋のようなものを始める。ここにアナキストが集まるようになって、タダ飯を食わせたりしていたらしい。

松田 その「へちま」の広告ってのがいま見ても面白い。「腹がへつては/どうもならん/先づ食ひ給え/飲みたまえ/腹がほんとに/出来たなら/そこでしつかり/やりたまへ」というね。食堂には望月桂自作の雛人形が飾ってあって、皿などの食器も自作だったらしい。その雛人形が裸体だったり、ユーモアのセンスもある。

卯城 そこに集まっていた人たちと桂さんがまず立ち上げたのが、1917年に結成された「平民美術協会」。設立にあたっての広告では、美術は売り物じゃないとか、専門家の手に独占された美術を一般民衆のもとに取り戻すことが謳われている。1917年ってロシア革命が起きて、マルセル・デュシャンが《泉》を発表して、トリスタン・ツァラが雑誌で初めて「ダダ」という言葉を使った年でしょ? つまり世界のラディカルさとは同期してた。

松田 平民美術協会では、絵画教室で労働者に絵を教えることも企てられていた。たぶん、二科会のようなハイカルチャーとしての美術に対する憤りがあったんじゃないかな。「お芸術」へのカウンター。

卯城 この平民美術協会のメンバーの多くが黒耀会の結成に参加するんだけど、黒耀会の宣言にはこう書いてある。

現代の社会に存在する芸術は、在る特殊の人々の専有物であり、又玩弄物の様な形式に依って一般に認められてゐる。こんな芸術は何処にその存在を許しておく価値があらう。此様なものは遠慮なく打破して吾々の自主的なものを護ねばならぬ。これが此の会の生まれた動機である(黒耀会宣言書、1919年)
黒耀会宣言書

 で、特筆すべきは計4回(2回の説もあり)開催された展覧会の参加作家たち。桂さんのほかに、アナキストの大杉栄、コミュニストの堺利彦、柳田國男の右腕になる民俗学者の橋浦泰雄、演歌師の添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)、ほかに島崎藤村や高村光太郎も参加している。要は美術家だけじゃなく、当時の幅広い文化人が一堂に会しているんだよね。もちろんみんなアートにおいてはド素人。音楽ライブあり、パフォーマンスありの一大イベントだったらしい。じつは僕、ノイズミュージックやってた20歳そこそこの頃、Chim↑Pomの林(靖高)と、好きすぎて添田唖蝉坊の墓掃除をしたんだよ。墓参り行ったら荒れ果てたから、悲しくて(笑)。

卯城竜太

松田 面白いのは、望月は普通に絵が上手いのに黒曜会ではアカデミックな技術を自ら封じているんだよね。洋画か日本画かっていう近代美術の議論から外れ、描く対象を簡略化した、俳画(俳句を賛した簡略な絵画)による影響が強い淡彩画を作風にした。俳画もマンガへとつながる源流のひとつだから、マンガと絵画のハイブリットをこの時点でやっていたとも考えられる。黒耀会の宣言を踏まえた、当時主流に見えるタブローへの意識的なカウンターだったんじゃないかな。

 つまり、パッと見絵画に見られないサブカル的なものを絵に持ち込もうという意識。この頃エスキースや習作はつくられても、マンガはおろかドローイング的なものをそのまま作品として見せる意識はまだないしね。僕はもともと、大正には天才的なタブローを残した岸田劉生や萬鉄五郎、村山槐多などのイメージを持っていたから、そこと比べると望月桂の異質さはより際立つね。

 さらに、望月はその手法に、当時西洋の最先端だった未来派のスタイルを取り入れている。注目すべきは、望月ってアナキストだから、反機械文明的な文脈でそれを使うんですよ。機械礼賛の未来派とは思想がまるで逆なわけ。労働者が機械によって傷つけられる場面を描いたり、だいぶ皮肉っぽい文脈でそれを使っている。

 で、なかでもクソやばすぎるのが《遠眼鏡》(1920)という、現人神である大正天皇をスキャンダラスに描いた作品。連載第1回でも触れたけど、知的障害説があった天皇が証書を遠眼鏡に見立てた騒動を俳画×未来派スタイルで描いた作品。そういう全背景を読み込むと、日本史上トップクラスの問題作であると断言できる。

望月桂 遠眼鏡 1920 紙に淡彩 95.0×72.0cm 個人蔵

卯城 タブロー的にマンガ風な絵を美術の文脈で展示したのって、望月桂と黒曜会が初めてなんじゃない?

松田 初めてと断言することは難しいな。でもその意義はめっちゃ大きいと思えるよ。竹久夢二のような印刷媒体でマンガを描いていた人が、そのあといわゆる本流の画家になるケースはあったけど、やっぱりタブローとマンガの境界の意識は残っていたし。だけど望月はマンガのような絵をそのままタブローのサイズで描いて、作品として提出している。それが当時の洋画壇に認められることはまずなさそうだから、望月桂主導のアーティスト・ランな展覧会での出品って意味も、いまのオルタナティブ流行りを考えるとめちゃめちゃデカい。

卯城 何重にも捻れてるな......。アクティビストなのに、スーパーフラットとかいまのカオス*ラウンジ界隈のひとつの源流にも見えてくるのがオモロい。額装せずテープで壁に作品直貼りとか、展示方法もナウいしね(笑)。まだインスタレーションの概念もなかったころでしょ。けど、黒曜会はオタクじゃなくポリティカル系だから、展示作品はガンガン警察に押収されるんだよね。で、桂さんナイスなのは、その警察署に行って、押収された作品群の盗難届とか出してるんですよ。

 改めて、黒耀会からいまにつながるものって、マジで膨大に見える。マンガ系美術やポップ・アートだけじゃなく、現代的アートコレクティブの形態としても早すぎる。政治でいうと、プロレタリアアート、アートアクティビズム、シチュエーショニスト・インターナショナルや去年のターナー賞ノミネートされたフォレンジック・アーキテクチャー、DISなんかとも親和性高いし、美術/非美術の境界を問うセンスや宣言を引用して、桂さんを民藝の始祖だとも言う人もいる。クロスジャンルで言えば、「時代の体温 ART/DOMESTIC」展(世田谷美術館、1999年)やFREEDOMMUNE、Chim↑Pomのライブを一体化させた展覧会なんかにもつながる。そもそも黒耀会は日本初のアンデパンダン展だと言われてるしね。

フォレンジック・アーキテクチャーのウェブサイトより

松田 知れば知るほどいまのアートに直結してるんだけど、最近まではアートっていうよりはアナキズムの文脈で語られてたっぽいね。当時のアナキズムって、いまの僕から見ると、左翼の過激派で、テロリスト化もするような思想で、社会主義の中でも敗北した思想に見える。そんなアナキズムの文脈のみで語られるなんて、低評価すぎじゃない? アート文脈の評価の低さっぷりがヤバイ例で言えば、風間サチコさんが望月の絵を持っているらしいんだけど、「ヤフオク!」で1000円くらいだったって(笑)。黒曜会の出品作品のほとんども長野の望月家の蔵に眠ってるらしいし......。

卯城 1000円て残念すぎるわ(笑)。ていうかこんな現代的な運動、それ以前にもあったのかな。歴史を遡ったらすぐに絵画や彫刻を中心にしたフュウザン会、つまり見た目的には近代美術でしょ、美術の区分の正確性はおいといて。としたら、いま我々がやっている日本の現代美術的な表現は(あくまでいまのところだけど)ここがスタートに見えるって言ってもおかしくなくない? で、日本はアジアの中で最速でアートが活発になった国だって言われてるよね。なら「欧米のアート×ドメスティックなセンス」が当然になったいまのアジアのアートの中でも、望月桂と黒耀会はかなり重要な位置にいるように思うな。

望月桂と理想展、あの世からの花

——その黒耀会の活動は、関東大震災(1923年)の起こった時期に途絶えていますね。

松田 震災に乗じて大杉栄が憲兵に虐殺されるんです。思想の中心人物を失ったことによって、黒耀会の活動は縮小していったみたい。その退潮と並行して望月桂の活動も収縮していく。

 それと代わるように、黒耀会に刺激を受けたと思われるMAVOやアクション、三科のような次の世代の過激なコレクティブが震災を機に活性化するんだよね。

卯城 黒曜会が生まれたのは大逆事件と日韓併合後でしょ。MAVOたちが活性化するのは震災と大杉栄虐殺直後。あの人たち、ヤバくなる度にスイッチが入っちゃってるよね。

 とにかく、桂さんが次に作品を発表するのは震災の3年後、大正最後の年(1926年)の理想展。このときの出品作がまたヤバい。大杉の復讐でテロを企てた仲間の2人が逮捕されて、ひとりが死刑判決に、ひとりが終身刑になったんだけど、理想展には前者を題材にした、その名も《死刑判決》という絵を出しているんだよね。裁判の傍聴券がコラージュされた、まあキモい絵なんだけど(笑)。

 でも、超絶エモいのは、終身刑になった仲間を扱ったもうひとつの作品。その人は刑務所の中で死んじゃうんだけど、桂さんはその遺骨を引き取りにいったらしい。その後、その遺灰を長野の自宅の庭に撒いて、植物を一緒に植えた。で、そこで咲いた花を葉書に押し花にして、かつての仲間たちに送りつけたらしい。《あの世からの花》って書を添えて。ヤバすぎでしょ。

望月桂 あの世からの花 制作年不詳、戦後

松田 《あの世からの花》は、メールアートとして見てもヤバイ。あと、望月についてよく言われるのは、戦中に「変節」したってことで。体制側に協力した形跡もあるそうで、ほかのアナキストからは「残念だ」とか言われているんだけど、僕らはアナキストとしての評価にはあまり興味がないんですよね。

卯城 戦中に鳴りを潜めながら、戦後に押し花の作品を出していることから見ても、一筋縄ではいかないよ。なんせ初個展開催が亡くなる8ヶ月前、88歳のときだよ。アーティストとして相当捻くれている(笑)。黒耀会後に美術から距離を置いた桂さんは、読売新聞のマンガ家になるんだけど、そのペンネームが犀川凡太郎っていうんですよね。これ、最近頭角現してきてる若手作家の毒山凡太朗の名前の由来だよ。もちろん風間サチコ命名(笑)。

松田 現代にも望月桂の「前衛の遺伝子」は、しぶとく伝わってたわけか。超「マスト」だよ! 桂さん!


アーティストたちよ、表層を揺さぶれ。
The Public Times vol.9(終)〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜

Chim↑Pomリーダー・卯城竜太とアーティスト・松田修が、「公」の影響が強くなりつつある現代における、「個」としてのアーティストのあり方を全9回で探ってきたこのシリーズ。最終回となる今回は、卯城と松田による総括。彼らが目論む「ダークアンデパンダン展」とは?

構成=杉原環樹

松田修と卯城竜太。ネオダダの拠点だった「新宿ホワイトハウス」にて撮影
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「正しさ」を巡る騒動

卯城竜太 いよいよ最終回だね。ポリコレだ検閲だキュレーションだと、「個」と「公」のギクシャクした関係についてずーっと話してきたけど、連載中にもいろいろあったね。会田(誠)さんの授業で京都造形芸術大学が訴えられたり津田(大介)さんのジェンダー平等が「お情け」キュレーションと揶揄されたり、DOMMUNEの電気グルーヴ特集がワイドショーにディスられたり。「エクストリームな個」と「正しさ」の軋轢が、大学や芸術祭やテレビって「公」を舞台にアクシデントとなって続出した。たった3ヶ月の間にそんなにだよ。

卯城竜太

松田修 もう3ヶ月前とは別世界だね(笑)。前回も触れたけど、電気グルーヴの件で言えば、(石野)卓球が何者にも左右されない生き方を貫けててウケた。同時に、そんな卓球に「正しさ」を押し付けようとする社会の病理のようなものもあらためて感じたが。卓球のように国際的にもフォロワーがいて、日本や芸能界ってひとつの「公」に縛られる必要がないエクストリームな個は、アーティストとして理想とも言えるね。

松田修

卯城 艾未未(アイ・ウェイウェイ)にも同じこと言えるかも。中国で弾圧されても、アートシーンや欧米っていう「公」を複数持ってたから、小林多喜二みたく殉職せずに圧力をかわせた。

松田 その当時もだけど、いまの圧力は、上からの検閲だけじゃなく市民ら下からの監視も強いからね。京都造形大の騒動以前の会田さんで言ったら、東京都現代美術館での会田家の「檄文」の撤去要請問題はもろに上からって感じだけど、森美術館での個展の《犬》に対するクレームの場合は、アクティビスト、つまりボトムからの声だったでしょ。上下から会田さんに圧力がきてる(笑)。

「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展会場風景より、会田家《檄》

卯城 Chim↑Pomの炎上案件もほんとそれ。でも、「下から」は日本ではまだまだじゃない? メトロポリタン美術館でのバルテュス撤去問題や、グッゲンハイム美術館で虫の展示がなくなった騒動なんかを考えると、アメリカのポリコレは公のポリシーにまで影響を与えてるよ。

松田 過去に芸術と絶賛されていたものが、後世に封印されることは今後も増えるだろうね。今後は、女性蔑視描写のある三国志演義もアウト。少女ヌード写真の収集や撮影を趣味にしていたルイス・キャロルもアウト。ゴヤの《我が子を食らうサトゥルヌス》も幼児虐待を想起させるからアウト。父親に娘が母乳を飲ませるルーベンスの《ローマの慈愛》も、キモいからアウト(笑)。

卯城  キモいからって(笑)。

バルテュス《夢見るテレーズ》(1938)のメトロポリタン美術館での展示風景

松田 けどまぁ、社会でポリコレが盛んになるのはわかる。差別をなくそうって態度には共感するし。医大入試の女性の足切り問題や、杉田水脈のLGBTQについての発言への反発は、どう考えても必要。でも同時に、『新潮45』の消滅とか、ヤノベ(ケンジ)さんの《サン・チャイルド》の撤去とか、反発がソッコーの撤退を招き、出版や表現の自由は形骸化してる。社会に正しさを求めるのと、表現に正しさを求めることが、ごっちゃになってることが問題な気がするよ。

福島市の教育施設「こむこむ館」前に設置されていた、解体前のヤノベケンジ《サン・チャイルド》

卯城 だよね。でも、エリイがこないだトークイベントで、「表現しづらくはなってるけど、そういうムーブメントは嫌いじゃない。なぜならそれによって私の考えも更新できるから」って言っててハッとした。確かにな、って思ったよ。それに、「個」がそれぞれみんな声を持った先に「公」があるっていう、闇市やアンデパンダン型の「公」についてウチらは散々話してきたけど、ある意味、ポリコレってその構造の一部じゃね? ていうか、そういう「雑多な個からなる公」って意味に限って言うと、僕にとってはネトウヨだって社会の一部(笑)。

松田 優しい(笑)。でも、一部ならまだしも、全体に正しさが満ち満ちて、全員が出家してありがたいお説教をかまし合うような世界はいやだなぁ。そもそも僕は「正しさ」を論じるに値しない育ちのカスだから、肩身が狭いよ。近所のアル中歯抜けがシリコンオッパイの見分け方を教えてくれるくらいが僕にはちょうどいい。僕も歯抜けだし(笑)。

松田修

卯城 正しさとか悪とかってより、育ちが悪すぎるわ(笑)。まあでも、ウチらアーティストはそうやって「個」のレペゼンとして、「正しさ」とかに一般的な答えを出さなくてもいいじゃん。けど、ポリコレは「個」ではなく「みんな」を代弁するからね。お互い論点がズレがちなのもしょうがなく思える。

松田 問題なのは、それぞれがそれぞれの「正論」で、公共に必要ないと思うものを排除しようとすることだよね。それって思想の違いはあっても、第7回で話した戦中の田代二見に近くなってない?

卯城 ネトウヨもね。議論できるうちは良いけど、原理主義になると他者との折り合いが付きづらくなる。相手が「敵」として仮定されちゃうというか。

松田 その「みんなにとっての敵」意識を他者へ持ちだすと、「自らの正義感」から敵に私刑を行う意識も超持てるでしょ。いまは法律上「私刑」は禁止されてるけど、ネットを使えば昔で言う「市中引き回しの刑」のようなのもヨユーでできるし、死んだ後も「晒し首」に近いことができる。

卯城 「パブリックエネミー(公共の敵)」が権力に対する「個」のカリスマだったような、「個と公」の二項対立の時代は過去ってことね。いまは立場とエネミー(敵)が乱立し、まずは批判が先に立つから共存をゆっくり探る余裕がない。その「明確なポジションに基づく」連帯意識って、第4回で話した「クラスタ」問題にも近い。そう考えると、こんだけ個人のクレームが美術館や国際展って「公」には影響を持てるようになったのに、公権力はどんどん一部の人たちだけが望むようなかたちで「個化」してるのが皮肉だね。杉田水脈の発言で雑誌はソッコー潰れたけど、自民党や政権は潰れにくい。

卯城竜太

​松田 ボトム同士が揉めてるだけだもの。そりゃ公権力はガンガン個化するよ。いち議員が暴言でマイノリティをいくら傷つけても、党内の評価が高けりゃ比例当選するし。

卯城 てかさ、政治に民主主義がない状況なのに、社会には民主主義がありすぎでしょ。公権力は放置で社会の一部が過激化して炎上しあってるなんて。そんな「民主主義暴力団の仁義なき戦い」みたいなボトムでの抗争(笑)。まあ、その結果社会の意識も変わって、LGBT法案みたく政治案件化する例もあるから、必要な抗争なのかもだけど。

 でも、右組、左組、アート組やフェミニスト組やLGBT組、表現の自由組やオタク組......って、本当は権力に対峙すべきマイノリティ同士が、いまは原理主義化してお互いの「自由の敵」になりあってるってのは、ムズい状況だなーと思う。その昔、寺山修司が「自由の敵に自由を許すな」って路上に書いたでしょ。当時は反権力のスローガンにも見えてたけど、いまとなれば、そんなのマジでお気楽じゃない? だって、いまガチでそう言うなら、発言する市民全員に自由を許すなってことになっちゃうじゃん。

松田 そんななか、どの組にも属せない僕らみたいな「カス」は、メインストリームからも消えてって、どうすりゃいいの。

卯城 「カス」は結局ポリコレからも公権力からも必要とされないから、排除だね! 全組の親分から門前払いだよ。それこそ連載第2回で話した、公園から消されそうな松田やおかやん(岡田将孝)案件(笑)。

松田  票にならない取るに足らない存在だから公権力も無視していいし(笑)。でも「把握不可能なカス」を排除しようとしたり、露悪的に見える作品を短絡的に悪と判断したりって、社会の「ネオテニー化」もほどほどにって思わない? ガチのヤクザや悪人は、なんなら「普通の姿」をして社会に紛れてたりするでしょ(笑)。とくに即効性だけで測れないアートは、一喜一憂せずに議論するものであってほしいけどな。

松田修

自由と民主主義は両立しない?

卯城 こないだ後輩アーティストの涌井(智仁)に聞いたんだけど、興味深いムーブメントがあるんだよ。「インテレクチュアル・ダークウェブ」(IDW)っていうんだけど。

 科学者って科学的根拠で話をしたいでしょ。けど、いまはそれを無邪気にはできない状況じゃん。例えば性別や人種別の身体の差異からなんらかの優劣を語るなんて、炎上要素が満載でしょ。そんな状況にうんざりな科学者たちが、アカデミーから抜け出して、ウェブをベースに知的ネットワークを組織化したのよ。

インテレクチュアル・ダークウェブのウェブサイトより

 「ダークウェブ」って、誰もがアクセス可能な「表層ウェブ」と、検索エンジンにかからない「ディープウェブ」からさらに潜った、特殊な手段でのみリーチ可能なウェブの領域。IDW自体は表層ウェブに存在してるんだけど、「ダークウェブ」を名乗ることで、「表層」の息苦しさをディスり、「新たな領域と自由」を必要としている自らを「ダーク」とアイデンティファイしてるのよ。この動向は去年、『ニューヨークタイムズ』で紹介されたんだけど、それをレポートしてる木澤佐登志さん(ブロガー、文筆家)によるキャッチフレーズも興味深い。「『右』でも『左』でもない、『ダーク』な思想の台頭」っていう。

 実際にはアンチ・ポリコレであって、「ダーク」思想のなりたちからしても、オルタナ右翼やヘイトとの親和性が高く、再炎上してんだけど(笑)。でも、なんでその話をするかっていうと、なんかこれって、アーティストにこそ出てきそうな動きじゃない?

松田 不自由になってきたメインストリームのオルタナティブとしてってこと? 変化するモラルや空気に流されることなく、表現や科学を研究したいって気持ちは超わかるよ。オルタナティブと言えば、僕が影響を受けたポール・マッカーシーやマイク・ケリーら西海岸アートも、そう感じられたし。

松田修

卯城 パンピー化して、相互監視的に「公共化」した表層ウェブは、もうマニアのための自由な空間じゃないじゃん。「ダークウェブ」はそこから自由を求めて「出ていく」思想でもあるだけど、それ以前に、そもそもインターネットの思想自体、松田くんが言うカリフォルニアのオルタナやヒッピーカルチャーがルーツでしょ。

松田 そうそう、自由を求めて国家と闘うのではなく、メインストリームから「出ていく」思想。インターネットの自由を宣言した「サイバーパンク宣言」(1996年)のジョン・ペリー・バーロウは、西海岸のバンド、グレイトフル・デッドの作詞家だよ。

 「出ていく」ってことでいうと、昔のアートはメインストリームとしての官展や美術館から離れて、路上に出たでしょ。ハイレッド・センターもマヴォもフルクサスも。

卯城 うん。だけど、いまも路上が自由を求めて「出ていく」先かって言ったら疑問だな。べつに昔も原則的には道は自由ではなかったけど、「公共の意識」から道に異物が存在することは許容されていた。第1回のマジョリティ論そのものだけど、いろんな人がいる前提だった公共の自由は日本にもうないでしょって話。だからみんなクラスタに潜る。

松田 そういう意味でクラスタ化は、起きるべくして起きてるもんね。しかし長期で考えるとセクト化する傾向にある。

卯城  ヒッピー文化もそれで一般に影響を持ちきれず、廃れたわけだし。

松田  クラスタでないなら、じゃあ、いまはどこに「出て行く」べきなのか。

卯城 クラスタや公共でもない、新しいネットワークなんじゃない? 昔の音楽でいうと、メジャーへのカウンターでたくさんインディーズレーベルができたでしょ。これはたぶんクラスタ。で、それらバラバラなレーベルやイベントが個として無造作に生まれた結果、アンダーグラウンドって「シーン」ができた。それが影響を持った結果、メインストリームも変わらざるを得なくなった、みたいな? IDWもそんなイメージなのかもね。

卯城竜太

​松田 そうなると、むしろ「公共なんてもう2軍、ダークこそ1軍」ってセンスも生まれそうだね(笑)。

卯城 そうそう。そういう「別世界」をつくる意識だよ。

 IDWを知ったきっかけは、ポスト・インターネットを牽引したニューヨークのアートコレクティブ「DIS」なんだけど、DISの映像コンテンツのひとつに、PayPalの創業者ピーターティールらテック業界が立ち上げた、「THE SEASTEADERS(シーステッド)」があったんだよね。それをIDWと関連づけて涌井が教えてくれて。これ、既存の国のシステムから独立した海上都市、まさに「別世界」づくりの構想で、都市計画のLinux版だとか、都市型バーニングマンとか言われてる。

 左も右も含んでいまアメリカに台頭しつつあるリバタリアン(自由至上主義者)たちの実践なんだけど、ピーター・ティールはその右派らしく、「自由と民主主義は両立しない」て名言を残してるんだよね。まさにポリコレとのギャップの話。

DISのウェブサイトより

松田 ピーター・ティールって言ったら、思想的根幹に「暗黒啓蒙」(ニック・ランド&カーティス・ヤーヴィン)があるって言われてるでしょ。これを垣間見ると、超絶エクストリームでオモローなんだけど、たしかに民主主義も平等主義も近代的な価値観は全否定(笑)。オルタナ右翼の源流にもなってて超排他的なんだよね。これは非道い(笑)。

 けどさ、ダークそのものの魅力は理解できる。「暗黒」でしょ。

卯城 暗黒か。いいね(笑)。

松田 いまgoo国語辞典で「暗黒」の意味を検索してみたんだけど......光が当たらないとか悪事がはびこるとか、そんな意味のほかに、「未知であること。たしかに存在するが、その正体が直接明らかになっていないこと」ってある! そういえば、そういう意味で「暗黒大陸」とか「ダークマター」とか言ったりするしね。つまり「ダーク」は、光の当たる世界に対するオルタナティブってだけじゃなく、「未知を含めたこの世界」すべてを測る概念なのかも。ダーク、可能性の塊じゃね!

ダークアンデパンダンってよくね?

卯城 ここで、「アンデパンダン型の公」がいまも可能か?って観点で、アンデパンダン展の現在から、ティールの「自由と民主主義は両立し得るか?」て問いをもう一度考えてみたい。というのも、アンパンってまさに民主主義がテーマじゃん。参加は無審査で、だいたい前日持ち寄りの展示でしょ。キュレーションもないから平等に展示される。

 なのに、この前開催されていた「東京インディペンデント」展なんかで実際に展示をみると、「個のエクストリーム」が並んでいたとされる「読売アンデパンダン展」みたいにはならずに、どの作品が誰のだかわからないような、それこそ代替可能な群(むれ)を可視化する展示になってるのよ。硫酸使っちゃう(赤瀬川原平《ヴァギナのスーツ》)みたいなヤバい出品作はありえない。主催者の気持ちは立派で、みんな違ってみんなよしってモットーは達成されてても、それぞれの「個」は、「花屋の店先に並んだ」花みたく、アンパンって枠組みに回収されちゃう。「つまらない民主主義」を見せられてるような感じで、そこに本質的な「自由」の実験なんて見当たらないわけよ。

卯城竜太

松田 一般に開かれてるからね。作家も炎上を避けざるを得ないから、「表現の自由」のレベルはギャラリーや美術館とそんなに変わらないしね。

卯城 つまりこれって、アンデパンダン展のアイデアがつくられた19世紀末の民主主義を含めた近代社会の価値観が、(内容はともかく)スローガンとしてはもはや効力を持たなくなってきてることの証なんじゃないかな。

松田 そうかもしれない。黒曜会も理想展も読売アンデパンダン展も、大衆が民主主義に夢を見たり、花開いたりしてる最中だったから、それを可視化したり挑戦することに盛り上がれた。だけど、いまはそれが当たり前になって古くもなって、いっぽうで観客の民主主義の意識はエスカレートしてる。Twitterなんかでもそういうことは可視化されてるしね。

卯城 うん。でも、じゃあ民主主義全否定がウチらの代替案かというと、そんなわけなくない? 暗黒啓蒙に影響された反動主義者みたいに、トランプを世界のCEOにすべきだなんて1ミリも思えないもん(笑)。

 でさ、ふと思ったんだけど、「ダーク」と「アンデパンダン」ってふたつを組み合わせたらどうなるかな? なんだろ、つまり、「ダーク」的に考える「自由」と、「アンパン」的な「民主主義」っていまは両立しにくくなったコンセプトを令和時代的に掛け合わせた、「ダークアンデパンダン展」(笑)。

松田 ウケる(笑)。つまり、「アンデパンダン」としてはアーティストの出品は無審査でオープンだけど......「ダーク」的に、誰もが辿りつけるわけじゃない別の世界を作る感じで自由を担保するってことだから......逆に観客が審査されたりするってこと?(笑)。けど、なんかクラスタ的な感じがしない?

卯城 うーん、けどアーティストは誰でも参加可能なんだよ。そんなオープンなクラスタなくない?(笑)。ただ、観客を審査ってなるとたしかにクローズド度強めだから、何かもっとオープンな手法で観客をある程度限定できないかな?(笑)。そうしてつくった一般向けじゃないステージで、暗黒的に「光が当たってない」......つまり表層では絶対見せられない作品にフォーカスする!

松田  いま足りてない「自由」や「未知」を「ダーク」で確保する感じか。エグさを隠す表層領域だけじゃ、もはや世界は測れないし。

 ていうか、たしかに観客を「審査」っていうとなんかブラックボックス展みたいになっちゃうね。なら、それより、いっそ観客を「キュレーション」するみたいな感じじゃない? 「審査」と「キュレーション」って違うでしょ。同じセレクトって過程があっても、審査で成り立つ公募展とオファーで成り立つキュレーション展は違うし。それに僕らずっとキュレーションとアーティストの関係についても話してきたよね。その関係を観客に転化させる。

松田修

卯城 なるほど。キュレーションとなると、主催者側にとって安心なラインナップを揃えるだけじゃダメだしね。友だち同士だけでキュレーションしあってる展覧会ってなんか閉じてるじゃん。一般に向けててもクラスタ内に見える。良いキュレーションって、キュレーターの範囲内にとどまらないのが多いでしょ。

 アーティストとキュレーターの関係から考えるに、「観客のキュレーション」って、コンセプトに基づいて「観客」を発信者として選び、でも予定調和を避けるべく広い層にアプローチし、かつ一緒にイベントをつくる相手として共犯関係を結ぶ......ってことじゃない?「一般向け」とは違うフェーズの「オープンさ」をキュレトリアルにつくり、観客200人くらいと、表層で発表不可能な作品の「生産的な鑑賞の場」をつくるってことか。

松田 いっぽうで、アーティストには「自由」を与えて、何が生まれるかを試すわけでしょ? いまの「表層」では何が「本当に」展示できないのか。それを測るためにも、参加アーティストにはそのハードルは厳しく持ってほしいね(笑)。「公」の時代の展覧会として、「表現の不自由展」「耐え難きを耐え↑忍び難きを忍ぶ展」「キセイノセイキ展」とともに、歴史的に振り返られる実験的なものになりそう。

 それなら、僕もこれまで発表しなかった作品があるわ。あれの出番か。アーティストはつくってみたものの、一般公開してない作品のひとつやふたつ、あるんじゃないかな。Chim↑Pomもいっぱいあるでしょ?(笑)。

卯城 あるある。なんならそれらがうちらのマスターピースだよ(笑)。

 てか、ウチらだけじゃないよ。キュンチョメの作品で僕が思うマスターピースも未発表作だよ。超いいのにヤバすぎて一般公開なんて絶対無理なやつ。椹木(野衣)さんいわく「時代が時代ならナブチは死刑だ......」ってくらい(笑)。SIDE COREも以前「クローズドなトークショー」を構想してた。「うちうちに客を選んで一般に見せられない作品について話し合いましょうよ!」って。むしろこのダークアンデパンダン展、その幻のトークをアンデパンダンとキュレーションによって「開く」ように更新する感じの展示かも。

松田 SIDE COREはストリートアートレペゼンだから、法規制とのバランスでいろいろあるんだろうね。とにかくダークアンデパンダン展はポテンシャルありそうってことだ(笑)。

卯城 だね。てか、そういうのが並ぶのを想像したら、ただのヤバいもの博覧会とも違うものになりそうじゃない? だってIDWは別にマッドサイエンティストの集まりじゃなくて、「科学的根拠に基づいて話したい」って根源的な需要に基づいていたわけじゃん。アーティストにも同じように、「世間一般の価値観とズレてもアートとしてつくらざるをえないもの」があるでしょ。

松田 それこそが、本来ならば「アートとして見せねばならぬもの」でもあるような気がするね。そういった意味では「表層」がシーンとして2軍に落ちても仕方ないか(笑)。まず僕も観客のひとりとして、そういった暗黒作品たちを見てみたいよ。観客は誰?

卯城 SNSなどの表層でおしゃべりな人はダメでしょ(笑)。逆に美術館のキュレーターたちは一周回って当事者だから必要かも。

松田 コレクターも面白そう。ブラックマーケットみたいな感じか(笑)。観客からの提案なんかもあるかもね。キュレーションされる側として。

卯城 生産的にひとつの価値観をシェアできる、ていうクラスタの良さは引き継いでも良い気がするけど、とはいえとにかく友達中心のキュレーションはダメでしょ。ていうかこれ、アーティストの自由と民主主義を体現した、究極にオープンでありつつ、究極にクローズドな展覧会、て感じじゃなきゃダメなんじゃない? キタコレの《道》を思い出すな。

キタコレビルで行われた「Sukurappu ando Birudoプロジェクト 道が拓ける」より、Chim↑Pom《The pussy of Tokyo》(2017)

松田 公募にあたっては、そういう思想を共有してもらうことが参加の条件になりそうだね。思想がないと、アートでもなく、ただただ「卯城を刺したい」ってやつがきちゃう(笑)。

卯城 マジで? 勘弁してよそんなクソサブカルラディカリスト......。てか、日本がつねに思想のないサブカルのカオスに陥りがちだってのは、それこそ木澤(佐登志)さんの『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』(イースト・プレス、2019年)にも書いてあったよ。例えば、ダークウェブ内の日本語掲示板「onionチャンネル」は、「2ちゃんねる」同様に無秩序じゃん。対して海外の掲示板は、話題はフォーラム形式で、ドラッグやヘイトや児童ポルノについてでさえ、モデレーターが管理するんだって。

松田 議論の当事者であれってことだろうね。カウンターカルチャーが、日本では思想ではなく「悪趣味」として消費されている好例じゃね?

 そんな無秩序な「場」をつくるだけじゃ、カウンターでもなんでもないし、「ダーク」が世の中に必要であるってことにもならないよ。ダークアンパンには、思想を共有する「規約」なんかが必須かもね。あとは会期中に一般に開放する場として、こういったテーマについて大会議的に議論できたりするところがあると最高じゃない?

卯城 たしかに。ていうか、これからもChim↑Pomも松田くんも、活動のメインの場はやっぱり表層にあるでしょ。けど、こういう試みこそ、表層自体を揺さぶるんじゃないかな。

松田 まぁ、究極のアートを提案しようとするときに、活動拠点の法や空気なんてリミッター優先で考えることが、良いことだとは思えないし。僕が初めてアートを面白いと感じたのは、世の理から外れた存在に思えたからなんだ。

 鑑別所を出所してすぐの保護観察処分中に、ケースワーカーに連れられて行った美術館で(笑)、裸像の彫刻や写実系の油絵などそのときの僕でもわかる「お芸術」が並んでるなかで見た、落書きみたいなピカソの絵! ピカソなんて名前も知らなくて。ベンツの車がなんで高いかくらいはわかる年齢だったけど、ピカソはまったくわかんなくてウケた。自分がこれまでに培った知識や常識がカンケーなくて、「これは面白い」って感じたんだよね。そもそも人間自体が矛盾だらけの善悪の入り混じった「よくわかんない」存在でしょ。それを社会的動物として無理矢理理解するために、社会で理や常識を作ってる気がするけど、いつだってその矛盾はあるわけだよね。それを露わにするのがアーティストなんじゃないかと思う。いまはその矛盾に社会が向き合えなくなってる。

松田修、卯城竜太

卯城 善も悪も内在してるのに、どちらかだけ都合よくリプリゼントなんてできるわけない。清濁併せ持ってこそアーティスト、ていうか、それこそが人間やこの世の中じゃん。その無限の可能性を豊かなカオスだと信じれるセンスがアートなんじゃないの。でなきゃアーティストなんてもう必要ない。デザイナーがいればなんとかなるよ(笑)。

 思うんだけど、例えばChim↑Pomの未発表作も、それが「いま」の「表層」でお蔵入りしてるだけで、アートのモチベーションとしては、全人類とつながりを感じて制作したんだよね。だから、現状ダーク入りな作品だとしても、それは世界や人類の根本的なコアにはいまも全力で開かれている。逆にそういうブライトなアートをダークにしてるのは、この世の中じゃん。だから、ダークアンデパンダン展には、意外にも人類にとって逆にもっともブライトな作品が並ぶかもよ。それこそ、うちらがずっと話してきた「アーティストってそもそもなんだっけ?」ってクエスチョンそのものだから。


津田大介と語る、アーティストの新しい役割。The Public Times vol.8〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜

2018年、新宿・歌舞伎町のビルを一棟丸ごと使用し、「にんげんレストラン」を開催したことで話題を集めたChim↑Pom。彼らはこれまでも公共空間に介入し、数々のアートを展開してきた。本シリーズ「The Public Times」では、Chim↑Pomリーダー・卯城竜太とアーティスト・松田修が、「公」の影響が強くなりつつある現代における、「個」としてのアーティストのあり方を全9回で探る。第8回は、あいちトリエンナーレ2019の芸術監督である津田大介をゲストに迎え、現代における芸術祭やアーティストの役割について議論する。

構成=杉原環樹

あいちトリエンナーレ2019の参加作家であるウーゴ・ロンディノーネの《Vocabulary of Solitude》(2014-16) 個展「Ugo Rondinone: Vocabulary of solitude」(ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館、ロッテルダム、オランダ)での展示風景 Photo by Stefan Altenburger Courtesy of studio rondinone
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かつての雑多な雑誌。あれが自分にとっての「公」

——この連載では現在の芸術祭やキュレーション、大正から昭和初期にかけての前衛美術運動などに触れながら、美術や社会における「個」と「公」の関係について話してきました。今日は今年の「あいちトリエンナーレ」で芸術監督を務める津田大介さんをお招きして、議論をさらに深めていきたいと思います。

松田修 いまの「個」と「公」の関係って10年前より激変したと思うんです。それを考えること自体が、いまの時代にとっての「アーティスト(個)とはなんぞや」って議論に直結するなと思っていて。公権力、公共放送、公共空間なんかを運営する側は、表向きには「多様性」とか「個性尊重」とか言うんだけど、実際は自分たちの理解できない存在はハナから除外して、わかる範囲のなかで「公」を形成しようとしているところがあるのではないかと。そして、ほとんどの「個」も順応して、その「公」に当てはまろうとしてる。

卯城竜太 それはいまのアートフェアやビエンナーレと、アーティストとの関係性にも当てはまるよね。そんななかで僕らが興味を持ったのが、社会の抑圧や検閲が厳しく「公の時代」とも言えそうな、大正から昭和初期の前衛美術の動向だった。これまで日本の前衛美術というと戦後美術が注目されがちだったけど、戦後民主主義のなかで個人主義が尊重されたこの時代は、「個の時代」でしょ。ハチャメチャな個人が時代的にも望まれていた。だけど、現代は「公の時代」であるって感じているウチらは、バックグラウンドとして戦後より、戦前の大正あたりに親近感を抱いたわけです。ただ、日本では戦前と戦後の美術の間に、どこか「意識の断絶」があるように感じられる。その理由として前回の第7回では、戦争の総括の話も上がりました。

卯城竜太

松田 その「断絶」の理由に、「日本ではドクメンタをやっていないから」というひとつの仮説が立ったんだよね。ドクメンタは戦前ナチスに迫害された「退廃芸術」を戦後のスタートにあたり見直すことで始まった。でもそんなドイツとは違って、日本はこれだけ芸術祭が増えたいまも、自分の黒歴史を芸術祭として総括しないまま。

津田大介 僕も前回のドクメンタに行ったけど、すごいと思ったのが、芸術監督がポーランド人じゃない? しかも、テーマは「アテネから学ぶ」。これって、日本で言えば韓国人を芸術監督にして、「中国から学ぶ」をテーマにするようなもの。日本の芸術祭でそれをやったら炎上は必至だと思うけれど、そういうことが普通にできている。加えて言えば、その背景には、ドイツがギリシャをはじめとしたEU加盟国に緊縮財政を強いて、経済的に追い詰めたことへの贖罪――ドイツはギリシャを「文化的」にはリスペクトしているんですよというメッセージもある。芸術祭がたんなるお祭りじゃなくて、文化外交の場所にもなっているんですよね。前回のドクメンタ、内容的には賛否両論でしたが、初めて見る僕的には、芸術と政治、社会がシームレスにつながっていることが衝撃でした。

津田大介

松田 「現代のアートはそうでないと意味がない」くらい考えてそうですよね。日本とは真逆の状況かもしれない

 そんななかで、僕らが津田さんと話したいと思ったのは、津田さんが「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督になったということは、日本の芸術祭側も、業界内部のプレイヤーから芸術監督を選ぶと、いまの世界を測れないという意識があるんじゃないかと思ったからなんです。言い方はアレだけど、美術の門外漢というか(笑)、また違う「公」の意識を持った人を呼ぶことで、異なるサイクルをつくり出したいんじゃないかと。

松田修

津田 この連載の過去の回、全部読みました。まずは、この場に呼ばれたのは光栄なことだなと(笑)。というのも、ここは「アート番外地」だなと思ったからです。この連載でお二人は本来アートが持つ社会的機能について、核心の話をしていると思うんですが、日本のアート業界の中では番外地にいるように見える。自分たちは端っこにいるけど、それでもここから始めなければいけないという使命感のようなものを感じましたね。

 あと、対談で面白かったのは「多様性」と言いたがる人たちの多様性がいかに狭いのか――。ここをディスっている部分は、自分の問題意識とも近かったので、面白かったです。

——「多様性」の定義が狭まっているという問題意識が津田さんにもあったのですか?

津田 そうですね。我々メディア業界で仕事をしている人間もそうだし、美術業界の人も「多様性が重要だ」って言いがちなんですけど、実際に多様性が社会のシステムと衝突しそうになると、途端に日和る人が多い(笑)。その問題意識はあいちトリエンナーレのコンセプトともつながるんですけど、右も左も、わかりやすい結論に流れる人が増えましたよね。簡単に結論を出せない問題について考えることがどんどん許されない世界になっている。

 その土壌は間違いなくTwitterで、例えば『新潮45』(2018年8月号)の杉田水脈論文の問題にしても――もちろんあれはとんでもない論考以前の代物ということを前提としたうえで――かつてなら、次号や別の雑誌であの論に反対する論者を呼んだり、往復書簡をしたりしても良かった。雑誌には本来そういう機能があったわけですが、その情報の遅さにみんな耐えられなくなっていて、一過性の消費をしてしまう。

 「公」や「個」の話で言うと、そもそも僕は出自が雑誌ライターなので、雑誌が好きなんですよ。かつての雑誌って、こんなものを誰が読むんだという文章や、尖った記事がたくさんあったじゃないですか。ああいう雑多な感じこそが、自分の中の「公」だと思うんです。「公」は「雑」から立ち上がる、みたいな。自分は左派的あるいはリベラルな価値観を持っているけれど、そういう嗜好性があるので、自分が運営する媒体にはあえて違う価値観の書き手にも原稿を書いてもらっています。みんな好きな情報だけを見て、極端な人しか意見を言わなくなって、中立的な視点を持つ人が意見を言いにくくなっている状況に対して、違う場所をつくろうと思っている部分はあります。

ハッキングとしての芸術祭

松田 雑多な「個」が自然に集まって、「公」が成立することは、僕らも理想的なことだと考えています。いまは、あらかじめ想定された「公」に「個」をどう当てはめるかってことが進んでいて、そのなかでは「公」に受け入れられない「個」が当然出てくる。しかし津田さんは、そのあぶれがちな「個」を受け入れるもうひとつの「公」としての媒体を、オルナティブな意識でつくっている。そのあり方は、この連載にめっちゃリンクしますね。

 連載では、そのようにして生まれた新しい「公」が、もともとあった「公」にも影響を与えるような存在になったり、コレクティヴとしてアートプロジェクトを行ったりっていう話もしてきました。最近で言うと、楽曲の回収処分を受けた電気グルーヴの特集番組をやって話題になったDOMMUNEが記憶に新しい。DOMMUNEはそういう「公」でありつつ、宇川直宏さんというアーティストの「個」の一部ともとらえることができますね。

卯城 「個」と「公」の往復で言うと、僕たちはこの連載のなかで、コレクティヴや芸術祭のような複数の人から構成されている「公」的な取り組みが、場所を移すと「個」としてとらえられることの面白さを語ってきました。例えばChim↑Pomが参加している帰還困難区域での展覧会「Don't Follow the Wind」(以下、DFW)があるけれど、あれはいわば自分たちで国際展っていう「公」をやっているようなもの。だけど面白いのは、DFWが横浜トリエンナーレとかほかの芸術祭に呼ばれると、参加作家のひとり、「個」としてエントリーされるんですよね。つまり「公」のバリエーションを増やすということが、「個」のバリエーションを増やすことにもつながっている。ここには可能性があると思うんです。ただ、その意味で言うと、あいちトリエンナーレが今後、どこか別の場所で「一人の作家」として立ち上がることは想像しにくいようにも思うんですよね。団体が「個」としてカテゴライズされるには、何かしら自立した組織としてユニークに見えるからなのかなと思うんです。そういうインディペンデント性を団体があえて持つか/持たないかの違いなのかもですが。

「Don't Follow the Wind」より、艾未未(アイ・ウェイウェイ)《A Ray of Hope》(2015) Photo by Kenji Morita. Courtesy of the artist and Don't Follow the WInd.

津田 DFWのように明確なコンセプトを持った展覧会――「公」的なものが、展覧会内の参加作家――「個」になるという意味で言えば、あいちトリエンナーレ2019にもひと組、似たような枠組みを作家として入れているんです。具体的には、2015年に江古田のギャラリー古藤で行われた「表現の不自由展」です。これは、「慰安婦」問題や天皇、政権批判などのテーマを扱ったがゆえに、「公」的な美術館で展示できなかった作品を、その経緯とともに展示する展覧会なんですが、2015年以降、同様の問題はいたるところで起きている。より不自由な状況が増してきているので、2015年の展示をアップデートした「表現の不自由展・その後」をやることに決めました。現状あまり注目されてないですが、会期が始まったら間違いなくこれが一番物議を醸す展示になるでしょうね。

表現の不自由展(参考作品画像) 題字ロゴ(木版)=いちむらみさこ 2015年同展ポスターより

 「表現の不自由展」はもともと個人の有志たちが集まって行ったインディペンデントな企画でした。なぜインディペンデントな企画を行政が主導する公的な芸術祭に持ってきたのかといえば、ジャーナリスト、アクティビスト的な観点から問題提起したいという思いがあったからです。DFW的なインディペンデントな活動は、表現の自由の幅がどんどん狭くなってきているいま、「個」を確立するという点で重要度は上がっています。他方で、「公」をこのまま石頭の事なかれ主義が横行するセクターにしておいていいのかという問題から逃げてはいけないと思うんですよ。「公」がリスクやコストを取って「個」と協働する体制をつくらなければ、美術業界はアーティストにとってどんどん息苦しい場所になるんじゃないか――そういう問題意識がありました。

——インディペンデントな「個」の活動と、行政に代表される「公」の領域をぶつけることで生まれることがあるんじゃないかと。

津田 行政主導の芸術祭のなかにこうした「個」が最大限立った企画を放り込むことで「公」の凝り固まった部分を柔らかくする――この視点が大事だと思っているんですね。北川フラムさんがよく公言されていることに「地域芸術祭で大切なことは、行政からお金を取ってくること」というものがあります。この発言だけ切り取って「個」が「公」におもねっているように解釈する人もいるでしょうが、実際にフラムさんがつくっている芸術祭を見に行けばそんな芸術祭でないことは一目でわかる。

 行政と組むのは一見自由がなくなるし、実際にそういう面はある。違うレイヤーの問題としては、作家が土地の負の歴史も扱ってしまうがゆえに、地域との軋轢を生んだりもする。その複雑なバランスのなかでフラムさんは「個」と「公」の調整作業を20年以上行ってきたわけですね。調整プロセスのなかで、相手にお金は出させて口は出させない関係――新たな「公」を北川フラムはつくり上げたんだと僕は解釈しています。フラムさんがやったのは、ある意味で社会構造のハッキング。あの年齢になってもあの人はまだ現役の革命家なんだな、と。僕にはフラムさんのようなことはできないけど、フラムさんとは違うアプローチで凝り固まった「公」と「個」の関係を解きほぐせればいいなと思ってます。

津田大介

幅広い「情」を含んだ場所を、いかにセットするのか

卯城 とはいえ、行政と関わりながら芸術祭をつくり上げるうえでは、絶対に起こしちゃいけないことや、求められる結果もあるわけですよね? 「炎上しない」とか経済効果がどうとか。

 またまたドクメンタを比較対象にすると、運営する「ドクメンタ有限会社」も州による出資だけど、さっきも言ったような攻めたテーマや活動をすることができている。行政のアートリテラシーは日本とは断然違いますよね。そんな違いがあるなかでのハッキングって大変そう。

卯城竜太

 そもそも「炎上を回避する」ことと、今回のあいちトリエンナーレの「情の時代」というテーマの組み合わせは、すごく両立が難しそうですよね。津田さんはコンセプト文で感情の話も書いているじゃないですか。いまは人の感情が「公」の性質を変える時代だと思っていて、津田さんは溺死したシリア難民の少年の写真が欧州各国の世論を変えた例を挙げていたけど、最近では逆に、PC(ポリティカル・コレクトネス)の観点からマイノリティの感情が美術館という「公」の自主規制につながる事態も続出してる。あれも市民の怒りなど感情によっての話なわけで。

 多様性が進むほど、ひとりずつバックボーンや立場が違うから、「この作品がムカつく」「傷ついた」って感情が無数に出てくる。それと「作品の良さ」っていうアート側の視点は、いつも議論が平行線じゃないですか。感情って個別なもんだから、良いも悪いも本来はないはずなんだけど、「公」としてそれらを全部受け入れるとなると死ぬほど大変(笑)。「情の時代」と「公の時代」がどう両立していくのかは、めっちゃ気になるところです。

松田 言い換えると、アートが志向する非日常性やエクストリームな表現と、ある種の観客が求める穏やかな日常の両立は可能なのか、という問題。それはこの連載でもずっとテーマだったよね。

津田 それは自分がなぜ芸術監督を引き受けたかという話ともつながるんですが、僕がはじめて芸術祭や現代アートをきちんと見たのは、2013年に五十嵐太郎さんが芸術監督を務めたあいちトリエンナーレ(テーマ「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」)なんですよね。震災以降、自分はずっと東北で取材をしていたので、震災をテーマに美術家たちがどんな作品をつくるのか興味があった。

 実際に見てみたら、「わかるわかる」と膝を打つ作品ばかりで、自分に美術のリテラシーは皆無だったけどめちゃくちゃ楽しめたんです。取材で現地の人がどんな思いを持っているのか、そのリテラシーがあったから、すんなり鑑賞できたんでしょうね。アートとジャーナリズムは非常に近い位置にあると実感できたあの経験は僕にとって非常に大きなものでした。

卯城 アートっていうより被災地のリテラシーで見られたってことですよね。

津田 そうですね。先ほど美術とジャーナリズムはすごく近いと思ったと言いましたが、より正直に言えば、僕は五十嵐さんのあいちトリエンナーレを見て美術が羨ましいと思った。嫉妬したと言ってもいい。自分はジャーナリストとして東北を何ヶ月も取材して人間関係をつくって話を聞いて、2万字とかのルポを書くわけです。それが自分の「作品」になるわけですが、それを読むには数十分、どんなに早く読んでも10分程度の時間が必要になる。けれど、あいちトリエンナーレ2013で作品を見たときは、自分が時間をかけないと表現できなかった複雑さが数秒でわかる感覚があった。視覚芸術というのは、圧縮率が高くて伝えたいコアな部分を一瞬で届けるのに長けていると思ったんですね。

 ただ、これを美術業界の人に話すと、「いや、美術というのは遅いんです」と。ジャーナリズムは社会的な事件に対してすぐに原稿やテレビで届けられるレスポンスの速さがあるけれど、美術は何度も何度も咀嚼・圧縮することでようやくひとつの作品ができる。その表現としての速さの感覚の違いが面白かった。それを聞いて思ったのは、この二つの「速さ」の感覚をつなげられるんじゃないかということですね。

——美術とジャーナリズムの中間的な表現はもっとあり得るだろう、と。

津田 そうですね。テーマの話に戻ると、芸術監督を引き受けた際に思ったのは、できるだけ広く、かつ実際にトリエンナーレが開催される2年後にも古びていないテーマにしようということです。前回の横浜トリエンナーレの「島と星座とガラパゴス」が象徴していると思うのですが、2016年のトランプ政権誕生で、この2~3年ほど美術業界で「多様性」や「分断」をテーマにした試みが多く生まれていました。だけど僕は分断や多様性を前面に打ち出したくなかったんですよね。2017年の時点で2019年の夏を想像して、そのころまでに少しでもアートの力で分断が解消されるようなことは絶対にないと思ったからです。多様性は大事なものだし、分断は解消されるべきものだと僕も思いますが、そのことをアートでいまさら主張することにあまり意味を見出せなかったということかもしれません。

 進んでいる分断を内包することも含めて、その弊害を乗り越える枠組みをどうすればつくれるのか。そのことを考えているときに「感情」という単語が頭に浮かびました。ちょうど東浩紀の『ゲンロン0 観光客の哲学』を読んでいたこともあって、あの本で書かれているナショナリズムとグローバリズムの多層構造のなかにいかに誤配を忍び込ませるかといったことが全体のテーマになるといいなと。Twitterを見ていると、いまみんなすごく感情的になっていますよね。冷静なはずの学者や弁護士が、特定の話題になったとき感情的になる姿を見てしまって、嫌な気持ちになることが多くなった。だから今回は、感情化したいまの我々の世界そのものを扱おうと。

卯城 僕はその感情の津波に辟易するから、Twitterが苦手なんです。

松田 でも、Twitterにみんなが中毒的になるのは、テレビのような台本がある世界への反動があるからかもしれない。社会のいろんな場面で、段取りやマニュアルありきでしか進むことができない場面が多過ぎなんじゃない? 初期衝動や感情のまま動けないというか。その反動で、Twitterで感情が渦巻く。

津田 もちろんそういう側面はあるでしょう。ただ、それすらも自発的な初期衝動なのかは疑わないといけない。それってたんに何かを引き金にしてコントロールされたものなんじゃないですか、っていう。昔からそうですが、感情を渦巻かせるメディアって儲かるんですよ。なぜ我々の感情が沸き立つかと言えば、メディア経由で情報を知ることがほとんどのきっかけになっています。新聞、テレビ、インターネット。つまりは「情報」を知ることで我々は感情的になる。このことに思い至ったとき、「情報」にも「感情」にも「情」という共通する言葉があることに気がつきました。気になったので語源辞典を買ってきて意味を調べたら、情という漢字には「感覚によっておこる心の動き(→感情、情動)」といった一般的な意味に加えて「本当のこと・本当の姿(→実情、情報)」という意味があることがわかった。加えて「情」にはもうひとつ「人情・思いやり(→なさけ)」という意味もあった。この感情より先に出る憐れみの気持ち。その三つの意味がこの言葉にあるとわかったとき、「情の時代」でいけるという感覚を持ったんです。

あいちトリエンナーレ2019メインビジュアル

 「情の時代」をテーマにすれば、感情を喚起する作品も、情報をモチーフにした作品も、人間にとって大事に憐れみの感情を思い出させる作品も可能になる。みんなが感情的になっていることに対して落ち着けという作品も、いや、感情的になるのは仕方ないという作品も、どっちもOK。そこの価値判断を僕はしないようにしていて、テーマと合っていれば、アーティストの受け取り方は自由でいいだろうと。

多くの人が、議論や軋轢を嫌うようになっている

卯城 そこでどれだけ本当に雑多な感情を抱えられるのかという部分が、「津田トリエンナーレ」の醍醐味ですね。

津田 自分の本職はジャーナリストで、つまりは表現することで食べている人間であるわけです。だから当然アーティストには自由につくってもらえればいいな、と思っているわけですが、同時に全体のディレクターでもあるので、観客に対して配慮する必要もある。

 具体的には「炎上」対策をどうするか。あいちトリエンナーレで言えば、前回(2016年)にブラジル人アーティストのラウラ・リマの、実際の鳥を使った生体展示作品が炎上しました。そういう展示の方法や表現の仕方は誰にでも受け入れられるものではないし、芸術祭の規模が大きくなれば必然的に軋轢も起こり得る。ただ、そのこと自体はこれだけの規模の芸術祭では不可避なことだろうし、いちいちそういうことに対してアーティストがリスクマネジメントする必要はないと思うんですよ。そういう仕事は僕や事務局がきちんと理論武装をして、応答できる体制を整えればいいわけですから。

あいちトリエンナーレ2016でのラウラ・リマ《フーガ》展示風景

卯城 今回の津田トリエンナーレにも、ヤバいプランを出した人はいるんですか?

津田 まあ、ほとんど答えを先に言ってますが、実際に始まって一番ヤバい展開になるとしたらやはり「表現の不自由展・その後」でしょうね。もちろんそれだけでなく、政治的なタブーを扱う作品や、際どい立場の人々をテーマにしたいというアーティストもいます。ただ、アーティストに覚悟があるならこちらは止める道理はない。あとは何が問題かと言えば、事務局がクレームを恐れるので、そのへんは事務局と僕がどこまでなら許容できるのかすり合わせる作業の繰り返しという感じですね。事務局には「最悪、事務局の手に余る厄介なクレームがきたら僕のケータイ番号教えてそこにかけさせろ」と言ってます。

卯城 津田さんのケータイ(笑)。そういう関係性は大事ですよね。広島での「ピカッ」騒動時は、美術館は「作家が決めたこと」って逃げたし(笑)。

松田 クレームはある意味しょうがないですよね。普段芸術が「わからない」とか、「興味がない」という人が、作品見て急に「これは芸術じゃない!」って怒り出すことって、個人的には必要なことだとも思う。やっぱアンタにも「芸術観」があるやんけっていう......。

津田 それって、半分はその作品が成功しているってことでしょう。人の心を何かしら動かしているってことだから。ささくれであっても共感であっても、人の心を動かすのが表現ということでしょうから。

卯城 アーティスト論の話になるけれど、こないだ20代前半の藝大生と一緒に飲んでて、その子は「アートが感情を逆撫でしていい理屈がわからない」って言うんです。

 別にそれがいまの20代の「芸術観」を代表してるわけじゃないけど、なんかいまの状況へのリアリティは感じましたね。

津田 ジャーナリズムも同じ問題を抱えていますね。大学で教えるようになって10年近く経ちますが、彼らと話していて感じるのは、若い人にジャーナリズムが響かないのは、彼らはそもそも「批判する」という行為そのものが嫌だという面が大きいということです。いまの学生は僕らの頃とは比べ物にならないくらい賢くて優秀で真面目。そして、非常に寛容で多様性を認めている。でも、これは「多様性の罠」でもあるんです。彼らはLGBTも同性婚も選択的夫婦別姓もOKだけど、モリカケ問題や統計改竄も公文書隠蔽もOKなんです。厳しい言い方をすれば、自分の身に直接火の粉が降りかかってこない問題についてはなんでもOKなんです。でもそれって「多様性」か?っていう。

津田大介

 社会学者の友枝敏雄さんが高校生を対象にアンケートの定点調査をやっていて、その結果が個人的にはショックだったんですよ。例えば、「日本の文化・伝統はほかの国よりも優れている」の問いには、2001年が29.1パーセントで13年が55.7パーセント、「太平洋戦争の件で日本は謝罪すべきか」の問いには、2001年が64.5パーセントで13年が39.7パーセント。つまり、主従が逆転しているんだよね。なかでも僕が一番ショックだったのは、「校則を守ることは当然」という質問で、2001年は68.3パーセントなのに対し、13年は87.9パーセントになっている。

松田 マジすか(笑)。

津田 芸術家になるのは、(「校則を守ることは当然」と考えない)こっちの人間でしょう。もちろん、決まりを守る人が増えるのは別に悪いことではない。でも、問題なのはクリティカル・シンキングがなくなることですよ。校則は守ることは当然と答えた87.9パーセントには、そもそも校則がおかしかったらどうするんだ、という考えがない。そもそもおかしな校則は破って良いし、法律だっておかしければ変えられる。それこそが民主主義の本質でしょう。僕はいまの若い人にはとても期待していますし、実際に若者と交流しもしないで「最近の若いヤツは情けない」とかいう老害は全員早く死ね!と思ってますが、若い人に「多様性」と「現状追認」をごっちゃにしている人が多くなっている印象はありますね。

卯城 なるほど。なんかそれって「日本の」若者っぽいなとは思いますね。ウチらが高校生のときだって、そういう人はけっこうマジョリティでしたし。ただ、アートを語るときに、日本とか身近な材料がリアリティの大部分を占めちゃってるのはヤバい気がする。情報はこんなに多いのに。

 こないだニューヨークに行ってたんですが、ホイットニー美術館ではいま、8週にわたって館内でデモが行われてますよ。作品に対してじゃなく、普通にシリアやメキシコ問題で当事者の企業がスポンサーしてることへの美術館批判として行われている。それだけ美術館が公共空間として認知されてるってのも日本から見ると違和感だけど、校則どころじゃなくて、これ、美術館のルールはシカトですからね(笑)。法的にはアウトなのかもだけど、邪魔したら美術館にとっても悪いPRになるでしょ、だからセーフっていう。つまりグレーが多いんですよね。帰国日も「420Day」ってメジャーなマリファナデイで、みんな公共空間で吸いまくってたし。もちろんそれも暗黙の了解(笑)。

松田修、卯城竜太

松田 そういうグレーは、日本ではどんどん漂白されてきていますね。日本では、学校や美術館などの場がどういう場所かを試したりする前に、見切りをつけすぎるのかもしれない。で、優秀でその場を窮屈に感じる人は、その場を変えるより海外に出るんじゃないかな。

 それと、「批判しない」っていうのは、「批判されたくない」ってことの裏返しにも思える。社会の「ナイーブ化」はこれからも加速していきそうだね。それこそ「傷つく」ということにもっと過敏になるというか。ブロックや分断、クラスタ化が容易になったのも、ナイーブ化の加速要素だし。だからこそ、美術館や芸術祭には、そういった賛否の議論を生むような価値観を、ゾーニングしてでも提示する役割も担っていてほしいと思う。まぁ、僕のやる「ファリックアート」とかは、ハナから美術館でやれるなんて思ってもいないけれど(笑)。

「講」の重要性

津田 その意味で、おふたりの「あいちトリエンナーレはどこまで幅広い作品を受け入れるの?」という投げかけは、テーマ的に考えても、クリティカルな部分を突いていると思いました。

卯城 アーティストのラインナップ的には、そういう意味でもめっちゃ期待してますよ(笑)。

津田 2年前、芸術監督が僕だと発表されたとき、アート業界は賛否両論――ボロクソに言う人もすごく多かったですね。だけど、コンセプトを発表して、参加作家を公開するにつれて、「あれ、意外と通好みで良いじゃん」みたいな反応が増えていった。

 ありがたい反応ではあるんですけど、僕はその反応見てヤバいなと思ったんですね。アート好きからのお墨付きは、いわば「はみ出し」がないということでもあるから。ふたりの対談を読んでいて共感したことなんですけど、やっぱり僕はきれいなだけの多様性は嫌だし、ジェントリフィケーションもクソだと思うわけです。とはいえ、いまではアートや芸術祭が行政という権力と一体化してそのお先棒を担いでいるような状況もある。だから、あいちトリエンナーレ2019では、芸術祭がもたらすジェントリフィケーションの暴力性や欺瞞性に対して自己言及的に触れる作品も入れられるといいなと思ってます。うまくできるかどうかは蓋を開けてみないとわからないですが......。

あいちトリエンナーレ2019参加作家である毒山凡太朗の《君之代-斉唱-》 (2019) ©BontaroDOKUYAMA

松田 その意味では、僕のファリックアート云々の話も、べつに美術館とインディペンデントなシーンを分けたいわけじゃなくて、その間をつないだり、行ったり来たりするようなほうがいい、って話なんですよね。

津田 おそらく二人がずっと話しているのって、「公」と「個」をつなぐ中間的な存在があり得るのかということなんじゃないかと思うんですよね。あえてここでダジャレ的に投げかけをすると、「公」でも「個」でもなく、それって頼母子講とかの「講」――コミュニティとしての「講」が鍵になるんじゃないかと。

 東北を取材すると、いまも大昔に生まれて、その子孫しか入れない「講」が残っていて役割を果たしている。アートコレクティヴがいま注目される理由も、それと無関係ではないだろうし、アートとパブリックの関係が強まるなかで、その対抗軸や媒介になり得るものとして、コミュニティとしての「講」が求められているんじゃないかな。

松田 なるほど。議論を呼ぶエクストリームなアーティストと、ナイーブになりすぎた社会とを、組織的な「講」が結ぶってのは、理想的な話ですね。それが津田さんにとっては、美術業界にあまりしがらみのない門外漢が率いることで、中立的な立場から行える「あいちトリエンナーレ」であって、手法的には観客のクレームなどへの理論武装の準備や、外から見た美術業界への提言だったりすると。

あいちトリエンナーレ2019参加作家であるCIR(調査報道センター)の《The Box》(2014) Director: Michael Schiller Photo by The Center for Investigative Reporting

あいちトリエンナーレは、美術業界への長期潜入取材

津田 芸術監督を任されてからはじめは悩んだんですよ。美術業界にしても、行政の公務員という存在にしろ、あまりにも自分が仕事をしてきたメディア業界と文化が違うから。でも途中で「自分のつくりたい雑誌をつくれば良いんだ」って思うようになってから楽になりました。僕が編集長で、いろんなアーティストを呼んで台割りを立てて、「情の時代」という特集をつくればいい。冒頭はインスタ映えするグラビアから始まって、巻末にはピリリとするコラムもある。特集本体には読み応えのある政治的なオピニオン記事もあれば、ほかに柔らかいコラムもある。そんな風に右も左も、硬も軟も含められるようなバランス感覚で、内容を考えています。

 もともと僕みたいな門外漢がなぜ呼ばれたかといえば、アートの業界に外から刺激を与えてくれってことでしょう。実際、初代芸術監督の建畠晢さんはそのことを公言されてますよね(*)。「あるジャンルの専門家を育成するには、そのプロセスにおいて出来る限り他のジャンルのイベントのキュレイションなりプロデュースなりを、短期間であっても経験させておくことが望ましい」「次世代の柔軟な発想をもつ“専門家”たちが、スーパー芸術監督として羽ばたく日を楽しみに待ちたい」と。

津田大介

 建畠さんの言う「専門家」とは、キュレーターのことを指しているので、つまり、僕は咬ませ犬として来ているわけですよ(笑)。その役割は自覚していますし、実際自分は美術業界に何のしがらみもないから、いくら嫌われてもかまわないと思っています。悔いが残らないよう思い切ってやるしかないなと。

 と同時に、もう少しメタな視点から言えば、僕の本業はジャーナリストなので、準備期間も含めたこの3年間は、一種の美術業界や行政の巨大文化事業への長期潜入取材とも言えるんです。世間の常識とはまるで違う力学で動く、不思議な世界への潜入取材。正直、困惑したり、腹が立つこともかなり多いわけですが、そこで学んだことはきちんと業界にお返ししないとな、と思ってます。

松田 そんな津田さんが、アーティストに期待することはなんですか?

津田 やっぱり、僕らが見えないものを見えるようにしてくれるということですね。今回の参加作家のジェームズ・ブライドルなんかは、普段はジャーナリストとしても活動しています。取材をしてエビデンスを取って、「WIRED」なんかにルポのような記事も書いている。そういうジャーナリズムと現代美術の距離の近さって、海外では当たり前なんですよね。でも、日本でアートとジャーナリズムの境界線上でそうした活動を自覚的にできているのって、宇川直宏さんのDOMMUNEとかChim↑Pomぐらいじゃないですか。ほかにいるのかもしれないけど、なかなか自分の視界には入ってこない。

あいちトリエンナーレ2019参加作家であるジェームズ・ブライドルの《ドローン・シャドー002》(2012、イスタンブール、トルコ)

 僕がアーティストやキュレーターと一緒にリサーチしていて思うのは、アーティストはジャーナリストや報道からリサーチの方法を学ぶべきということですね。反対に、ジャーナリストや報道側はアーティストから発想の仕方やコミュニケーションのプロトコルを学ぶべきだと思います。お互いがお互いの弱い部分を学ぶことでそれぞれの質が高まっていくはずなので、トリエンナーレでそのあたりを積極的に混ぜられれば。

松田 たしかにアーティストのコミュニケーションのやり方は、我流で面白いものが多いですね。Chim↑Pomも、基本海外でオフィシャルなガイドは雇わないとかね。

卯城 ガイドにコミュニケーションを任せて、上手くいった試しがない(笑)。だから、自分たちで面白そうな場所を探して直接行ってみる。次に、ウチらと相性の良い現地の人を見つけて、現地におけるコミュニケーションの方法を学ぶって感じ。

津田 僕がChim↑Pomを良いと思うのは、キャプションも含めて、アートに関心のない人もきちんと巻き込もうとしていること。それは雑多な「公」の話にもつながる。美術館に行くと、ポエムみたいなキャプションが多いじゃないですか。僕は、あれが本当に嫌で嫌で仕方がないんです(笑)。結局最後まで読んでもわからない説明添えるぐらいだったら、作品名だけにしてくれと。

 今回はラーニングチームがいるので、中学生が読んでも理解できるようなキャプションをつくろうとしているんですけど、キュレーター陣は納得しかねる部分もあるようで......。このへんのバランスは難しいですね。

松田 キュレーターの人たちは、たぶんいろんな背景を踏まえてトリエンナーレが行われている、という風に見てもらいたいんでしょうね。そもそも美術の世界って、何かを知らないってことを言いづらい雰囲気があるし。

卯城 うちらの話してきた大正の前衛美術もそうだもんね。キュレーターの人たちとかアート関係者にその話をすると、明らかに何も知らなそうなのに、「あの人が詳しいよ」とか言って、話を逸らそうとする人も何人かいた(笑)。

津田 最初に「アート番外地」と言ったのもそういうことで、二人はとても例外的で、一般的な現代美術の業界はすごく閉じていると思いますね。人間関係的にも慣習的にも。美術の人が言う「パブリック」って、美術の世界での「パブリック」でしかないように僕なんかからは見える。自分の普段の仕事はできるだけ間口を広く、わかりやすく何かを人に伝えることだから、そういう自分なりの問題意識をパブリックにつなげていく方法論を美術業界とうまいかたちで共有できればとは思いますね。

あいちトリエンナーレ2019参加作家であるアイシェ・エルクメンの《On Water》(2017、ドクメンタでの展示風景) Photo by Roman Mensing/Münster

「公づくり」という、アーティストの新しい役割

——卯城さんと松田さんは、今回、津田さんと話してみていかがでしたか?

卯城 大きい社会における「公」のあり方が変わるなかで、美術業界っていう「公」自体も変わらないといけないところにきているのは、あらためて感じた。そのとき、津田さんはアーティストには比較的自由にやってほしいって言ってたけど、アーティストもそれぞれ「個」として変化しないといけないと思っていて。いままで通りの普遍的な「個」のエクストリームの振り幅って、岡本太郎とかネオダダとか会田(誠)さん路線というか、やっぱり「個の時代」が生み出したスター観としての意味合いが強い。それはアーティスト像としてベストだけど、「公の時代」に生まれた若手はもうそうもいかないでしょ。

 最近の一連の騒動に対する(石野)卓球のツイッターは痛快だったけど、若い頃の電気グルーヴが出てるテレビ番組をYouTubeであらためてみたら、ヌードもセクハラもなんでもありだからね(笑)。そういう(時代の)土壌が産んだ「個」のエクストリームなわけで。神聖かまってちゃんのの子以来、メインストリームからはそんな存在感持った人は消えた印象がある。

津田 だからと言って、アーティストがみんなSEA(ソーシャリー・エンゲイジド・アート)に走ればいい、って話でもないですしね。

卯城 そうそう。会田さんに匹敵する「個」の概念をこの時代にどう生み出すか。そのインパクトを持ちつつ、アーティスト像を新しく解釈しないといけない。その実験こそが、たぶん「公の時代」の社会における「個」のニュータイプの実践なんだろうなと。

松田 そうだね。僕が津田さんの話を聞いていて気になったのは、社会が議論や摩擦をとにかく避けるように、雑多な感情をブロックし続けるとどうなるかってことで。その雑多性の漂白は、その国のアーティストの種類が減るってことにつながるんじゃないかと思う。社会全体で、そういう危機感を持つべきなんじゃないかな。

 そのうえで、僕はやはりふざけたいんですよね(笑)。絶望を前にしてふざけられないと、僕はもう狂うしかないから。その舞台は僕はどこでも良いと思っていて、芸術祭でもネットでも、もっといろいろやれることがあると思う。

卯城 いまみんな、知らず知らずのうちにキュレーションや公共空間の中で、取り替え可能な「個」になろうとしてるでしょ。そこから生まれる「公」の未来図やかたちって、かなり全体主義に近くなるんですよね。

津田 まったくそのとおりで、もうすでにこの社会は、20世紀とは異なるかたちのファシズムに突入してると思いますよ。権威主義国でもないこの国で9割近くの人間が「ルールは守らなきゃ」って思っている。端的に言って気持ち悪くないですか? そうやって、議論や政治性など、異質なものが漂白されたディストピアになりつつある日本の美術業界に何が必要かと言えば、それはアンデパンダン展的なものではなくて、日本版ドクメンタなんじゃないですかね。「個」で見れば優れた作家はたくさんいるけど、それが「公」と結びつく機会があまりにも少ない。「公」が育ってないということでしょう。番外地の人たちが、テーマ性を強く打ち出しながらつくる日本版ドクメンタが見たい。

 この2年間、いろいろな展覧会を見てきて思ったのは、キュレーターが企画した展覧会より、アーティストが企画した展覧会の方が自分好みだったってことですね。それは僕が日本版ドクメンタが見たいと思っていることと関係があるんじゃないかな。

卯城 アーティストの役割って、作品はもとより、もはやそういう個を生み出す状況づくり、つまりは「公や講づくり」って側面もありますもんね。

津田 Chim↑Pomは作品よりキュレーションの方が面白い可能性すらあるよね。アーティストやアーティスト・コレクティブが自発的に集まって、まさに「公」のようにして、ドクメンタのような場所をつくる時代が来るんじゃないか。その胎動みたいなものは感じます。

8回にわたりお届けしてきた連載「The Public Times」。最終回の次回は、津田大介との鼎談を終えた卯城と松田がこれまでの連載を踏まえ、「公の時代」におけるアーティストの可能性を独自に見出し、新たなアートの姿について語る。

*ーーhttps://www.artscouncil-tokyo.jp/ja/library/column-interview/30162/

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