341.便利
「――ゼオン君の弟子か……」
異界からやってきた光点を片付け、そして朝食を取る。
それからはまた待機である。
魔人の腕開発実験、二日目。
クノンがロジーに講義を乞い、彼の声を聞き流しつつ。
アイオンはさりげなくクノンを見ていた。
――ゼオンリーの弟子。
アイオンにとってのクノンは、ただそれだけの存在だった。
それを除けば、ただの多数いる特級生。
特に注目することもない。
そういう意味では、シロトも似たようなものである。
二年後、三年後はわからないが。
今はまだ、知識も実力も、そこまで気になるものではなかった。
図書館で再会したのも、ただの偶然。
背伸びして、必死になって上の棚の本を取ろうとしていた下級生クノン。
たまたま通りがかった上級生アイオンが、それを助けた。
出会いはそんなものだ。
ゼオンリーの弟子だから接触したわけでもない。
それから、会えばクノンは声を掛けてくるようになった。
立場上、アイオンはあまり色々しゃべれない。
だから特に突っ込んだ話もしなかった。
クノンの活躍も、それなりに聞いていたが。
顔見知りではあっても、それ以上の関わりはなかった。
一番有用な情報と言えば。
「自由の派閥」に所属していることを明かした、くらいだろうか。
正確に言うと、アイオンは生徒ではないのだが。
まあ、その辺はどうでもいい。
あのゼオンリーの弟子。
水属性で二ツ星。
英雄の傷跡で目が見えない。
特級クラス入りするくらいには優秀。
情報だけ聞けば、特に気になることはない。
強いて言えば、視覚の代用をどうしているか、くらいだが。
それこそ、アイオンにはそこまで引っかかることはない。
己の目に異常はないから。
左目に入っている呪紋以外は。
ただ。
いや。
冷静に考えれば。
あたりまえじゃないか。
あのゼオンリーの弟子が、ただの特級生なわけがない。
干渉値0に限りなく近づけた魔属性を、感知した。
それだけでも恐ろしい。
とてつもなく優れた感知能力である。
――危なかった。本当に。
魔属性の奥に隠した、ほんの小さじ一杯ほどの闇属性。
それに気づかれるところだった。
もし気づかれたら、グレイ・ルーヴァに怒られるところだ。
もうめちゃくちゃ怒られたことだろう。
きっと泣くほど怒られた。
クラヴィスにすっごいイヤミを言われたりもしただろう。
想像もしたくない。
「……」
心なしかロジーと目が合う。
気のせいだと思いたい。
アイオンが肝を冷やしていることを、見抜いている……はずはない、と、思いたい。
とにかく。
迂闊な魔術は使えない。
特に、クノンの魔術に干渉する時は要注意だ。
違う意味でも、アイオンは気を張る必要がありそうだ。
「――アイオン、何か悩み事かね?」
急にロジーに名前を呼ばれて、嫌な意味でドキッとした。
前触れなく声を掛けてくる辺り。
やはりロジーには見抜かれているかもしれない。
彼には、アイオンが焦る理由が、わかっているから。
「いえ別に……」
見抜かれていないことを信じるしかない。
…………。
これが終わったら。
グレイ・ルーヴァや彼女の直弟子たちには言わないよう、口止めを頼んでおこう。
一応、念のために。
昼食が済み、しばしの時が流れた。
講義に疲れたロジーが黙ると、地下は静かなものである。
いい感じに腹が膨れて。
気疲れで神経が疲労していて。
冬ではあるが、空調が聞いているので寒くもない。
これらの条件が揃うと。
やはり、ちょっと眠くなってくる。
実際ロジーは、椅子に座り、頬杖をついてうとうとしている。
本を読んでいるシロトも、何だか眠そうだ。
アイオンも、かなり眠い。
「……」
元気なのはクノンだけだ。
今は床一面の魔法陣を書き写すのに忙しいらしく、メモに必死だ。
若い子は元気だな、とアイオンは思った。
思った後に、自分の年齢を自覚して、少し後悔した。
――早く彼を迎えに行きたい。
――迎えに行かないと。
――年齢的に、彼の子供が産めなくなるかもしれない。
まあその時は養子でもいいか。なんならゼオンリーと二人きりの老後でもアイオンは構わない。いやむしろそっちの方がいいかもしれない。彼と二人で暮らし、大きな犬でも飼えばいい。田舎で二人きりでもいいが、都会の方が彼には合っているだろうか。その場合は全財産をはたいて屋敷を買って使用人でも雇おう。でもゼオンリーに色目を使う使用人は全員アレだ。アレしてやる。そして――
「クノン」
眠気を帯びた妄想が、まるで夢のようにめくるめいていたその時。
シロトがクノンを呼んだ。
「少し眠くなってきた。眠気覚ましに風呂を頼んでもいいか?」
「風呂?」
寝ぼけていた頭でも、気になるフレーズだった。
「いいですよ。僕の魔術であなたが綺麗で美しく、そしてたくましくなるのなら」
たくましくはならないだろう、とは思うが。
綺麗で美しくはなるだろう。
「――ありがとう」
シロトの干渉範囲に発生した、大きな「水球」。
温かそうな湯気が立っている。
彼女は躊躇なく、その中に入った。
「あぁ……立ったまま服を着て入れる風呂は、面倒がなくていいな」
シロトが「水球」に入ると、ごぼごぼと吹き上がる泡で満たされた。
あれは洗浄魔術の「洗泡」だろうか。
「……クノン、私も……」
見ていたら、というか。
一目見て羨ましいと思ったアイオンは、自分にもくれと注文してみた。
長丁場の実験だ。
まともな風呂など諦めていたのだが。
入れるものなら入りたい。
たとえ、普通の風呂ではなくとも。
「どうぞ」
すぐ横に発生した「水球」に、まず手を入れる。
素晴らしい。
少しぬるめで、人体に優しい温度だ。
「これ、脱がなくていいの……?」
入る時はいいだろう。
しかし、出た後が大変だ。
幸いここには風魔術師がいるので、髪を乾かすのは楽なものではあるが。
しかし、服まで乾かすとなると。
掛かる手間が多すぎる。
一応警戒中でもあるのだから。
「大丈夫ですよ。服や髪の乾燥までがセットですから」
乾燥までが風呂。
「便利……」
もう躊躇う理由はない。
アイオンは水球型の風呂に飛び込んだ。
「洗い物なんかも一気に済むんですよ、それ」
「便利……!」
シロトがクノンを誘った、本当の理由。
それはきっと、これだ。
いや。
これも含めて、か。
生活に密着した、自由自在の水。
それがこんなに有用だなんて、今まで知らなかった。
長丁場に、クノンは欲しい。
素晴らしい人選だと言わざるを得ない。
――あのゼオンリーの弟子は、あまり派手さはないが。
とても優秀な魔術師だった。