329.彼女の背後には
「嬉しそうですね、クノン様」
「わかる? 紳士感がいつもより出ちゃってる?」
「かなり出ちゃってますよ~。そんなに出しちゃって~。出しすぎですよ~」
「そう? 紳士すぎてごめんね。でも君の美味しそうな匂いには敵わないよ。ベーコンの匂いがすごくするよ」
「それは目の前のサンドイッチからだと思います」
「あ、そうか」
はっはっはっ、と笑い合うクノンと侍女リンコ。
――いつもより、少しだけご機嫌な朝だった。
遠征から帰ってきて、約一週間。
すっかり旅の疲れも癒えて、ディラシックでの日常に戻ってきた頃である。
クノンは毎日学校へ行き。
リンコも近所付き合いをし、噂話やご近所トラブルに首を突っ込む毎日だ。
そんな中。
いつもの朝食のテーブルに着くクノンは、何やら機嫌がよさそうだ。
「今日からちょっと忙しくなるんだ」
「また実験ですか?」
「そうなんだ。すごく楽しみにしていた実験でね、いよいよ始まるんだ」
――リンコとしては、機嫌がいい理由がわからないが。
何せ、日を追うごとにクノンがボロボロになっていくのだ。
目に見えて疲労が蓄積し。
顔色も悪くなり。
受け答えの数も減る。
そして指摘しても「平気、大丈夫」と答えるばかりだ。
リンコからすれば、やはり心配が先に立つ。
魔術の実験とは、そんなに大変なのか。
ディラシックにやってきてからは頻繁に起こっていることだが。
それでも、慣れる気がしない。
ただただ心配だし、大変そうだと思うばかりだ。
「長く掛かりそうですか?」
「うーん。どうなんだろうね。どれくらい掛かるんだろう。そもそも今度の実験はかなり特殊だから……」
と、クノンはサンドイッチを持ったまま固まった。
考え事をしているのだろう。
たまにあるので、リンコは気にしない。
「――期間はわからないけど。でもまあ、ディラシックから離れることはないから、毎日帰ってくるよ。
リンコに会えない一日なんて、僕にはなんの価値もないからね」
「またまたぁ。それみんなに言ってるんでしょう?」
「今日はまだ君だけだよ」
まあ、そんなこんなで。
機嫌の良さそうなクノンは、今日も元気に家を出て行った。
――実験が始まれば、どんどん疲れて元気がなくなっていくのだが。
ちょうどよかったな、と思う。
魔術学校へ向かう最中、クノンはここ数日のことを振り返る。
――ここ数日、クノンは「超軟体水球」のレクチャーに追われていた。
質問に答えたり、アドバイスしたり。
色々と聞きに来る人が多かったので、その対応をしていた。
おかげで、一人二人はクノンの水ベッドを完全再現するに至った。
やはり特級クラスの生徒。
クノンが長年かけて習得した魔術を、ほんの数日で身に着けて見せた。
いいものを見た、とクノンは思った。
魔術の完全再現、完全複製。
ちゃんと伝えられればできるんだな、と。
魔術の新しい可能性を見た気がする。
これからは、図書館にあるレポートを見る目が変わりそうだ。
あれもこれも完全再現できるかもしれないから。まあ、見えないが。
――だが、その後。
毛無しデカネズミの件で揉め始めたのは、ちょっとわからないが。
どうにもあの水ベッド。
あれは毛無しデカネズミがセットになっている、と考える者が多いらしい。
いざ「超軟体水球」を習得したとなれば。
自然と、そちらも教えてほしい、という方向へ話が流れ。
そして始まった。
不毛な争いが。毛無しだけに。
やれ毛無しがいいだの、毛ありがいいだの。
毛ありでも、もっと長く、もっと毛を長く、と唱える長毛派が乱入してきたり。
更には、ネズミ派と、ネズミ以外がいい派。
この二つの思想を持つ者たちが、全面抗争の姿勢を見せたり。
急に乱世と化した教室から、同期ハンクとリーヤが逃げたり。
クノンを見捨てて逃げ出したり。
――まあ、そんなこともあったりなかったりしたが。
とにかく、これでクノンが学校へ来る理由が減った。
教師サトリの言う通りだ。
あの睡眠提供の商売は、クノンの時間と行動を大きく制限していた。
だが、「超軟体水球」を使えるのはクノンだけではなくなった。
だからこれで廃業だ。
需要に対する供給源が増えた。
もうクノンが対応する必要がないのだ。
とてもお世話になった商売だ。
気に入ってリピーターになってくれた人も多かった。
何より、たくさんの女性と知り合いになった。
特級クラスの生徒であれば、知らない女性はいないくらいに。
未練がないと言えば噓になるが。
でも、肩の荷が下りた、という気持ちの方が大きかった。
――そんな引継ぎを、あるいは店じまいを進めていたのだが。
シロトから連絡があったのは、昨日である。
学校の前に、二人の女性がいた。
「あ、シロト嬢」
片方は、約束していたシロト・ロクソンだ。
ここで落ち合うことになっていた。
そして、彼女の隣にもう一人。
非常に上背のある女性が佇んでいる。
「おはようございます。アイオンさんと会えたんですね」
そう。
背の高いもう一人は「自由の派閥」のアイオンだ。
いつも図書館で会っていた。
だから、陽の下で会うのは、少しだけ違和感を感じる。
「ああ。クノンが探してくれたんだろう? ありがとう」
「探したというか、人に頼んだだけですけどね」
教師クラヴィスに頼んで正解だったようだ。
「ここにいるということは、アイオンさんも協力してくれるんですか?」
「そうだ。私たちとロジー先生がチームになる」
なるほど、とクノンは頷く。
開発する物は、腕だ。
造魔学の教師が手伝ってくれるなら、安心である。
ただ、なかなかの面子だと思う。
「魔属性が二人いるんですね。希少属性が二人なんて豪華ですね。
しかもアイオンさんは素敵なレディでもあるわけですし。背も高いし。天に愛されてますね」
「そうだな。……ん? ロジー先生とアイオンさんの属性を知っていたのか?」
「あ、当たってました? なんとなくそう感じてました」
言いつつ――危ない、とクノンは思った。
これからの実験で浮かれているせいで、少々口が軽くなっていたようだ。
「鏡眼」のことは秘密だ。
ゆえに、「鏡眼」で見えるものも話せない。
魔属性の見えるものは、恐らくは死者……のようなもの、だと思う。
間違いない、とまでは言えない。
希少属性だけにサンプルが少ないから。
だが、今のところは共通している。
たとえば、「実力の派閥」のジュネーブィズ。
彼には、背後から口を押さえる女性が憑いている。
ロジーの見えるものは、骸骨だ。
無数の骸骨が、車椅子に座る彼の足元に、まとわりついていた。
まるで地の底に引きずり込む、かのように。
なかなか衝撃的だった。
そして、アイオンは――
「あの、クノン君、これからしばらく、よろしくね……」
囁くような声のアイオンを、クノンは見上げる。
「はい、よろしくお願いします」
アイオンは目隠しをされている。
背後にいる、黒い花嫁衣裳を着たガイコツに。