心に深い傷を受ける体験をすると、幸せになることより「二度とあんな目には遭いたくない」という思いが強くなって、人生全般が及び腰になる。人間関係も、楽しむことより「失敗しないこと」「ちゃんとやること」「自分のダメな部分を露呈させないこと」が優先されてしまって、体も心も緊張する。緊張と努力はセットだから、うまくやるために更に知識を詰め込み、更に緊張させる。本当の楽しさには、緊張も努力も要らない。楽しさは、心も体も軽くする。

十年以上前、躁鬱病と椎間板ヘルニアと失業のトリプルパンチで、体も心もズタズタになって半年間寝たきりの時期を過ごしたことがある。あの頃は「人生は終わった」と思い込み、人間はこんなにも眠れるのかと驚き呆れながら毎日二十時間以上寝た。だが、ビリーズブートキャンプのおかげで奇跡のＪ字回復を果たし、体を動かすことが心に与える力の凄さを実感した。ズタズタになっていたのは体と心だけで、魂は無傷だった。実家で療養を終え、再び東京に出たいと思った。だが、怖さもある。また、躁鬱病になったらどうしよう。また、椎間板ヘルニアになったらどうしよう。また、失業や失恋や借金に苦しむことになったらどうしよう。そう思うと、緊張と恐怖で身体はすくみあがった。

様々な言い訳が生じる。このまま実家にいればいいじゃないか。親も喜ぶ。生活も安定する。仕事もある。金も貯まる。またゼロから東京でやり直すより、よほど安全で、よほど安心だ。だが、同時に「安心するために生まれた訳じゃない」という思いもある。また、あんな目には遭いたくない。怖い。だが、怖がったままでは前に進めない。何かを得るためには、何かを捨てることだ。えいやっ。私は、安心を捨てた。その代わりに「愛があれば大丈夫」と、おまじないのように唱え続けた。安心を捨てても、愛は残る。愛こそが俺の居場所であると念じ続けて、裸一貫、再び東京でやり直すことにした。

再び上京した私の目には、すべてが違って見えた。安心を求めて彷徨っていた時より、よほど自由に遊び始めた。自転車に乗り、興味のある美術館や喫茶店や建築物を散策し、観光客のように東京を楽しんだ。一度は死んだ体である。拾った命だ。当たり前だが、安心を求めて海外旅行する人はいない。安心が最優先事項なら、家にいるのが一番だ。安心とは違う、広い世界に触れたいと言う思いが、家を飛び出させた。狭い部屋を抜け出したら、広い世界があった。今いる場所だけが世界ではないと言うことを、頭ではなく、体と心でしっかりと感じられた。自分を愛することだなんてどうでもよくなり、東京を、日本を、世界を愛するようになった。

だが、自由に快活に遊び続けた私は、再び家と金と仕事を失って、ホームレス生活に突入することになった。その後の顛末はここに書いた。自由に快活に遊び続けた私は、自由に快活に遊び続けるホームレスになった。自暴自棄になることはなかった。過去の体験から、自分次第で世界はどうにでもなることを学んでいた。もっと金が貯まったらとか、もっと痩せたらとか、もっと頭がよくなったらとか、もっと時間に余裕ができたらとか、自分を条件付けで愛するようになると、人のことも条件付けで愛するようになる。条件をつけるのは、安心したいからである。だが、条件付きの安心は幻想だ。愛は無条件。何かがあるから愛するのではなく、何もなくても「愛があれば大丈夫」と唱え続けて、広い世界に飛び出して行く。人が見たら「お前の生き方は全然大丈夫じゃない」と言われるのだろうが、今、私は生きている。先のことはわからない。だが、先のことはわからないのは、みんな同じ。生きている『今』が、一番大切。愛があれば大丈夫。毎日がゴールで、毎日がスタートだ。愛こそが俺の居場所であると唱えながら、裸一貫、今日も家を飛び出すのである。