324.第一校舎東端の階段、二階と三階の踊り場
サトリの研究室を後にしたクノンは、第一校舎にやってきた。
古めかしい木造建築である。
年季を感じさせるこの校舎は、魔術学校設立の際に建てられたらしい。
学校の敷地内には、建築物も建造物もたくさんあるが。
その中でも最古のものが、この第一校舎である。
古いだけに、校舎内施設も時代遅れとなり。
今では利用者はかなり少なく、人の出入りもごくわずかだ。
入ればわかるが、非常に暗い。
窓はあるのに、差し込む陽光が非常に弱い。
昼時であろうと真っ暗である。
軋む床板。
ボロボロの校舎。
廃墟、と言うには綺麗だが。
しかし、異常さは感じられる。
――そんな場所だけに、出る。
ここは何かがおかしい。
誰であろうと、ここに来れば、本当にすぐにわかる。
「あ、こんにちは」
廊下を歩いていると、すーっと「何か」が真横を通り過ぎた。
その「何か」に、クノンはにこやかに挨拶する。
「鏡眼」では見えない「何か」。
気配だけしか感じない「何か」。
第一校舎には噂がある。
幽霊や怪異、あるいは魔術実験で生まれた謎の生物がいる、そうだ。
そんな噂があるおかげで。
その手の話が好きな生徒が、時々来るとか来ないとか。
――まあ、見えないクノンには、あまり関係ない。
いや、厳密には関係ないこともないはずだが。
とにかく。
クノン自身はあまり気にしていなかった。
気にしたって見えないのだから、気にするだけ無駄だと思っている。
それに、これまでたくさん遭遇してきている。
珍しくもなんともないのだ。
謎の気配、人以外の気配なんて。
今更意識することもない。
――たとえ、人魂のようなものに囲まれていようとも。
――たとえ、背後からヒタヒタと何かが付いてくる足音がしても。
――たとえ、すぐ真横から、何かの強い視線を感じていようとも。
「何か」の気配をまといながら。
クノンはぎしぎし軋む廊下を歩き、階段に差し掛かる。
「ああ、ありがとうレディ」
「何か」が手を差し出してきたので、クノンはその手を取る。
とても冷たい手だった。
背筋まで凍り付くような、とても冷たい手だった。
紳士を助けようという者である。
ならばきっと、相手は素敵な淑女である、とクノンは思っている。
――たとえ、そのレディには手しかないような気配を感じても、気にしない。
女性は女性だ。
たとえ、手だけであっても。
「あまり冷やさない方がいいですよ、レディ。時間があれば僕が温めてあげたいところです」
そんなことを言いながら、
「何か」の手に引かれて、クノンは階段を上る。
ちなみに、彼女の冷たい手を取るのは、二回目である。
前にここに来た時も。
この手がクノンをエスコートしてくれたから。
階段を上り、立ち止まる。
東端の階段、二階と三階の踊り場。
クノンの目的地はここだ。
正面に、割れた大きな鏡がある。
いや、もはや鏡とは言えないかもしれない。
割れたそれは、ほとんどが失われ。
枠の端っこに、申し訳程度に残るばかりだから。
「――クラヴィス先生、いますかー?」
その、残った小さな鏡の破片に、クノンは声を掛けた。
「クラヴィス先生、クラヴィス先生。いませんか先生」
と、何度か声を掛けてみると。
ザッ
クノンの周囲にある気配と。
未だ握っていた「何か」の手が、霧散するように消え失せた。
まるで光を向けられた影のように。
「呼んだかい? クノン」
そして、聞き覚えのある声がする。
クラヴィスが現れたら、「何か」はどこかへ行ってしまった。
前回と同じく、クラヴィスは急に現れた。
これも何かしらの魔術なのだろう。
だが、今のクノンには、見当もつかない。
「急にお呼び立てしてすみません。
先触れはいらないって言っていたので、直接来ましたけど……」
「構わないよ。そもそも先触れが出せる場所じゃないからね、ここ」
――というより生徒が入り込める場所じゃない、とクラヴィスは思っている。
この第一校舎には、幽霊も怪異も、謎の生物もいるのだ。
本当に、噂の通りに。
生半可な胆力と度胸の持ち主では、二階まで来れない。
一階でさっさと引き返している。
まともな生徒では、二階と三階の踊り場まで来れないのだ。
よくクノンは平気だな、と思うばかりだ。
これも、見えないことで培われた人生経験の賜物なのだろうか。
そんな疑問を抱くくらいである。
「何か用かな? また楽しい勝負事のお誘いかい?」
そして。
ここまで来れる生徒がいるなら、教師として話は聞く。
それがクラヴィスのスタンスだ。
「いえ、人を探していまして。
先生はアイオンさんって知ってます?」
「アイオン? ああ、知っているよ」
よかった、とクノンは肩を撫でおろした。
来た甲斐があった。
サトリの言う通り、クラヴィスは彼女のことを知っていた。
「会いたいんですけど、紹介していただけませんか?」
「ああ、構わない。
ただ彼女の都合もあるから、すぐに会えるかはわからないよ?」
クノンは「わかりました」と頷く。
それは仕方ないだろう。
急に呼ばれても、予定によっては動けないこともあるはずだ。
なんなら遠征に出ていたり。
学校にいない可能性も充分考えられる。
「今日から五日の間に会えれば助かるんですが」
「わかった、伝えておこう。
――もしかしてシロト・ロクソンの件かな?」
「あ、もしかして事情を知ってます?」
クラヴィスは、造魔学のことを知っている。
前回は、その辺の繋がりから、彼を訪ねてきたのだ。
この第一校舎に来て。
クラヴィスの名前を呼びながら歩いたのである。
――クラヴィス先生は第一校舎にいる。
前回はそれだけの情報から探しに来て、会えたのである。
そして、本人から教えてもらった。
――「東端の階段、二階と三階の踊り場の割れた鏡が、私の部屋だよ」と。
今度からはそこに来い。
先触れもいらないからいつでも来ていいよ、と。
なんだかよくわからなかったが。
言われた通り、クノンはそのまま覚えた。
疑問の全てを飲み込んで。
どうせ聞いたって教えてくれないだろう。
未熟なクノンが知るには、早いから。
「彼女の腕を造る、って話が出てまして。
その辺の事情からアイオンさんに用事があるみたいです」
そう言いつつ、そういえば、とクノンは思う。
アイオンを探している、とは聞いたが。
なぜ探しているかは聞いていない。
色々と気になるが、まあ、いずれわかるだろう。
「そうか。では、近くシロト・ロクソンに会いに行くようアイオンに伝えておこう。
用件はそれだけかな?」
「はい。お忙しいところありがとうございました」
クノンの用事は、これで終わりだ。
クラヴィスも忙しいだろうから、さっさと引き上げることにする。
「実験が始まったら時々様子を見に行っていいかな?」
「ああ、どうでしょう? 僕の主導じゃないから、勝手に許可を出すわけにはいかないんですよね」
「そうか。残念だな」
そんなやり取りをして、クノンはクラヴィスと別れた。
「……面白い逸材だなぁ」
見送るクラヴィスの先に、遠ざかる小さな背中がある。
クラヴィスから離れる一歩ごとに。
校舎の住人たちが、彼の周りに集まってくる。
よくもまあ、あれで平然と歩けるものだ。
魔術師としては、まだまだだ。
だが、とても面白い魔術師に育ちそうで、今から楽しみである。
そう思いながら――クラヴィスはそこから消えた。
そして、第一校舎は暗くなる。