317.出発の朝
「――なんか久しぶりだね、こういうの」
一瞬、本当に錯覚してしまった。
幼少期の己と。
よく面倒を見てくれた侍女と。
まるであの頃に戻ったのか、と。
「そうですね。クノン様を起こすのは、二年ぶりでしょうか」
出発の朝。
頼んでおいた通り、クノンの部屋に、使用人が起こしに来てくれた。
来たのはイコだった。
彼女の声で起きたクノンは、思い出してしまった。
彼女との生活を。
二年前は、これがあたりまえだったのだ。
そう――ほぼ二年ぶりだった。
イコと再会はしたものの。
あの頃のように、付きっ切りではなくなった。
だから、あまり意識することも、感傷に浸る機会もなかったのだが。
「またイコとお別れか。寂しいな。こんなにも寂しい思いをするなら、僕らは出会うべきではなかったんじゃないかって思っちゃうよね」
「それ本気で言ってます?」
「本気だったらイコを連れて帰りたいなーなんて思わないよ。旦那さんも一緒にさらっちゃおうかなーなんて考えないよ」
「え、夫婦まとめてですか? 欲張りな紳士ですね」
あっはっはっはっはっ、と笑い合う二人。
朝支度を始めるクノンと。
それを手伝うイコ。
あの頃の朝のように。
そして、帰り支度をする。
イコもそれを手伝う。
――お互い、一抹の寂しさはあったが。
しかし、また会えることがわかっているだけに、さらりとしたものだった。
少なくとも二年前よりは。
部屋を出ると、クノンは屋敷中をさまよった。
「ミリカ様をよろしくね」
ミリカが連れてきた使用人ローラ。
侍女リンコの婚約者ユークスと、イコの夫アーリー。
騎士ダリオとラヴィエルト。
文官ワーナー。
開拓地でよく話した相手を探して挨拶し、ミリカのことを頼んでおく。
本来は、ここはクノンの領地である。
近い将来、そうなる。
だからこそ、言っておく。
自分の代わりに頑張っているミリカを頼む、と。
「――レーシャ様は王都に帰らなくて大丈夫なんですか?」
そして、廊下で捕まえた王宮魔術師レーシャには、そんな世間話もしてみた。
「今のところはね」
今のところは大丈夫らしい。
「レーシャ様の実験や研究は、ここでもできてますか?」
実は、ずっと気になっていた。
魔術学校で満足いく実験、研究ができているクノンだ。
設備も器具も、資料も。
相談する相手も、仲間も。
すべてが揃っている環境とは、本当に得難いものだと痛感している。
それだけに、開拓地に置かれている彼女はどうなっているか。
この状況をどう思っているのか。
少しばかり返答が怖くて、なかなか聞けなかったのだが。
ついに、聞いてしまった。
「ええ。まあ実験っていうか、魔術そのものをね」
――そして、そんなクノンの葛藤を、レーシャは察していた。
同じ魔術師だ。
魔術師だけに、考えることはそれなりに似ているのだろう。
「黒の塔にいた時は、書類とか机とかと向き合うことが多かったけど。ここでは魔術そのものと向き合ってるの。
面白いわよね。
色々と学んできた今だからこそ、風魔術の可能性を無限に感じる。
鍛え甲斐も開発し甲斐もある。
……まあ開拓作業の合間に、だけどね。そこは仕方ないわね」
実際は、多少不足もあるのだろうと思う。
もちろん時間もそうだろう。
ここで雑事に追われて、自分の時間を捻出するのも大変だと思う。
しかし、レーシャは、納得しているようだ。
だったらもう、クノンから言うことはない。
ただ。
「レーシャ様」
「何?」
「多機能豊穣装置のことは内密にお願いしますね」
ミリカのことを頼むのもあるが。
彼女には、この件も念を押しておきたい。
――王宮魔術師としてかなりまずい取引をした、と思う。
その取引を経て、あの魔道具開発に参加することを許可したのだ。
細々条件はあるが。
具体的に言えば、条件は一つだ。
他言無用。
これだけだ。
この件がバレたら、レーシャの立場上、大変なことになる。
「王宮魔術師なんてやめてもいいから参加したい!」とは言っていたが。
さすがに、本当にそうなったら。
寝覚めが悪いどころの話ではない。
王宮魔術師は、国一番の魔術師である証だ。
そう簡単には慣れないし、そう簡単にやめていい役職でもない。
「大丈夫、大丈夫。黙ってればバレないって」
――レーシャ様は時々こっちが不安になるくらい軽いなぁ、とクノンは思った。
深く考えているのか、いないのか。
そこからして謎である。
「ミステリアスなレディだ。その神秘のヴェールをめくる幸運な男は誰なのかな?」
「それよりアレの開発はどうするの?」
「もちろん続けます。壊れたけど、あれはあくまでも試作品の一つですからね。
でも……すぐはちょっと無理かも」
そろそろだろう。
そろそろ、約束を果たす時期が来ているはずだ。
きっと、学校に戻ったら、すぐに。
「調和の派閥」代表シロト・ロクソンとの共同開発が始まると思う。
「忙しい?」
「そうですね。一緒に何かしようって約束をしています」
「わかる。私も魔術学校にいた頃は――」
想定より少し長い立ち話を経て、クノンはレーシャと別れて食堂へ向かう。