前回の続きです。後半に、アイがとあるキャラと出会います。
アイとこの子のやり取りは、この作品の中でも特に書きたかったシーンの一つでした。
そうか、その手は考えてなかったな。なんて、どこか他人事のように、総司が口にしたその言葉を、頭の中で反芻した。
アイドルを辞めようと考えた事なんて、当然だけど一度もなかった。
でも、そうか。─────アイドルを辞めれば、もうこんな思いは二度としなくて済むんだ。
「─────」
気持ちが、流れていく。
心地よさを求めて、あの苦しみから逃れるために、楽な方へと流れていく。
元々は誰かを愛し、誰から愛されるような人間になりたくてアイドルになったのに、生まれて初めて出来た友達を傷つけ、その友情と愛情も失ってしまった。アイドルを辞めれば、あんな思いはしなくて済む。誰かを傷つけずに済む。
それなら、いっその事─────
「──────────」
アイドルを辞めれば、もうあのステージに立つ事は二度とない。私を応援するファンにも二度と会えない。
ずっとレッスンの為に通っていたスタジオにも、苺プロダクションにも、行く事はない。
向こうはどう思ってるのかは分からないけど─────私にとっては大切な仲間達にも、二度と会えない。
「あ─────────」
そして、アイドルを辞めてしまえば、きっと総司にも会う事はなくなる。
総司の連絡先は持ってるけど、そういう問題じゃない。
アイドルじゃなくなった私は、総司にとって、会う価値がある人間じゃなくなる。
「───────嫌、だ」
手放したくない。
アイドルになってから手に入れたものが、私にはたくさんある。全て、大切なものだ。
その大切なものを、私は何一つ手放したくない。
皆の中心になってステージに立つ、あの気持ちよさ。
一斉に沸き立つファン達の歓声を浴びる、あの感覚。
これから先も、何度も味わいたい。ううん、少し違う。
たとえその為に、誰かを傷つける事になろうとも。
「───────ははは」
「…答えは決まったか」
「うん。それと私、初めて気付いたよ」
胸の内から込み上げてくる笑いが、口から零れ落ちる。それを聞いた総司が、鋭い視線を和らげ問い掛けてきた。
私はその質問に頷いて返してから、真っ直ぐ総司を見て続ける。
「私、物凄く欲張りかもしれない」
「…」
驚いた様に総司は目を丸くする。
かと思えば、次第に目が細まっていき、やがて私を見るその視線が明らかにバカにしているものへと変わっていく。
「散々俺を財布扱いしておいて、今更気付いたのかこの不調法者」
「総司。そこは私をバカにするんじゃなくて、もっとこう、応援する所じゃないのかな」
「俺だってそうしたかったわ。お前が気付いた事がそれじゃなかったらな」
総司は大きな溜め息を吐いてから、切り分けたステーキを口に含む。
「…ほら、お前も食えよ。冷めるぞ」
「あ─────いただきます!」
さっきまでの話の最中、すっかり忘れていた。今、私は総司に美味しいお肉を奢って貰えるんだった。
それなら、もうこんな暗い話は止めにして、このお高いお肉を堪能しなきゃ。
「星野。一応確認させろ」
「ん?」
「─────俺は、お前に期待しても良いんだな?」
総司の真似をしながらフォークとナイフを動かして、総司程に静かに出来ずとも切り分けたステーキを味わっていたその時。
総司からそんな質問が投げ掛けられた。
私はしっかりとお肉の味を味わってから飲み込み、自然と湧き上がって来た笑顔と共に一言。
「勿論!」
これから何度も、私は今日のような気持ちを味わうだろう。何度も迷って、揺らいで、絶望する事だってあるかもしれない。
でも、自信を持って言える。私は、その気持ちに負けてアイドルを捨てる事は、絶対にない。
「…それならいい。今日の出費の価値があったみたいで、安心した」
少しの間、私の目を見つめてから、総司は表情を緩ませながらそう言った。
「私を心配してくれたんだ」
ちょっとした悪戯心と共に、総司をからかってみる。
すると総司は、視線を落としてお肉をナイフで切り分けながら口を開いた。
「当たり前だ」
「…へ?」
開いた口から出てきたのは、思わぬ一言だった。
そんなストレートな返答ではなく、もっとこう、誤魔化しの言葉が返ってくるって思ってたのに。
「お前は苺プロの稼ぎ頭なんだぞ。ここでリタイアされちゃ困る」
「─────」
本当に心配してくれてたんだ、と嬉しい気持ちとちょっぴり恥ずかしい気持ちで、胸が暖かくなったのも束の間。
続いた総司の言葉が私の心に冷たい北風を齎す。
「稼ぎ柱って。ヒカルを苺プロに引っ張り込んでおいて、そんな事言っちゃうんだ」
「あいつを招いたのは、B小町の立て直しをする時間稼ぎの為だ。勿論、それからも働いてもらうつもりだが」
「ふーん…?」
ヒカルを引き抜いたのは私達の為だって言うけど、何かこう、スッキリとしない。
胸がもやもやして、総司の言葉を素直に受け入れる事が出来ない。
「じゃあ、私とヒカル。どっちに期待してる?」
それで、私の口から勝手にこんな質問が出て来た。別にそんなの、どちらでもいいのに。
総司が私とヒカルのどっちに期待しようと、私がやる事、やりたい事は何も変わらないのに。
「将来的にはお前」
「─────え?」
「だから、お前の方がいつかは売れるだろうって言ってる」
私はその答えを期待しつつ、心のどこかで、どうせヒカルの方が期待されてるんだろうな、なんて諦めていた。
だけど総司は何の迷いもなく、その声でハッキリと、私に期待してるって言ってくれて─────
「…お前、なに笑ってんの?」
「笑ってない」
「いや、笑って「笑ってない」…分かった、お前は笑ってない」
自覚はしてたけど、総司にも気付かれてしまった。
それを指摘しようとする総司を有無を言わさずに封殺して、とりあえず一息を吐く。
─────どうしたんだろう、私。確かに他人に期待されるのは嬉しい事だけど、それは
「…総司。今日は総司の奢りなんだよね?」
「今日
「ステーキもう一枚頼んでいい?」
「は?いいけど…大丈夫なのか?」
「大丈夫。私、お肉大好きだし。今日はちょっとたくさん食べたい気分なんだ」
「…それも今日
総司の呆れた声には耳を貸さず、私はチャイムを鳴らして店員を呼ぶ。
私達がいる個室へやって来た店員にステーキの追加を注文し、私は再度今手元にあるステーキに集中する。
「どうでもいいが、食べ過ぎで腹を壊すのは止めろよ。明日は休みだが、体調管理はちゃんとやれ」
「大丈夫。私、お腹壊した事なんてないから」
「…」
総司の微かな不安が籠った視線も無視して、私は食べる。食べる。食べる。
とにかく食べに食べた事だけは、
「どこ、ここ?」
気付けば私は、全く見覚えのない場所で寝ていた。
広々とした空間は殺風景で、椅子にテーブル、本棚、パソコン等、最低限の物しか置かれていないその部屋の中に置かれたこのベッドは、所謂キングサイズというやつではなかろうか?
とにかく、私はそのベッドの上で寝かされていた。
「なんで?え?何が起きたの?」
部屋の中には私以外誰もおらず、その状況が私の混乱を更に助長させる。
待って、良く思い出して私。
昨日…昨日でいいんだよね?とにかく、私は総司とお肉を食べていた。
ずっと私の中で燻っていた悩みは、総司が受け止めてくれたお陰で解消して、スッキリした気持ちでお肉を食べまくった。
それから私は─────私はどうしたんだろう?ステーキをお腹一杯食べてから眠くなって、それから…覚えていない。
「…このベッド、すご」
頭を働かせている内に幾分か冷静さを取り戻した私は、改めて周囲を確認する。
部屋の中に最低限の家具しか置かれてないから殺風景に感じていたけど、壁には綺麗な装飾がされていて、床も紫のカーペットが敷かれている。
テーブルの下にはこれまた綺麗な装飾が施された絨毯が敷かれ、この部屋そのものはかなり豪華に彩られていた。
そして何より、今私が乗っているこのベッドだ。このマットの柔らかさ、乗っているだけで気を抜けば眠ってしまいそうだ。
それにこのベッドの大きさも尋常じゃない。まさか、この部屋の主はこのベッドに一人で寝ているんだろうか?
…何それ、凄く羨ましい。頼んだらこのベッドを切り取って半分くらい分けてくれないかな?
さて、と。この部屋の中を見回してる場合じゃなかったな、私。
まずはここがどこなのかの確認と、家主の人と話をして私をここに連れて来た目的と、早く帰してもらわないと。
「入るわよ、総司。話があるのだけれ─────」
「え─────」
なんて考えていたら、突如部屋のドアが開かれ、一人の女の子が入って来た。
靡く黒髪は一切の澱みなく、対照的に白いその肌には一切のシミはなく、そして私を見るその視線は鋭く、どうしようもなくどこかの誰かさんと重なって見えた。
…というか今この子、総司って言った?
「何者かしら」
「え?えっと…」
「いえ、ここに居る時点で分かり切ってるもの。狙いは総司、ですか」
狙いって。私は第一、ここがどこなのかも分かっていないのだけれど。
でもこの子の口振りからして、多分ここは総司の部屋だ。だとすると、私をここへ連れて来たのは総司という事になる。
なら、この子が誰なのかは分からないけど誤解をしているみたいだし、まずは事情を説明しないと。
「私は─────」
「どうやってここへ入り込んだのかしら?ここのセキュリティは万全の筈なのだけれど」
「入り込んだも、私は─────」
「まさか、内通者が…?すぐに総司に報告すべきね…」
「えっと、その総司さんが─────」
「黙りなさい。貴女が話して良いのは、私が良いと言った時だけ。後でゆっくりとここに来た目的と誰の差し金で来たのか。そして、誰の協力を得てここに入り込めたのか、吐かせてあげるわ」
「…」
話を聞いてくれない。思い切り敵視されてる。総司は私を部屋に連れて来てる事を誰にも話してないのかな?
話しといてよ!お陰で私は犯罪者に見られてるんだけど!?
「かぐや」
「っ、総司!良い所に来たわ。貴方の部屋に侵入者よ」
「は?侵入者…って」
だけど、神は私を見捨ててはいなかった。
ここでタイミング良く、贅沢を言えばもっと早く来て欲しかったけれど、総司が戻って来た。
総司はかぐやと呼んだ女の子の話を聞いて一瞬視線を鋭くさせるも、私の顔を見てすぐに表情を緩ませる。そして、小さく溜め息を吐いた。
「かぐや。そいつは俺の部下だ」
「は?」
「え?」
部下?
総司のその一言に私も戸惑い、かぐやちゃんと一緒に声を漏らした。
「昨日、そいつと面談をするために青山の肉屋に行ってな。そいつ、食い終わったと思ったらぐーすか寝やがったんだよ。住所も分からんし、調べるのもめんどくさいから連れて来た」
「…総司。そういう事は事前に言っておきなさい」
「だって、帰って来た時お前寝てたし。あぁ、早坂には知り合いを部屋に寝かせとくってちゃんと伝えておいたぞ。まさか早坂から何も聞いてなかったのか?」
「聞いてません!まったくあの子は…!」
良く分からないけど、やっぱり私をここに連れて来たのは総司だった。
そして私は、お腹一杯食べた後に寝てしまったらしい。それを総司がここまで運んで─────運んだ?総司が、私を?
…どうやって?
「とにかく、スパイの類ではないのね?」
「あぁ。そいつのお頭はそこまで良くない」
「根拠があれだけれど…分かったわ。貴方が言うのなら、信じましょう」
総司との話が纏まり、かぐやちゃんが私の方を向く。
「大変な無礼を致しました。貴女には詫びをしなくてはなりませんね」
「あー…。気にしなくていいよ。総司がかぐやちゃんに話してなかったのが悪いんだし」
「…呼び捨て。ちゃん…?」
「お前が店で寝たのは棚に上げるのか」
「あー、あー、聞こえなーい」
総司が何か言ってるけど聞こえなかった。聞こえなかったったら聞こえなかった。
「…総司と随分仲がよろしいのね」
「そうかな?まあ、もう二年くらいの付き合いだもんね」
「二年…。そうですか」
かぐやちゃんが横目でちらっと総司を覗く。総司がその視線に気付いて見返すけど、かぐやちゃんは何も言わずにただじっ、と総司を見つめるだけ。
「どうした?」
「いいえ。ただ、貴方の妹として、心の準備が必要かもしれないと思っただけです」
「?」
総司が首を傾げる。私もかぐやちゃんが何を言ってるのか分からない。
それよりも、今、かぐやちゃんは聞き捨てならない一言を口にしていた。
「やっぱり、かぐやちゃんは総司の妹だったんだ。一目見た時から似てるって思ってた」
「双子ですから。似るのは当然です」
最初、私を見たかぐやちゃんの鋭い眼差し。黒くて綺麗な髪もそうだけど、総司と重なって見えた。
総司も何度か妹がーって言ってた事があったし、何となくそうなんだろうなって思ってたけど、やっぱりそうだった。
「総司とは、どのような経緯で知り合ったのですか?」
「え?総司とはね─────」
「…なるほど。貴方もたまには正義の味方ごっこをするのですね。お可愛いこと」
「黙れ」
総司と知り合った経緯を話した後は、そこから二年間、総司とどんな交流をしたのかをたくさん話した。
「総司にはたくさん美味しいものを食べさせてもらったよ」
「総司、貴方…そんな財布みたいな─────」
「みたいな、じゃなくて事実財布だったぞ」
「聞きたくなかった!?」
美味しいものを食べさせてもらった他にもどんな話をしたか、や、一度デ〇ズニーに連れてってもらった事や、総司との出来事をたくさん、たくさん話した。
「…随分たくさんありますね。総司、貴方が休日によく出掛けていたのは─────」
「そいつに振り回されてた」
「…断れば良いものを」
吐き捨てるように、かぐやちゃんは一言そう言った。
実際、その通りだと思う。私は何回も総司を誘ったけど、総司から私を誘った事は昨日以外は一度たりともなかった。
総司はよく、自分は忙しいとか、不調法者がとか、私に色々言っていた。
なのに総司は、私に付き合ってくれた。
「総司は優しいから」
「…優しい?」
「うん。総司は優しいよ?普段ぶすっとしてるけど、たまに笑うと可愛い顔になるし」
「…へぇ?」
「星野、少し黙れ」
ほら。今もそうやって厳しい言い方をするけど、実は恥ずかしいだけだって知ってるんだから。
「昨日だって、総司は私を助けてくれた。…そういえば私、お礼言ってなかった!」
「そんなものいらん。これからお前がしっかり働いてくれればそれでいい」
「総司。良い事をされたらお礼を言わなきゃいけないんだよ?」
「…え、俺今、お前に常識を諭された?」
総司がショックを受けた顔になる。…どうしてだろ?
「総司。ありがとう」
「…さっきも言ったが、これからも働いてくれ。俺が望むのはそれだけだ」
「はーい!星野アイ、これからも頑張りまーす!」
エールというには寂しいけど、総司が私に期待してるという事だけはハッキリと伝わって来た。
だから、私にはそれで充分。他の誰の言葉よりも、総司のその言葉が私に力をくれる。
「…星野さん、貴女」
「あ、かぐやちゃん。星野さんなんて他人行儀じゃなくて、アイって呼んでよ。総司にも言ってるけど、いつまで経っても呼んでくれなくてさ」
「…アイ、さん?」
「…かぐやちゃん、可愛い!」
「ちょっ、アイさん!?離してください!」
「やだー!」
何か言い掛けてたけど、私を下の名前で呼ぶかぐやちゃんが可愛すぎてつい抱き着いてしまった。
かぐやちゃんが私を引き剥がそうとするけど、両腕に力を込めて更に抱き寄せる。
「言い忘れてたけど、シェフに頼んで星野の朝飯を準備して貰ってる…聞いてないな」
やがて、かぐやちゃんが私を剥がすのを諦めて、私は総司が止めに入るまでかぐやちゃんを抱き締め続けた。
そして、かぐやちゃんを離してから総司に連れられて食堂へ向かう途中、頼んでみた。
「かぐやちゃんを私の妹にしていいですか」
「ダメだ」
断られた。