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魔術師クノンは見えている 作者:南野海風

第九章

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313.幕間  最後の一滴まで





 最後の一滴まで。


 一滴ずつこぼれる雫は、水面に王冠を作り。

 凪ぐ。


 永遠にも感じられる、その繰り返しを経て。


「……ふう」


 大きな酒樽を逆さにしていた女は、それを地面に下ろした。


 余すことなく注いだ。

 最後の一滴さえ、残さずに。


 小さな、大ジョッキほどのサイズの樽に、なみなみ満たされた琥珀色。


 芳醇で重い香りだ。

 華やかでいて軽やかに、しかし存在感がある。


 その辺の安酒ではない。

 王族や、高位貴族が呑むような、上質な酒である。


「――ダメだ!」


 見ているだけで、ついつい手が伸びてしまいそうになる。


 女は知っている。


 あまりにも蠱惑的。

 巨乳美女の色香に迷う男の気持ちがわかるような、背徳感のあるその味を。


 ――呑んでしまえ。


 己の欲望が囁く声を無視し。

 小さな樽に蓋をして、革袋に入れて、しっかり密閉する。


「危なかった……」


 また欲望に負けるところだった。


 なんだかんだで九割は呑んでしまったのだ。

 さすがに、最後の一割くらいは残さないと、本当にまずい。


 我慢に我慢を。

 そして試行に試行を重ね、ようやくできた、五日目の酒である。

 

 これだけは残さないと。





 聖女レイエスに付いている、侍女ジルニ。

 彼女はこの開拓地に来てから、ずっと酒造りに専念していた。


酒を捧げよ、(アゥゲ・)神の渇きを癒せ(ナルゥ・ズィガ)」。

 通称、神の酒樽。


 レイエスが、世界一の魔女グレイ・ルーヴァから預かってきた神器。

 これを預かり、精一杯呑んできた。


 そう、呑んできた。


 約一ヵ月に及ぶ滞在中。

 毎日毎日呑んできた。


 飽きることなく呑んできた。

 おかげで呑み友達もいっぱいできた。


 ジルニは初めてだった。

 これほど幸せな時間を過ごしたことなど、これまでなかった。


 明日はどんな酒に出会えるだろう。

 明日はどんな酒が自分を驚かせてくれるだろう。


 それだけを考えた一ヵ月だった。


 酒好きの意地がある。

 己が知る酒の知識を総動員し、呑みながら、自分なりに、新たな酒を生み出そうと努力してきた。呑みながら。


 そこに妥協は一切しなかった。

 呑みながら、細かい調整から大胆な発想まで、色々と試してきた。


 その結果呑みながらできたのが、この酒だ。


 名前などない。

 だが、ジルニが絶対に人に勧めない珠玉の酒が、できたと思う。


 人に勧められるわけがない。

 人に呑ませるくらいなら、自分で呑みたいから。


「よし」


 ジルニは、封をした革袋を取る。


 これは手元に置いておけない。

 あったら呑んでしまう。


 さすがにないとは思うが。

 ジルニが寝ている時、身体が無意識にこれを求めてしまうかもしれない。


 さすがに寝ながら酒は呑めない。

 はずだ。


 しかし、そのあたりまえを疑うくらい、この酒はジルニの好みすぎる。


 万が一にも失うわけにはいかない。

 だからレイエスか、堅物の同僚フィレアに預けてしまおう。


 そう思いながら、ジルニは地下室を出た。





「……あ」


 ちょうどよかった。

 廊下の先に、目的の二人がいた。


「レイエス様、フィレ……あ?」


 普通に声を掛けて、気づく。


 二人の様子がおかしい。


「どうしたの? 何かあった?」


 いつも無表情なレイエスが、俯いていて。

 それを支えるように、フィレアがレイエスの肩を抱いている。


 まるで落ち込んでいる自分の子を慰めようとしている母親……。


 いや、年齢のことは言うまい。

 フィレアは結婚適齢期を気にしているから。


「気にしなくていいわ」


 レイエスは答えず。

 拒絶するようにフィレアが言う。


「いや気になるでしょ。私も一応レイエス様の護衛なんだから」


「どの口が……いえ、そうね。そうだったわね」


 そうだ。

 たとえここ一ヵ月ほど、実務は何もしてなかったとしても。


 たとえここに来てから一ヵ月、地下にこもっていたとしても。

 呑んでくれていたとしても。


 一応ちゃんと護衛なのである。


 それに地下ごもりはレイエスが認めているのだ。

 文句を言われる筋合いはない。


 まあ、フィレアが「納得がいかない」と言う気持ちもよくわかるが。


 しかしそれでも。


 ジルニはレイエスの侍女であり、護衛なのだ。

 レイエスの身に何かあったのなら、知っておかねばならない。


「失敗しました」


 と、答えたのはレイエスだった。


「だからいささかショックだっただけです。

 私の望む、私好みの魔道具ができたと喜んでしまった直後に、壊れてしまいましたから。


 ――これが悔しくて悲しいという感情なのでしょう。苦いものですね」


 いつもの無表情だが、どことなく暗い。


 彼女の表情を見慣れているジルニは、確かに感じている。


 今レイエスは落ち込んでいる。

 平気そうに見えるが、落ち込んでいる。


 こんな時こそ酒だ。

 憂さ晴らしに酒でも呑んで、嫌なことなど忘れてしまえばいいのだ。


 ……とでも言いたいところだが。


 レイエスはまだ呑める年齢ではない。

 だから酒は無理だ。


 せいぜい彼女の代わりにジルニが呑んであげることしかできない。


「人生、挫折や失敗なんてよくあることです。めげることないですよ」


「そうですね。また頑張ればいいことですね」


 とはいうものの。


 やはり少し元気がない無表情である。


 こうなったら、ジルニにできることは一つだ。


「レイエス様、これ」


「はい? なんですか?」


「ご依頼の酒です。グレイ・ルーヴァに渡すんですよね?」


「できたんですか?」


「はい」


 せめて朗報を伝えることだけだ。


 細かいことは知らないが。

 世界一の魔女グレイ・ルーヴァより、酒造りを依頼されたそうだ。


 その仕事を任されたのが、ジルニである。


 そしてここに、依頼の一品がある。


「これが……」


 と、レイエスは革袋を受け取る。


「依頼人の好みを知らないので、気に入るかどうかは怪しいです。

 一口に酒と言ってもかなりの種類がありますからね。


 でも、これまで私が呑んできた酒の中で、一番私好みのすごい酒ができたと自負しています。酒好きなら気に入るはずです。きっと。もし先方がいらないって言ったら私が買い取りますのでよろしくお願いします」


「これが………………手を離さない理由はなんですか?」


「あ、すみません」


 この酒を手放すことを、心ではなく身体が許さなかっただけだ。


 惜しい。

 だが、さすがにこればっかりは仕方ない。





 酒を受け取ったレイエスは、しばしそのまま固まり。


 そして。


 顔を上げて、言った。


「なんだか少なくないですか?」


 どうやら計算していたらしい。


 酒量を。


 神の酒樽の大きさでできる酒と。

 今手にある、小さな小さな革袋の中にある酒を。


 ジルニは笑った。


「――あはは、呑んじゃいました」


「――あとで説教するから」


 すかさずフィレアに睨まれた。


「そうですか」


 見詰めるレイエスの無表情も、呆れているように見えた。





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