新曲「八丁堀交差点」を出した広島市南区出身の歌手角川博。中高生時代は野球に打ち込みつつ、新聞販売店を営む両親を懸命に支えた。広島・流川や博多のクラブで歌うようになり、22歳でデビュー。今も第一線で活躍を続ける。「あまり記憶にない」という古里の思い出。照れ隠しのような冗談を交えながら語ってくれた。(聞き手・渡辺敬子)
【父親はブラジル生まれ】
―2003年の中国新聞に、祖母の角川ショクヨさんが100歳の祝いで広島市長の訪問を受けた記事が出ています。戦前に広島からブラジルへ移民し、コーヒー農園で働いていたそうですね。
ブラジリアでね。すぐ帰ってきて長くは居なかったらしい。父の憲弘(のりひろ)は1928年に向こうで生まれている。船で北海道・根室に戻って終戦を迎えた。ブラジルは今も親戚がいる。知り合いが多いのに、どうしてブラジル公演やってないのかな。依頼がないのかな。父が日本に戻らなければ、僕はブラジル人になっていたよ。
家族は広島に戻り、父は母のスミ子と結婚。僕は東洋工業(現マツダ)そばの向洋で生まれた。吉田町(現安芸高田市)に角川家の墓がある。場所が遠いから、幼い僕は墓参りが大嫌いだった。ショクヨは107才で亡くなったんだ。もう1年生きていたら煩悩の数と同じだったのにねえ。祖父は会ったことがない。
【広陵高野球部は3日だけ】
―中学の野球部では三塁手やリリーフ投手として活躍し、広陵高へ進みました。将来は野球選手の道を考えていたのですか。
中学では根詰めて野球をしていたからね。高校は広陵って決めていた。血染めのボールで有名な左利き投手の宇根洋介さんに憧れて。球は速くないし、のらりくらり投げるのに打てないんだ。
でも野球部に入って3日でやめた。野球するために広陵へ来たのに、人数が多くて、うまいやつばかり。守るところもなく、ボール拾いもできず、ボールを縫う人までいる。2年生も半分ぐらい残っている。100人くらいいたんじゃないかな。3年生でも50人ぐらい。出る幕がない。1年先輩の佐伯和司さんは120キロ以上の球を投げる。そういう人がいっぱい。
―これは違うなと。
軟式野球部に移ったら、今度は練習する場所がない。周りの会社にグラウンドを使わせてくださいって頼んで。道具持って。場所がいつも違う。1年生は野球というより雑用。2年までやりました。漠然と野球はもういいやと思った。
【新聞販売店を営む両親】
―実家の新聞販売店の仕事を手伝っていたそうですね。学校生活との両立は大変だったでしょう。
中国新聞でなくて、すみません。朝日新聞でした。船越に販売店があった。新聞配達は高校卒業まで8年くらいやった。学校を休んでも配達はしていた。まあ責任感ですね。高校に行く行かないは自分で決めればいいけど、新聞はそうはいかない。集金も配達も、子どもなのに勧誘までするから「それはずるいな」みたいな感じで。折り込みチラシをセットするのが一番大変だったな。
あまりお金を使う方ではなかったけれど、欲しいものは全て新聞配達で稼いだ金で買った。自転車を買ったり、ユニホームを買ったり。父が若い頃、他人の借金の保証人になったこともあった。ためていたお年玉がいつの間にかなくなったことも。「なんでなくなってるの」って聞いたら、おふくろが「泥棒入ったかな」って言い訳して。
新聞販売店は休みがないでしょう。なんでおやじはこんな仕事を選んだのだろうって。悪いけど、この仕事は絶対にやんないよって言ったの。後を継いで店主になって、女房をもらって。子どもがかわいそうだもの。同じ思いをさせたくない。そこまで考えた。
【柔道3段の父を腰投げ】
―お母さんは苦労が多かったのでしょうね。
僕は一人っ子でしたからね。八丁堀の福屋って、なんでも売っている場所だと聞いて。おふくろに「妹や弟を買ってきてくれ」と困らせたこともあった。
当時は捨て犬、捨て猫が結構いて配達中に見つけると連れて帰った。「この子たちは捨てられるために生まれてねえぞ」と思いながら。多い時は20匹以上に。両親は「頼むからもう拾ってくるな」と言うんだけど。
高校に入って、おやじより力が付いた頃に怒ったことがあるの。おやじも柔道3段ぐらいなんだけど、それを腰投げしてやった。おふくろに手をあげていたからね。「何考えてるんだ。おふくろに謝れ」と。だって弱い者いじめでしょう。
家出して友達の家で過ごしていた。友達とボウリングしてたら、おやじが来て「悪い」って謝った。「もう手は出さん」と。そこから優しいおやじになった。
【悩んだ末のクラブ歌手】
―高校卒業後は洋品店やボウリング場で働き、デビュー前はクラブ歌手として歌っていたそうですね。
何をしたらいいか分からなくて。音楽は好きだったから。いとこが歌い手だったのが、きっかけ。


