知識偏重も大事だということ
今年度は高1生と高3生の授業を持つので、いわば高校のはじめとおわりを担う大切な年になります。特に高1生には、中学校までの学習姿勢を大きく変えてもらう必要があり、自分が何を語るのか、その言葉に責任を感じながら4月を送っています。
初心に戻るつもりで大学院生のときに執筆した修士論文を読んでみました。こんなことを過去の自分は書いていました。
アクティブ・ラーニングには深いものと浅いものが存在する。例えば、グループ学習では、瞬時に思いついたことだけを言い合ったところで、内容の深まりは期待できない。理解中心の授業を過剰に遠ざけてしまうと、かえって豊かな思考活動は行われなくなってしまうのである。より良く思考するためには、多くの知識を持っている方が有利である、という前提を見落としてはならない。豊富な知識は、豊かな思考を行うための材料なのであり、授業を一辺倒に考えることは本末転倒の結果を招くのである。
高1生の多くは、中学校時代にグループ学習などの言語活動を経験して高校に入学してきます。そして、高校入学後も「楽しい」授業を期待している感があります。しかし、何かを思考する時にはなんらかの知識が必要です。そしてその知識が多ければ多いほどいろいろな発想が出てくるものではないかと思います。逆に、知識がないままに思考をするとしてもそれは独善的なものとなり、孔子に言わせれば「思ひて学ばざれば則ち殆し」以外の何物でもないのです。「思」と「学」とのバランスの危うさを感じます。
僕は記憶力も悪く、何度も何度も1冊の参考書や問題集を復習することによっていろいろなことを覚えてきたし、院生のときは毎日毎日いくつもの論文を読んできました。もちろん、知識に意味を与えていく、知識を活用していくことは大切なわけですが、それ以前に知識をたくさん詰め込んでいくことも必須だろうと思います。それなのに、安易に詰め込み教育を否定する人たちは何なんだろうかと思ってしまいます。現実として、詰め込む必要のある時期というものもあると思います。
アクティブ・ラーニング盲信者の言説を聞くと、中途半端に覚えることしかせずに、自分にとって意味のある、わかりやすいものだけを覚えていき、表面上は賢そうなことを言いながらその実中身が薄っぺらいものに過ぎない、というのが個人的な印象です。研究もそうだと思うのですが、素晴らしい研究者は何でも貪欲に知識を吸収します。すぐに成果になるわけでもないけれど、とにかく多くのテキストを読み、ことばと出会い、そこから思索が深まります。博覧強記、といわれるだろう人にも何人か出会ってきました。
質的な学びが量を凌駕しているのか。このことが問われていません。だから、安易に知識偏重を批判する人たちには、どうしても違和感しか残りません。知識だって、断片的な知識といわれて安くみられますが、それを知ることは一つの世界に触れ、自己の知の体系が更新される契機になるはず。ひとつの言葉を知り、そこから世界が開けていくことだってあるのです。
僕は知識は依然として大事ですし、知識が多いに越したことはないと思います。これからもそうです。その上で、それらの知識を上手く結びつけて、他者と協働的に何かをしていくことによって、新しい価値が生み出される場を一つでも多く中等教育の場で設定していくことが、僕の教員としての仕事だろうと考えています。
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