第二章 疾く疾れ

第13話 苦渋、噛み締めて、一歩

 五月雨が雨樋をつたい、側溝を流れていく。

 側溝は敷地を出て山道を下り、川へ合流した。些細な流れは、大きな流れの前では無意味である。けれども、小さなものとてそれが存在した事実は変わらない。数多の水流を飲み込んで、川は轟々と村を南に下り、境を越えて平地へ、海へ流れていく。


 池から上半身を出していた人魚のにしきは憂鬱そうな顔で、一人松の葉相撲をする。運が悪いことに、両方切れた。


「よくないことが起こりそう」


 錦は人知れずつぶやいて、けれど、二階を見上げて微笑む。


「あの子なら、平気か」


 くるりと身を翻し、尾を滑らせて錦は池の中に戻った。


 雨煙に濁る稲尾邸の二階——燈真の部屋で、部屋の主人はベッドで起き上がってこそいたが、そこから立ち上がることはない。

 視線を上へ、右へ、それから窓へ向けて、カーテンを開けなきゃと手を伸ばして、また戻す。

 そんなことを三回もやっている。蒸し暑い部屋に冷房はおろか扇風機さえも回っていない。

 酒があればかっくらっているところだ。良くも悪くも家庭環境が良すぎるせいで、未成年にすぎない燈真は酒なんて飲めない。


 自暴自棄になっている自覚はある。このままではだめだと、頭が警鐘を発している。

 こんなところで立ち止まっていては、濡れ衣なんて晴らせない。理由もなく、理不尽に奪われ続ける日々に戻るだけだ。

 また、負け犬の人生に逆戻りである。


 強く生きなさい。


 あれは、誰に言われた言葉だったか。声音には聞き覚えがある。既視感、と言える感覚だ。

 だが、その言葉さえも、今の自分にとっては——。


「入るぜ」


 一言、決定事項のように言って光希が入ってきた。

 湿気で蒸し風呂状態のそこで、光希は二、三回手を振って「辛気臭えな。ついでに男臭い」とぼやく。


「お前の部屋はテレピン油の匂いが染み付いてるだろうが」

「油絵描くからな。あれ、安モンで代用すると碌なことにならねーからいいの買ってんだけど……」

「妥協しないんだな」

「ったりめーだろ。……換気してんだけど染み付いちまった……壁紙の張り替え、いくらかかるんだろうな」


 なんて言いながら光希は真顔に戻り、


「病み上がりでわりーけど、退魔局から呼び出しがかかってる。事件現場にいた連中に話を聞くってよ。言っとくが、拒否権はねえぜ」

「わかってる。組織勤めの身だからな。……社会人ってのはみんなこんな重責と戦ってんだな」

「そーだよ。俺の親も、お前のとこもな。遊んでるだけで飯食えてた頃は、冷静に考えりゃめちゃくちゃ恵まれてたんだ」

「説教くさいぞ。……シャワー浴びて着替える。大丈夫、切り替えはできる」


 光希はまだ何か言いたそうだったが、黙った。けれど態度が、この上なく雄弁に語っている。「わかりきっていた事実を突きつけられたくらいで泣き寝入りするのか?」と。

 燈真はクローゼットから、オフィスカジュアルで通る黒いジャケットと白のポロシャツ、黒いワイドスラックスを掴む。足が太いのでスキニーパンツが似合わないことを知っていた伊予が、これを用意してくれたのだ。

 期待をかけられている。節々にそれを感じる。

 そして自分はそれを、自ら背負うと決めた。

 一度の敗北、どうしようもない現実。目を背け逃げれば、何も変わらない。ただ、のっぺりとした、白黒はっきりしない灰色の道を歩き続けるだけだ。

 ここは分水嶺だ。ルビコン川と言っていい。引き下がって死んでいないだけの平穏を得るか、渡って生の息吹吹きすさぶ未来へ身を投じるか。


 喧嘩で負け知らず。そんなもの、井の中の蛙でしかなかった。

 退魔師業界という大海を知り、そこに蔓延る凶悪な呪術師と魍魎を前に思い知った。

 自分は、その蛙の中でもまだ尻尾がくっついてるようなガキだったと。

 殻に閉じこもって酔っ払い、酔いしれていた。

 逃げたくない。弱い自分を、情けない自分で終わりたくない。

 何がそうさせるのか? 本能? 理性? 意志? それとも、あの言葉か。


 ——強く生きなさい。


「光希」

「んー?」

「俺は逃げない。弱いってことは、十分わかった。強がりじゃない。もう逃げたくない」


 母の死から逃げ、父の再婚から逃げ、己の凶暴な一面からさえ逃げた。

 警察に捕まった時に、少しでも言い分を主張していれば、あるいは——。


「そうか。じゃ、臭えから風呂入れ。シャワーじゃなくて湯船つかれ。俺ら鼻いいから、汗の匂いがきついと困る」

「はっきり言うなあ」

「誤魔化したってしょーがねーだろ。椿姫ならもっとキツいこと言うぜ」

「想像できるから困る」


 燈真は着替えを持って、部屋を出た。すれ違った万里恵から「おっ、BLいけるかこれ」とか言われ、菘から「おとこのせかいだ」とか言われる。

 多分だが、軽くデコピンしても許されると思う。


 一階に行くと、顔を洗い終わっていた椿姫がヘアバンドをしたまま洗面所から出てきて「くっさ。生物兵器じゃん」とかなんとか、一周回って清々しいことを言い放った。

 燈真は怒る気もなくして風呂に入る。湯船はもう溜まっていた。妖力網で毛をさらった後なのかとも思ったが、違う。貯めたてだ。

 朝から一番風呂……というのも気が引けるが、燈真は掛け湯をして湯船に浸かった。


 熱い湯が好きな稲尾家らしい、四十三度のお湯。燈真も、健康的にどうあれこれくらいの熱さが好きだ。疲れた時、嫌なことがあった時は五十度のシャワーを浴びて痛みを伴う熱で、デトックスする。それがストレス解消の一環である。

 何気なく左胸を撫でた。傷跡が、そこにある。抜い痕というには荒々しい、龍が爪で引っ掻いたような傷痕だ。五歳の頃に受けた心臓移植の痕だ。母親の兄の心臓が、ここにある。

 不思議な気分だ。他人の心臓が自分の中で生きていると言うのは。

 ときどき記憶転移という現象なのか、奇妙な夢を見ることもあったが、医者は「移植にはよくあることだよ」と言っていた。

 それにしては宇宙の光景だとか、ここではないどこかの、言葉が物理的に力を持つ世界の光景とかが生々しく浮かんでくる。父は「あの人はゲームが好きだったからねえ。父さんは、映画を観る方が好きだったが」なんて言っていた。まあ、確かに昨今のゲームのグラフィックは非常にリアルだが——あんなに、臨場感を伴うだろうか。それとも、一時期流行った後、脳とメンタルへの過剰な負荷が理由で廃れたVRゲームの類だろうか。


 湯船から上がって、ソフトタイプのへちまで体を洗った。稲尾家にはボディソープとシャンプー、リンスの他にテールソープという尻尾用洗剤がある。獣妖怪には必須らしいが、残念ながら燈真は一生使わない代物だ。ちょっと興味はあるのだが。

 自分で持ち込んだシトラス系の男用ヘアシャンプーで頭を洗う。爪ではなく、腹で洗うのがコツだ。頭皮の脂をこそげ落とすように丹念に擦る。この方法はここに来てから、光希に教えてもらった。美容師の洗い方を真似たらしい。なぜ彼が美容師の洗い方を知っていたのかは、謎である。

 泡だらけの体を熱いシャワーで洗い流し、すっきりした彼は風呂から上がった。


「うわ、すごい湯気」


 洗面所で歯を磨いていた竜胆が目を丸くする。


「伊予さんといいお前といいふつーに入ってくるよな」

「いいでしょ、僕たちの家なんだから」

「それはそう」


 燈真はバスタオルで体を拭う。男同士だから裸を見られても何も気にならない。まして燈真は、見られて恥ずかしがるようなところなんてない。


「朝ごはん、もうすぐできるって。食べ終わる頃に退魔局から迎えがくるから」

「わかった」

「……まあ、顔を見ればわかるけど。大丈夫?」

「兄弟子に発破かけられたよ。大丈夫、俺は戦うよ」

「僕が心配なのは、燈真の自分自身に対する評価なんだけどね」

「思い上がってなんか……」

「逆だよ。僕には燈真が、死ぬために戦ってるように見える」


 竜胆の目が、鋭く細められてどきりとした。

 

 ——「うるせえ。そっちの方が足速い、俺の方がしぶとい。どうすべきか一目瞭然だろ。それに


「なるべく気をつける」

「そこは絶対って言って欲しかった」


 竜胆がうがいをし、口元を拭った。


「僕は燈真の葬式に出る気なんてないからね」


 背中越しにそう言って、竜胆は洗面所から出ていった。

 燈真と負けず劣らず口下手だが、言いたいことは伝わった。


(子供にまで心配させてんだな。……情けねえ。強くならねえと、心も)


 着替えに袖を通す。カジュアルオフィススタイルなので、ネクタイはない。ジャケットは小脇に抱え、居間に入った。

 柊と、柊に戯れる菘が「おはよう」「おはおはー」と挨拶してきて、燈真も「おはよ」と応じる。

 揃った退魔師組は、皆ラフな格好。いずれも、これから会社の会議に出るような装いだ。

 一応、燈真と椿姫と光希は学生なのだが、傍目には新卒の家族が多い朝食風景である。


 伊予が「あら、もう揃ったのね」と言いながら、食事を配膳していく。竜胆と万里恵が手伝い、燈真は椿姫に、


「腹の具合はどうだ? 昨日あれだけ痛がった直後だろ」

「平気。でも、神社にいた子の中には入院してる子もいる。これは立派な呪術攻撃よ。退魔局は本格的に呪術師の掃討戦に向けて舵を切ると思う」

「あの般若一人でやったとは思えねーよ。多分、何人か仲間がいる。あいつは実行犯ってとこかな」と光希。

「俺を助けた、赤目は?」

 椿姫が「退魔局にいるみたい」と返答した。


 あいつ——あの顔を知っている。まさか、とは思うが。


「はいはい、朝から辛気臭い顔しない。ご飯が栄養にならないから」


 並んでいくのはキノコの炊き込みご飯に、鮭の西京焼き、味噌汁と、卵焼き、ナスの煮浸し。

 全員分揃ったのを確認してから、菘が手を合わせて「いただきまーす」と元気よく言った。皆もそれに合わせて「いただきます」と唱和する。

 菘は元々の妖力が優れていたこともあり、内臓へのダメージは最低限だった。竜胆がすぐさま結界を張ったのも大きいという。

 兄と妹はちょっと張り詰めた空気に、言葉を発するのを躊躇していた。


「菘、帰りにコンビニ寄るけど欲しいもんある?」

「ん……いちごみるく」

「それだけでいいの?」

「なんか、やさしい」


 菘がむふ、と鼻を鳴らし、頬を緩めた。


「じゃあ、ほんがほしい。ずかんみたいなの」

「図鑑? いいわよ。竜胆は?」

「僕は漫画がいい。そうだ、狐の退魔師って漫画の五巻が出たんだよ! もうコンビニにも並んでると思う!」

「はいはい、飲み物は? ライチジュースでいい?」

「うん。ありがと」


 もそもそと鮭の皮をとって、燈真の皿に移す光希。彼は鮭の皮を好まないので、逆に鮭の皮が大好きな燈真に渡していた。そんな彼が思い立ったように、


「決起集会しようぜ」


 なんて言った。

 伊予が、「どういうこと?」と聞く。


「いや、呪術師とやり合う前に、俺らがもっと強くなるっていうさ。なんか焼肉とかフルーツとかいっぱい用意して、みんなで」

「いい考えだな。同じ釜の飯を食うことで結束力を高めるのはありだ。よし、資金は妾のポケットから出す。伊予、スーパーにひとっ走り——」

「何言ってるの、あなたも手伝うのよ」

「むう」


 柊は鼻をちょっと鳴らし、頷いた。


「まあよかろう。食材が余ったら冷凍すればいいだろ。便利な時代だな」

「わっちは、とりにくいっぱいたべたい」

「野菜も食べなよ、菘」


 竜胆が兄らしく、釘を刺した。菘は「わかってらい!」と言って、ナスを頬張る。

 重たい空気が払拭されて、燈真は安心して箸を進められた。


 食事を終えて満腹感を抱きながらも、燈真は気を抜かない。

 菘と少し喋って、竜胆をからかっていつもの調子を出してから、迎えにきた車に乗り込む。

 助手席に燈真、後部座席に椿姫たちが座る。

 運転手は、以前のハスキー犬妖怪。


「よろしいですか?」

「はい。……行きましょう」


 燈真が答えると、退魔局からの使者は無言で頷き、アクセルを踏み込んだ。

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ゴヲスト・パレヱド — 孤独な鬼は、気高き狐に導かれ最強の退魔師を目指す — 夢咲蕾花 @FoxHunter

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