第1次大戦中に収容のドイツ人捕虜ら550人の名簿発見 広島・似島

戸田和敬
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 広島湾に浮かぶ似島にあり、第1次世界大戦中に捕虜となったドイツ人たちを収容した「似島(にのしま)俘虜(ふりょ)収容所」。その収容者の名前や職業が記された名簿が今年、研究者によって発見された。収容所で通訳を務めた男性のノートなども見つかり、収容所の詳しい実態を解き明かす手がかりになると期待されている。

 19世紀末、似島には軍人や軍属らの検疫所ができ、その一角で1917年、ドイツ人の捕虜たちを収容する同収容所が設けられた。20年に閉鎖されたが、その前年には捕虜が広島高等師範学校の生徒とサッカーを通じて交流していたことも知られている。

 今年、竹林栄治・広島経済大准教授(日独交流史)が収容者らの名簿を入手した。収容所でドイツ語通訳を務めた青木銑三郎(せんざぶろう)氏の子孫が保管しており、古書店を通じて手に入れたという。

 竹林氏が調べたところ、名簿は1918年~19年につくられたとみられ、収容者ら約550人の名前や職業が記載されていた。死亡した収容者の欄には、比治山陸軍墓地(広島市南区)に埋葬されている、ドイツ人のオットー・パーペ氏の名もあった。パーペ氏は中国・青島の発電所に勤務。捕虜となり日本に移送され、18年に広島の病院で死亡している。

 また日本に初めてバウムクーヘンを伝えたカール・ユーハイム氏(1886~1945)の名もあった。軍に入る前の職業欄には「菓子製造業」と記されている。ユーハイム氏は青島で洋菓子店を営んでいた。バウムクーヘンは旧広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で19年3月に開かれた展覧会で、ユーハイム氏が日本で初めて紹介したとされている。

 名簿のほかに、青木氏がドイツ人との会話などを書き記したノート、収容者の写真をまとめたアルバム2冊も見つかった。収容者の写真に名前などが付記されていた。収容所の全景や収容中に死亡した同胞を弔うミサの写真もあった。

 長年ドイツ人捕虜を研究する瀬戸武彦・高知大名誉教授(ドイツ文学)は「収容所個別の名簿は初めて見た。『検閲印』があり、公的機関の発行が裏付けられた一級資料だ」と評する。

 また、似島の歴史を約25年間調べている郷土史家の宮崎佳都夫(かずお)さん(74)は「詳細がわかっていないドイツ人の捕虜収容所の実態の一端が明らかになる」と期待を寄せる。

 竹林氏は「1世紀を経て、広島の戦前史の一端が明らかになる」と話す。「広島の歴史であり、ドイツの歴史でもある。発見によって新たにわかった史実を発信し、後世に残したい」

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 広島市南区の比治山陸軍墓地で11月12日、第1次世界大戦中、似島俘虜収容所で収容中に亡くなったドイツ人捕虜の追悼式があった。新たな資料が見つかり、埋葬されたドイツ人が収容所にいたことが確認できたことから、竹林氏が追悼式を企画した。第1次大戦の休戦記念日(11月11日)にあわせて開かれた。

 式には、在日ドイツ大使館(東京)の駐在武官カルステン・キーゼヴェッター氏も出席し、パーペ氏の墓前に献花した。「広島の人と一緒に慰霊するのは両国の深い友情の証しだ。心から感謝したい」と述べた。ユーハイム氏が創業した菓子メーカー・ユーハイム(神戸市)の代表者も出席し、墓前にバウムクーヘンを供えた。(戸田和敬)

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