ロアナプラより愛をこめて   作:ヤン・デ・レェ

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GROUND ZERO:BLACK LAGOON

 

 

 

 

フィリピン近海。沖から遠く離れた海上で、二隻の船影が浮かんでいた。片方は日本国の貨物船「めらねしあ丸」。もう一つは海賊兼運び屋『ラグーン商会』の魚雷艇である。

 

本来、こんなことがあってはならないのだが、世の中には実にいろいろな背景を持った人間が生きており、その中には非合法活動により生計を立てる者もいるということ。食うためにご法に触れることもしばしばの、浮世に俗世に、頭を低くし背を曲げた上で憚る。そう言うならず者のビジネスに、偶然選ばれたのが本船であったというだけである。汚職と人殺し。双方の罪の多寡など所詮は他人が決めたもの。汚職で百人が路頭に迷うこと、その内の十人が結果として首を吊ったとしても。罪と言う概念は、法規範とは、実に恣意性の極みである。

 

アウトローとは、そんな傲慢に唾を吐きつつも、己らの(ルール)と道理に縛られつつ、それを順守する…人殺しなら人を過不足なく殺すこと、運び屋なら物をちゃんと届けることで、その日の生計を立てているわけだ。日向者も日陰者も、生活を人質に獲られていることに違いはない。どちらも社会に殺されないように、路頭に迷わないように生きている。どっちの社会からも爪弾きにされれば最後である。表の世界からは当然の報いだと言われ、裏の世界からは裏切り者やらなにやら…手前の命を守ってくれるものを、すべて失ってしまうわけだ。それはうまくない。大変宜しくない。まして、アウトローは日向者と違い、既に残機がゼロなのだ。残っているのは墓場だけ。土の下に入るまで、少しでもそれまで長く生きていられるように努力する必要がある。

 

アウトローは信頼を何よりも大切にし、同時に余計なことを極力知らないように、知りすぎないようにして生きている。彼らは自分の分と言うものを弁えている。例外は存在するが、概ねはそうでなければ生き残れないのである。映画の中のように死に際の言葉が人々の間で記憶されることも無ければ、その墓碑にウィットに富んだ文言が刻まれることも無い。モーツァルトと同じかそれにも満たない最期が待っているに違いない。

 

さて…どうしてこれほど長々とアウトローについて語ったのかと問われれば、それは現在絶賛シージャック中のアウトローである『ラグーン商会』社長であるダッチの身に、今まさに上記の問題について突き詰めて考える必要性が湧いたからであった。

 

洋上でフィリピン海軍の哨戒艇が迫っていた。どこぞの平和ボケした島国のように、領海侵犯するようなアウトローを生きて返してくれる保証などどこにもないのである。接触したが最後、快速魚雷艇は魚雷で月まで吹き飛ばされるか、或いは機関砲で海の藻屑にされて船員の転職先は魚の餌に決まりだ。運よく逮捕されるに納められても、決してその後の人生が明るいものにはならないだろう。否、そもそも人生とも呼べるかわからない惨めなものになるはずだ。アウトローの人生はスリル満点だ。寧ろリスクとスリルしかない。弱みは見せられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうにも、納得がいかねえ…誰でもいいから人質が欲しいたあ、どういうこった?」

 

サングラスをかけ顎髭を生やした屈強な黒人男性であり、知的で変人と評されるダッチだが、ベトナム戦争を戦った軍人と言う以外は謎に包まれたその身に負う経歴にも、流石にスーパーマンの変身までは残していなかった。百戦錬磨のアウトローと言えど、ダッチは人間に違いなかった。そんな彼にとって、一番怖いものは何か?それは自分の納得できない仕事である。底なしの落とし穴に落ちるような、そんな得体の知れない胸騒ぎが、ついさっき去来したのだ。

 

「…バラライカは何を考えてる?ディスクを持ってくるだけで済む話のはずだ…旭日重工の役員でも攫わせればいいものを。旭日重工を相手に交渉を有利に進めたい訳じゃないのか?だが、ならどうして人質が必要になる?レヴィの話じゃあ、人命尊重の為に国益を捨てるような連中から譲歩を引き出すためらしいが…どうにもその線は薄い気がするぜ」

 

めらねしあ丸の甲板上で、ダッチは胸ポケットから徐に取り出したアメリカンスピリットを口に咥え、火を点けた。彼は今、無性に一服したかった。その間だけは思考から逃れたかったのだ。面倒ごとの匂いがした。ダッチは真っ青な海を感慨深げに遠い目で眺めながら、実に旨そうに、しばし煙草を焦がした。片手で構えられたリボルバーを、甲板の一か所に集められた船員たちに向けながら、である。

 

そんなダッチを見かねた、もう一人のアウトローがダッチに声を掛けた。彼の意識を地球の裏側から引き戻すためにも。一刻も早く仕事を済ませ、一秒でも早く自分の帰りを待つ男の元へ帰りたいがために。

 

「なぁ、おい!ダッチ!いつまでそうやって悩んでやがンだ!さっき自分でやるしかねえって言ってたじゃねえか!もう前金で一人頭5万ドルも貰っちまったんだぞ!今更悩んだって遅えって!さっさとコイツをふん縛ってずらかろうぜ?ディスクだってあったんだしよ!あとは運んで届けるだけだ」

 

黒いタンクトップに際どいホットパンツ姿の美女。なのだが…その粗暴に過ぎる言動から恐れられるレヴィ。彼女は視線とカトラスの銃口を、その人質候補に差し向けた。

 

視線の先には、一人の若い男がいた。直截的な争いとは無縁の人生を送って今日この日まで生きてきたといった具合。つい先ほど退屈な出張は終わりを告げ、刺激と引き換えに命が無造作に打ち捨てられるような状況に陥り、己の不運を恨んでいた。

 

彼は岡島緑郎。日本人である。ひょんなことからこの最低最悪な戯曲の舞台装置の一つに選ばれてしまった気の毒な男である。だが、同時に一種の強制力により、自らの力で自らの人生を見つめ直し、また自らの力で掴み取る可能性を秘めた一人の独立した人間であった。

 

未来の話はともかく、今の彼は五万名の社員を抱える日本の大企業である旭日重工に属する、このシージャックの標的に選ばれてしまった気の毒な社員だ。思い描いていた通りの将来が待っていたかもしれない、前途有望な、真面目な男に見えなくも無かった。逆に言えば、戦後日本が耳にタコが出来るほど熱心に唱え、馬鹿の一つ覚えのように施した教育の賜物であり、同時にその無思慮と無分別故に、需給の限界を考えずに大量生産してしまった典型的な日本人であったかもしれない。ガンアクションもクライムサスペンスも…平和な母国では映画の中だけの世界だったはずだ。

 

だが、その黒々とした深淵が、ガンオイルの香り漂う銃口としての実態を伴って、今や彼の人生に深々と食い込んでいた。

 

「あ、あの!ぼ、僕はどうなるんです?人質としての価値なんかないと思いまッヒぃ!?」

 

目と鼻の先に突き出された銀ピカの銃口が、何か嗅ぎなれない匂いと共に、その冷たい造形美を突き付けた。

 

「黙ってな。その価値を決めるのはお前さんじゃなかったってだけだ。OK?」

 

勇気を出して主張したらこれだよ。緑郎は思った。

 

「レヴィ!はぁ…今回は仕方がねぇ。待たせたな、ずらかろう。ベニー・ボーイ!エンジンを回してくれ」

 

レヴィから背中に銃口を突きつけられて、否応なく魚雷艇に乗り換える羽目になった緑郎だったが、彼はまだ希望を捨てていなかった…とはいえ、ニヒリズムとも、その順風満帆とは言い難い人生の中で培ってきた一種の諦念。そもそも期待しないことで、厳しい現実から己の心身を守るという人生哲学に照らせば、すでに自分の身柄が自分の人生から離れたという感覚があったことは事実だ。彼は自分が最早死んだようなものだという…彼がこれまで生きてきた道のりから、遠く外れた何処かへと、制動も修整も許されない座標に立っていることを、心のどこかで受け止めていた。否、現実逃避的に、何とかなるかと捨て鉢になっていたのかもしれない。命への執着とは別に、生きること自体への執着とも言うべきものが、既に希薄であったように思われた。だが、そのことを本人が自覚するには余りにも事態が流動的であり、同時に理解の及ばない非日常によって、常ならば陥りがちな悲観的な熟考をする余裕も与えられていなかった。ともかく、岡島緑郎はラグーン商会の人質になった。

 

「よーし!載せるべきものも乗せるしかねえモンも積んだことだ。俺たちはズラかることにするッ。お互いに先を急ぎたいのはおんなじだ!アンタらは自由になり、俺たちは仕事に戻る!お互いに給料(ペイ)の範囲で努力する。そうだろう?英雄志願者は今のうちに前に出てくれるとありがたい!そいつの蛮勇で気の毒な奴らが一緒くたにミートペーストになるのは俺たちだって見たかねえ!来世を祈る間もなくあの世にぶっ飛ばされたくないのなら、このまま大人しく職務に励んでくれ。俺からは以上だ!」

 

ダッチが警告を告げてから乗り込むと、魚雷艇は直ぐに舳先を突き上げて白波を掻き分けながら地平線の向こうへと走り去り、あっという間にめらねしあ丸からは見えなくなった。船員たちが正常な呼吸を取り戻したのはしばらく後のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

船に乗って早々に、ダッチは今回の依頼主であるバラライカに電話を掛けていた。船長のシートに腰かけると足を操作盤の脇の雑多なものが置いてあるデスクに上げた。

 

「あらダッチ、早いわね」

 

無線越しに聞こえる妙齢の美女の声は、しかしダッチに寒気を覚えさせるものだ。仕事を受けるようになったのは何時からだったか。ロアナプラを支配するマフィアの大ボスの中でもいっちゃんおっかない女である彼女からの仕事は金払いが好く、ほとんどが計画通りに進むものばかりで、情報の提供にも熱心であり、その精度にも舌を巻くほどだ。だが、だからこそダッチはこの女を警戒している。他の連中には存在する、何かが決定的に欠陥していることを、ダッチは胸騒ぎとして感じ取っていた。

 

「ディスクも生モンも確かに積んだぜ」

 

「それは重畳…あとはいつも通りよ」

 

この場におけるいつも通りとは、仕事の終着地点であり、同時に仕事の後の楽しみの場でもあるイエロー・フラッグという酒場での合流・物の引き渡しを意味していた。

 

今日のダッチは少し迂闊だったと言わざるを得ない。つい。ほんの不注意から、常ならば決してしないような質問をバラライカに投げかけたのだ。

 

「なぁ、あの人質の意味はなんだ?」

 

「疑似餌よ」

 

バラライカは即答した。まるで聞かれることが分かっていたような落ち着きぶりだ。ダッチは下唇を噛んだ。

 

「そうかい…」

 

「他に、何かあって?」

 

「いや…もう沢山だ」

 

「じゃあね、スマートな仕事って好きよ。今後ともよろしくね」

 

「そっちが(ルール)を守ってくれさえすりゃあ、な」

 

「それが好いわ。でもいいのかしら…(ルール)を決められるのは私なのに」

 

そこで通話が切れた。ダッチは腹が立たなかった。ただ、バラライカの自分を馬鹿にするでも、嘲るでも、憐れむでも、慈しむでもない…ただただ淡々と事実を告げるような口調が恐ろしかった。それは恐怖なのか、はたまた畏敬の類なのか…ダッチは仕事をクールに済ますためにもそこで思考を中断した。余計なことは知らないままがイイ。考えずに済むことは考えないのがベストだ。

 

「バラライカはなんだって?」

 

ユダヤ系アメリカ人で、凄腕のハッカーである三人目の船員ベニーが、無線を切ったダッチに声を掛けた。

 

「疑似餌、だとよ」

 

「疑似餌?なんのことだい?」

 

ベニーは首を傾げた。まるで思い当たらないようだ。確かに、言葉の輪郭があやふやだ。

 

「あの日本人さ。人質だよ」

 

「…何を誘き出すんだろう?有力者の息子なのかな?」

 

そう考えたこともあったが、そもそもそんな大層なコネがあれば末端の仕事を任されることも無かっただろう。ダッチは思考を切り捨てた。

 

「さあな…俺たちは運ぶだけ。探偵業務は給料(ペイ)にゃ含まれてねえんでな」

 

「うーん…」

 

ベニーの腑に落ちない気持ちにはダッチも共感できた。ダッチの中で、そしてベニーの中でも、今回の雇い主であるバラライカという女は恐ろしく軍人然とした人間だからだ。実際軍人だったのだが、そのことを隠そうともしない。寧ろそのやり方を見せつけるかの如き振る舞いなのだ。当然、依頼に関して求められるレベルも一定以上だ。合理的で実用的で…だから、今回のような無駄を抱えることが不思議でならないのだ。

 

「まぁ、気の毒といやあ気の毒だ…少し話してくる」

 

「おや珍しい…気に入る要素なんてあったかい?」

 

「いいや。ただ、なんとなく。そう、なんとなくさ」

 

ダッチは自分でもわからない気持ちを、なんとなく、とそう結論付けた。名付けるなら同情だったが、にしては気分が重苦しくもない。足取りの軽さがその証拠だ。

 

「ふーん…ダッチになんとなくさせるなんて、彼は案外しぶといかもしれないよ」

 

「まぁ、ダメな方が現実的さ。祈ってやるが、そっから先は知らねえな」

 

「同感だ」

 

不思議と悲観的ではないという点で、二人の心境は共通していた。その思い込みとも雰囲気とも言うべきものが未来を拓くとも信じているワケではなかったが、それでも悲壮で絶望的なものよりは遥かにマシでご機嫌だ。

 

ダッチは硬いブーツの(ソール)と魚雷艇の床が鳴らす足音を軽快に一歩一歩響かせながら、気の毒だが哀れを感じさせない人質と会うために狭い船倉に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の旭日重工本社では、ディスクを奪われたこと、また社員が人質に獲られているという状況に対して、どのような判断が適切であるかに関しての激論が交わされていた。既にバラライカの表の顔の一つである『ブーゲンビリア貿易』からは、今回強奪したディスクに関して交渉を行いたいという意向が明らかにされていた。表の顔に関してもバラライカは実に上手く回していた。その業績の一部背景に武力が絡んでいたとしても、事実として時価総額で少なくとも十億ドル規模の貿易会社であることは確かだった。資産の極一部でこれなのだから恐れ入る。実際、ロシア大使館を通じてこの交渉に関して完全に安全で中立的な場所を、交渉の為に無償で提供するとまで確約されていた。この状況は最早外交に影響を与えかねない段階だといっても過言ではなかった。

 

「資材部の影山部長…君に今回の解決に関しては一任することを我々は決断した。社員全員の生活が懸かっている。彼らを路頭に迷わせるわけにはいかない…残念だが、その、彼には実に残念なことになってしまった。我々は冥福を祈る事しか出来ない。にしても、なんと卑劣な奴らだろう。容赦は不要だ。しっかりと頼んだよ。手段は問わなくていい」

 

しかし、問題はディスクの中身が某国との密貿易に関わるという点である。もしもこの件が明るみに出れば、まず間違いなく旭日重工は存亡の危機に瀕する。というか既に瀕していた。肥大化した組織を維持する弊害として、社会的な、また累積的な業績悪化に伴い、かなりのリストラを覚悟しなければならなかったが、その一歩を踏み出すことが出来ないでいた。本来、縮小の一途をたどることは言うまでもなく、旧態依然とした組織が生き残ることは正常な経済競争とも、資本主義とも言い難いのだが…その本来の摂理を覆すだけのブレイクスルーを、半ばチートで手に入れる手段が一つだけ残されていた。それが今回の非合法取引…核開発協力や密貿易である。計上せずに済む資金が内部留保に使われるのか、はたまた悪化の一途をたどる業績回復、社勢強壮の為の設備投資に用いられるのかは、この際些事であった。莫大な利益が得られることが、先立つものが必要なのが世の常である。重役たちにとって、ある意味では勝っても負けても、正しくても正しくなくても困るのは自分ではないという意識がどこかにあったに違いない。変革も、また畳む覚悟も無いという…残酷だが平凡な現実がそこにはあった。

 

「あの、影山部長…今回の荒事担当なのですが、『エクストラ・オーダー社』という傭兵派遣会社でして…少々、人選に問題があるかと」

 

「どんな問題があるのかね?」

 

旭日重工でも極一部だけが知り得るこの密貿易と、そこに係る種々の機密事項。それには万全を期したつもりだったが、何処から漏れたか。起死回生の一手であると同時に、破滅を先延ばしにする麻薬でもあり、また弱みとリスクの塊でもあるディスクが、よりにもよって社員一人と共に今まさに敵中に落ちてしまったのだ。もしもこのまま向こうの思い通りに進めば、手を打つまでもなく養分を吸い取られて投げ捨てられる日が来るだろう。それは明白なように思われた。まあ、事実などは可能性の一端の発露に過ぎず、いずれにせよ脅威が具体的かつ明白であることを認識することで、人間は実に合理的かつ非情に物事を決済することが出来た。

 

アーレントの言葉通り、彼らもまた実に()()()()()な連中だったわけだ。続報により、未だディスクがブーゲンビリア貿易の手に渡っていないことが明らかになったことで、目の前につるされた一発逆転のチャンスに、彼らはまんまと飛びついた。それが、あるいは疑似餌であることも知らずに。新しい演者(キャスト)を舞台に上げ得るかもしれない、砂漠からダイヤ粒を欲するような、一種の期待をも込められた傲慢だが純情な一手であることも知らずに。彼女らにとっては、狙いが外れなければそれでよかった。舞台をかき回す為の演者(キャスト)が、日本人の組織や企業が持つ度胸や底意地なのか、はたまた一個人の新たなる人生への門出であれ、そこは考慮にこそ入っていなかったが。

 

「それが…指揮官をはじめ、ほとんどがリベリア内戦に参加しておりまして…容赦が無いと言いますか、いくつかの戦争犯罪に関与が疑われていると言いますか…」

 

「ふむ…君の懸念はもっともだ」

 

「はい。ですので…誤りがあっては、問題になりますので…」

 

「誤りがあってはならない。うむ。もっともだとも。だが…」

 

取締役会議は、結局自分たちでの決断を迂遠な形でぼかして下の者に伝えた。そのぼかしは連鎖する。誰も自分で責任を負いたくはないのだ。立場の上下に関わらず、人は常に試される。見捨てるも見捨てないも、最終的にはそれが好きか嫌いか、都合が好いか悪いかでしかない。人間は羊の皮を被った狼なのだ。牧羊犬や羊飼いの目が無いと理解した瞬間に、人は試される。そのまま羊として生きるのか、オオカミとして生きるのか。我々が憎む上位者は、常に我々が成り得た可能性の一例に過ぎないのだ。彼らは選んだ。我々もまた、憎んだ彼らのように、そのように選ぶだろう。

 

「だが、君の言う、その誤りに何の問題があるというのかね?」

 

「え?は、あ、いや…」

 

現場の総指揮を執るのは、気の毒な岡島緑郎が所属していた資材部の大ボスである影山部長だった。影山に問題解決の命令を下した上役会議の面々は、自分たちの選択を全社員の為に転嫁した。それは間違いではなかったかもしれないが、少なくとも自分のクビ可愛さが無かったとは言い切れない。指令を受けた影山部長は、驚くほどあっさりと荒事専門の部隊を東南アジアに派遣することに決めた。平和な国日本の大企業旭日重工には生憎、金があった。大金が。自分で手を汚す必要が無い程度の金が。別の誰かが手を汚すことに納得できる金額を、用意できてしまった。誰かに人殺しを強要できるだけの金があった。

 

「誤りとは問題解決の失敗。これだけなのだよ。これは我が社の存亡を賭けた一大事業だ。もしもこの問題解決に失敗すれば、我々全員が路頭に迷うかもしれない。君の一存で、この責任を全て背負えるのかね?」

 

「い、いいえ…」

 

その金で、武器兵器にその弾薬と兵隊を買った。彼らの生死に対して、影山部長は酷くドライだった。無関心だったと言ってもいい。そして、そのことはオカジマロクロウという一個の人間に対しても同じだった。連絡が付かないことは、寧ろ幸運だとさえ考えていた。それでも、どこかで連絡が来ることを期待してもいたのは、何も人情故ではなかった。影山部長にとって問題となるのは、事前告知を行ったか、救出しようとしたという姿勢の有無、その事実だけだった。手向けに全力を注いでいたと言ってもいい。影山部長にとって、オカジマロクロウは、物語の中の名前の一つに違いなかった。無数の墓碑銘の一つに違いなかった。同じ日本人で、同じ会社に勤めていた。ただそれだけであり、一度として同じ人間として、その命や人生や人格に想いを馳せることはなかった。冷たい言葉を吐けるのは、自分の足元が盤石だという勘違いからくる驕りであり、それは他ならぬ無恥である。だが、決して罪と詰ることはできないだろう。それは、余りに多くの人間にとって、身に覚えがありすぎるのだから。影山部長や、役員連中を責めることは、それこそ無恥の発露であるからだ。…だが、同時に、彼らは責められるいわれはないが、責められない謂れもない事も確かであり、結局のところ、自ら進んで自分の命の価値を、その程度に貶めたと言うに等しい。殺される覚悟がなければ、殺すことは推奨されない。覚悟が無くて殺しなどできないし、覚悟があったところで、殺人の適不適を量る事が出来る者は、本来ならば人の形をしているべきではない。

 

「そうだろう…我々は予断を許さない状況のただ中にあるのだ。その中で、最善の方策だけを選ばなければならない。()()()()()()()()()()()()()()()。理解したかな?」

 

影山部長も所詮は大いなる使命の走狗でしかない。だが、選択肢は与えられていた。単に、自分のクビを賭けるほどの価値をロクロウに見いだせなかっただけだ。好きでも嫌いでも無かった存在で、今やマイナスになったのだ。どのみち、影山部長はロクロウを生かしておく気が無かった。ディスクの情報が流出していない根拠は無いし、はたまたロクロウが勘づかない保証もない。鈍くても、鋭くても、それが刃であることに差はない。切れるか切れないか。それだけであり、この場合、脆く弱り切った瀬戸際にある旭日重工には、多少の刺激もアウトだった。結論から言えば、ロクロウが南シナ海に散ればベスト。南シナ海で死ななければ、守秘義務を持ち出して監視を付けつつ飼殺すか、代理出頭を前提として金で雇える殺し屋により自殺か事故死を装うか。ベストを選ぶか、ベターを選ぶかの二つに一つだった。それはロクロウも然りであり、彼に与えられた選択肢は初めから生か死かの二つしかなかったのだ。可能性は半々(FIFTY FIFTY)だった。

 

「彼には気の毒なことだが…仕方ない。一人の社員の命と、会社全体の命。比較にならないのだ。だから、これは正しい選択だ」

 

ロクロウの命は、ロクロウが考えているよりもはるかに安かった。まるでパンチカードシステムのように恐ろしいほど機械的に、彼の命には不要印が捺されたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

影山部長がならず者の軍隊をロアナプラに派遣することを決めた頃、タイはロアナプラの港に一路前進中の船上で、ロクロウは自分を攫った海賊一味のボスで、憎むべきはずの黒人の船長ダッチと、甲板で並んでアメスピをふかしていた。時間の経過と、流れゆく殺風景な海上の風景が、なんだかんだロクロウのささくれだった心を冷静にさせた。冷静にならざるを得なかったとも言っていい。

 

冷静になってからは早かった。暇だったのか、ロクロウに煙草を勧めたダッチと、とりとめもなく自身の生死が懸かった、直近の将来について話をしただけだ。話してみれば、ダッチは知性的だった。教養があり、冗談にも明るい。海外赴任先で同僚としてであれば、さぞかしロクロウも親しく接したことだろう。海賊と呼ぶにはどの過ぎたお上品さだと考えながら、ロクロウは誘拐犯と会話を楽しんでいる自分を自嘲した。これが吊り橋効果とやらだろうか?

 

「なあ、船長さん。俺は、これからどうなるんだろう」

 

「さあな…タイのロアナプラってとこに港があってな、そこにある酒場で俺たちはバイバイできる。アンタは自由の身。俺は貰っちまった前金分の仕事を果たせる」

 

「おかしいな…前金のせいで嫌々の仕事だったって言ってるみたいだ」

 

「それが可笑しくねえのさ。実際、ディスクはともかく。お前さんを攫うなんざ嫌々だった。面倒臭い匂いがしてな」

 

「えぇ…なんだよ、それ」

 

自分の命がなんともぺラい扱いだったことに、ロクロウはショックと、それから曖昧な納得を覚えた。だから責めるわけでも無く、実に色の無い反応になってしまった。

 

「ま、前金は勝手に振り込まれたようなもんだ。前の仕事の後に、口座を見たら余計に突っ込まれてたって訳だ。額が額でな。内容的に見て、綱渡りにしたって優しいもんだったんで、受けてみればこのザマだ」

 

「このザマって…それは俺の台詞だよ」

 

「どっちも同じだ。アンタも気の毒。俺も気の毒。笑うのは依頼主だけ。それでも死んでないだけ儲けてる。そうだろ?」

 

「はあ…日本に帰っても。居場所があるかどうか…」

 

「そこんところは同情するぜ。まあ、祈ってやってもいいが、天との時差が酷いからな。期待しないでくれ」

 

ダッチはそう言うと、吸殻を指で弾いてから立ち上がった。ロクロウが、その大きな黒い影を見上げるのと、甲板の下から足音が聞こえてくるのは同時だった。

 

「ほらな、やっぱりだ。おい!レヴィ、お前に聞きてえことがある」

 

ハッチを開けてタラップを駆けあがって表れたのは女ガンマンのレヴィだった。口に火のついてないラッキーストライクを咥えていた。わざわざ火の点け難い、潮風の強い場所に出て来るとは。ロクロウが疑問に思っていると、レヴィはダッチに怪訝な視線を向けた。

 

「んだよ、ダッチ。そろそろ港だ。そいつにも準備させろよ」

 

「おいレヴィ、コイツは俺の勘なんだが…お前、あの女から何か聞いてないか?港が近くなるとお前は必ず甲板に上がるがよ、そんときゃ必ず衛星電話も一緒だ。お前が誰と話そうが勝手だが、ボスの俺にも話してないことがあるなら是非ともお教え願いたいところだぜ」

 

確かにレヴィの手には武骨なイリジウムの衛星電話が握られていた。ロクロウは眼をパチクリさせた。一介の海賊の、それも一介の船員が持つにしては高尚過ぎる代物だと感じたからだ。

 

ロックはそのとき、視界の端でダッチが腰を落としたのを見て気を引き締めた。何が出来るわけでも無かったが、何かが起こるかもしれないと考えることは無駄ではない。すくなくとも、ほらねやっぱり、と思うことは出来る。無様に、何が起きたのかも分からないよりは、具体的な内容はともかくとして、何か変化が起こるのだと予想できた自負くらいは許して欲しかった。

 

「ああ…なんだい、ダッチ。そいつは酷い勘違いだぜ。ほら、向こうもアンタと話したがってる。気になるなら話してみろよ」

 

ダッチの警戒に対して、レヴィは少しも緊張していなかった。痛い所を突かれても、そうでなくても。人は疑われることに不快感を示すものだ。レヴィはそこらへんが、ロクロウには認識できなかった。それはダッチも同じだったようで、まんまとレヴィのいつも通りの調子に呑まれてしまった。

 

「今ダッチに代わるよ」とレヴィが中継ぐと、彼女は電話をダッチに軽々と放って寄越した。

 

「おっと…あー…ハローハロー?聞こえるか?」

 

ダッチが恐る恐る声を掛けると、返ってきたのは、バラライカの声でも、先ず真っ先に頭に浮かんだ他の知り合い連中の声でもなかった。だが、確かによく知る人物の声だった。

 

「あぁ!ダッチー!久しぶり。元気してた?」

 

「お前…ああ、なんだよ、そう言うことかよ…」

 

「どうしたの?僕になんか用?」

 

「あ、いや。なんでもねえ、悪かったなレイジ」

 

聞こえてきたのは、ロアナプラで一番マトモな人間と目されている男…レイジの声だった。日向者にしか見えないし感じられないにもかかわらず、日陰者にしか共感を得られないような、そんな不思議な魅力のある輩だ。人畜無害で小動物のような可愛げのある奴で、その無害の範囲に世間の邪魔者も納めている、なんとも奇特な男である。他には一人もこんな奴はいないので、物珍しさなのか親しみなのか、或いは憧憬からだろうか、とにかく邪険にはされないし、邪険にしようものなら如何に己を悪党と自認する輩にも、いや寧ろそういった輩に程、居心地の悪さを感じさせる変な奴だ。ならず者の連中も、案外彼を見かけると気軽に声を掛けることが多い。ダッチもその一人だった。

 

船員の一人であるレヴィもそうだが、フリーで殺し屋をやってるシェンホアとも仲がイイ。とにかくモテる男であるが、特に嫉妬も湧いてこない変な男である。いや、そもそもレヴィと仲良くできるヤツは相当に変な奴だと相場が決まっているのだが。

 

さてはて、そんな奴の声が聞こえてきたせいで、ダッチはすっかり毒気を抜かれてしまった。

 

「気にしないでよ。またなんかあったら電話して。偶には声を聴かせてよ」

 

「あぁ、あぁ、了解だ。じゃあ、あー…今日もイエロー・フラッグか?」

 

「うん。そろそろ着くんだよね?」

 

「そうだ。もう十分も走れば着くさ」

 

「じゃあ、またね。お仕事お疲れ様」

 

「ありがとよ……」

 

ダッチはレヴィに電話を返した。

 

「レイジ、そろそろ着く。帰りはマーケットで夕飯を見繕うからよ。新しい屋台が出てるって、この前話したろ?そろそろ流行りも終わった頃だ。買って家で食おう」

 

「気を付けて帰ってきてね」

 

「ッ……ぁぁ、そうだな。気を付けるわ。じゃあ後で」

 

アンテナを畳んで通話を終えたことが分かると、ダッチは素直に謝った。

 

「すまねえ、レヴィ。なんだ…俺の勘違いだったようだ」

 

ダッチはそう言って頭を掻いた。レヴィは気にした素振りも無い。ロクロウは意外に思えた。めらねしあ丸の上で見た時の振る舞いとは、全くの別人に見えた。二重人格だと言われても信じただろう。

 

「気にしなさんな。別に遠からずってヤツさ。けどよ、ダッチ。アンタが思ってるようなことは何一つ、あたしも知らないんだよ。」

 

レヴィの言葉でその場は締めくくられた。結局、どうしてバラライカが人質を望んだのかは分からず仕舞い。ダッチは釈然としなかったが、それはレヴィにとってみても同じ様子だった。案外、本当に知らないのかもしれない。

 

ロクロウは、口元に微笑を浮かべて実に穏やかな表情で港を見つめるレヴィの姿に、言い知れない羨望を感じた。彼女には、すくなくとも帰る場所があるのだと、そう思ったからだろうか。

 

間もなく、ラグーン一行と人質のロクロウ、合わせて四人はロアナプラの港に入った。数時間ぶりの地面だが、それでも地面のなんとも落ち着くこと。寧ろ、この陸に上がる時のために船乗りは海の上で船に揺られているのかもしれない。ロクロウは、こんな心地なら、確かに港を見ればそれだけで帰る場所だと感じられるのかもしれないと、船乗りもそう悪くないと、素直にそう思った。

 

手錠もされることが無いまま、元の白シャツにネクタイ、それからスラックスの格好で三人の後ろをついて行くロクロウは、否が応でも目立った。

 

周囲を見ても、明らかにカタギには見えない人間の方が多かった。信じられない程粗暴でも、まだ見た目がマシなレヴィに脅された方がマシなのかもしれないと、よくわからない幸運に感謝していると、三人の歩みが止まった。目を合わせずに歩くことに必死だったせいか、いつの間にか目的地に到着したようだ。看板には『YELLOW FLAG』とあった。ウェスタンにでも出てくれば、実にマッチしたであろうフランス風の建築様式。酒場のようだ。周囲は喧騒の割に寂れて見えた。ロアナプラでは、これを落ち着きのある雰囲気と表現するのだから驚きである。

 

「おい日本人。折角だから受け取り主が来るまで飲まないか?」

 

ダッチがふと、思いついたようにロクロウに声を掛けた。意外な申し出にロクロウはまごつきつつ、はっきりと言葉を返した。

 

「アンタの奢りなら」

 

ロクロウの返答に、ダッチは満足したようだ。気に入ったのかもしれない。誘拐犯に酒を奢れと宣える人間が、この世にどれだけいるだろう。

 

「面白い。今日はお前さんを攫った時の前金のお陰で懐が温かい。いいぜ、好きなだけ飲むといいさ」

 

ダッチは笑いながら酒場のドアを押し開けた。

 

ベニーとレヴィは上機嫌のダッチを見て、不思議そうに顔を見合わせると肩を竦めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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