278.カイユという男
2023/9/10 修正しました。
2023/9/12 修正しました。
「――ふう」
息を吐き。
ふと窓に目を向けると、赤い光が差し込んでいた。
もう夕方らしい。
思えば腹も減っている。
早いものだ。
この部屋にやってきて、まだそんなに時間が経っていないと思っていたのに。
即席の一間を研究室にして。
造魔学の研究者カイユは、中腰のまま作業していた背骨を伸ばす。
いい時間だ。
向こうにも予定があるので、今日のところはこれくらいでいいだろう。
「先生、今日は終わりましょう」
と、カイユは黒ウサギに語りかける。
テーブルの上。
すぐそこで座り、こちらを見ている赤目の黒ウサギは――瞳から輝きをなくし、きょろきょろと辺りを見回す。
接続が切れたようだ。
これで、この造魔ウサギは、ただのジーナに戻った。
――さっきまでは、魔術都市ディラシックにいるロジー・ロクソンと繋がっていた。
ウサギの目を通して遠くを見て。
ウサギの耳を介して音を聞く。
向こうからの意思は、文字表で伝える。
……と、少々やりづらいが、意思の疎通が可能なのだ。
そして今。
カイユとロジーは、会話を可能とする魔道具の開発をしている。
今のところ進展はないが。
非常にやりごたえのある実験の真っ最中だ。
「おいで、ジーナ。食事にしよう」
手を伸ばすと、ジーナは大人しくカイユの手に乗った。
少々野性の強いジーナは。
基本的に、人を近づけることはないし、近づくこともない。
一応は造魔学の産物。
特殊な方法で呼べばやってくるが。
ウサギ自身の意思は、それなりに警戒心が強いのだ。
ただ。
開拓地にやってくる旅の最中、カイユはずっとジーナの世話をしてきた。
付き合いがあった分だけ、多少は認めてくれたらしい。
即席の研究室を出て、屋敷の玄関から表に出た。
「あ、こんにちは」
「こんにちは」
そこら辺にいた開拓民の女性らに挨拶を返し、ジーナを放す。
ジーナはその辺の匂いを嗅ぎながら、うろつき出した。
一応首輪もしているし通達もしてあるので、開拓民がジーナを狩ることはない。
だが、あまり放置もできない。
遠くに行って行方不明にならないとも限らないし、魔物に襲われる可能性もなくはない。
まあ、ロジーが言うには、ジーナは結構強いらしいが。
しかしカイユは、ウサギが強いところを見たことがない。
だから半信半疑だ。
ゆえに夜は部屋に連れて行くことにしている。
一緒に寝たいが、それは嫌がるのでベッドは別々だ。
「さて、今日は――」
どうするか、と思ったその時。
「――お疲れ様です、カイユさん」
と、今日も丁度いいタイミングで、開拓地の代表ミリカがやってきた。
彼女の手には野菜くずがある。
「ああ、今日もありがとう」
ジーナのために野菜くずをくれ。
ミリカにそう頼んで以来。
だいたいこの時間、わざわざミリカが持ってきてくれるようになった。
「可愛い」
エサに寄ってきたジーナを、ミリカが撫でる。
ジーナは嬉しそうに、彼女の手に身体をこすりつける。
心なしか嬉しそうな顔で。
――自分にはなかなか懐かなかったのに……。
カイユは少し微妙な気持ちになった。
いや、まあ、いい。
どこぞの紳士のように、ジーナは女が好きなのだろう。
そしてカイユは男装中だから、女の中に入っていないのだろう。
「……今日も呑んでる?」
かすかに漂う酒精に気付き、カイユは囁く。
「すみません、臭います?」
恥ずかしそうにはにかみ距離を取るミリカに、「全然」とカイユは首を振る。
「あまり気にならないよ。本当に。
俺も後で呑みに行くし……今日の出来は?」
――神の酒樽で造った酒は、特別だ。
カイユはあまり酒は好まない。
だが、疲労回復効果が高いので、毎日少しだけ頂戴している。
「控え目に言って最高でした」
ミリカは好きなようだが。
「うふふ。八杯くらい飲んじゃいました」
飲みすぎじゃなかろうか。
まあ、悪酔いも二日酔いもしないという神酒だけに、問題はないのだろう。
つくづくとんでもない代物だ。
「カイユさんは、何か不都合はないですか?」
「ないよ。皆よくしてくれるからな」
ミリカには、カイユの性別のことは話してある。
――王族だけに、ミリカは「訳あり」には非常に理解がある。
本人自身が訳ありそのものだから、というのもあるのだろう。
だからこそ深く事情を聞かないし、気を遣ってくれる。
「研究の方は順調ですか?」
「いや、全然。一ヵ月くらいじゃどうにもならないかも。
クノンが動き出したら俺も何か手伝うから、遠慮なく言ってくれ」
ジーナにエサを上げつつ、世間話をする。
ミリカは魔術師じゃない。
だから話す内容には気を付けているが。
でも、魔術師じゃないからこそ。
なんでもない話が、なんとなく、心地よい。
常に魔術漬けだったからこそ、カイユには少しばかり新鮮に感じられた。
「――ねえ」
「――やっぱり」
「――そうよね」
「――だな」
黒ウサギを撫でながら話す、ミリカとカイユ。
ここ数日、毎日のように見る光景で。
どちらも笑顔で、話が弾んでいて。
開拓民たちはミリカを知っている。
彼女は、見るからに貴族籍にありながら、誰よりも率先して開拓作業をしてきた。
彼女の働く姿。
何事にも先陣を切る彼女の背中に、開拓民たちは信用を寄せたのである。
そんな彼女は、たとえ笑っていても。
常にどこか神経を張りつめているように感じられた。
それが彼女の覚悟だった。
必ず開拓をやり遂げるという、覚悟だったのだと思う。
そんなミリカが。
あんなにも穏やかに笑っている。
それは、あの二人が、特別な関係に見えなくもないわけで。
あのカイユという男、非常に美形だ。
誰が見ても美少女だと答えるミリカの隣にいても、一切遜色がない。少し贔屓目に見たらミリカより美しいとさえ思えるほどだ。
お似合いだ。
しかも仲睦まじい。
――開拓民たちは確信した。
ミリカの婚約者はあのカイユという男だ、と。
将来この開拓地は、あの男のものになるのだ、と。
そう、勘違いをしたのだった。