ロアナプラより愛をこめて   作:ヤン・デ・レェ

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感想ありがとうございます。嬉しいです。励まされます。この作品のおかげで半年のスランプを抜けました。しんどかった。書けてよかった。またしばらく続けられる限り続けます。よろしくお願いします。


イディス / エダ

 

 

 

 

 

アメリカはイイ国ね。

 

特に私のような強者には。他のどんなとこよりも居心地がいい。

 

当たり障りのない言葉を吐いて生きていれば、自然と何でも手に入る。

 

敵はファシストとテロリスト。味方は自由と正義の番人。そして同時に核の傘を差し、愛と平和をばら撒く、まさに"ピース・ウォーカー"と呼ぶにふさわしい存在。その腕は強く長く広い。世界中どこへだって飛んでって、悪者は全員まとめてぶっ殺しちゃうの。例え殺した人間が99の善業を積んだ、マリア様でもお股を開くような聖人君子相手でもね。たった一つの罪さえ計上できれば…いいえ、例え計上できなくてもいいの。罪があった。それでいいの。誰も気にしないし、誰も困らないのよ。アメリカ人は一人もね。国益ってそう言う物よ?お理解りいただけたかしら。

 

国家の敵を滅する為ならば。この文句はアメリカドルと銃の次に便利な代物で、皆こぞって手を上げるわ。それが正しい!私は君を支持するよ!って。馬鹿の一つ覚えみたいだけど、それで動く人間がいるの。動く人間がいれば、それを見て、聞いて、それで動く人間がいるの。後はソレの繰り返しよ。私は国家の敵をどうするとも、なんとも言ってないにもかかわらず。彼らは勝手に走ってくれるのよ。私は引き金を引くだけ。或いは引き金を引かせる相手を選ぶだけ。皆、勝手に考えて動いてくれるの。そう言う風に出来てるのよ。よほど後ろめたいとでもいうのかしら?あんなにご立派ですのに、ね?よく覚えておくことね。

 

感情の挟まる余地などなく、機械的に処理をすることで、効率的で合理的な正義を執行できる。合衆国が勝ち続ければ、自ずと正義はこちらのもの。向こうが選ばれなかった正義になるの。それでおしまい。後は口が冷えて固まるのを待つだけ。誰が正義を選ぶのか、ですって?さぁね、神にでも聞いてきなさいな。きっとベラベラしゃべるわよ。

 

アメリカ合衆国は肥大しすぎた多頭竜。無数の人の血肉で動く機械仕掛けの怪物ね。複数の意思に突き動かされ、暴れ狂う七色の首が舞い踊るの。暗愚で善良な市民はまさに迷える子羊ね。賢い羊飼いたちは彼らを羊毛と肉と内臓に仕分け、産ませ増やし、また仕分けての繰り返し。そこには只管に実用的で現実的な合理だけが生きているの。子羊に名前を与えてミルクを与える暇があればね、少しでも従順に育つように母羊から引きはがして、胃が破裂するまで栄養のある餌を詰め込むの。羊飼いたちが望んでいるのはね、金の毛を生やす一頭の羊じゃないの。百万頭の無知で従順な、そこそこ肉付きの良い平凡な羊なのよ。今を換えられるほどに羊飼いたちは飢えていないの。だから牧場はずっとこのままよ。

 

あぁ、そう考えれば私もまた迷える子羊なのかもしれない。けれど、羊を増やし、守り、育てる仕事こそが、最も国家に貢献していることは疑いのない事だわ。羊飼いが嫌になったのなら、自分が辞めれば済むことだからね。それが出来ない愚か者が、自分にとって都合の好い理屈をこねくり回して牧場を荒らして、自分は結局その羊を使って生きようってんだから、虫のいい話。不愉快だわ。愚か者がどれだけ考えたところで、与えるエサが倍になるか、牧場が少し農場に変わるだけよ。皆そこしか知らないまま大人になるの。翼が無いのに空を飛ぶ気でいるのかしら。自分がとうに空の上の、巨大な竜の体の上に出来た牧場で生かされてることも知らずに。生かさず殺さずの環境と、落ちれば必死の地上。ユートピアは地上にないからユートピアでいられるのよ。本当にユートピアがあったとして、トマス・モアの国籍はイングランドのままなのよ。誰も棲めない場所だから、皆好き勝手に夢を見るの。

 

難しいことを考えるのは自分が賢くなったような気がするから楽しい。数えきれない人間が、その大きくて重いものを担いで運ぶことに必死になっているんですもの。真面目にやってるんだから、きっと間違いないに違いない。これは正しい事なんだって。私はそんな風に生きることに疑いを持つことはなかったし、寧ろこの国に生まれたからこそ進んでそうした。だって勝ちが決まってる賭けに乗らないのはバカだけだもの。アメリカは必ず勝利する。でも勝つためには何でもしなくちゃならないの。勝ったから今があるのに、その今が不満な連中が囀る。自分は竜の背中に間借りして住んでるだけの羊だというのに、そのことを忘れてしまって。

 

私は自分が羊飼いであることも、羊であることも理解している。だからこの国で身を立てることが出来た。羊飼いに成れた。自分の分と言うものをわきまえて、力の使い方を覚えて、賢く傲慢に。そうあるべき理由があり、そうなれるだけの実力を持っていたから。天は私に二物も三物も与えてくれた。生まれも、環境も、私自身の素質も。どれもが優れていた。この国の中にあって、力を振るうことを生まれながらに許され、求められていたの。優れた人間。優れた羊飼いに成れる。私は誰から見ても完璧な才媛だった。

 

努力をして、理解して。私は必死に歯車になる為に自分を磨いた。頭の悪い女にならないように。自分が食い物にされないように。いつの日にか羊に落ちてしまわないように。強者であり続けるために。そのために自分を磨き、鍛えた。我ながら賢い人間に育ったはずだった。持たざる者に対して、持っているかのように錯覚させる術に関して、私には天性の才覚があった。この力があればどこまでだって昇って行けるだろう。私は年を経るごとに自信を深め、力と国家への信仰を強めた。私はさぞかし敬虔な羊飼いだったに違いない。必要とあらば司祭に祈りを捧げてありもしない懺悔をすることも厭わず、時には乞食の真似事をしてラビに小銭を恵んでもらうことだって出来る。サラセン人に風呂の世話だってしてやるだろう。でもね、自分の価値を知れば知るほどに、私は男を男としてみなくなっていった。異性愛も同性愛もバカらしくて、弱者同士の馴れ合いにいったいどれだけの価値があるのだろうか。

 

私は努めて映画を観た。映画の中の頭の悪いケバい女が、男に媚びを売る映画だ。吐き気と共に、優越感を感じた。下には下がいて、上には上がいる。私は上に、上にと向かうのだ。マフィアのボスが小悪党を使嗾するように、私は椅子に踏ん反り返り、国家の枠組みに生かされているに過ぎない奴らのような勘違いしたクソバカ野郎共をパシリのように使ってやろう。葉巻を咥えたチンピラに、手前は死ぬまでチンピラのままだったと教えてやるのさ。小物も外道も生ごみか産廃かの違いに過ぎない。一緒くたにして搾取してやろう。搾取される気持ちを思い出せれば、彼らも少しは己の分をわきまえるはずだ。手前らの大好きなドル札に刻まれた知性の瞳が、他でもないお前たちの限界を見極めてんのさ。

 

私は馬鹿にはなるまい。食われる側にはなるまい。それはあまりに惨めだ。最高の国に、最高の状態で生まれたのだから。賢く、優雅に生きていこう。高尚な権威や名誉を身に飾り、ありとあらゆる力を駆使して世界を思うがままに動かそう。そう信じていた。自分の力と、アメリカの力を信じていた。

 

だからね、中学校で初めて彼のことを見た時は驚いたわ。

 

何年も何年も、丹念に血を吐くような思いで重ねてきた努力も、哲学者の如く完全武装したはずの論理も、全てを吹っ飛ばしてポっと出の貴方が全て塗り潰してしまったから。

 

頭の中が真っ白になった。自分が壊れる音がして、その日の記憶は貴方のぼんやりとした眠たげな顔以外は曖昧だった。何の変哲もないアジア人の風貌。童顔に碧眼。これと言って特徴のない身体で、運動も勉強も苦手。英語も拙くて子供みたいな喋り方。鈍くさくて、弱弱で、そのくせ超然としていて、瞳が冷たくて、でも自分を見る目だけは温かい様な気がして。私は壊された。私は穢された。私の人生が崩壊する音が聞こえた。心の中を滅茶苦茶に土足で踏み固められて、貴方にとって都合の好い存在に堕とされてしまう。怖くて、でも期待していた。強く振舞う、偉そうに振舞うあなたの姿を夢想した。勝手に頭に浮かんで来て、私の理性を焼いていく。

 

映画の中のバカな女だって、初めからバカじゃなかった。彼女たちは賢く、強く、凛としていて、男なら誰もが眼で追ってしまうような存在だった。初めはそうだったはずだ。男を手玉に取って、思うがままに弄んで。猫が毛玉でするお遊びだったはず。優雅で、充実していたはず。だというのに、気障でダンディーな俳優が現れた途端にコロリと恋に落ちてしまって、あっという間にバカな女の出来上がり。あぁ、何て悲劇。なんて喜劇だろう。無様だと思った。情けないと思った。私はあんな風にだけはなりたくなかった。自分よりも劣った顔が好いだけの男に媚びて、身も心も捧げて、操も過去も譲り渡して。下品で惨めで滑稽だった。私は強い女として、バカな男どもに指一本触れさせずに、奴らをあのバカな女どものように弄んでやるのだ。夢中にさせて、狂わせて、私が満足できるようにご機嫌を取らせよう。バカな犬ほどかわいいものだ。私の情けを争って共食いさせるのも面白いだろう。私は椅子に踏ん反り返って、奴らの無様を笑ってやるのだ。消費されるのも搾取されるのもお前らの方だ。私は気高く空を飛ぶ。自力では羽ばたくこともできない自分の弱さを棚に上げて、インスタントで安価な優越感で自分を満たす術を知っていたはずだ。巨大な竜の背中から、地上で囀るバカを笑うのだ。

 

そう思っていたのに…なんて、なんてことだろう。果たして、こんなことが許されるのだろうか。理不尽だった。あまりにも理不尽だった。国家とか、正義とか、道義的に正しいとか、政治的に正しいとか、全部全部まやかしだ。言葉遊びだったのだ。口先三寸の理性と誇りは敢え無く崩れ去り、これまで大切にしてきた、全ての時間と資源と意識を費やして磨いてきた牙を折られたのだ。私の全てという全てを焼き尽くして、徹底的に犯し抜いて、灰の中で感情だけが燻ぶっていた。燃えカスのそれは、地獄の業火にも耐えて、自己嫌悪の夜を越えて、自己陶酔の雨にも濡れず、ただただ私を見つめていた。私の中に居座って。じっと動かず。何もせずに。まるで何もせずともイイとでも宣うが如く。確かにそれはその通りで、私は勝手に油を浴びて、勝手に体に火を放ち、勝手に走って燃え尽きて、勝手に灰の中から立ち直った。不死鳥みたいで素敵でしょう?でもね、不死鳥なんかじゃないの。思考は論理的矛盾と非合理を限界まで削ぎ落そうとする。けれど、論理も合理も感情の前ではあっけない終わりを迎えたの。バターの塊に炙ったナイフが沈み込むみたいに。脳みその裏側まで取り換えられて、寧ろ今までの私の全てが私に寄生する間違った理性で、貴方に狂った今の自分の方が本物の私なんじゃないかって。

 

私は彼と恋に堕ちた。一方的な一目惚れだ。私が勝手に堕ちたのだ。自ら選んで堕ちたのだ。けれどね、ごめんなさい。私、こんな経験は初めてだったから、どうすればいいか分からなかったの。経済とか哲学とか、軍事とかなら、それが言葉で紡がれる限りは私に理解できないことなんてなかったけれど。私の頭の良さなんて、賢さなんて、貴方の前ではちっとも役に立たなかった。当然よね、私が勝手に感じて、狂って苦しんで、愛してしまっただけなのだから。貴方は私の被害者なのに。それでもどうか赦して欲しいの。だって声を聴くまでに三年もかかったんですもの。

 

声も聞かずに三年間、死ぬような思いで我慢したの。勝てると思ったから。打ち勝てると思った。自分は強いのだと。全ての上に立つのだと。でもね、無駄だった。呆れるほどに私は貴方のことが好きで好きで仕方が無かった。愛おしくて、可愛らしくて…でも、理性と知性の全てを振り絞って感情を封じた。だって私はバカで賢い女だったから。耐えて耐えて、耐え抜いて。溢れだす感情を殺すために、あらゆる手段を講じた。彼の悪い所を探して、自分の優れた所を探して、そうして自分を無理やり組み立て直したの。血も涙もない女になりたかった。貴方のことなんて歯牙にもかけない。道具や金蔓、路傍の石とでも、呼吸する畜生だとでも思い込みたかった。完全無欠の歯車になれれば、こんなに苦しまなかったに違いない。だから私は貴方を憎むために、自らの退路を塞ぐことにした。自分を殺してしまえるように、いざとなればこの醜い自分を殺してしまって、美しい綺麗な心と体のまま死んでしまえるようにと。でも、自分では何もできなかった。する必要もなかったけど。それでも、貴方の顔を見たら死んでしまいたくなるに違いなかったから。弱くて醜い自分の方が生きたくなるに違いなかったから。だから遂には、得意の人心掌握術で中学校全体を支配下に置いた。全てを思うままにして、その全てを貴方を苦しめる為だけに使った。死んでくれたらどれだけ世界は平和だったろう。貴方が私の前から跡形もなく消えて無くなれば、きっと私は乾いて冷たく成れたはずだ。硬くなって、それこそ今度こそ本物の羊飼いに成れたはずだ。脇目も振らずに、私は理の番人になっただろう。顔のない支配者としてこの国に、この世界に君臨できたはずだ。目の届く範囲で全てを見下し操作する、完全な存在になれただろう。或いは、ただただ死んだかもしれない。寧ろその方があり得たと思うわ。だって貴方が死んでしまったら、いなくなってしまったら、それこそ何の意味もない。全てが無になったはずね。虚無だけが残って、色を失って、何を食べても美味しくなくなって、何を観ても美しく感じなくなって…オカシイわよねこんな気持ち、貴方は私の名前すら知らなくて、ましてや私は私の都合で貴方を学校全体を使って虐めさせたんですもの。

 

中学校が終わる頃、私はようやく納得した。貴方には勝てない。貴方を憎めない。貴方を愛さない自分が思いつかない。貴方は完全で唯一無二だった。

 

私は間に何人も挟んで、決して私が貴方を虐めさせていることを漏れないように徹底させた。その上で報告を受けて、打ちのめされていた。貴方はずっと、私の所為でずっと虐められてた所為で理解できないでしょうけど、貴方を一度虐めた相手が貴方の前に現れることはなかったことって理解しているのかしら。貴方は異常なの。狂っているの。皆理解できなくて、知ろうともしないけど。フツウならね、貴方みたいなお金持ちで気弱で大人しい子は真っ先に狙われるのよ。私が何かするまでもなく集られて、寄ってたかって虐められて、飢えた鮫の群れに生肉を投げ込んだみたいな有様になっていても可笑しくなかったのよ。なのに貴方ときたら、私が皆を唆すまで誰にも虐められることもなかったでしょう?それだけじゃないわ。私が唆した後、あらゆる手段で皆をけしかけた時だって、本当はもっと激しく徹底的に貴方を苦しめられるはずだったのに、あれだけ従順で忠実な子たちがね、一人残らず手加減しちゃったの。バケツで汚水を掛けろって指示しても、誰も汚い水は使わない。他の子を虐めさせてみたら平然と汚物を投げつけたのに、ね?貴方に使うバケツだって新品同然の代物で、使う水だって水道水だった。暴力を振るえって言ったら戸惑いながらぺちぺち叩く始末。道具を使えと言えば子供だましの凶器を振りかざしてから、結局妥協して平手で叩いてしまうし。

 

狂ってる。理解できなかった。貴方は何者なのかしら。貴方の前に、貴方を虐めたことのある人が二度と現れなかったのはね、貴方のことを一度でも虐めた子たちは、皆口を揃えてもうやりたくないって言ったからよ。どれだけ諭しても、色仕掛けをしても、物で釣っても効果なし。どんなバカも口を揃えて二度としないと言い張ったのよ。私が詰ると男のくせにピーピー泣いて、役立たずだと思ったわ。だから今度は男がだめなら女にさせよう。そう思ってけしかけたら、何で慰められてるの?私が言ったのは死にたくなるほどひどい言葉で詰れ、だったのに。女どもは一人残らず、一言二言詰るっきりで手も出さないし、事も荒立てなかった。私が無理にさせようとしても、男と同じで終いには泣き出す始末だった。

 

皆が貴方のことを慕っていて、貴方に優しければ、そもそもいじめになんか参加しなかった。だから連中は別に貴方のことが好きだったわけじゃないの。そのことは理解してた。でも、本当の意味で皆の考えてたことを理解したのは高校に入ってからのことだった。

 

初めて会った時のことを覚えてるかしら。貴方、何時もみたいにボーっとしてたわよね。三年間、顔も見ないで我慢してた。斥候を彼方此方に放って、絶対に貴方とは鉢合わせないような状況を整えるのに腐心した。貴方の動きは常に把握してたわ。中学時代、恋人だけは絶対に作れないように仕向けたけど、そもそも貴方に釣り合うような人間はいなかったみたいで安心したわ。それでだけど…貴方の顔を見た瞬間に、私はすっかり振出しに戻ってしまったの。今まで頑張ってたのが全部無駄になってしまったわ。感情が制御できなくて、貴方のことだけ考えちゃうの。一目惚れって最低ね。理不尽で、私の事情なんてお構いなしなんだわ。私のこれまでの人生も、これからの将来設計も全部パアだもの。

 

アハハ…ほんと、バカみたい。脳みそに直接性器を突っ込まれてかき混ぜられてるのかと思った。死んじゃう。死んでもいい。でも、まだ死ねない。死にたくない。そう思ったら体が勝手に動いてた。中学時代に探らせた情報を分析して統合して、貴方が中学時代のトラウマを抱えていることも、清楚な女のほうが恋愛を始めるためのハードルが低い傾向にあることも理解してた。

 

そうよ、確信犯なの。私、取り繕うのが上手でしょ?

 

必死で、必死で、自分を取り繕って、少しでもイイ女に見せようと必死だったのよ。これまで手に入れた知識も、経験も、才能も、全部全部が何かもっと巨大で崇高なことに費やされるべく、私と言う一人の人間をより貴い所へと押し上げるために役立たせるべく生きてきたの。ボケっと難しいことを考えずに何不自由なく生きてきた貴方とは違って。おしっこが赤くなるまで体を鍛えて、絞って、磨いて。手足の筋肉が裂けて、脳みそが焼き切れて鼻血が出るまで勉強して、自分の頭で考えて。才能にも努力にも驕らずに、気が遠くなるほどの苦痛と引き換えに手に入れるはずだった名誉とか栄光とか。そう言う何もかもを、いとも容易く踏み躙った。貴方のことが殺してやりたい程に憎たらしくて恨めしくて。それ以上に、そんな私如きの思いがちっぽけなことに思えるほどに、貴方に夢中だった。首ったけだった。貴方の為なら何でもできるわ。喜んでする。文字通り、なんでもね。どんな惨めなことも、苦痛なことも、残酷なことも、無様なことだって。どんな屈辱にだって耐えられるし、どんな試練だって乗り越えて見せる。自分のことなんて毛ほどにも顧みずに生きられる、きっとそれは得難いこと。素晴らしいことだわ。神に仕える使徒のように、天啓を受けた伝道者のように。自分の中だけで完璧無欠の快楽が、自分の人生にふっと湧いて出たのだから。私にしか見えないもの。私にしか聞こえない声。私にしか理解できない私自身。これ以上に、もしこれ以上に自尊心が満たされるものがあるとすれば、それこそ貴方に愛されること。それだけ。その上はないの。そして私はそれが欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて…堪らない。貴方に愛されたい。貴方に認められたい。貴方に褒められたい。貴方の何が魅力的なのか、貴方のどこに惚れたのか、説明出来たら狂わなかった。説明できれば苦労しなかったのに。言葉に出来るようなフツウに素晴らしい程度の物ならば、本を書いてしまえばいい。聖書と一緒でよく売れたはずだ。でも、これはそんな陳腐なものじゃなかった。そんな、切り売りして広げられるような安くて粗末な何かじゃなかった。解釈も、補足も許されることはない。純粋で、ぞっとするほど綺麗で、そして独善的な快楽だった。私は貴方に告白した。これまでとこれからの全てを貴方の為だけに使うことにした。賢い頭も、美しい顔も、磨かれたカラダも、利己的で傲慢な過去も、そして心と魂の永遠さえも。酷くポエティックでシニカルな、俗で醜悪な澄み切った魂胆を明け渡した。

 

アンドレイ・ジィドは著書『狭き門』の中でこう語った。

 

「汝狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広く、これより、入る者多し、命に至る門は狭く、その道は細く、これを見出す者いない」

 

新約聖書のマタイ伝第七章より。果たして、門は開かれた。

 

私は私を再定義することにした。私は最早歯車でも、はたまた尊厳ある一人の独立した個人ですらなかった。その必要が無かった。私はそんなことを求めていなかったし、貴方にとっても煩わしいだけで何の得にもなりはしなかった。私は貴方の願望器。貴方が望めばパンを出し。貴方が望めば洪水を起こす。貴方が光あれと言えば、世界は光で満ち溢れる。ハレルヤ!私は喜んで今の世界を照らす傲慢で無分別な電球を取り換えましょう。貴方に都合が好いように。大丈夫。安心して。貴方の好みは把握してるから。これからも更新し続けるから。貴方の望みは私の望みであり、貴方が私に向ける声が、眼差しが、指先が、私から不幸と苦痛を拭い去る。貴方こそが現実であり、貴方こそが未来である。そこにある今であり、貴方は一にして全である。もはや私は善悪の彼岸から脱し、煩わしい良心と倫理から解放された。神のラッパにチューニングは不要。なぜなら彼らがラッパの音色を聞くのは一度切り。貴方の勘気を賜り、私が動いたその時が最初で最期の時なのだから。未来とは神に選ばれた者だけに赦された快楽。最上の褒美であり、人間に生きる力を与えてくれる。希望とは未来であり、未来とは期待である。貴方の期待は未来となり、貴方の未来こそが私の希望となる。貴方が私を使う限り、私は貴方の役に立てる。貴方の役に立てる限り、私は貴方の傍に居られる。一分一秒でも惜しい。貴方の全てを断片だけでもいいから感じていたい。私を貴方で満たし、私は貴方に望むべくもなく満たされる。貴方は私を生み出した、私は貴方の最初の人間になるのだ。

 

貴方は私の告白を受け入れてくれて、私たちは恋人になった。私の心は幸福に包まれ、視界が何度も潤んだ。頭の中がバチバチとはじけた。心臓が忙しなく脈打ち、呼吸だけで手一杯だった。貴方の「よろしく」の一言で私は死に掛けた。殺されかけて、だのに心底幸せだった。そして貴方の真実を知った。貴方を中学の連中が苛め抜けなかったワケを。

 

その答えは恐ろしくシンプルだった。皆、貴方が怖いのだ。弱くて、情けなくて、大人しくて。人畜無害な貴方のことを、彼らは心底恐れていた。貴方は何もしていなかったというのに。虐められて泣いて。送迎の車から出るところで躓いて泣いて。食事に苦手なものが入っているだけで不機嫌になるような。そんな貴方のことを、連中は怖くて怖くて仕方なかったのだ。確かに貴方は政府にも影響力を持つような大富豪の家に生まれたけれど、かといって貴方が驕ったことも、金を見せびらかしたことも、彼らに対して実家の威を借ることもなかった。だというのに、彼らは貴方のことが怖くて怖くて仕方が無かったのだ。なぜか?言語化するのに時間がかかったが、貴方の隣で過ごすうちに理解できた。貴方のことを、誰も理解できなかったからだ。彼らは所詮は飼われる羊に過ぎず、理解できない貴方のことを本能的に恐れていた。彼らの誰一人として、自分が感じている恐怖の名前を知っている者はいないだろうが…彼らは抵抗することも思いつかないほどに、貴方を恐れていたのだ。

 

貴方と共に過ごすうちに、貴方が羊とは住む世界の違う人間であることは明らかになった。一見何事にも無関心に過ぎる貴方の振る舞い。思考。それらの正体は冷たさを錯覚するほどの温かい何かだった。貴方の思考は正常な人間にも、小賢しいだけの人間にも、恵まれた人間にも理解できない代物だ。貴方の価値観はニュートラルに過ぎていた。犯罪と言うものを、善悪と言うものを価値観の根本に置かない姿勢は、まるで犯罪や悪を許容するように見えてしまうだろう。きっと、中学の連中が感じた恐れとは、アウトローに感じる拒絶感であり、また恐怖であった。一方で、狂った人間、恵まれなかった人間にとっては、貴方は正しく陽だまりのような人間なのだ。隔意が無く、文字通り相手を独りの人間としか見ていない。認めていない。その眼差しはマトモであればあるほど、正気であればあるほどに冷たく冴え渡り、社会や現実に受け入れられず、同様にそれらを受け入れることのできない者たちにとっては、一際優しく穏やかに、温かいものに感じるのだろう。私には貴方が進むべき道と言うものが見えた気がした。これから、もしも私以外にも貴方に狂う人間が現れたとして、彼らもまた同じように理解するだろう。

 

自ら手を下さずに。或いは意識することすらせずに、周囲に全てを察して理解させ、自身ですら把握していない自身の深層の願望のままに現実を書き変える存在。そんな存在を、私は未だかつて知らなかった。そして私は知ってしまった。私は知っている。私がその最初の一人であることさえ。彼は生まれついての支配者であり、真に君臨する存在に相応しい。統治などという雑事は下々に任せ、優雅に現実世界を謳歌する。現実からの逃避の必要性のない、唯一無二の狂者なのだ。強者にして狂える者たちの王なのだ。いずれ彼は自分の為の規範を生み出し、社会を、世界を構築するであろう。その頂上に君臨し、ぼんやりと生を愉しむのだ。自らを世界の君臨者だなどとは知りもせず。考えもせず。貴方の言葉は軽快で淡白で、けれど全てが全てを動かし得る激烈な影響力に満ちている。誰しもがあくせくと、貴方を恐れるあまり引きずり降ろそうと、貴方を愛するあまり守り支えようと足掻き藻掻く。世界の迷惑も、社会の混乱も、貴方の心に漣を建てては朽ちていく。貴方が自分の手のひらにあるものに気付くことはなく。故に、貴方は拘らない。貴方は真に自由なお方。故に、この世に生きるならず者共に、唯一赦しを与えることが出来る。教皇は諫め、王は罰し、民衆は嘲笑し罵倒する。貴方だけが、彼らを独りの人間として選ぶことが出来るのだ。群衆の襤褸を払い、輪郭と自我を、尊厳を持ち合わせたちっぽけな存在として、貴方は彼らを愛で、彼らは貴方を慕うだろう。

 

私は願望器として自分を定義したにも関わらず、早くも一人の女として、一匹の雌として彼を欲していた。私は優れた雌としての自負があった。その自尊心は高く、私の深く熱い秘奥を塞ぐ、そのいと高きジェリコーの壁を越えるに値する雄は彼しかいなかった。私は清楚で高潔な女として彼を落とした。先に堕ちていたのは私の方で、さんざん悩んだ後だったのだから、今更何も迷うことなどなかった。自身に定めた願望器としての責務、自分の浅ましい欲望からくる願望器などという僭称に、少しでも現実を近づけるべく、私は少しの躊躇もなくもう一人の自分を作り出した。私はあたしになり、イディスはエダになったってワケよ。アンタが一番気兼ねなく抱けるのはどんな女か、どんな容姿、性格、口調…そう言ったもんを小さな小さな日常のヒントから搔き集めて、ピンセットでボトルシップを組み立てるみてーにチマチマ進めてったってわけだ。貞淑な妻が夜の娼婦とか…燃えるだろ?アンタの好みなんざ直ぐにわかんだよ。アンタとは頭の出来が違うんでね。とはいえ、だ。全てを察するように仕向けて全てを自分の思い通りにシちまう時点で、アンタは言わば誰よりも優れた存在な訳だ。生物で言う適応進化ってのと同じさ。疑似餌をぶら下げてれば餌が向こうからやって来るのと同じ。口を開いてボーっとしてりゃ、獲物の方がおっとり刀で駆けつけるんだ。他の雑ッ魚い雄とは違ってな、アンタはホントのホントに何もする必要もないわけだ。体を鍛える必要もなけりゃ、身体に墨入れる必要もねぇ、顔を整形する必要も、金で自分を飾る必要もねぇ、女を口説く必要も、自分の道具のサイズを気にする必要もないわけだ。デカい声で捲し立てるように騒ぐ必要もねぇ。なんてったって向こうからくるんだからな。逃げられるか気が気じゃないのは向こうの方なのさ。こうやってあたしがお上品な言葉遣いも捨てて、アンタの好みに合わせた、気持ちよさとか優越感とかに全ベットしてる、如何にも男漁りに精を出してやがるような、エロイばっかの女をやってんのだって、アンタに気に入ってもらうためなのさ。アンタに認めて貰って、そんでもって喜んでもらえるように。捨てられないように。アンタの記憶に、意識に遺るように。少しでも長くアンタの気を引いて、自分のことを考えて貰えるように。その為に必死なンだよ。どうだい…そそるだろう?

 

自分で自分のことを完璧に理解できない奴がフツウなんだ。相手に自分以上に自分のことを考えさせて、アンタの為にアンタ以上にアンタについて理解らせ(わからせ)ちまう方が異常なんだよ。きょとんとした間抜けたツラ晒して、アンタってのはホントに仕方がないね。困惑してても喜んでたのは知ってるし。何よりカラダが興奮してたのは丸わかりなんだよ。エダ様にゃ、アンタの恥ずい癖なんかまるっとお見通しだよ。罪悪感とか感じてんじゃねぇよ。もっと好き勝手に染めておくれよ。アンタ好みにハードコアにイこうぜ?ゆっくり自分を知ればいいさ。あたしがアンタを開発してやるよ。何が好きで、何が興奮するのか、カラダの隅々まであたしが調べ尽くしてやる。分析して実践してやるよ。PDCAサイクルで計画的にアンタの衝動を丸裸にしてやるから覚悟しときな。

 

アンタはソッチの物覚えだけはよかったな。つくづく女衒の鏡みてぇな性質してんぜ。でもあたしには好都合だ。ますます惚れた。天井知らずの自分の情の深さに恐れ入るよ。毎日毎日、よくもまぁ飽きもせずにヤッたもんだな。人畜無害な顔の通り、肉の薄い頼りなくて平凡な裸でも、一目見た瞬間からあたしの頭ん中はオーバーヒート寸前だったよ。女を狂わせるしか能がねぇみてぇなカラダしやがって…。エダに徹するので精一杯で、技術も何もあったもんじゃなかった。気が狂うほど踊って、アンタに女にされたんだって理解したらイディスが出てきて、でも貴方は私が恥じらうのを嬉しそうに見ていて…こそばゆくていけないわ。自分が崩れて、貴方にますます都合の好い存在に堕ちて行った。堕ちたくて堕ちていたの。幸せで、何と言っても楽しかった。毎日、少しずつ貴方を知っていく。貴方に私が知られていく。より高い所へ昇り詰めることでしか感じられない快楽と高揚があるように、どこまでもどこまでも堕ちていく感覚は時間がもったいないほどに凄まじいものだった。貴方のことを思えばいくらでも頭が冴え渡るのに、それ以外はどんどんバカになってくみたい。これも立派な調教ね。知らぬ間に人間性を捨てていたのかしら。面白いくらいに全てが順調だった。貴方は何時か羽ばたいていく。そう知っていたのに。理解していたのに。それでも私の傍で永遠を共にするんじゃないかって。…そんな期待もしていたの。でもね、私は私が想像していたよりもずっと、ずっと狂ってたんだわ。貴方との暫しの別れが、そのことを教えてくれたの。それはもう…狂っちまうほどにな?

 

アンタが高校を卒業して、あたしの前から消えた時。あたしは少しも悲しまなかった。フツウの人間なら悲しむよな?嫉妬もするかもな。恨むかもな。憎むかもな。目が覚めるかもな。でもな、あたしは違ったのさ。あたしは役目を与えられたんだと思った。俺がいない間に俺の尻の座りがイイ椅子を用意しておけってな。天命。天啓。運命。言葉ってのはもやってしててダメだねぇ。あたしの感じたデカいことの、ほんの少しも伝えられない。あたしはアンタの行き先も、その先での出来事も全部知りたかった。だから知る事にした。足跡を記録することはあたしの役目だろ?だからCIAに入った。そこで成り上がる為に切れるカードはすべて切ったし、使える手段は全部使ったし、そのために必要な全ては他でもないアンタが用意してくれたんだろ?

 

アンタがいなくなって直ぐに、アンタの実家に向かったよ。身形の良い、上品な老夫婦が暮らしていて、事前情報によればユダヤ系ドイツ人の家系らしかった。アンタには日本人の血と半分ずつ入ってるってことは知ってたから、あたしは驚かなかった。老夫婦とあたしが会うのは初めてで、なのに向こうはあたしのことを既に知ってた。いや、口ぶりから見てとうの昔に知ってたんだ。アンティーク家具が並んだリビングに通されて、椅子に腰かけるなり手伝いさんが紅茶を出してくれた。上流階級という言葉がピンときた。あたしの家だって大したもんだが、文字通りこっちのが格上だ。部屋のあちこちに不躾な視線を送っても、老夫婦の表情は変わらなかった。部屋のあちこちに碧い眼のアジア人の写真が飾ってあった。なるほど、アンタは愛されてたんだな。アンタが思うよりもずっと、溺愛されてたんだ。それでも、いやだからこそアンタは案外居心地が悪かったのかもしれないと、その時になって気づいた。自分が人と違うこと。それも狂人に分類されるほどだから、感じる疎外感や寂しさや虚無感は一入だったろうに。あたしは一人納得して本題を切り出した。少なくとも、向こうはあたしのことを知っていて、あたしが可愛いお孫さんを唆してきたことはお見通しとみていいだろう。あたしはその前提で全て正直に話した。あたしの目的…アンタの為に生きること、働くこと、考えること、用意しなくちゃならないこと。全部全部。あたしは正直に話した。気が付いたら紅茶が冷めていた。冷めて尚、その味は好いものだった。あたしは彼らの答えを待った。静かに。緊張はなかった。

 

老夫婦の答えは、現実的で、実践的なものだった。あたしは二人の養子に入り、その遺産の全てを孫のアンタの為だけに使うということを前提に、遺産相続権を与えられた。相続は生前から始まることになり、手始めに彼らの保有する各種様々なコネクションと不動産に関する全てを贈与された。老夫婦は自分たちの先が短いことに危機感を覚えており、だがそれ以上にアンタの心配をしていた。そして半年を掛けてグレーゾーンに限りなく近い手段迄用いて、ほぼ満額の遺産を相続した。人脈は勿論のこと、情報や通信手段、表沙汰には出来ない売り物の値段や相場、果ては闇市場(ブラックマーケット)や武器商人とのコンタクト手段に輸送と売買の為の伝手なんかまで、一介の工作員には過ぎる代物だったが、生憎とあたしは呆れるくらいに優秀でね、自分ならこのすべてを持て余すことはないと感じたよ。逆を言えば、このすべてを使いこなせるのは自分だけだろう、とも。

 

老夫婦の遺産を継承し、ほどなくして二人に呼び出されるなり、いままで試すような振る舞いをしたことを謝罪された。あたしは驚いて、同時に納得したね。なるほど、確かにアンタを輩出しただけはあるよ。家族への情の深さも、自分の生涯をかけて紡いだ遺産を微塵とも惜しげなく、子娘一人を試すためだけに単なる手札として切っちまうんだからな。まぁ、その賭けに勝つ辺りに一族が繁栄してきた理由を察したよ。

 

二人はアンタがあたしにと遺した、気が遠くなるような額の遺産と、更に自分たちがアンタから預けられた遺産まで八割方をあたしに譲ってきた。残りの二割だって、あたしがヘマした時にアンタが不自由なく暮らすための蓄えに回してくれたくらいだ。目が飛び出るくらいの桁数に、流石のあたしも冷や汗が垂れた。だがその驚愕を上回る歓喜と、我が身を疑うほどに敬虔な心地だったよ。法悦ってやつあるだろ?神様がある日突然、何の前触れもなく現れて手前の信者のカラダを好き放題まさぐるアレだよ。こんときのあたしの絶頂をアンタにも味わわせてやりたいよ。もう、ホントに、アンタがあたしを食い散らかして、蹂躙してくれた後で、思いっきり甘えられた時みたいな、癇癪起こしたガキみたいに乱暴で、赤ん坊をあやす時みたいな甘くて優しい気持ち。まさにそれだ。百年生きても使いきれない額の金をぶん投げられて、それでなんとかしろ、お前ならできるだろって…そうやってぶっきらぼうに命令されてると思うと、あたしは静かに達した。また頭の中を書き変えられて、ますますアンタに惚れ込んだ。金を貰ったからじゃなくて、頼られたことが堪らなく嬉しかった。純粋で、死ぬほど汚い邪な気持ちだよ。クソの詰まった内臓に香水を振りまいて飾り付けたみたいだ。預けられる金の額で信頼の多寡を秤に乗せる様な、鼎の軽重を問うような真似だ。…試されてんのはあたしだろ?アンタを試すような、自分に相応しくあって欲しいっていう願望が自分への怒りで煮えくり返る腸と一緒に、ぐつぐつした。ごった煮のまま、心を落ち着けて直ぐに行動に移した。あたしはこの国を、竜を飼いならさなくちゃならない。スリルとピース、シリアスとポップをバランスよく配分したテーマパークに生まれ変わらせるのさ。アンタが遊んで、あたしを褒める。アンタがハッピー、つまりはあたしもハッピー。イコール地球のみんなも強制的にファッキンハッピーだ。麻薬で遊ぶのもいい。キューバとのごたごたで遊ぶのもいい。きっと賑やかになるさ。アンタは神様お客様、あたしは支配人、他の全員がキャストでエキストラだ。最高のショーを世界最強の国が催すんだ。世界最狂の一人の男の為だけに。どうだ?ゾクゾクすんだろ?待ちきれねぇよな…でもちょっと待っててくれ、必ず全部上手くやる。あたしが全部上手くやる。

 

株式に現金に貴金属に不動産に…あたしが自由に切れるカードの額は、全部合わせて800億ドル相当に上った。これだけあれば大統領だろうがCIA長官の首だろうが自由自在だ。レゴブロックみたいに取り外し自由だ。だが、あたしはこの国の支配者になりたいんじゃない。都合の好い存在に、徹底的に手懐けたいんだ。だから金は役に立つ。この国には羊も狼も羊飼いもいるが、幸いにして仕事を終えた牧羊犬を手懐けるのは簡単なことだ。この国は選挙の為に戦争を、戦争の為に選挙をやる国だ。軍産複合体の成れの果てで、国民全員がロザリオと聖書よりも銃を信仰しているような国だ。差し当たり銃はロンギヌスの槍、軍人はロンギヌスと言ったところだ。彼らは選挙においても巨大な票田だ。何より体を張って国を守ってきた実績が尊敬と支持を集めてる。彼らを大事にすれば褒められるし、疎かにすれば軍人の数倍はいる軍人の親族から非難轟轟だ。牧羊犬を手懐ける手段も簡単。尚、手懐ける為には金が必要だが、あたしに足りない物の中に金は含まれていなかった。アメリカ合衆国退役軍人省との蜜月が、あたしのキャリアにニトロジェットばりの速度を付けた。役人に多い、自分の自尊心を高めてくれるような理知的でお上品な手合いを好む気取った連中には、勿論イディスが対応したわ。エダはアンタの為だけのもの。アンタの為に考えて、手を汚し、イディスは綻び綺麗に繕って、次の機会を整えておくのよ。退役軍人の為の再就職先を自前の企業を起こして確保したり、生活防衛資金を供出して軍内部とのコネクションを既存のものとも統合しつつ、確実に堅実に積み重ねていったわ。その傍らで貴方の遺産を分散して世界中の投資に回して暴利を貪り、着実に貴方の資産を膨らませ続けたの。その上で貴方の一族の弁護士や会計士、税理士を総動員して資金の透明性を保証し、資産の密かで迅速な移動を行うための国際的な私的な金融ネットワークシステムを構築していったわ。

 

勿論、CIAでの衛星監視とOSINTにも余念がなかったわ。貴方の足跡は勿論、いつ何時に何を食べたのか、移動経路にお通じの調子に今日の下着の色までお見通し。貴方の全てを知る事は何も貴方の為だけじゃないの、私の為にも掛け替えのない安心の為のツールなの。だって、その証拠に貴方がキューバ行きの機内で一緒になったチャイニーズアメリカンの女と行動を共にしていることも、コロンビアでテロリストの狂犬を手懐けたことも、ロシアで退役大尉に唾を付けたことも、中華で武術に精通した娼婦を一匹モノにしたことも、崩壊したルーマニアで国政に食い込むような真似をして、復興の足掛かりとなる手柄をそっくりそのままロシア女に呉れてやったことも。その騒動の脇でパンツも履かずにスラムの住人からお腹を刺されていたことも。全部全部お見通しなのよ。

 

にしてもどうしてこうまで物騒な女ばかり集まるのかしらね。米系華人の女は警察五人に父親を射殺してから国外逃亡。コロンビアの狂犬は弁解の余地もないテロリストで凶暴極まる殺戮者だし。ロシアの女大尉はリュドミラ・パヴリチェンコの再来と謳われる元スペツナズの精鋭。台湾女は今のところ猫を被ってるみたいだけど、別に隠してるわけじゃなさそうね。

 

一人でも抱えれば確実に破滅を呼び込む女を世界中からこれだけ探し出せたんだから、やっぱり理解の範疇外の女難だわ。…あたしもその一人かよ。一番先に唾を付けられたのは僥倖中の僥倖ね。何時か会った時に自慢してやろうかしら。このヒトを男にしたのは私だって。

 

貴方がルーマニアを去って、ロアナプラと言う東南アジアの小さな島に引っ込んだと聞いた時、私はその時が訪れたのだとすぐに理解できた。そこが貴方の居場所になるのね。そこが私たちの帰る場所になるのね。私は安堵し、歓喜し、期待し、高揚した。自分のしてきたことは無駄にはなりそうにない。ロシア女はこの数年で身も心も膿みに膿み、もう後戻りは出来そうになかった。厳しく躾けた従順で巨大な傷だらけのヒグマに跨って、王子様を迎えに行く日も近いわね。好い傾向だぜ、面白れぇじゃねぇか、あたしもヤル気が出るってもんだ。手前はあたしと違って、あの人から安心できない奴だって判定を一回貰っちまったわけだからな。そりゃ焦るだろうよ。きっと今頃必死こいてロアナプラ戦略を立ててるんだろうぜ。いいか?こいつは競争だ。早い者勝ちのコンペティションなんだよ。あの人を満足させるのは大前提。誰が最初に選ばれるのか、誰があの人に最初に踏んでもらえるのか。そんな狂ったチキンレースなのさ。

 

皆挙って面倒ごとを持ち込んで、尻尾を振ってんのさ。ソ連の崩壊で生まれた混乱を金と暴力で収拾し、今やロシアン・マフィアの新参幹部を隠れ蓑にしてロシアを拠点に旧ソ連邦全域の影のツァーリとして君臨する女が、ひたすらボケたツラした男に褒められたくて、認められたくて、何より赦して欲しくて気が気じゃないんだ。最高にくだらなくて最低にクールだろ。しょうもなくて涙が出るよ。あの島に集う連中は何を考えてんだろうな。きっと大真面目にやれシマが、縄張りが、利権が、富が名声が…って、どいつもこいつも目の前に放られた骨を巡って争うに違いない。あたしらは、きっとゲラゲラ笑うだろうな。まさか、骨の奪い合いをしてる真横で分厚いサーロインを優雅にワインで流し込んでる奴がいるだなんて、誰にも思いつかねぇだろ?きっとカミソリみたくキれてる奴ほど、そういう想像力に乏しいはずだ。こういうのはな、理屈じゃねぇと言いつつも、あたしらの間でだけ、あの人の生きてる世界でしか通用しない、それはそれでちゃぁんとした理屈が一本鉄芯みてぇのが通ってやがンのよ。揺らがないぜ、コレは。でも、外の連中には理屈が無いように見える。だから何にも見えないし、何も聞こえない。あたしらの笑い声も、あの人のお昼寝の寝息吐息も聞こえない。世界は正常な理屈で回ってるって寸法だ。上手いだろ?理性が強くて成功体験の多い賢しらな連中ほど、ロアナプラじゃぁ間抜けのケ、度し難い薄らバカになっちまう。この仕組みをあたしらに作らせたアンタは天才だよ。誇っていいぜ。あーあ、にしても耐えられっかな?同僚が盗聴器越しによ、大真面目に今日の晩御飯について語り合うアンタと女共の会話に耳を澄ませてるのとか、横で見てるのが辛くてかなわないよ。だって噴飯ものだぜ。教えてやりてぇよ、その会話はマジの今夜の晩御飯のメニューについて相談してるだけだってな!ぎゃはははははッ!!フヒヒッ!ク、ククク…ヒィーッ!!あ"ー…堪らないね…なぁ?

 

CIAの工作員としてあたしが現地組に志願することも、それが承認されることも既定事項だ。もう随分前からホワイトハウスは骨抜きになっちまってんのさ。あたしは別に何もしないさ、ただ金を欲しがってる奴に金を配って、そいつらが勝手に察してあたしの意向通りに動いてくれたってだけだ。あたしの影を踏めるやつはいないし、いるならいたでお悔やみ欄に名前が増えるだけだ。心臓発作か転落事故、自殺の線も濃厚だろうな…気の毒な奴には同情するよ。羊のまま何も知らずに言いなりになるか、牧羊犬としてあの人の役に立つこった。そしたら駄賃を呉れてやるよ。

 

あたしは楽しみだった。アンタと一緒にいると何も怖くない。全てが静かで柔らかく感じるんだ。自分が死ぬかどうかなんて思考の外においやられて、アンタの手を引いて、アンタに手を引かれることに夢中なんだ。今が楽しい。今が幸せ。それでいいじゃねぇか。安心安全なのに、スリル満点。人生に必要な必須栄養素がバランスよく配分された完全食だ。ハンバーガーみたいに病みつきさ。実にお手軽。狂ってからは全てが楽しくなるからな。苦痛が消えて、アンタさえいれば何とかなっちまう。ほらな?ハンバーガーと一緒だろ?コークとコイツがあれば人生は最初から最後まで腹いっぱいに過ごせるのさ。あぁ、楽しみだ。本当に、貴方に会うことが待ちきれない。でも待った方がもっと素敵になるかしら。もしもご褒美を貰えるとすれば何がいいだろう。宝くじの一等を当てた時の使い道を想像するのと一緒。楽しくて、期待することを馬鹿にされるのが怖くて、でも少しだけ前を向けるでしょ。生きることに前向きになれることは幸せだわ。そうね…エダばかり抱いて貰ってズルいって、そうずっとずうっと思ってたの。手前に嫉妬すんなって?悪いかよ?イディスなら、アイツぁ一等優しく抱くに違いない。人が違いすぎて別人として扱われるのだけが懸念だな。…ふふ、いいじゃない。その時はその時で。二人分楽しめるだけ、他の人よりお得でしょ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




質問等あれば答えられるものには返信致します。今後の予定は僕にもわからんのでご勘弁を。プロットはなくて。毎日その日に書き上げたものを投げてるので。詰まった時はご理解ください。

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