260.ちょっとしたトラブル
最後の休憩を存分に味わって。
一行は移動を開始する。
準教師セイフィだけ少し不安定になったものの。
これが最後の「飛行」となる。
トラブルがなければ、夕方までには到着するはずだ。
眼下に見える枯れ木の森と、冬の大地。
それらは、流れの速い川のように後方へ過ぎていく。
そろそろ川が見えるはずだ。
それに沿って行けば、いずれ到着する。
……はず、なのだが。
「――」
先導する聖女の侍女フィレアが、少しだけ速度を落とした。
クノン以外の皆が視線を向けると。
彼女は後方に向かって、左手の五本指を広げて振っていた。
止まれ、のハンドサインだ。
全員が確認したのを察して、フィレアはゆっくりと地面に降りた。
「――森の中に人と魔物がいました」
何事か、と誰かが問う前に彼女は言った。
高速で移動していた最中、人と魔物の姿が見えたそうだ。
「それだけなら問題なくない?」
侍女ジルニが言う。
こんな人のいない場所で、人と魔物がいる。
ならばそれは、冒険者が魔物狩りに来ているのではないか。
それなら普通の光景である。
一応状況を見て判断するが。
冒険者としてのジルニだったら、よほど危ないと思わないと、素通りするだろう。
冒険者同士で獲物を取り合うと面倒臭いことになるから。
「いや、それがね……確証はないし、見間違いかもしれないけど……」
と、フィレアは少し言いづらそうに眉を寄せる。
「――その人と目が合ったと思う」
目が合った。
「――しかもその人、こっちに向かって手招きしてたと思う」
手招き。
「――失礼します。それって怪談ですか?」
侍女リンコが挙手した。
なぜそうなる、と思う反面。
もしかしたら……という気もしないでもない。
高速移動の「飛行」中。
人はいないだろう辺鄙な場所で。
一瞬で過ぎ去る景色の中に人を見つけ。
目が合って。
手招きまでしていた。
……現実味がない、という点では、確かに怪談のようだ。
「それよりその人と魔物はどうなってたんだ?」
と、ハンク。
「その人が魔物に追われてた、とか。危ない状況だった、とか。そもそも何の魔物だったんだ?」
確かに気になる。
魔物に追われていて助けを求めている、というケースもありそうだが。
「たぶん人が魔物を追っていたのだと思います。
魔物は人に気づいてなくて、人が後ろにいたので……魔物は、なんでしょう。黒毛の大きな熊っぽく見えましたが……」
目撃したフィレアも一瞬のことだったので、正確な情報が話せない。
たぶんそうだろう。
それくらい曖昧な証言になってしまう。
ただ、この内容は人命に関わるかもしれないので、無視はできない。
「――様子を見に行った方が速いかもしれませんね。僕ちょっと見てきます」
と、リーヤが浮いた。
「私も行っていい?」
ジルニが意見を求める。
本業は冒険者であるジルニである。
もし相手が冒険者ならば。
彼女なら、交渉がスムーズにできそうだ。
「いいわ。行ってきて」
フィレアが同行を許可すると、リーヤの隣に浮いた。
ジルニは聖女の護衛ではあるが。
ここにはジルニより強い魔術師がたくさんいる。
少し抜けるくらいは問題ないだろう。
「こちらから見て右手側になります。魔物に気づかれないよう高い位置から探してみてください」
「わかりました、行ってきます」
と、リーヤはジルニを連れて行ってしまった。
「僕らはしばらく待機かな?」
クノンが問うと、フィレアが首を横に振る。
「ここで全員で待つ必要はないでしょう。
まず今日中に開拓地に着くこと、これが最優先でしょう。もし開拓地が見つけられなかった場合、人里まで戻るにしても時間が掛かりますので。
お許し願えるなら、私が皆さんの荷物とレイエス様を、先に開拓地に運びたいと思います。それから戻ってまいりますので」
そしてここには「飛行」できるカイユが残る。
もしもの時は彼……彼女が飛べる。
「まずフィレアだけ先行し、開拓地を探し、荷を降ろしてくると。俺はいいと思うけど」
――このまま無駄に待っているよりはいい、とカイユは思った。
彼女的にも、早めに開拓地には到着したい。
「じゃあそれで――あ、僕の侍女も連れて行ってくれないかな?」
「え?」
「リンコは魔術師じゃないし、戦闘ができないので。ここにいると危ないかもしれないから」
「クノン様――」
「ダメだよ。君は行って」
何か言おうとした侍女を、クノンは制した。
いつになくはっきりと拒否した。
普段なら、女性には絶対に言わない口調だった。
これはごねても無理だな、とリンコは悟った。
「フィレア様、すみませんが私もお願いします」
一応、この一団のリーダーであるクノンの指揮で、そのようになった。
「――フィレア、こいつ頼む」
それぞれが預ける荷物を選別する。
最悪捨ててもいい物だけ手元に残し。
貴重品は運んでもらうのだ。
そんな中、カイユは布に包んだ一抱えほどの箱を差し出す。
「荷物ですか?」
「いや、生き物なんだ」
「い、生き物?」
意外な返答に、フィレアは驚いた。
「生き物を連れてきたんですか?」
「うん、ちょっと訳ありでな」
と、カイユは布をちらっとめくって見せた。
小さな檻の中には、黒い毛玉が一匹。
赤い瞳と目が合った。
「ウサギ、ですか……」
黒いウサギである。
可愛いが、妙な魔力を感じる。
「手荒に扱わないでくれればいい。箱から出す必要もないから、このまま運んでくれ」
「ええ……」
なんのためにウサギを連れてきたのか。
少々不可解に思い、返事を濁すと、横から手が伸びた。
「ではその子は私が持っていきましょう」
聖女レイエスだった。
少々荒っぽく運ばれる荷物よりは。
人が抱えていた方が、幾分かは揺れないだろう。
「あ、ごめんな聖女様。頼んでいいか?」
「ええ。普通のウサギではないようですが、多くは聞きません」
「……ぼんやりしてるようで結構鋭いな、あんた」
「光栄です」
「今のは褒められてませんよ、レイエス様」
――こうしてフィレアとレイエスとリンコと荷物は、先に開拓地へと向かった。
さて。
リーヤとジルニは様子を見に。
フィレアとレイエスは開拓地へ。
残ったメンバーは、ひとまず待機となる。
「災難だな、クノン。もうすぐ到着なのに」
と、暖を取るために火球を出したハンクが言う。
開拓地にはクノンの婚約者がいる、という話は聞いている。
彼も個人的に興味があった。
あのクノンの婚約者である。
女性と見れば軽口を叩かずにはいられない、あのクノンの。
クノンの性格を知っていて、婚約している女性だ。
どんな人なのか、ただただ興味がある。
「そうだね。でもこの辺も一応僕の領地になるらしいから、無視はまずいとは思うよ」
貴族らしい思想ではある。
「もっと言うと気づかない方が問題だからね。フィレアには感謝しかないよ。とても素敵な人だしね」
まあ、とても素敵な人だとも思うが。
「――あ」
カイユがあらぬ方を向き、声を漏らした。
「何かこっちに来そうだ。全員戦闘準備」
風魔術で周囲の音を拾い警戒していたカイユは、何かがこちらに来ると告げた。
少しの地響きを発て。
べき、べき、と枯れ木をなぎ倒して。
ここへとやってきた。
――悪角山羊だ。
豊かな体毛で身を守る、巨大な山羊である。
山羊ではあるが、とにかく大きい。
まるで牛のようである。
頭にある角は硬く、あの重量がぶつかるだけで樹木などは簡単に折れてしまう。
当然、人が当たればひとたまりもない。
体毛のせいで刃は通らない。
巨体だけに急所まで届かない。
何より、逃げ足が厄介だ。
あの巨体に見合わず性質は臆病なので、とにかく逃げるのだ。
仕留めようと思うと大変な魔物の一種である。
まあ――
「あ、お土産になりそう」
クノンが呑気に呟く。
脅威と捉える理由はない。
だってこれだけの魔術師がいるのだから。