ベレト目線で語りながら話したことってあまりなかったですよね。今回は彼の気持ちをしっかり込めた話になっております。
【ベレト。おいベレト、いつまで眠っておるのじゃ】
……何だ
【おぬしの体はとうに目覚めておるはずだぞ。早う目を開き、その足で立て】
……目覚めてって
【今、フォドラの地は泣いておる。この地に生きる人々は、誰もが傷付け、傷付けられ、苦しみの淵に立って泣いておる】
……フォドラ
【その全てを呑み込めるのは、わしの力を継いだおぬしのみよ。さあ、今こそ立ち上がるのじゃ】
……まだ眠い
【はあああ……まっこと相変わらずじゃなおぬしは!】
……誰だ?
【はああ? わしを忘れたと!? いくらおぬしでも許されんぞそれは!】
……ああ、ソティスか
【なんじゃその言い草は! まったく、気の抜けた顔をしよって】
……また会えたな
【ふんっ、おぬしと融合しただけで死んだわけではないと言ったであろう】
……会えなくて寂しかったよ
【甘えん坊め……いつまでも世話の焼ける】
……君が元気でよかった
【そういうおぬしは変わらんのう。それが美徳か、悪徳か……】
……どこなんだソティス、見えない
【わしのことはよい。それより早う起きんと、このままでは寝過ごすぞ】
……寝過ごす?
【約束があるのじゃろう? さっさと目覚めよ寝坊助め!】
「……おい? あんた、目が覚めたのか?」
かけられた声に、ベレトはすぐに応じることができなかった。
明るさに慣れていないところに夕陽が突き刺さり、思わず閉じそうになる瞼を無理やり開くと、目の前に人影があることに気付く。屈んでこちらを覗き込んでくるその相手に見覚えはなかった。
「あなたは……」
「近くの村の者だよ。流されてるあんたを助けたんだぜ」
ベレトが意識を取り戻して安心したのか、屈んだ背を伸ばす男が手振りで示したのはすぐ傍を流れる川。ほとりから地面が濡れる筋がベレトのいる所まで伸びている。
そこまで見て初めて気付いたのだが、全身がびしょ濡れだった。肌着までたっぷり水を吸ってしまっていて気持ち悪い。
「ここは……」
「大修道院の麓の川さ。あんたが川上から流れてきた時は驚いたよ」
見れば男の上着もズボンも濡れており、川を流れる自分を助けてくれたのが分かった。服が水を吸ってさぞかし重かったろうに。ベレトが目覚めるまで一息吐く時間くらいはあっただろうが疲れが表情に浮かんでいた。
それにしても、川を流されていたとは……何故そんなことに?
どうも頭が朦朧としてしまい、何があったか思い出せないベレトは首を傾げた。
「それであんた、こんなとこで何してんだ?」
男も不思議そうな顔で訊ねてくる。
こんなところ、と言うが何をしてるかは自分が知りたい。川を流されていたのなら上流で川に落ちたのか? 足でも滑らせたのか。それとも落とされた? だめだ、どうもはっきりしない。
大修道院の麓の川……大修道院……ガルグ=マク……ガルグ=マク?
「川の上流と言やガルグ=マクだろ? あっこはすっかり寂れちまったからな」
思い浮かべた単語と男が口にした言葉が重なり、頭の中で弾けた感覚が生まれた。
そこからベレトの脳裏に描かれた光景──戦闘、火、剣、殺意、竜──が意識を揺さぶり、彼の心に焦りを呼んだ。
「すみません、ガルグ=マクはどうなってるんですか!? セイロス教団と帝国軍の戦いは今はどうなって!?」
「はあ? ……あんた、いつの話をしてんだ?」
焦ったベレトの声に困惑した様子で男は返す。
「もうあそこにゃセイロス教団はいねえぞ」
「……いない?」
「あれから五年、根強く住んでる連中もいるにゃいるが……今じゃあほとんどが廃墟同然さ」
視線を山の上へ向けて溜息混じりに溢す男の声が遠くに聞こえる。
「ついこないだ帝国軍の部隊が向かったけど、いよいよあそこも取り壊されるのかねえ……やな話だよな。あんだけ山を切り開いてガルグ=マクまで直通の道を作ったってのに、次にやるのが大修道院の片付けか? 皇帝陛下はどんだけセイロス教が嫌いなんだっつう……」
ぶつくさ呟く男の声が耳に入っても反応できないくらいの集中力でベレトは己の記憶を探った。
そして思い出す。あの日、あの戦い、あの出来事。あそこで自分は──
* * *
《待ちなさい、ベレトぉ!!!》
叩き潰そうとする巨大な手を際どく避けて高所から飛び降りたベレトは、天帝の剣を伸ばしてもう何度目かも分からない立体機動に移った。
ガルグ=マクの街にある大小様々な家屋を利用して縦横無尽の動きで逃げ回る彼を追いかけて、【白きもの】も勢いよく飛び立った。
帝国軍に攻め入られたガルグ=マクは激しい戦闘の真っ只中である。穏やかだった街並みが戦火に晒される光景が飛び上がったベレトの目に映る。
痛ましい光景だ。こんな状況になってしまったことを残念に思う気持ちはある。しかし今は戦士としての思考が優先された。
(まずい、本隊に近付いてしまう)
背後から迫る竜。圧倒的とも言うべき存在感を放つ巨大な敵が、このまま進むと帝国軍の本隊とぶつかってしまうのだ。
この戦いのためにエーデルガルトが用意した戦力は、数字の上では絶対に勝てると自信を持つほど充実させた軍隊だ。だが、もし数字の差を覆してしまえるような人外の存在が現れれば話は変わる。
そして作戦を決める時からそういう敵が出現するだろうことは予想していた。今まさにベレトを狙う【白きもの】、即ち大司教レアが変身した巨大な竜のような。
変身と言うのは語弊があるか? この竜の体こそが本来の姿かもしれない。
自分を殺すことに執拗に拘る【白きもの】を引き付けて対処することが作戦上のベレトの役目なのだ。
人知を超えた超常の存在。打倒すべき獣。エーデルガルトもヒューベルトもそう話していた。
それでもこの時のベレトには、レアを殺そうという意思はなかった。
ともあれ、このまま真っ直ぐ進んだら本隊のところに【白きもの】を連れていってしまう。すぐに距離を離して──
《ベレトおおお!!!》
「くっ!」
──思考を中断。身を捩りながら足に溜めてあった魔力を解放する。天から落とされたサンダーを上下逆さまになった自分の足裏で受けた衝撃で直滑降。空中の強引な方向転換で、横殴りにしようとする竜の手を回避した。
垂直に降りたベレトは直下の屋根の上を跳ねるように走り、再び立体機動に入る。
途中、行き当たった塔の上層にあった窓に飛び込む。突き破ったガラスから顔をかばいながら床を踏みしめ鋭角に曲がり、入った位置の対面にあるものとは別の窓から飛び出してまた空中へ。
塔の内部で姿を隠したまま進行方向を90度変えたベレトに騙されて、【白きもの】は一瞬だけ動きを止めた。
《どこに……! そこですかぁベレト!!!》
ほんの一瞬見失った分だけ距離を空けられたベレトを懲りずに追う【白きもの】。
この鬼気迫る追いかけっこが始まってしばらく経つ。これにより、追い詰められたと思われたセイロス教団は勢いを盛り返し、戦況は膠着していた。
皇帝エーデルガルトの下に新設された直属の部隊、
そのまま【白きもの】は自分を囲む帝国軍を薙ぎ払うと、裏切り者のベレトに狙いを定めて暴れ出したのだ。かねてより決めてあった作戦に従い、自分を狙う【白きもの】を引き連れてベレトはその場を飛び出した。
巨体に加えて翼で空まで飛べる竜を相手にできるのは、今の帝国軍内でベレトしかいない。彼に一任してしまうことになってしまうが、それ以外選択肢がなかったのもあり、エーデルガルト達はベレトを信じて部隊を立て直すのだった。
こうして他に無用な損害を出さないように自分に注意を引き付けさせて、付かず離れずの距離を保ってガルグ=マク市街を飛び回るという、命がけの空中鬼ごっこが始まったのである。
しかしこの状況、長引かせたくはない。どうにかして【白きもの】を抑えなくてはいずれこちらが負ける。そのために自分にできることを探すベレトだが……
(どうする……どうすればいい……!?)
この期に及んでレアを必要以上に傷付けたくなかった。敵となっても彼女を憎む理由などなく、尊敬も感謝も抱えたまま戦うことに戸惑いがあった。
そう。ベレトが今まで戦ったことがあるのは最初から敵だった相手だけ。
味方だった者を敵に回した経験が彼にはなかったのだ。
感情を覚えたおかげで成長した心が、感情を覚えたせいで二律背反に悩まされてしまっていたのである。
しかし、このままでは徒に被害が増えるだけなのも分かる。覚悟を決めなければいけないか。剣を握る手に力が籠る。
戦うために状況を確認しようと周囲を見渡し……彼の優れた視力が、遠くに見えるやや開けた通りで向かい合う二人の姿を捉えた。
「まずい!!」
【白きもの】の攻撃を回避しがてら、家屋の壁に貼りついたベレトは足裏でファイアーを放つ。爆発の反動で猛加速して広場へ向かって大急ぎで飛んだ。
飛ぶ先は市街の通りの一つ。そこで対峙する二人のところへ。
所々が崩れたガルグ=マク市街を飛び越え、今まさに相手を貫こうとする槍を間一髪で弾いて二人の間に割り込めたベレトは冷や汗をかいた。
対峙していたのはディミトリとエーデルガルト。殺意を露わに睨んでくるディミトリと、背に庇うエーデルガルトを見て、否応なしに緊張が高まる。
「
「先生……!」
ベレトの前後から二人が呼びかける。片や嬉し気に。片や悔し気に。
「信じたくはなかった……だが、お前はその畜生の味方に付くというんだな……」
「ディミトリ……」
心の底からの思いを込めていることが声色から伝わってくる。それを聞くベレトは疑問と困惑に包まれた。
帝国軍に襲われた聖墓での儀式。そこで正体を現し、炎帝として名乗ったエーデルガルトに居合わせた生徒一同が呆然とする中、ただ一人ディミトリだけが突然狂ったように笑い出した。
哄笑しながら詰め寄ろうとした彼だが、雪崩れ込んだ帝国兵との戦いに手を取られてしまい、敵を飛び越えて先んじたベレトだけがエーデルガルトと向かい合えた。そこから助けると決めたエーデルガルト達と一緒にベレトは聖墓を飛び出したので、他の生徒とは別れてしまった。
なのであの後ディミトリと話せたわけもなく、何故彼がああも狂乱したのかは分からない。これまで見てきた彼とは別人のようで、本当にディミトリなのか不思議に思う。
ただ、豹変の心当たりはあった。
以前ベレトが郊外で隠れるディミトリを見つけた時、彼の視線の先に謎の男と密談する炎帝がいた。その時に纏っていた気配に近い。
そしてディミトリの口から語られた、彼が士官学校に来た目的。誰にも聞かせていないとされる彼の狙い。
ダスカーの悲劇……そこで殺された数多のダスカー人、ファーガスの家臣と国王である父親、彼らのために復讐を果たさんが為。
「そちらに付くというのなら……仕方ないな!」
「待てディミトリ──」
「聞く耳持たん! 残念でならないよ。お前を殺さねばならないのが!」
しゃがんだディミトリが地面に手を突っ込む。その怪力を以てベレトとエーデルガルトの眼前の地面を、石畳も含めて地盤ごと持ち上げてひっくり返した。
流石の怪力だと感心する間もなく、ベレトは咄嗟に鋼の剣を手放してエーデルガルトを抱え、倒れ込んでくる岩盤に向かって足からファイアーを放つ。爆発の勢いに押されるように距離を取った。
だがその時ディミトリが取った動きは想像を絶した。爆発されて砕けた岩盤の合間から、舞う炎の中を突撃してきたのだ。
「逃がすかあ!!」
勢いのままに槍を振るおうとしてくるディミトリに、ベレトはほぼ反射的に対応した。
抱えたエーデルガルトを手放し、同時に短く伸ばした天帝の剣を真下の石畳に突き刺す。剣先が縫いとめた小さな半径を、慣性を頼りに無理やり旋回。ディミトリの突進をかわすと同時に彼の側面に回り込んだベレトは全力の廻し蹴りを繰り出した。
せめてもの加減として胴体を狙った蹴りを受けたディミトリは為す術もなく吹き飛ばされ、真横にあった家屋に叩き込まれる。文字通り一蹴されて壁を突き破ったその体は土埃に紛れてすぐ見えなくなった。
「っ……エーデルガルト!」
生徒に手を上げてしまったことを悔やむ心を抑えつけて放り投げてしまったエーデルガルトを探すベレトが見たのは、彼女の体を地面に押さえつける生徒の姿。
「ユーリス! その子を放してくれ!」
「……おい先生、他に言うことないのかよ? 俺は今怒ってるんだぜ」
エーデルガルトの首に剣を添えるユーリスは憮然とした表情でベレトを、次にエーデルガルトを睨んだ。
「とんでもねえことを仕出かしてくれたな皇女様? いや、もう皇帝になったんだっけか。あんたがガルグ=マクを襲ったせいでこっちはいい迷惑だ」
「……帝国軍の配下にはアビスに手を出さないよう通達してあるわ」
「そこはびっくりしたね。躾が行き届いた軍で大変結構。たださぁ、真上のガルグ=マクでこんな大きな戦いが起きてアビスが無視できるわけないんだよ。襲われた街の連中が雪崩れ込んできて地下はてんやわんやの大騒ぎさ」
押さえられたままのエーデルガルトが僅かに目を伏せる。思うところがないわけではないのだろう。ベレトが仲立ちになった
襲撃をかけたこと自体に後悔はない。それでも、この地に生きる人々へ申し訳ないと思う気持ちがなかったわけでもないのだ。
しかし、そういう気持ちを抱えていても皇帝であるエーデルガルトはそれを口に出すことができない。安易に謝罪を口にできる立場ではないから。
「事前に伝えられなかったことはすまない。だが俺達もアビスを蔑ろにしたわけじゃない。君達の方へ極力被害が及ばないように動いたつもりなんだ。信じてくれ!」
事実、聖墓を脱出して帝国軍と合流してからやった作戦会議で、ガルグ=マクを攻めるなら地下のアビスはどうするかという指摘はあった。そしてアビスをそれなりに知るベレトがいるなら侵攻経路の一つとして使うのはどうかという案もあった。
だがベレトはその場ではっきりと却下したのだ。戦いにおいて目的から外れた動きをしてしまえば大義が失われる。大規模な軍を動かすなら尚更だ。教団を打ち倒そうとしているのに、その教団から貶められたアビスを踏み躙るような行いをしてしまえば本末転倒になってしまうではないか。
ベレトの言葉にエーデルガルトも同意し、ガルグ=マクの地下に手を出すことは厳に禁ずるよう帝国軍全体へ通達したのである。
訴えるベレトを見て、ユーリスは舌打ちを一つだけしてから剣を引いた。
「まあ、先生にはでっけえ恩があるからな。それに免じて今は納得してやらぁ」
「ユーリス……」
「ただし」
押さえていたエーデルガルトを解放しても離れることなく、逆に守るように剣を構えたユーリスは上方の屋根に目を向ける。
「あっちがどう思うかは知らねえがな」
「……っ、クロード!?」
ベレトとエーデルガルトが釣られて見上げた先には、弓矢を構えるクロードがいたのだ。
番えた矢を引き絞る彼の表情は、不敵に見えつつも威嚇するような笑い方をしていた。
「どーも皇帝陛下、ご機嫌麗しゅう……」
「そういう貴方はご機嫌斜めのようね」
「お察しの通り。何がどうしてこうなったか説明してほしいね」
「前から決めていたことを実行しただけよ」
「だとしてもちょいと強引すぎないか? おかげで俺の野望は虫の息だ」
構えを崩さないままエーデルガルトに軽口を叩くと、クロードは視線だけベレトに向ける。
「悲しいぜ先生。俺に何の相談もせずこんなことするなんてさ」
「クロード……!」
「師は私についてきてくれたのよ。言いたいことがあるなら私に言うのが筋ではないかしら」
「おっと、自慢か? 出し抜かれた身としちゃ耳が痛い」
エーデルガルトの毅然とした態度に表情を歪めてもクロードは弓を下ろさない。
次々に動く事態に、ベレトはどうしても考えてしまう。
──手が足りない。
やることが多すぎて対処し切れていないのだ。何とかしたいのに、自分だけでは対応が追いつかない。
所詮、一人で足掻いているだけなのか。守りたいものを守ろうとしているだけなのに、一人ではそれも叶わないのか。
「おいてめえら、言い争ってる場合じゃないだろ。喧嘩したけりゃ後にしやがれ、早く逃げろ!」
横から口を出したユーリスの言葉で思い出す。
口喧嘩していられる状況ではないのだ。こうしている間にも【白きもの】が……
待て、あの巨竜はどこにいる? あれだけベレトを執拗に追い回してきたのに、先ほどから来る気配がない。この通りへ飛ぶのにあれだけ派手に動いたベレトを見失ったのか?
睨み合う三人を余所に首を巡らせたベレトが見つけたのは、いつから現れたのか、何体もの魔獣に襲われている【白きもの】だった。ファイアーで加速した場所からそう離れていない。飛び掛かる魔獣に押されてガルグ=マクの外壁まで押し込まれていた。
ベレトの様子に釣られてエーデルガルトも視線の先を追い、【白きもの】を襲う魔獣の群れを見る。
「そんな、どうして魔獣がここへ!? おじ様には手を出さないよう言いつけたはずなのに!」
愕然として叫ぶエーデルガルト。
ベレトと黒鷲の学級という心強い仲間が加わったことで戦力に当てができたこともあり、この戦いにはあの組織の手は借りない旨を事前に伝えてあったのだ。
作戦のどこにも組織の者は加えていない。況してや、魔獣を配備させるなんて聞いていない。
やられた、とエーデルガルトは内心で強く舌打ちする。彼女が皇帝として臨む大規模な戦いで、協力者を気取っておきながら組織が何も手を貸さなかったとなれば体面が悪いと考えたのだろう。余計なことをしてくれたものだ。
そんな事情などベレトは知らない。
目の前で
判断は一瞬だった。
「レア!!!」
再度、足裏で爆発を起こして急加速。
その時、ベレトが見せた速度は、あるいは先ほどエーデルガルトの下へ駆けつけた時を超えていたかもしれない。
市街をほぼ直線に横切ったベレトが辿り着いた時には、魔獣に押し付けられた【白きもの】が外壁を崩してその先の崖に落ちようとしていた。
ガルグ=マクの外周はよく知っている。生徒と一緒になって走ったおかげで把握してある地形によれば、あの位置の外壁の向こうは底の見えない崖になっている。
魔獣に組み付かれたままでは【白きもの】と言えど羽ばたくこともできまい。飛べずに崖へ落とされてしまう。
させない。
助けなければ。
だって俺は、全部、守りたいんだ!
崖の淵に立ったベレトは天帝の剣を伸ばし、勢いよく振り回す。繰り出された戦技『破天』で魔獣だけを斬り飛ばすと、ワイヤーを戻すのではなく次の指示を剣に与えた。
ベレトの意志に従い天帝の剣が次に狙ったのは、空中でもがく【白きもの】。姿勢が整わず飛べないその巨体に伸ばした剣を巻き付かせたのだ。
剣の柄を両手で握り、足元に残った外壁の瓦礫に引っかけるように深々と地面を踏みしめる。
(炎の紋章、神祖の加護、何でもいい。俺に力があるのなら……今、よこせ!!!)
「おおおあああああああああああああ!!!!!」
それは、およそ現実味に欠けた光景だった。
小さな人間と巨大な竜。軽く見積もっても両者の質量差は百倍を超える。それだけの差がありながら、その人間は竜を釣り上げた。
彼の背後で一際強く輝く炎の紋章が超常の力をもたらし奇跡を為す。それはまさに英雄の咆哮。
崖に落ちるはずだった【白きもの】を、天帝の剣で一本釣り。紋章によって強化された力で巨躯を引っ張り上げて、外壁内側の地面へ落とすことに成功したのである。
戦場で暴れ回って目を引く竜の存在は誰もが注目していた。その竜の危機、そして直後の救出劇を目の当たりにした多くの人間が己の正気を疑い、ほんの一時だけ戦場を鎮めてしまった。
事を為したベレト自身も強大過ぎる力を発揮した後遺症か、それとも脱力に意識がついていけなかったのか、戦場だというのに気を抜いてしまった。
その一瞬の沈黙を見逃さない者がいた。
崩れた外壁からほど近い高台で魔力を高める一人の影。黒衣の男が手に凝らせた魔力が闇の球として固まる。
強大な魔力にベレトが気付いた時には、その闇の球は放たれていた。振り返ろうとしたベレトの背中に闇の球は直撃し、余すことなくその威力を叩き込む。
全身を襲う衝撃が意識を奪い、崖の淵に立っていたベレトの体を宙に踊らせ──
* * *
──落ちたのだ。
あの時、強力な闇魔法の一撃を身構えることもできなかった背中にまともに食らってしまい、ベレトは崖に落とされた。
薄れゆく視界に微かに映った姿は見覚えがあった。以前ディミトリと一緒に覗き見た場所で、炎帝と密談をかわしていた謎の男。黒々とした衣装に身を包み、振る舞いからして高い地位についていると思われる。
当時の炎帝、エーデルガルトと共に隠れて行動していたということは、彼女から聞いていた例の組織の一人に違いない。しかし、あの戦いの時点では敵対したわけでもなく、帝国軍の一部として、どちらかというと味方に近い立場だったはず。
戦いのどさくさに紛れてベレトを始末しようとしたのは、エーデルガルトの協力者となったからか。または別の理由か。
歯噛みする。
意識さえあれば、少しでも動ければ、天帝の剣を伸ばして上へ戻れたのに。立体機動ができる自分が崖に落ちるなんてありえなかったのに。
それ以前に、気を抜いたところで背中を攻撃されるなんてまるでジェラルトのようだ。父の件で得たはずの教訓が生かされていないではないか。
(あの時、レアは助けられた……引き上げて、地面まで戻して、気を抜いてしまった瞬間に魔法を受けて、俺は落とされた……あの後どうなった? エーデルガルトは、みんなは、帝国軍は、戦いはどうなって……)
「……なあ、あんた大丈夫か? 頭でも打ったんじゃねえだろうな」
考えていたベレトに、屈んだ男が声をかけてくる。
両手で強く抑えるように頭を抱え、顔まで歪めていたベレトが心配になったのだろう。声をかけられて初めて気付いた自身の動揺にベレトは驚いた。
「すみません、今は……いつですか?」
何ともおかしな質問になってしまうと思いつつベレトは尋ねる。現状が分からなければどうしようもないのだから仕方ない。
「ああ、今は1185年の星辰の節だよ。今話した大修道院の陥落からは、もう五年近くになるな」
「五年……」
そんなにも長い間自分は眠っていたのか。
五年。気が遠くなりそうな時間だ。それだけの間、何もかもをほったらかしにしてしまった。
戦いはどうなった。生徒はどこへ行った。レアは、エーデルガルトは……
「本当なら明日は千年祭の日だったが、それどころじゃねえからなあ」
「……? それはセイロス教の祝祭のことですか」
「ああ。だけどこの戦争ばかりのご時世、それに大司教様も行方知れずとくりゃ、この世の誰だって祝福なんて気持ちにはなれんだろうさ」
五年が経った今も戦乱は続いていること。
大司教レアが行方知れずなこと。
気になるところは幾つかあったが、それよりもベレトの耳が捕らえたのは男が言った千年祭のことだった。
千年祭と聞いてベレトが思い出したのは、五年前のエーデルガルトの発言。舞踏会を目前にした日に、教室に集まった黒鷲の学級へこう言っていた。
『五年後の今日、また大修道院に集まらない?』
『五年後の皆がどうなるかは分からない。けれど私は信じている。前を向いた皆がここに集って、再会を祝せると』
『忘れないでね、
エーデルガルトの発言に賛同して、学級の生徒達は自分も自分もと声を上げてこの日の再会を誓った。当然、ベレトもその場で約束した。別れてもまた会おうと。
その千年祭の日が、明日?
(こうしてはいられない)
膝に手を付いて立ち上がる。何故か上手く力が入らない体を無理やり動かす。
きっとソティスが起こしてくれたのはこのためだ。こんな直前になるまで眠り続けていたとは、確かに自分は寝坊助だろう。
急に動き出したベレトを見て、男は驚き慌てた。
「って、お、おい! あんた、どこに行く気だ!」
「……大修道院へ」
「しょ、正気か!? 帝国軍がいんだぞ? 悪いこたぁ言わねえからやめとけ」
男は制止の声をかけるが、もともとベレトのことを不気味に思っていたのか、強く止めようとはせず手も出さなかった。
「お、俺は止めたからな……? 死んでも知らねえぞ?」
「助けてくれたことは感謝します。でも、あそこで生徒が待ってる」
「生徒だあ? あそこにゃ子供なんてほとんどいねえよ、馬鹿かあんた! おい!」
なじる言葉に反応することなく、びしょ濡れな体もそのままにベレトは歩き出す。フラフラとした足取りで離れていく後ろ姿を、男は呆れを隠さない目で見やった。
「……まったく、本気かよ」
溜息混じりにベレトを見送る……と、何故か反転して戻ってきたベレトをぎょっとして見つめた。なんだなんだ、急にどうした。
「こんな物しかありませんが、お礼として受け取ってください」
「は?」
「それでは……どうもありがとうございました」
懐から取り出した小袋を男の手に握らせると、ベレトは今度こそ踵を返して去っていった。
今し方起きたことに現実味が感じられず、男は目を瞬かせた。
川から助けた謎の人物が急に動き出して大修道院に向かい、助けた礼として謎の小袋を押し付けてきた。言葉にすれば短くまとめられるが、平民の彼からすればちょっとした事件だ。
幽霊に化かされたような気持ちで見送ったが、男の手にある小袋が現実だという証拠である。
「何だったんだ一体……?」
後ろ姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた男は手の中に視線を落とす。
礼とは言っていたが、何なのだこれは。川を流されていただけあってこの小袋も濡れている。揺らすと金属同士が擦れる軽い音がしたので中身は硬貨だろうか。礼として渡したのだから分かりやすく金かもしれない。
いそいそと小袋を開ける。濡れているせいで袋の口を縛る紐をほどくのに苦労したが、なんとか開けることができた。
さて中身はと袋を逆さにして、
「き、金貨ぁ!?」
平民の彼では滅多に見ることはない金貨が何枚も出てくるのを見て盛大に腰を抜かした。
士官学校の教師がかなりの高給取りであることを男は知らない。
あの場から去って幾ばくもない内に、ベレトの体は壮絶な不調を訴えてきた。
全身が怠くて仕方ない。
手足の末端が痺れるように寒いのに、頭だけがカッカと熱を溜めている。
関節がジリジリと痛み、体を動かすこともままならない。
引き摺るように無理やり足を動かし、倒れないよう慎重に一歩一歩を踏み締める。
逸る意志とは裏腹に、ろくに言うことを聞かない体がまるで自分のものではないように思えた。
(……俺は、死ぬのか?)
初めて陥った症状にベレトは困惑した。疲労や寝不足で動きが悪くなることはあっても、こんな状態は感じたことがない。これが悪化していけば遠からず倒れてしまうだろうと予想できた。
これは、罰なのか。
五年にも渡って全てを放り出した自分の罪だとでも言うのか。
それで構わないから。どんな苦しみも受け止めるから。
体よ、止まらないでくれ。ここで倒れるわけにはいかないんだ。
帰るんだ。大修道院へ。学校へ。
生徒達と約束したあの場所へ。
ひたすら足を動かす。常ならば飛ぶように動いて木々の間を駆け抜けられるのに、錆び付いた蝶番みたいに軋む体はただ歩くだけでも覚束ない。熱に加えて揺れる度に激しく痛む頭が思考を邪魔してくる。
そんな痛みも、意識を保つためと思えば受け入れられる。何よりも倒れることだけは避けなくてはいけない。
立ち止まるな。少しでも進め。みんなに会うために。
いつしかベレトは道とも言えない草木を分け入って進んでいた。獣道ですらない草藪が歩みを邪魔してくるが、歪む視界では正しい道を探すこともできず、枝葉を突き破るに任せて木々だけは避けて進み続ける。
ガルグ=マク大修道院は山間部の見晴らしの良い立地にある。とにかく山を上っていけば大きな外壁が見えてくるはず。微かに働いた頭でそれだけを考えて。
草をかき分けて歩きながら、痛む頭で思い浮かべるのは生徒のこと。
(ヒューベルト……)
君は今も、エーデルガルトの傍に仕えているのか。
彼女の一番の味方である君がいてくれれば大きな支えとなっているだろう。俺と会うよりずっと昔から、彼女の最高の忠臣としてきっと今も力になってくれているはずだ。皇帝に仕える右腕として、敏腕を振るっているに違いない。
(フェルディナント……)
君は今も、貴族の誇りを胸に抱いているのか。
家の権威も領地も取り上げられて失意の中にあった君も、直後のあの戦いの時も力強い眼差しを曇らせなかった。それまで積み上げたものは決してなくなったりはしないのだと、紛れもない貴族として貫いた貴い姿勢を俺は知っている。
(ドロテア……)
君は今も、未来への不安に挫けず明るく振舞っているのか。
自分の価値を正しく自覚していると言っていたが、そのせいで生き急いでいないだろうか。君は本当に素敵な女性なんだ。その芯の強さを他人のためだけでなく、自分のためにも使って、生きていてくれればと思う。
(リンハルト……)
君は今も、自分の興味に従って生きる道を探しているのか。
怠惰に流されているようで誰よりも周囲に目端を利かせていた君は、誰よりも他人を観察する力があった。身勝手なようでいて自身の役割を理解した上での振舞いは、身勝手なようでいていつも周りの人を助けていたよな。
(カスパル……)
君は今も、ひたむきな性根を変えずに生きているのか。
向こう見ずなくらいまっすぐな君は危なっかしかったけど、そのままでいてくれ。きっとその生き様に助けられる人が大勢いるはずだ。どんな苦境も笑い飛ばして明るく立ち向かっていく君の姿は、俺の憧れでもあったんだ。
(ペトラ……)
君は今も、無垢と高潔さを持って学び続けているのか。
人質だという立場は聞いていたが、故郷から離れた地でも腐らず折れず逞しく生きる姿勢を尊敬していたよ。言葉遣いが拙い君にも分かりやすく伝えるのはどうすればいいか、考える俺は逆に教わる気分だった。
(ベルナデッタ……)
君は今も、臆病な心を抱えたまま引き籠っているのか。
俯いたままでもいいから、少しでも前を見れていればと思う。変わる必要はない。生きてさえいれば、それだけで前に進めている。君は君のままで、確かに成長していたんだ。きっとそれが君なりの強さでもあったはずだから。
他にも生徒達の顔が次々と脳裏に浮かんでくる。
会いたい。今すぐ、みんなに会いたい。
生きているだろうか。無事でいてほしい。誰も死なないでくれ。
肝心な時にいなかった先生だけど、みんなに会いたいんだ。
そして何よりも、誰よりも。
(エーデルガルト……!)
思い出す。聖墓で向かい合った時。仮説陣地で不安を見せた時。戦いの中で肩を並べた時。
その前も。授業で。訓練で。課題で。学校で。ずっと見てきた姿。
叶うならば、どうか謝らせてほしい。
すまない、エーデルガルト。君を守ると言ったのに、約束したのに、傍にいられなかった。五年も放ってしまった。本当にごめん。
傭兵として考えても大失態もいいところだ。護衛対象の契約者を五年も放り出すなんて、あってはならないことだ。
いや、違う、そうじゃない、依頼だなんて考えたくない。俺がそうしたかったんだ。君を守りたかった、傍にいたかった、離れたくなかったんだ。
ああ、エーデルガルト。贖罪なんて言える資格はないけど、今からでも、君の下へ行ってもいいだろうか。君を、守らせてもらえないだろうか。
君のことだから、立ち止まったりなんてしないで、ずっと前に進み続けていたのだろう。今さら俺の力なんか必要ないかもしれないけど。
傍にいたい。隣に立ちたい。歩む道を守りたい。
エーデルガルト。
うわ言が止まらない。熱で朦朧とする頭では考えがまとまらず、関係のないことにまで思考が飛び、悔恨が、謝罪が、願望が、止まることなく口から零れる。
ふいに、足が引っ張られてガクンと体が崩れる。受け身も取れず前のめりに倒れてしまって顔面が地面とぶつかり、ベレトは顔をしかめた。
力の入らない腕を動かし、ノロノロと体を起こす。木々の間から差し込む僅かな月明かりを頼りにして何があったのかと足元を見やれば、指の先くらいに地面から顔を出す木の根があった。
(あんなものにつまづいたのか、俺は)
苦笑してしまう。笑声に喉を震わせると、腹の底から堪え切れない衝動が生まれ、四つん這いのまま激しく咳き込んだ。喉までもが熱くて痛くて、咳をする度に揺さぶられた頭も痛くて、わけの分からない不調にうんざりしてくる。
「これは……手本に、ならないな……」
あまりの無様さに自虐する。こんな情けない姿で誰を守りたいなどと言えたのか。
だが、それがどうした。
情けないから何だ。どれほど不利な状況だろうと、やることが決まっているならやるだけだ。
無様上等。目的を達成できるなら己の有様など関係ない。
土の味がする口元を拭い、近くの木に縋り付いて立ち上がる。
立ち止まっていられない。
足を止めるな。
這ってでも進め。
前へ。
(俺は……みんなの先生なんだから……!)
夜通し歩いた甲斐があって大修道院が見えてきた。もうそろそろ朝日が昇りそうな空を見上げると、遥か遠くの山間から太陽の気配がする。夜明けまで幾ばくも無い。
ベレトの体はいよいよ限界が近付いていた。倍化した頭痛のせいで目を開けているのも辛く、熱が喉と頭に収束したように胸の内が寒さに満ちている。震えは治まることなく激しいままで、途中から縋り付く木を転々としながら進む有様だった。
それでもここまで来れた。足は遅くとも前に進めたのだ。残りは後少し。
森の中を突っ切ったせいで辿り着いたのは正門ではなく外壁。ここから正門まで回り込む時間も体力もないと判断する。
だから真っ直ぐ進入することにした。外壁を飛び越えて真っ直ぐに。
そこにあると認識して、自分の体を探ればすぐ手に取れた。
天帝の剣。
柄の部分が背中に来るように、蛇腹状になった刀身はベレトの体に巻きつくように納まっていて不思議と違和感がなかった。森の中を歩いている時も転んだ時も体を傷付けることなく、まるで体の一部となって寄り添っているかのようにずっとベレトと共にあったのだ。
まるでかつてのソティスのようだ。それが当たり前であるように、ベレトにのみ聞こえる声であれこれ言いながら傍にいた神祖の少女みたいに。
何だって構わない。使えるなら、進むためなら、そこにあるのなら。
(もう少し、力を貸してくれ……後少しでいいから……!)
ひしひしと迫る死の予感を押し殺すベレトが柄を握るとその刀身が淡く橙色の光を帯びる。確かに応えてくれた天帝の剣を脇に構え、上方へと振り上げた。
蛇腹が伸び、遠方へ、外壁の端まで届く。伸びた剣先が胸壁(外壁上部に設けられた凹凸部分)に巻き付くとワイヤーがピンと張る。柄を両手でしっかり握り締めれば、ベレトの意思に応えた剣が元に戻ろうとしてその身を一気に引き上げた。
ただの跳躍では得られない、人の身ならざる飛翔感。空を飛ぶという爽快さに楽しくなりそうなものだが、ただでさえ余裕のない今のベレトは必死に剣の柄にしがみつくことしか考えられなかった。
一気に引き上げられた体が放り出され、空中で上手く体勢を整えられないまま墜落する。受け身も取れず石畳に叩き付けられた衝撃に悶えるベレトは、しかし意識を繋ぎ止めて体を起こす。
辺りに人の気配は感じない。瀕死の集中力か、苦痛はあっても感覚は不思議と冴えるベレトが見渡したのは、高くそびえる壁、小さな井戸、伸びる橋。
女神の塔の手前に当たる大聖堂の裏手に来ていた。いきなり大修道院の奥まで侵入してしまったらしい。ここには帝国軍が来ていると聞いたが、運良く警戒を潜り抜けられたのか。
(あの塔で、前にエーデルガルトと話して……)
思い出しながら女神の塔を見上げたベレトは、息を呑んだ。
赤い。
夜闇を裂いて映える紅。
あの子の色。
塔の壁に空いている小窓。その一つに確かに見えた人影に胸が打たれた。
日も昇っていない早朝に、人気のない大修道院の奥で、たった一人で赤い衣を纏って塔を上る人物がそこにいる。
ベレトの決断は早かった。もはや幾らも動かないであろう体に鞭打ち、最後の力を振り絞って向かう先を決めた。
天帝の剣を支えにして立ち上がる。ふらつきそうになる足を叩き、何とか両の足で立てた彼が見据えたのは、女神の塔の上層にある展望用のテラス。
五年前。舞踏会の日の夜に人混みから抜け出したベレトが訪れた塔の上で偶然にもエーデルガルトと顔を合わせた場所。塔を登っているなら、きっとそこに。
一度だけ深呼吸をしてから剣を腰だめに構えると一気に振り上げる。勢いよく伸びる剣先がテラス横の壁に刺さるのを認め、剣の柄を握りしめるとワイヤーが縮んでベレトの体を引き上げた。
そこまでやってベレトは気付く。先ほど大聖堂の裏に飛んだ時と同じように着地のことを考えてない。今の体調では空中で姿勢を整えるどころではない。この勢いだとテラスに人がいたら飛び込む時にぶつかってしまう。
今さら考えても勢いは止まらない。それでも咄嗟に身を捩って少しでも向きを変えて、というところでテラスの手すりを越えて──
(あ)
「え」
──目が合った。
飛び込んだベレトと一瞬だけ、すれ違うように視線が合うその人物。
赤色が似合う彼女だとすぐに分かった。
飛び込んだ勢いは止まるわけもなく、着地を考えてなかったベレトは無様に床を転がる。勢いのあまり壁に激突し、頭を打った痛みで目から火が出そうだった。
だが、そんなことなどどうでもよかった。体の痛みも、今の不調も、全て無視して顔を上げる。
「エーデル、ガルト……」
「
認めた姿に目が眩みそうだった。
背後の明るくなり始めた空のおかげで、赤い色がより鮮やかに見えた。
いつか見た皇帝の冠。鷲の爪を模ったような形に納めるために髪をまとめてある。赤い豪奢なドレスは厚い生地に装甲を仕込んであるのが分かる。威厳を纏いながら軽鎧としても使えるだろう。美しさと強さを兼ね備える人柄がうかがえた。
そんな恰好が如何にも彼女らしいと思った。会いたいと思っていた人だと一目で分かる。エーデルガルトがそこにいた。
(生きていた……!)
安堵が胸に広がる。そこにいるだけで温かな気持ちが湧いてくる。
何を言おう。
何て話そう。
いや、まずは謝罪か。
詫びないといけないことがたくさんあるだろう。
歯を食いしばって立ち上がる。情けないところを見せるわけにはいかないと、今にも力が抜けそうになる体を起こして、両足で踏ん張って。
そうして近付こうとしたベレトの足は、一歩で止まることになった。
「……っ、来ないで!!」
雷鳴のような叫びが響く。
声に押されたように動きを止めたベレトは、俯きそうになる頭を上げて前を見た。
汗で滲む視界に映ったのはエーデルガルト。
会いたいと願った相手が、成長して大人になった相手が、誇りも威厳もないただの少女のように悲痛に顔を歪めてこちらを睨み付けていた。
「師は……貴方は何がしたいの!? あの時、私を守ると言って……なのにレアのことも助けようとして! 分からない……貴方が分からないわ師!」
腰から抜いた剣も向けてエーデルガルトは怒鳴る。
わなわなと体を震わせて、手に持つ剣の波打つ刀身も揺れて、溢れんばかりの動揺と悲嘆を迸らせるような叫びだった。
「あの戦いから五年も経ったわ! その間、私がどれほど不安だったと……どれほど心折れそうだったと思っているの! いったい、どこで何をしていたのよ師!!」
エーデルガルトは訴える。
五年間、何度も探したこと。
その間も戦ってきたこと。
皆を率い、導いてきたこと。
誰にも弱みを見せるわけにはいかなかった。
皇帝として帝国の頂点に立ち、ひた走ってきた。
戦いに、政務に、会議も、交渉も、貴族が、平民が、大変で、大変で。
ふとした瞬間に湧き上がる想いを支えにして。
それでも振り返ることなく前を見て。
信じたい。
信じていいか分からない。
なのに求める気持ちが消えてくれない。
貴方が悪い。
師は酷い。
あんなに頼りにしていたのに。
あれだけ私を振り回して。
もうどうしていいか、どう思えばいいか分からない。
まくし立てられた内容は時折前後したり、言いよどんだり、支離滅裂になるなど言い進めるほどに話はめちゃくちゃになっていく。
いつしか頬には涙が伝い、嗚咽が混じり、まるで幼子の駄々のようになる。
それを聞くベレトは、実のところ話の半分も耳に入らなかった。
相変わらず体は絶不調。限度を超えた頭痛は耳鳴りを呼び、意識をすり減らしていく。ぜえぜえと荒い息が喉を焼くようで、寒いのに汗をかく自分の体が不思議だ。
でも、そんなものは関係ない。全部、どうでもいい。
目の前でエーデルガルトが泣いている。その慟哭を前にして、やるべきことなんて一つしかないじゃないか。
なのに……ああ、もう限界だ。
ガクリと、前に出そうと上げた爪先が床を擦ったかと思った時には膝が折れて前のめりに倒れてしまう。伸ばした手は宙をさまよい、顔面から床にぶつかった。
手から離れた天帝の剣が床に当たって硬質な音を響かせた。
「っ、師!?」
考える前に体が動いたのだろう。構えていた剣を取り落としたエーデルガルトがベレトに向かって駆け寄り、しかし数歩で足を止める。同じように床に当たった剣が硬質な音を立てて転がった。
エーデルガルトはまだ信じ切れないのだ。ここで手を伸ばしていいのか分からず不安に包まれたままでいる。
それでも今、僅かだが歩み寄ってくれた。信じ切れなくても近付いてくれた。
だったら、ここで、俺が体を張らない理由はない。
頼りない足より腕で体を起こし、伸ばした手で匍匐前進を始める。まともじゃない動き方はただでさえ枯渇した体力を容赦なく削り、埃っぽい床でもがいたせいで咳き込むが、遅々とした動きでエーデルガルトににじり寄った。
ここに来てようやくベレトの不調に気付いたエーデルガルトは、そんな有様でもなりふり構わず自分に近付いてくるベレトを信じられないものを見る目で見下ろす。
「エーデルガルト……っ」
「貴方……どうしてそんな!」
思わず膝を付いてベレトの体を抱き起こしたエーデルガルトは愕然とする。触れた彼の頬から異常な熱を感じて、呼吸のおかしさから深刻なレベルで体調を悪化させていることも感じた。
だがベレトにとって自分の体調など二の次である。そんなことよりも伝えなければならないことがある。
「エーデルガルト……」
「師……?」
「……生きてて、よかった……!」
「っ!!」
今や持ち上げることも辛い腕を伸ばしたベレトはエーデルガルトの頭を撫でた。小さな子供に対してするように、ゆっくり、優しく。
山を歩きながら何度も転び、埃まみれの床を触り、ボロボロになった手が髪を汚してしまうが、エーデルガルトは気にしない。
「怖かったんだ……君が死んでしまってたらどうしようって……また会えて、嬉しいよ……」
「師……」
「……守れなかったのに……君との約束を破ったのに……そんな俺が、こんなことを言う資格なんて、ないんだけど……」
「っ、いいえ、いいえ師、貴方は守ってくれたわ! 初めて私を助けてくれたあの夜からずっと! 私の心を守っていたわ! 貴方が、ずっと!」
くしゃくしゃに顔を歪めてエーデルガルトは叫ぶ。再び溢れた涙が落ちてベレトの顔に当たって彼を濡らした。
「エーデルガルト……大きくなったな」
「貴方は、ちっとも変わらないわ」
「それに……綺麗になった」
「ぎっ!? へ、変なこと今言わないでちょうだい!」
顔を逸らすエーデルガルトだが、腕は変わらずベレトを抱えたままである。
変なことではない。ベレトはお世辞を言うことはないのだ。
だって、ほら。ちょうど差し込んだ朝陽が背後からかかって、見上げた彼女の白い髪に当たって光の滝のように見える。輝きに目を細め、それでも逸らさず見つめる。
綺麗になった。最後に見た時より大きくなって、成長した。生きていた。
自然と顔が綻んだ。
いつの間にか夜が明けていた。差し込む光が塔を照らし、二人を包む。
「エーデルガルト……俺は、君を守りたい……その気持ちは今でも変わらない……」
「ええ。私も、決意は少しも揺らいでいないわ。五年前からずっと」
「また、傍にいても、いいか……? 一度はエーデルガルトを裏切った俺が……あの戦いで、君を捨てたと言われても、言い訳のしようもないけど……それでも、俺は、君の力になりたい……」
「……っ! あ、後で話はしっかり聞かせてもらうわ! ただ、私としても……師には傍にいてほしいと思っているのよ」
目元を拭うエーデルガルトを見上げていると、その顔が五年前の彼女と重なって見えた。
月明りに照らされた少女の顔。
黒鷲の学級の級長。
斧を手に構え。
食堂で向かい合って食べてる。
授業で挙手。
相談事で食い違って。
課題で肩を並べる。
紅茶の採点はけっこう厳しい。
手を差し出した。
皇女から皇帝へ。
刃を交え。
咄嗟に抱えて。
そして──今の彼女へ。
全て重なる。新しく増える。これからも続いていく。
エーデルガルトが生きる姿がこれから先も。
(ああ、そうか……そういうことだったんだ……)
また一つ教えられた。俺の方が教わってる。どっちが先生なのやら。
力が抜ける。エーデルガルトを撫でていた手が落ちて床を叩いたが痛みはない。
「師? ……ちょっと、師!?」
抱かれたままベレトは目を閉じる。エーデルガルトと話すことができて気が抜けたのか、急速に意識が薄れていくのが分かった。
「しっかりして師! ヒューベルト、来なさい! 早く! ヒューベルト!!」
声が聞こえる。エーデルガルトの声が。彼女が生きている証が。
頭痛も悪寒も気にならない。エーデルガルトがそこにいるだけで穏やかな気持ちになれた。
本当に俺はこの子からもらってばかりだ──浮かんだ笑みが頬を緩め、力ない吐息が漏れた。
俺は今まで分かってなかった。
守るっていうのは、その人が生きていることだ。
エーデルガルトが生きている。
そのことが俺は嬉しいんだ。
俺はエーデルガルトを守りたい。
この子が生きる未来を守りたい。
この子が生きていける未来にしたい。
そのために俺はあの時、この子を助けたんだ。
大丈夫だよエーデルガルト。
俺は君のために戦う。
君が生きる未来のために。
君が生きていける未来を作るために。
俺は戦うよ。
君を襲うこの世の全ての闇と。
エーデルガルトのために。
「風邪ですな」
「風邪」
「ええ、風邪です」
「……熱があるのは」
「風邪による発熱です」
「……咳き込むのは」
「喉が腫れてましたな」
「……震えていたのは」
「悪寒でしょう」
「……本当に風邪なのね」
寝かされたベッドの横で、主従のそんな会話をベレトは聞いていた。
場所はガルグ=マク大修道院の上層。かつては関係者以外立ち入り禁止とされていた三階にある大司教の私室である。
半ば廃墟と化していた大修道院を根城にしていた盗賊達は帝国軍によって掃討されており、現在は大急ぎで清掃作業が行われているとのこと。
慌ただしく働く軍の者の目に触れさせるわけにはいかないと考えたヒューベルトにより、ベレトを休ませる場所としてこの部屋が選ばれた。
ちなみに意識を取り戻したベレトはヒューベルトともう顔を合わせている。五年も経って成長した姿を見てもすぐに彼だと分かった。片目を隠すくらい伸ばした黒髪と黒装束に黒マントという全身を黒で包む出で立ちが彼の印象そのままだったから。
「とは言え重度の風邪だと言えましょう。失礼ですが先生、着ていた服がかなり湿っておりましたが、ここに来る前に川にでも流されましたか?」
「ああ……たぶん、五年くらい……」
「……それは大層お体を冷やしたことでしょうな」
ベレトの素っ頓狂な答えを聞いて、ヒューベルトは苦笑を漏らした。
神祖の加護か何かで守られていたのだろうが、崖から落ちて以来ベレトはずっと眠り続けていたのだ。その間、食べることはもちろん、何の補給もされなかった体が回復できるはずがない。ただでさえ落ちる直前に大ダメージを受けたというのに。
そうして体力が落ちた体で真冬(星辰の節は我々の知る12月に相当する)の寒中水泳をかました上に濡れた服もそのままに山登りなんてしてしまえば、いくらベレトでも参ってしまう。
身も蓋もない言い方になるが、当然の結果である。
「そうか……これが風邪、なのか」
「師は風邪を引いたことがなかったの?」
「ない……これが初めてだ……」
独り言に反応したエーデルガルトが聞くとベレトは短く答える。その声も歯切れよく話す普段の彼とは違って酷く弱々しい。
言葉通り、ベレトは風邪を引いた経験がなかったのだろう。もちろん知識としてはあっただろうが、実体験がない者が体を冷やしただけで風邪を引くと言ってもピンと来ないのは仕方ないことかもしれない。
全身びしょ濡れのままでも大急ぎでガルグ=マクを目指したことでこうしてエーデルガルトと再会できたのだから、その点だけはよかったと言えるが。
ベッドの傍らでベレトの顔に浮かんだ汗を拭いてあげたり、濡らした布巾を絞って額に載せてあげたり、甲斐甲斐しく看病するエーデルガルトを見たヒューベルトはひとまず席を外すことにした。
幸いにも帝国軍によるガルグ=マクの占拠はあっさりと済み、今なら拠点として利用するための作業に指示を出すのは自分だけで事足りる。
ちょうど主を休ませる名目が欲しかったところだ。思うところはあるが、今はここで二人きりにしてあげよう。
聞き出したいことは山ほどあるが、当のベレトがこんな状態では尋問のしようもない。そもそもここでベレトに無茶をさせるのはエーデルガルトが許さないだろう。
弱った身を圧してガルグ=マクに辿り着いたからには逃げ出すとは考えにくい。まずは彼の回復を待とうとヒューベルトは決めた。
「何にしても、先生は急いで体調を取り戻すことですな。詳しい話をするのはそれからにします」
「俺も……ヒューベルトと、話したいよ……」
「くくくっ、変わりませんな貴殿は……本当に五年前の先生そのままです」
ヒューベルトの役目からして、疑いを持たれていることくらい分かっているだろうに、暢気に対話を望むベレトについ笑ってしまう。
久方ぶりに感じる彼の気質で懐かしい気分のまま会話を切り上げ、エーデルガルトに一礼してからヒューベルトは部屋を出ていった。
そうして二人残された部屋で。
ベレトの荒い呼吸とたまに咳き込む音が響く他は静かで、エーデルガルトは落ち着きなく体を揺らす。
しばらく所在なく視線を彷徨わせていた彼女が、意を決して
ヒューベルトが退室してからずっとエーデルガルトの横顔を見つめていたベレトはようやく目が合ったことが嬉しくて、苦しそうに息をしながら薄く微笑む。
その様子を見て、緊張している自分に気付いたのだろう、軽く噴き出してエーデルガルトも微笑んだ。
「無事とは言えないけれど、師が戻ってきて本当によかったわ」
緊張が抜けてさえしまえば、ベレトが知るいつものエーデルガルトだった。
少女の面影が残っていた五年前とは違い、皇帝として生きた日々が彼女を成長させたのは間違いない。それでもこうしてベレトに見せる微笑みは士官学校で共に過ごした頃と同じ温かな気持ちをくれた。
「さっきは急に剣を突き付けてごめんなさい」
「いいんだ……君にはその権利がある」
「いいえ。一度口にした言葉を私は翻したのよ」
しかし微笑みをしまい、今度は真剣な表情でベレトを見つめてくる。
「私は師を信じて、師も私を信じてくれた。それだけで戦っていける。そう思っていたのに……」
胸元で布巾を握りしめるエーデルガルトは後悔しているようだった。
「五年という歳月が心をすり減らした。そう言い訳する自分がいるの。けれど、口にした私自身があの言葉を忘れて貴方を責めるのは、やっぱり間違っていたわ」
「俺はそうは思わないけど……」
「師がそう思ったとしても、私の矜持の問題よ。宣言したことや信念を翻すなんて皇帝らしくないでしょう? そうやって揺らいでしまうのは私が嫌なの」
相変わらず真面目な子だ。客観的に考えればあの戦いでの自分の行動は誰が見てもエーデルガルトへの裏切りになってしまうのではとベレトは思うのだが、例えそう感じたとしても信じたと決めたなら信じ続けるのが筋だと言うのか。なんとも逞しい矜持である。
しかしながら人間は常に強く在り続けることはできないものなのだとベレトは学んだ。大修道院で出会った人々、そして自分自身の感情を知り、それに振り回されながらどうにかやっていくのが人間なのだ。
確かに信念を持つ人は尊敬される。吐いた唾は呑めないとして筋を通す行動ができれば、それはすごいことだろう。
皇帝という帝国の頂点に立つエーデルガルトが自身の矜持を気にするのは当然のことなのかもしれない。
それでも。
「エーデルガルトだって、一人の人間だろ……少しくらい揺らいでもいい」
「師……」
「俺は気にしてないから大丈夫だよ……君も普通の女の子なんだから、それでいいんだ……」
「…………皇帝相手に普通の女の子だなんて言えるのは師くらいのものよ」
流石にもう子供扱いされる歳じゃないわ──ほんのり赤らんだ頬を誤魔化すようにエーデルガルトは絞った布巾でベレトの顔を拭く。顔全体を拭かれるベレトが呼吸を遮られてふぐぐと呻いた。
「それに、謝らないといけないのは俺の方だ……」
拭く手がどくのを見計らって今度はベレトが口を開いた。
「あの戦いで、君を置き去りにして、ごめんなエーデルガルト……」
「……ええ」
「守ると言ったのに、傍にいられなくて、ごめん……」
「ええ」
「仕事を手伝えなくて、ごめん……」
「ええ……え?」
「休む時に、一緒にゴロゴロできなくて、ごめん……」
「待って、待って師おかしいわ。今そういう話はしていなかったわよね」
慌てて止めに入るエーデルガルトだが、そんな彼女にまた笑ってみせる。
「もしこの五年一緒にいたら、俺はきっとそうしてたから……」
「それは、貴方ならそうかもしれないけど」
「お互いが気にしてないことを、お互いに謝ったら、こうして堂々巡りだ……だからエーデルガルト……大丈夫だよ」
「……もう! 貴方には敵わないわ」
釣られて笑い出すエーデルガルトを見て、改めて思う。
きっと大丈夫だ。五年も経ったフォドラで、自分だけ置いていかれたようなこの世界でも、俺はやっていける。
守りたい人が生きていて、またこの手で守れる。そのために戦える。
だから、これから先もきっと大丈夫だ。
「おかえりなさい、師」
「……ただいま、エーデルガルト」
帰ってきたのだとベレトは強く感じた。
微笑むエーデルガルトを見上げ、ここが自分の帰るところだと、彼女の隣が自分の居場所なのだと今一度理解した。