……む。
ん~、むむむ……朝か。夜が明けたようじゃのう。
う~む、一日の始まりじゃ。
早朝の静かな空気を感じ、眠気を追い出すように目を瞬かせる。自然のものではあり得ないギシギシという小さな音が静かな部屋の中だとよく響いていた。
「おはようソティス」
【うむ、おはよう】
目を擦って伸びをするわしに気付いたのか、ベレトが朝の挨拶を寄こす。
普段はわしの方がこやつの上に居るというのに、こうして上から話しかけられるとちとおかしな気分じゃのう。
いやなに、ベレトが起きてから部屋を出るまで室内でやる朝の運動とやらがあってな。わしが朝一番に目にするのがこやつが一人で体を鍛える光景というわけよ。
外でやらんかと前に言ったのじゃが、真似する生徒が出たらちょっと危ないとかで朝の限られた時間だけのことにしておるそうだ。
確かに柔軟とかならまだしも、中には童共の手には余る内容もあるからの。
ベレトが今やっておるのもその一つよ。部屋の天井にある梁を掴んで懸垂というやつをやっておるのだが……これが呆れたやり方でな。
こやつが住む寮の一室はえらく上等な作りとなっていて天井もそこそこ高い。職人が真面目に建てたのだろう、梁も部屋の調度を損なわないよう天井に埋め込まれておる。
要するに、普通に懸垂をしたくても指をかける隙間なぞない。それをこやつは何を思ったのか、梁を真下から直接鷲掴みして懸垂しておるのじゃ。
わしも実際にやったわけではないが──やりたくても叶わぬ身じゃしやりたいとも思わぬが──人の体重を持ち上げるにはかなりの力が必要であろう? 腕力を鍛えるのに懸垂をするのは分かるにしても、ああも指を広げて掴むのはどれほど握力を求められるかさっぱりじゃて。
うう、相変わらず見てるだけでこっちの指が痛くなるわ。
程なくして目標数を終えたベレトが手を離して降りると、今度はベッドに放り出してあった剣を拾う。
ただの剣ではない、天帝の剣じゃ。
「それじゃあ」
【分かっておる、上の隅におるわい】
目を向けるベレトに言われるまでもなく、わしは浮かび上がって天井の隅に身を寄せる。それを確認したベレトは頷くと、そのまま天帝の剣を振り始めた。
室内で武器を振り回すなと叱りつけたいところじゃが、こやつが武器の扱いを間違えるうつけではないことは知っておる。
天帝の剣はベレトがこれまで使ってきた得物よりも大きいもので、早急に振る感覚に慣れるために……あー、何じゃったかの、限定された空間で振る稽古? それをすることで早く身に付くらしいぞ。
傭兵として屋内で戦闘することも多いこやつならではの着眼点よの。何度も見ておるし、今さら壁や家具を傷付ける心配もしておらん。ベレトも気を遣ってわしのいる方向には剣を向けぬようにしとるしな。
蛇腹剣でもある天帝の剣を鞭として使う練習はまた別らしいのだが。
うーむ、それにしてもこの剣……見てると何故か不思議な気分になる。こう、背筋というか背中というか、その辺りが微かに疼くような……
おかしなこともあるものじゃ。わしに剣の心得なんぞありはせんというのに。
そう長くは続けるものではなかったのでベレトはすぐに剣を納めた。汗を拭いて簡単に身形を整えるとこちらを見てくる。
「行こう」
【うむ、行こうぞ】
いつものようにベレトの斜め上辺りに浮いて外へ出る。早朝らしい爽やかな空気が流れて心地好い。今日も世は平和じゃのう。
おっと、名乗りが遅れたな。
わしの名はソティス。【はじまりのもの】と呼ばれておる。
今はこのベレトという粗忽者に宿る身の上じゃ。幽霊ではないぞ!
部屋を出たベレトがまず向かうのは訓練所じゃな。寮を離れて石畳を歩けばすぐそこにある。こうして寮と近い場所に訓練所があるところは士官学校らしいのう。
無言で歩くこやつの上に浮かび、ぐうっと伸びをする。わしに実体はないのじゃが、やはり朝の空気の中でこうすると気持ちが違うわ。
学校の校舎が生む影を進む。その影の切れ目、朝日が差し込む角に通りかかろうというところで角から現れる者がいた。
「あら、おはよう
「エーデルガルト、おはよう」
「今日も朝から訓練所に行くの?」
「ああ。昨日イングリットと約束した」
そのまま並んで歩き出したのはエーデルガルトという小娘じゃな。ベレトが教える生徒の中でもよくこやつにくっついて学ぶ者じゃ。
「珍しいわね、
「彼は今週の厩舎当番だそうだ。朝は馬の世話があるから夕方に来ると言っていた」
「その代わりに朝はイングリットということね。きっと張り切ってるわよ彼女」
「ああ。一度手合わせする予定だ」
「それなら私もお願いしようかしら」
「ん? 君も訓練所に行くつもりだったのか」
「ええ、師に聞きたいことがあったのだけど、どうせなら私も一手お願いしたいわ」
「分かった。なら俺は斧で相手をしよう」
「あら、師が斧を使うなんて珍しいじゃない」
「試してみたいことがある。エーデルガルトが相手をしてくれるならありがたい」
「いいでしょう。今日こそ一本取ってあげるわ」
「ところで聞きたいことというのは?」
「そうね、幾つかあるのだけど、今月の課題で配属させる騎士団を──」
二人並んで歩く姿はまるで一つの影のようで、訓練所の門を通る背中を見ていると何とも仲睦まじい様子に評する言葉も出なくなるわい。
わしは知っておるぞ。澄ました顔でベレトの隣を歩くこの娘、先ほどの角から出る機をうかがっておったことを。
というか、姿を隠していても角から伸びる人影でバレバレじゃったがな。
小娘の従者が飛ばした手駒の目はよく感じる。ベレト以外の誰にも見えておらんわしのことは全く警戒せんからこちらからは見え見えよ。そやつらがベレトを日々監視しとるおかげで昨日の約束についても把握しているだろうに、何食わぬ顔で話を合わせよる。
最初から偶然を装ってベレトと一緒に並んで歩くことが目的だったに違いない。それだけのことのために早起きして朝から角で待ち伏せていたのじゃ。
健気と言うかいじらしいと言うか、乙女よのう。
……なんじゃ。わしとてそれくらい察するわ。
小娘でもあれは女よ。男に向ける目や、並んで歩く時の距離感を近くで見れば一目瞭然というもの。ましてやあの小娘は帝国の皇女であろう? 色々と事情を抱えているだろうそんな輩が、女として無防備なくらい男に身を寄せていれば分からん方がおかしいぞ。
ただし、当のベレトは分かっておらんようじゃがな。
まあ、よい。
どうせ行くのは訓練所。あやつらの他にも朝から熱心な生徒が自主訓練に励む場で艶めいた雰囲気になることはあるまいて。
わしはそういうのは興味ないので、ちと余所に行くかの。
いつもベレトと一緒に行動しているわしじゃが、くっついてなければいかんわけではない。この修道院の敷地程度なら離れて動くくらいできる。こうして一人で訓練所の開けた上から顔を出して景色を眺めるくらい問題ないのじゃ。
空は雲が少ない気持ち良い晴れ模様。空気も澄んでいて遠くまで一望できる。
修道院は山の高台にあるから、こういう晴れの日は遠くまで見渡せてよいのう。光を浴びる大地はどれだけ見ていても飽きぬ。森も、小川も、麓の丘も、どんな絵画も及ばぬ美しい世界の在り様を独り占めしている気分じゃ。
しかし、ここからだと流石にザナドは見えんか……もう一度あそこに行ってみたいものじゃな。何とかしてベレトを誘えないものか。
そうして首を巡らせていると、温室の方から歩いてくる二人分の影が見える。
褐色の巨漢とそばかすの少年。ふむ、あれはどちらも青獅子の生徒じゃな。
ということは、そろそろ朝食の時間か。巨漢の方は、今ちょうど下でベレトと打ち合っている王子を呼びに来たのじゃろう。いつもそこから解散して食堂に向かう流れなのじゃ。
つまりベレトももうすぐ切り上げる頃合いじゃな。
朝の雄大な景色も見納め、最後にわしも目線を一巡りさせて……ほ?
視界の端に映った大聖堂。その横にあるテラスから伸びる橋を歩く白い影。
あれは、大司教のレアか。
レア……どうもあやつは気にかかる。
何故かは知らんが、あの者が見ているのは他の人間とは違うように思えるのじゃ。セイロス教とやらの指導者として多くの信徒に慕われているようじゃが、そやつらを見ているようで見ていないというか、ううむ、何と言ったらいいかのう。
妙にベレトを贔屓にしておるし、その割には側近のセテスという男にも詳しく話しておらんようじゃし……何じゃろうな、よく分からぬ。
今は橋の先にある女神の塔に入ったところ。こんな朝から一人でお祈りでもするのか。信心深いことよのう。
(ソティス、行くよ)
おっと、下でベレトがこちらを見上げておる。訓練所を閉めて食堂に向かうのじゃな。おぬしは毎回律義にわしを呼ぶのう。離れればこちらでも感じられるのに。
急いで下に降りてベレトの傍に浮かぶ。わしが来た時にはまた小娘が隣にいた。
「師、何を見てるの?」
「空」
「いや、それは分かるけど……何かあった?」
「空は……うん、空模様を見てた。今は晴れてるけど、明日から曇るかもしれない」
「そういうことまで分かるのね」
「風の向きと強さ、唇と舌で感じる空気の湿り気、後は勘」
わしを見ていたことを誤魔化すための適当なでっち上げ、だけではないか。実際にベレトはそういうことが分かるのかもしれん。普段から嘯くような真似はしておらんからこやつの言葉には謎の説得力がある。
小娘もベレトの発言に納得したようでそれ以上は聞いてこなんだ。
「先生、エーデルガルト、早く行こう! 食堂が混んでしまうぞ!」
先に訓練所を出ていた王子が呼びかけてきた。学級が違うというのに、本当に懐かれたものだのう。金髪碧眼の絵に描いたような美男子のくせに、後ろに尻尾を振る犬の像が浮かぶようだ。
それから生徒達と連れ立って食堂に向かい、ベレトは配膳所の列に並ぶ。
多くの人々で賑わう食堂は良い匂いが漂っておる。わしに空腹の感覚はないのじゃが、芳しい料理の香りはこの世界の食の豊かさを教えてくれて楽しくなるわい。
【おぬし、今日の献立は何じゃ】
(満腹野菜炒め)
【ああ、確か野菜を卵で包み焼きしたものじゃったか? たくさん食べられそうではないか】
(楽しみだ)
無表情は変わらぬくせにベレトの雰囲気はそこはかとなく楽し気じゃ。こやつは細身に似合わぬ大食漢じゃからのう。傭兵時代とは違って食が保証された修道院に来てからは食事の度にたくさん食べよる。満足そうに食べるこやつを見ていると、不思議とわしまで満たされる気分じゃ。
配膳する係の女中も慣れたもので、ベレトの顔を見るとすぐに大皿を出して野菜炒めを山盛りによそってくれる。女中に一言礼を告げると、もはや専用となった大皿を載せたお盆を受け取ってベレトは空いてる席を探した。
幸いにもすぐにまとまった席が見つけられて、ベレトを挟むようにして小娘と王子も一緒に席に着いた。おぬしら……ほんにこやつが大好きよのう。
早速食べ始めるベレト。野菜炒めを次々に口へ運び、もっしゃもっしゃと咀嚼していく。山となっていたのがどんどん削られていく動きは見ているだけで面白いわ。
「師って本当によく食べるわね。私もこの料理は好きだけど、そこまでたくさん食べられないわ」
「そうだな。食欲旺盛なのはいいことだが、朝からそんなに食べられるのは一種の才能と言っていいかもしれないぞ」
「……そんなに多いかな」
【美味いか?】
「ああ、美味い」
「「?」」
途中で口を挟んだわしの声にも律義に応えるベレトに隣の二人は首を傾げておる。だがベレトは気にせず変わらない調子で口を動かして食べる手を止めん。
わしの悪戯に反応するくせに動じぬとは、生意気なやつめ。
山盛りになっていた野菜炒めを平らげ、デザートとして添えられたアルビネベリーの小皿に手を付けようとしたベレトは何かに気付いて手を止めた。同じくベリーに手を付けた小娘に見つめられていると、小皿から半分のベリーを口に放り込んで、残りをテーブルの向かいに座る少女に差し出したのじゃ。
こやつは金鹿の生徒だったな。
「な、何ですか先生」
「おはようリシテア。これ、あげるよ」
「いいんですか!? って、いやいや、私ねだってませんから」
「? 一昨日ノアの実をあげた時は喜んでた」
「いやあれは偶然相席になって少し話をした流れでもらうことになったからで、別にいつも分けて欲しいとは言ってませんからね私!?」
前触れなくベレトから受けた施しに白髪の少女は慌てる。だが反論しながらもその目は差し出された小皿に釘付けな辺り、嘘が吐けぬ正直者よ。
「リシテアって本当に甘いものが好きなのね。それじゃあ私からも少し分けてあげるわ。はい、どうぞ」
「俺からも幾つか分けよう。君は普段から小食のようだからな、せめて好きなものはたくさん食べてくれ」
「うう……エーデルガルトも、ディミトリまで……」
「だからリシテア」
「何ですか先生」
「野菜炒め、頑張れ」
「ぐっ……」
ベレトに言われて少女が押し黙る。
苦手な献立に難儀しておったのだろう。その前に置かれた野菜炒めは皿に半分ほど残して減っておらぬ。冷めてしまったそれを前に食べる手が止まっていた、といったところか。
「あーもー分かりましたよ! 食べます、食べてやります! こんなのお腹に入れてしまえば全部同じですから! ただしベリーはもらいますよ、返しませんからね!」
ジーっと見つめてくるベレト達の目に耐えられなくなったのだろう。少女は意を決して残った野菜炒めを口に押し込んでいく。次々に水で喉へと流し込んで一気に完食してしまいおった。あまり噛んでおらんかったが、大丈夫かのう。
大きく息を吐いたと思えばすぐに小皿に手を伸ばし、アルビネベリーを一つ口に放り込む。口直しした途端にしかめ面が崩れて、可愛らしい笑みが浮かんだ。
その姿を見ていたベレトが小さく拍手を送る。釣られて隣の小娘と王子も、そこから様子を見ていた周囲の人間へ拍手の輪がたちまち広がっていった。
「ちょっ、何ですか急に! そんな、子供扱いしないでくださいよ!」
我に返った少女が拍手に恥じ入って手を振り回すが、そんな姿も子供のように愛らしくて、わしもつい拍手を送ってしまったわ。誰にも見えんのだがな。
いや、ベレトにだけは見えておったな。自分を同じように拍手するわしを目だけで見上げると、わしにしか分からぬ小さな笑みを浮かべる。
(君もリシテアを褒めてくれるんだな)
【努力は称賛されねばならんからのう。おぬしがやったのと同じじゃ】
(ありがとう、ソティス)
【……ふん】
何やらこやつに乗せられた気分じゃ。
広がる拍手と場を見て離れたところからも何事かと目を向ける者もいて、恥じ入りつつもベリーを堪能する手は止めぬ少女を中心に、食堂に和やかな空気が流れる。
まったく、人間達は朝からわしを楽しませてくれるわい。
場所を教室に移して、いよいよお勉強の時間じゃな。
大修道院の鐘はよく響く。街の方まで届くからここだと尚更よく聴こえるわい。
「授業を始めるぞ」
教壇に立つベレトが宣言して、席に着いた生徒達が姿勢を正す。
歳が近い若造に物事を教えられるのに反発する者がほとんどいないのは、わしとしては意外なことじゃ。精々別の学級の生徒が口先だけの文句を溢す程度じゃったか。それも今ではとんと聞かぬしのう。
まあ、あのジェラルトの息子ということで一目置かれるようになって、その他にも生徒と向き合うベレトの姿が自然と認められるようになったのだな。
しかし……その産物が一部、些か浮いているのは否めまい。
例えば、ほれ。教室の一番後ろの席。横長の机を一人で使っておる生徒がいるのだが、その姿が何とも異様じゃ。
あー、いや、姿がと言うべきではないか? 何しろ本人が見えぬ。
生徒が座る席ごと、すっぽり覆ってしまうように真っ黒なカーテンがかけられておるのじゃ。辛うじて目元だけ覗けるようにカーテンに切れ目が入っていて、教室の前方が見えるようになっておる。
机に設置してあるからには当然生徒が使うことを目的としたもの。ベルナデッタとかいう生徒のためにベレトが拵えよったのだ。
修道院に来てさほど経たない休日に、ベレトが適当な廃材を組み合わせて一席分の暗幕所を作り出した時は、こやつは何をやっておるのかと困惑したわ。当時はわしもあの引き籠りのことは知らなんだからな。
完成した暗幕を教室の席に設置して、あの生徒に説明して見せてから、とりあえず教室でやる授業には出席するようになったのじゃ。
『な、なんですか先生。教室はベルにとって危険地帯ですよ』
『それは以前聞いた。君にも授業を受けてほしいが、危険地帯に生徒を無防備に放り出すことはしない。そのために用意したものがある』
『用意したもの……? わ、何ですかこれ。幕がかかってて……』
『ここがベルナデッタ専用の席だ。教室に来た時はこの中に籠ればそんなに怖くないんじゃないかと思って』
『こんなの初めて見ました……これ、ベルのためにわざわざ?』
『昨日作った。付け足したい機能があるなら希望を聞いて調整する』
『うぇえええ!? 先生が作ったんですか!? こんな大掛かりなものを!?』
『即席の出来栄えだから、もう少し補強しようとは思ってるが』
『ベルのために作ってくれたんですか……先生ぇ……』
聞いてみれば、自分の周りに他人との視線を遮る幕があれば教室でも部屋に引き籠るのに近い感覚でいられるかも、とベレトは考えたらしい。
実際、以前はいつも欠席していたというその生徒も、あの暗幕所を利用すれば安心して授業を受けられるようで、これを契機にしてベレトの授業ならと出席する勇気を出せたようじゃの。
教室の一角に真っ黒な塊が鎮座する光景はかなり異様で、初めは他の生徒もぎょっとして遠巻きに見ておったがな。
時が経つにつれて見慣れていき、それがあることで一人の生徒が安心して出席できると事情が分かれば排斥する理由もなく、今ではこの教室の馴染みの一部として受け入れられておる。
特に級長の小娘なぞ、こんなやり方であの子を出席させられるなんて、とベレトを絶賛しておったわい。
発想が突飛ではあるものの、生徒一人一人と真摯に向き合うベレトが慕われるのは道理というものか。
人間は自分のために時間を注いでくれる相手を好ましく思う生き物じゃからな。
こやつの真面目ぶりが上手く活かされているということか。
それにしても……退屈じゃ。
わしは生徒ではない。授業なんぞ受ける義理もない。ここにいる意味もないのう。
ふむ、今日も外に出るか。
【おい、外に行っておるぞ】
(分かった)
ベレトに一言断りを入れて、窓から外へと浮かび出る。
さてさて、今日は何をしようか。
厩舎前を巡ったり、花壇の花を愛でたり、途中に屋根の上で昼寝したり、悠々と時間を潰したわしは欠伸を抑えながら移動しておった。
気持ちをサッパリさせるべく次は釣り堀にでも行ってみようかのう。何を隠そう、わしは水に触れても濡れぬ。水に潜っても息が続く。理屈は分からぬが、できるのなら活かさぬ手はない。そうやって水中で魚を追いかけるのが面白いのじゃ。
「……すけ……べんし……っ!」
おっと? 何やら騒がしい声が聞こえるぞ。
生徒も使う訓練所とは違う、騎士団連中が屯している方からだ。
何事かと顔を向ける先を変えたが、わしが行こうとするより向こうから近付いてくる複数の気配があった。
「お助けー!!」
悲鳴を上げながら逃げてくる若い兵士。その足取りはバタバタと不揃いで、いつもベレトの歩みや走りを見ているわしからすればえらく乱れているように見える。
その衛兵に向けて数本の矢が飛んできた。被っていた兜の後頭部に当たった他、両足にもそれぞれ一本ずつ当たるなど正確な狙いじゃ。刺さらないところを見ると矢は訓練用のもので、敵襲があったとかそういう心配はないか。
衝撃に若者は堪らず倒れてしまった。酷く息が切れており、もがいても立ち上がるには至らんようだな。
「はい、確保っと」
「ぐへっ」
倒れた若者の背中を踏んで抑えたのは褐色肌の女騎士。たまにベレトと手合わせしとるから覚えたぞ、あれはカトリーヌじゃ。
「流石だぜシャミア、相変わらず良い腕だ」
「……逃げる敵を撃つ練習にはなる」
そやつがそのまま振り返ると、離れたところで弓を構えていた細身の女が応えた。若干声色が疲れているような気がしなくもないが。
「ほら、とっとと戻るぞ。お前も大人しく受けろ」
「いや勘弁してくださいって! 見てらんないっつか見ただけで痛いでしょ!」
「同期の奴は受けただろ? お前もいいかげん腹括れ」
「嫌だー! みんなして血を吐くような叫びだったじゃないですか! やっと騎士団に入れたのにこんなことで死にたくないですよー!」
「死にゃしないって。あたしも前に受けたけど本当に回復の速さが段違いなんだよ。昨日の疲れが抜けてないお前らを見かねたジェラルトさんが折角やってくれるんだ。つべこべ言ってねえで観念しろ」
これは、あれか、騎士団の新人がジェラルトのマッサージから逃げたところか。
若いのが訓練の疲れで倒れて、例のマッサージをやってる現場を見た新人の一人が恐怖で逃げ出したのじゃな。
わしもベレトが生徒に施しているところを見たことはあるが……うむ、あれは冗談抜きで凄まじい悲鳴じゃったからのう。おまけにあやつの足の速さからして、わしの知る限り逃げられた生徒は一人もおらなんだ。
表情を変えぬまま学級の生徒全員に施したベレトが、単純な尊敬だけでなく畏敬の念を向けられるようになった原因の一つが間違いなくあれよ。
そしてベレトにそのマッサージを伝授したのが考案者である父親のジェラルト。
騎士団長に就任した奴が、疲れで動けなくなった団員に同じように施してやるのは当然というもの。
カトリーヌのような肝の据わった者なら施されてもこうしてけろりとしておるが、誰もが平然としてはおれぬ。特に若い新人となれば恐怖で逃げ出したくなってもおかしくはないか。
「おおカトリーヌ殿、助かりましたぞ!」
もがく新人を抑えるカトリーヌの下へ、ガシャンガシャンとうるさい音を響かせて一人の騎士が駆け寄ってくる。
白い全身鎧と大仰な肩当てを日常的に着こなす男は、確か、アロイスと言ったか。ジェラルトを大層慕っておる騎士の男だ。ベレトにもよく絡んでくるからわしも知っとるぞ。
「アロイスさんも大変だな。あんたの隊の新人、よく逃げてないか?」
「いやあ、面目ない。団長直伝の訓練を試すと決まってこうなってしまってな。私が上手く手綱を握れないばかりに貴女方にも面倒をかけて申し訳ない」
「これくらいなんてことないよ。同じ騎士団だ、仲間のことは他人事じゃない」
「アロイス隊長、勘弁してください! 俺はセイロス騎士団に入ったんであって、拷問の実験体になったんじゃないですよ!」
「こらこら、そんな風に言うものではないぞ。団長直々のマッサージを受けられるなんて名誉なことではないか。私が代わりに受けたいくらいだ」
「あんたの目と耳と感性どうなってんの!? あの惨劇見といて出てくる言葉がそれか!? どんだけ【壊刃】贔屓だよこのスカポンタン!?」
「はっはっは、何と言われようと私の団長への敬意は揺らぐことはない! しかし当の団長はもう次の隊の訓練を見に行ってしまったので、今から戻ってもマッサージは受けられんな」
「あれ、もう行っちまったか。時間かけ過ぎたな、悪い」
「いやいや、カトリーヌ殿が気になさることでは」
「た、助かった……」
「そういうわけで、この者のマッサージは私が担当しよう」
「……へ?」
「なんだ、ジェラルトさんから教わったのか?」
「うむ。拙いながらも実践できるだけの知識は身を以て得られたのでな。今後は団長の手を煩わせることなく私の手で部下を労えるというわけだ」
「悪魔が増えたーーー!!」
「悪魔と言えば、先生の異名も悪魔だったのだな」
「ああ、ベレトのだろ。【灰色の悪魔】だっけ」
「同じく団長の教えを受けた者として、私も悪魔という異名を名乗ってみようか……この白い鎧に因んで、セイロス騎士団の白い悪魔、など如何かな?」
「朗らかに悪魔を名乗るなー!」
「おいおい、セイロス教のあんたが悪魔を名乗っていいのかよ。レア様は寛大だから何も言わないかもしれないけど、セテスなんかはあんまり良い顔しなさそうだぜ」
「だははは! 確かにセテス殿から叱られてしまいそうだな。少々惜しいがこの案は見送ろう」
「そうしときな。じゃあ戻ろうぜ」
「た、助けて! シャミアさん、助けてください!」
「諦めろ」
「ばっさり!?」
「苦しい訓練は早めに乗り越えておけ。その経験がお前を強くする」
「苦行の経験じゃ強くなれませんよね!?」
「おい、いつまでもうるせえぞ。今は学校も授業中だし迷惑だろうが」
「案ずるでない。そなたの疲れはこのアロイスがしっかり癒してやろう。団長直伝の技をたっぷり堪能しておくれ」
「戻るぞ。次の訓練に遅れる」
「いやだ~……だれか、たすけて~……」
目の前で行われた寸劇のようなやり取りを見送る。わしのことが見えておらぬから仕方ないにしても……酷い場面を見てしまった気がするわい。
あの若者も苦労してそうじゃが、ささやかに応援してやろう。立ち上がらせないまま引きずられていく姿に向けて合掌する。強く生きるのじゃぞ。
ううむ、強烈なものを見てしまったのう。
何か、こう、口直しみたいな、落ち着けるものが欲しいと言うか……
べ、ベレト~、おぬしの声を聞かせておくれ~。
で、これは一体どういう状況じゃ。
「じゃあ今日も頼む」
「ええ、よろしくお願いします」
昼休みの時分になってベレトとの繋がりを辿って探してみれば、修道院の上層にある庭園に立つ二人を見つけることができた。
じゃがどうにも不可解な様子。軽く握った拳を構えるベレトと、それに相対して開いた掌を構えるレア。どちらも明らかに戦う姿勢ではないか。
【おぬしおぬし、何をやっておる】
(ソティス、戻ったのか)
【レアと向かい合って、何があった】
(彼女の運動不足解消、そして俺の格闘研修。少し前からやってる)
【前者は分かるが、おぬしを指導すると? 研修するのは信仰ではなかったのか?】
(本気を出した実力は知らないけど、この人たぶん素手なら俺より強い)
【……真か?】
「散漫ですよベレト」
わしに応えるベレトの隙を突いてレアが接近する。いつものひらひらした大司教の恰好とは違い、頭の冠などの装飾を外して身軽な服装になったレアの動きは驚くほど素早かった。
反射的にベレトが突き出す拳を、開いた手の甲で優しく流すと同時に出した逆の手を腹部に伸ばす。その手を払ったベレトは腕を引くより蹴りを繰り出した。
するとレアは前振りなく開脚して、しゃがむのではなく体をその場で落として回避する。そのままベレトの軸足を軽く叩く余裕すら見せた。
蹴り足を戻すついでにベレトが踏もうとしても、レアは分かっているかのように体を捻ってかわす。捻る勢いのまま側転で立つと、戦っているというのにいつもの柔らかい微笑みでベレトと向き直った。
そこからベレトが格闘術で攻める高速の動きにも、レアはくるくると円を描くような軽やかな動きで捌いていく。大きく動いてはおらん。最小限の動きだけで対処しとるから、速く動くベレトと比較して余裕を感じられる。
……驚きじゃな。わしは戦いに関しては詳しくないが、それでもベレトがそんじょそこらの輩が束になっても敵わないほど腕が達者だと知っておる。そのベレトを相手にしてこうも余裕を見せられるとは。
「ほらベレト、また力んでますよ」
「ん、ああ」
レアから声をかけられたベレトは一旦距離を取って構えを解いた。
そこで一度深呼吸をする。手首をぷらぷらさせると、肩の緊張を抜くためか何度かその場で跳躍して、敢えて構えることなく前に出た。
そして始まったのは、先ほどまでの追いかけるような組手ではなく、一対の舞。
レアの動き方を真似をして、ベレトはいつもの直線的な戦い方ではなく、円運動を意識した動きを見せる。手足を回らせて相手を翻弄するような動きじゃ。
対するレアはお手本を見せるように殊更くるくる回ってみせる。恐らくベレトに合わせるためにわざと動きを抑えておるのだろうな。
互いが互いだけを見て、相手にのみ集中しておる。
レアは仕方ないにしても、ベレトのやつめ、折角やってきたわしのことをほったらかしにしおってからに。
ただ、まあ……なんじゃ。気に食わぬ、とかそういう感情は沸いてこぬな。今はこの二人の好きにさせてやろうという気分になる。
真面目な性格のベレトは生徒相手に授業する時も真剣に向き合うし、こうして自身が学ぶ時にも真剣に臨む。それを邪魔し過ぎるのは困らせるじゃろう。
わしは生徒のような童ではない。それくらいは自重できる。
そして何より、レアの表情。
生き生きとしていると評する程度ではない。まるで喜びの絶頂、こんなにも嬉しいことはないと言わんばかりの笑顔で踊っておる。
ベレトとの武闘はいつの間にか舞踊のようになっており、互いを見つめ合い、一挙手一投足に呼吸を合わせてくるくると回る。
……何とも幸せそうよの。
いつもの威厳と慈悲を備える大司教はここにはおらん。
わしが今見ているのは、ベレトと仲睦まじく触れ合う、レアという一人の女か。
歳は知らんが、まるで少女のようにあどけない顔をしておるわい。
こういう姿を見ると見守りたくなるのはどうしてなのか。
つくづくこの女のことは分からんわ。
そのまま止まらず時は過ぎ、昼休みの終わりを告げる鐘の音を契機にして二人はようやく舞を止めた。示し合わせたように元の立ち位置に戻り、両手を合わせて一礼する。
「見事でしたよベレト。随分と様になってきましたね」
「集中しないとまだ元に戻ってしまう」
「今までの型を崩して新しいものを組み込むのです。相応の苦労はありましょう。ですが貴方はとても熱心に取り組んでくれています。この調子ならそう遠くない内に修められるでしょうね」
「レアの戦い方は見たことがない。何かの秘伝なのか?」
「そう、ですね……大司教の座に就く者に伝えられてきた武術、とでも思ってください。私のこれも教わったものです」
「そんなものを俺が教わっていいのか」
「もちろんです。私の判断で教えているのですから。それに貴方にとって、いずれ必要になるもののはずですよ」
レアの言葉にベレトは首を傾げておるが、相手はニコニコと微笑むばかり。こやつの成長がよほど喜ばしいのか、単純に一緒に居られて嬉しいのか。
じゃがボーっとしてはおれんぞ。昼休みが終われば午後の授業が始まるであろう。先ほどの鐘は予鈴じゃ。すぐにでも向かわねばなるまい。
【これおぬし、午後の授業は訓練所でやるのであろ? 急がねば遅れるぞ】
(そうだな。すぐに行かないと)
わしの声掛けに頷くとベレトは身を翻した。向かう先は階段、ではなく庭園の縁。
「今日もありがとうレア。また頼む」
「ええ、待っていますよベレ、ト!? どこに行くのです、そちらは!」
焦りに声を上げるレアに振り返らず、ベレトは勢いのままに軽々と手すりを飛び越えて宙に身を躍らせた。
慌てて縁に駆け寄り、手すりから見下ろすレアの心境は分からないでもない。わしが急かしたとは言え、普通なら階段に向かうはずなのにのう。
飛び降りたベレトは身を捻ると、修道院の壁の装飾に手を掛け、または足を掛け、壁の凹凸を利用して減速と跳躍を繰り返しながらみるみる遠ざかっていった。
レアと一緒にいたこの庭園がある三階から、二階の図書室のある辺りの屋根を駆け抜けて縁から飛び降りると、今度は大広間横の出入り口から伸びる道を一気に走り去っていってしまったのじゃ。
やれやれ……横着な奴め。
ジェラルト傭兵団の者共は木登りも崖登りもお手の物で、ベレトも同じことが得意なのは知っておるが、見慣れぬ者からすれば投身自殺に見えかねんことを平然とするでないわ。
どうせ修道院の中を通るより、目的地まで文字通り真っ直ぐ行ける道筋の方が早いから、としか考えておらんのだろう。人波をかき分けたり、廊下を走ったりしているところを見つかったらセテスに説教されそうだからな。
呆然と見送ったレアも、規律を保たねばならぬ立場としてベレトを注意するのではないか?
「まあまあ、ベレトったら……あんなに急いでしまって……授業が迫っていることを私も失念していましたね。夢中になって引き止めてしまいましたか」
……なんじゃ? わしが想像したのとはかなり反応が違うぞ。
大司教として、もっと、こう……変なことするな、とか怒るところではないのか?
「奔放な振る舞いはお母様に似ていますね……」
むしろ微笑みを浮かべて嬉しそうに呟きよる。それでよいのか。器が大きいと言ってよいものかのう。
しかし、こやつがたまに言う『お母様』とは誰のことを言っておるのじゃ?
ベレトの母親のことは把握しておる。以前、修道院の地下にあやつが一人で迷い込んだ時のことじゃ。あれやこれやがあった末に、死んだ母親を蘇らせようとした企みを阻んだことがあってな。
その時にチラリと見たが……名はシトリーと言うたか。あれのことか?
レアは生前のシトリーと懇意にしていたらしいからその面影をベレトに重ねていると? いや、何となくじゃが、それとは違う気がする。確かジェラルトが、母親は穏やかな性格だと言っておったし……
むむう、やはりこの女はよく分からぬのう。
予定が変わってレトエデ要素薄めになって、ついでにレトレアの気配まで入ってしまいました。多少はね、多少は。支援S候補の一人だというのに何もないのは勿体ない。
まあこの小説はレトエデなんですけどね! そこんとこ揺るがないんでよろしく!
後編へ続く。
作者の活動報告に載せた後書き