1986年と2024年をタイムス
リップで行き来する中学教師
が、世相の違う時代の社会で
人としての大切な事は何かを
両時代の人に訴える。
ライトタッチながらも、深い。
思わず目頭が熱くなる。
途中おちゃらけミュージカル
もあるが、基本はシリアスで
悲しく切ない物語だ。
1986年1月時点で25才だった
私にはタイムリーに経験した
事が本作品で描かれる1986年
の人間模様であるので心が
揺さぶられた。
また、現代の2024年の人々の
心の冷たさ、際限の無い陰湿
さも正確に克明に描かれてい
る。
本作テーマに肉迫するシーン
では涙腺が緩む。
宮藤官九郎、天才。
そして、俳優陣たちの熱演と
演技力が極めて冴える作。
特に主人公小川市郎(阿部サ
ダヲ)の娘の小川純子役の河
合優実が最高に良い。
原田知世さんと上戸彩さんと
石原さとみさんが合体して降
臨したような感じ。
演技もぴか一だった。
さすがは賞を総なめの実力派
女優だ。
これは名作。
ただ、作品の中では時代考証
が甘い部分もある。
1986年から2024年に行って、
また1986年に戻って来たツッ
パリ娘の小川純子は、髪を
切り、真面目になって大学進
学しようと勉強を頑張る。
そして、教師との三者面談で
偏差値30から61に上がった
純子は父にほめてもらおうと
する。
だが、父はすでに純子の未来
を知っていたので大学には行
かないでほしいと言い出す。
この時、高校の教師が見せた
模試結果は偏差値61で評価A
だった。現役で充分(青学を)
狙えると教師は言う。
現実にはこれはあり得ない。
1986年当時は今のように青学
の入試難易度が高くはなかった
とはいえ、偏差値61で合格と
いうのは無かったからだ。
受験勉強をする純子の部屋に
「めざせ!偏差値60!」という
張り紙があったのも違和感が
ある。
偏差値はシグマ計算によるも
ので平均値ではあるのだが、
偏差値60というのは感覚でい
うとだいたい真ん中あたりの
感覚がある。ごく普通。つま
り偏差値数値で60(偏差値は
計算上35~80)あたりが数値
での偏差値50の平均真ん中と
いう実勢感覚がある。
そして、女子高生同士の会話
にも上智と青学とどちらに進
むかという話が出て来るが、
偏差値61で上智や青学に受か
る事は当時無い。
(上智と青学を同列に語るの
も現実離れしている。上智は
学科によって早慶よりも難易
な科もあった。早稲田の商学
部や教育学部よりも上智の
学科で入試難易度が高い科は
結構あった)
偏差値60は実勢では真ん中の
平均凡庸な中間あたりであった
ので、脚本を書いたクドカン
の感覚は、現実とはややずれ
ている。
勉強できなかった子が頑張っ
て成績が上昇したという描写
なのだが、せめて「めざせ
偏差値70」とかあたりでな
いと、1986年当時も難関大学
受験としては勝負にならない。
まして上智(青学は最初は第一
志望。展開からして、のちに
多分青学は滑り止め)あたりを
目指すのならば。
まだMARCHという中堅校の
括りが存在しない時代であっ
ても上智は早慶並びの位置に
あった。つまり、東京の大学
では大雑把に東大-慶應-早稲田-
上智という並びだった。
そして実態としては慶應ボーイ
たちは訊かれもしないのに「私
は慶應だけど」と言い出す人
たちが何故だか異様に多く、
陸の王者の義塾生は早稲田を
ライバルとしつつも自分らよ
り格下と見下す視点を一様に
持っていた。
早大生のほうはそうした慶應
の連中の視点を知悉しながら
むき出しの対抗心などは持た
ずに達観(ある意味慶應を相
手にはしていない視点)して
いた。早慶戦は早慶戦であり、
慶早戦ではない、これが現実
だ、と。慶應がいきって何か
言ってる、という程度で。
受験に関するシーンのみリア
リティがないが、それは「頑
張れば伸びる」という真実を
まだ忘れていなかった時代の
描写として捉えたほうがよい
だろう。細かいリアリズムを
求めるよりも。
そもそもがSFファンタジー
であり、コメディであり、
シリアスな人間ドラマだ。
総じて1986年よりも2024年の
人間のほうがはるかに冷酷で
残忍である事も現実社会の膿
として真正面から描かれてい
る。
脚本家クドカンに手抜かりは
無い。
純子も父市郎もその周囲の者
たちもタイムマシンで1986年
の過去と2024年の未来を行き
来するが、その途中の年代の
1995年に未曾有の出来事で純
子と市郎は実際の歴史では死
んでしまう。
その事は、純子だけが知らない。
娘純子と父市郎は1986年から
あと9年だけしか生きられない
という歴史の運命を市郎は未来
の2024年にタイムワープする
事で知ってしまう。
父市郎は、純子の大学合格や
女子大生芸能人になって人気
が出る事や結婚や出産という幸
せな未来を知ったので、その
最期は純子には教えなかった。
主人公はあくまで父小川市郎
だが、本当のこの物語のテーマ
は娘純子の目線で人間の在り方
と大切な事が語られる。
父市郎は、娘の存在によって
過去も未来も変わらぬ人間の
大切さに気付き、行動して行く。
本作、名作。
亡くなってしまう運命の親子
二人が主人公として社会を見
つめて行くという作品だ。
1986年は乱暴な時代ではあった
が、人間の冷酷さ、自己中心さ、
残虐さは2024年にはごく普通の
事として蔓延していた。
それもきちんと描かれている。
コンプライアンスという暴力
によって苦しみ傷つく人がいる
事も。
2024年の「晒上げ」風潮によっ
て人が笑っている事に1986年か
ら来た純子は心の芯から激昂する。
だが、2024年にも良い事もある
というのを、過去と未来を往復
した純子は俯瞰視できる成長を
するのだった。
だが運命は、過去に戻った純子
に2024年を見せる事はしないの
だ。
この悲しさ。
本作は、死者が死する前の時間
とあり得ない未来を見る事で物
語のストーリーが展開され、そ
の体験をする主体存在を主人公
にした作だ。
タイムトラベル物の作品は映画
やドラマ、小説等にも多いが、
本作品は異色の作。
タイムパラドックスにおいても、
登場人物は過去の幼く若い自分
と出会って自分が過去の自分
と会話したりするシーンを多く
盛り込む。
だが、主人公の親子二人のみは
自分とは出会わない。自分の
孫と未来で出会いはしても。
2024年には親子二人は真の
歴史では存在していない。
だから、2024年から1986年に
戻るタイムワープしても、未
来にまた行っても、2024年
では自分には出会わないのだ。
2024年にはいない人なので。
他の人たちは老け込んだ存在
として1986年の38年後とし
て2024年に登場したりするが、
親子二人のみは常に1986年の
ままなのだ。過去の自分とも
未来の自分とも出会わない。
過去である1986年では自分ら
は現実の存在であるので当然
自分には出会わない。2024年
では自分たち二人は存在しな
い時代なので未来の自分にも
出会わない。
作品は「無い」存在として、
別な自分たちは登場させない。
だが、それは説明的に描写さ
れるシーンはない。
ここにも悲劇的未来の伏線が
「映さない表現」として描か
れている。
一つだけある。
未来に行ってデジカメでひと時
の思い出を撮影した純子は、過
去の1986年の自分の時代に戻り、
未来から来た居候中学生に「楽
しかった」と写真を見せようと
する。
だが、過去においては2024年に
撮影した画像は全て消去されて
しまっているのだ。
純子は操作ミスで消してしまっ
たと思い込んだが、実はこれは
歴史が不存在を存在として過去
に現出させる事は許さない、と
いう恐ろしさを表現している。
2024年には純子も父の市郎も
現実にはいないのだ。
ほんの一瞬の場面だが、クド
カンの技法とプロットが光る。
この美容師のゆとり世代のチャ
ラ男は2024年人らしく巧みに
純子を誘ってデートするが、
ある騒動となった時、自分だけ
はとっとと無関係者を装って逃
げる事をする。
2024年人らしい行動だ。
純子は警察官の腕に嚙みついて
まで抵抗し、逮捕されて留置場
に入れられてしまう。
2024年人と1986年人の人間的
質の違いがもろに描かれている。
純子は1968年生まれであり、
1986年1月時点では17才の高2
の女子高生だが、この美容師
の男は1986年時点では生まれ
ていない。
1986年人と2024年人は、社会
全体でまるで別な種族のよう
に人間性が異なる事も本作では
きちんと描かれている。
たまたま偶然、1986年1月時点
で25才で、2024年1月時点では
63才の私は両時代を現実に体験
する事ができた。
このクドカンの作品で描かれた
両時代の人間たちの質の違いは
現実に存在する。まるで別物。
だが、本当は同じ人間、同じ
日本人であるので、別物という
のはおかしい事なのだ。
人が人を差別したり、あるいは
集団的いじめ等で人を傷つけて
よい訳はないので。
そうした事は時代を凌駕する。
2024年の現代は「正義を装った
暴力」が蔓延している。それと
陰湿な排除排外意識と言動。
本作ではそうした社会問題も
登場人物の体験として描写し
ている。
1986年も2024年も、湘南の海
と太陽は変わらない。
変わったのは人間たちが変容し
たのだ。
このチャラ男にとっては、この
海はありきたりの今の風景だが、
純子にとってはあまりにも変わ
った未来を見続けたあとに見た、
「変わらない未来」に触れて感
動した瞬間でもあった。
だが、自分の未来は2024年には
無い事を純子は知らない。