今年の対抗戦は快晴の下、多くの生徒や教会関係者が見守る中執り行われようとしていた。
「選手入場!
審判として呼ばれたジェラルトの力強い声が響き、名を呼ばれたディミトリが最初に戦場となる平野へ立ち入った。同級の生徒達からの応援の声に手を振って応えながら指定の位置まで小走りに駆けていく。
彼に続くように青獅子の学級の生徒の名前が呼ばれ、順番に姿を現す。
「ドゥドゥー=モリナロ! アッシュ=デュラン! メルセデス=フォン=マルトリッツ!」
普段と変わらず寡黙そのものの顔付きのドゥドゥー。
仄かな緊張を滲ませつつ会釈して入場するアッシュ。
にこにこ顔で優雅に一礼してから続くメルセデス。
青獅子の学級から対抗戦に参加するのはこの四人の生徒と、
「担任、ハンネマン=フォン=エッサー!」
学級担任を務めるハンネマンである。今日も口ひげが決まっております。
五人は開始位置として指示された平野の北東にある陣地を目指し、速足で向かう。気分は程よく高揚しており、全員の士気は高い。それでいて雑談する平常心もあった。
「良い日和だ。視界は良好、障害物も少なく、地力が表れやすい。俺達にとって比較的有利な条件で戦えるな。存分に戦おうみんな」
「殿下が思う存分に戦ったら綺麗な平地が穴ぼこだらけになっちゃいそうですね」
気合も露わに張り切るディミトリに対して、一歩間違えれば不敬に取られかねないことを笑いながら言うアッシュ。
だがこの程度で腹を立てるような者はこの場にはいない。言われたディミトリも含めて全員が和やかに笑うくらい、青獅子の学級では王子の怪力を素にしたジョークは定番だった。
ちなみに怪力自体はジョークでもなんでもなく真実である。ゴリラとか考えた人、黙ってなさい。
「
続いて呼ばれて姿を現すのは金鹿の学級の代表メンバー。
先頭のクロードは歯を光らせるにこやかな笑みをたたえ、場にそぐわない陽気さで入場を果たした。
「ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリル! ローレンツ=ヘルマン=グロスタール! イグナーツ=ヴィクター!」
ヒルダはある意味クロード以上に陽気な様子で、スキップしながらの登場。
そんな彼女をせっつきながら堂々とした態度でローレンツが現れる。
その後ろから級友達がいる方に向けてペコペコと頭を下げるイグナーツが続いた。
「担任、マヌエラ=カザグランダ!」
そして担任教師であるマヌエラが現れる。彼女も声援に投げキッスで応えるあたり余裕そうだ。
金鹿の学級が指示された陣地は平野の北西。そこへ向かう道すがら、ふと眉を顰めるクロードを見てヒルダが尋ねる。
「どうしたのクロード君、何か気になるものあった?」
「気になると言うか……なんか
クロードが指差した平野が見渡せる坂の上、出場しない生徒達が見学するために待機する場所で、そこに固まる黒鷲の学級の面々が不思議と大人しい。入場に合わせて拍手したり声援を送ったりする他の学級と比べて明らかに元気がない。
見た印象が間違っていなければ、あれはむしろ沈痛とでも言うべきか……?
とは言え気になるだけで今さら聞きに行くわけにもいかず、遅れかけたところをマヌエラに呼ばれてヒルダは慌てて陣地に向かうのだった。
「黒鷲の学級より、エーデルガルト=フォン=フレスベルグ!」
最後に呼ばれたのは黒鷲の学級の代表メンバー。先頭に立つエーデルガルトだが、その姿を見て彼女を知る者達は不思議に思う。
普段の自信を滲ませる優雅な笑みがない。しかし悲壮感は微塵もなく、絶勝の決意をもってこの場に臨んでいると感じられる気迫に満ちていた。
「ヒューベルト=フォン=ベストラ! フェルディナント=フォン=エーギル!」
続く二人も似たようなもので、ヒューベルトはその鋭い目つきをいつも以上に険しくして、フェルディナントは日頃の快活な笑みを納めて張り詰めた表情で前を見据えている。
他の学級と比べて緊張し過ぎではないだろうか? そんな風に考える者も多い中、ジェラルトの声が響き──
「ベルナデッタ=フォン=ヴァーリ!」
──その名が呼ばれ、姿を現した少女を見て、誰もが驚愕した。
青褪めた顔。縮こまった肩。曲がった背。おっかなびっくりを通り越して千鳥足の歩き方。緊張の極致にいるのが丸分かりのその様子は、彼女が望んでここにいるわけではないと万人が察せられるものだった。
はあ!?嘘だろ!?おいおい夢だろこんなの!え誰。見たことないんだけどあんな子いた?引き籠りだよ。貴族のくせにほとんど授業に出ないやつ。そんなのがいるのこの学校?いるんだわこれが。通称穴熊。待って今にも吐きそうなんですけどあの子!助けてやれよ!というかあんなん対抗戦に出すの?何考えてんだよあそこの教師!黒鷲の学級は勝負を捨てたか!?
散々な言われようだが反論する者はいない。見学位置にいる黒鷲の学級の生徒ですらフォローすることなく、不安気に見守るのみだった。
「担任、ベレト=アイスナー!」
最後に担任であるベレトの名が呼ばれる。ただでさえ注目の的である新任教師は、今では興味に加えて少なくない戦慄の視線を向けられていた。
先を歩くベルナデッタに追いついてその背中を軽く叩くと「ぴぃ!!」と悲鳴を上げられ、飛び上がる彼女を宥めると手を繋いで走り出す。
その顔は他の四人と違い普段通りの無表情。空気を読んでいないのかわざとやっているのか、憎らしいほどの平常運転で四人と連れ立ち、指示された陣地がある平野の南へ向かっていった。
その後ろ姿を見やり、物見櫓に立つジェラルトは目を細める。自分の息子とその担当学級の最初の晴れ舞台。それを特等席で見れる審判を任されたのは幸運なのだろう。
「さて、ベレトのやつ……今回はどんな愉快な作戦立てやがった?」
彼の力を誰よりも知る身として、ジェラルトは楽しみで仕方がなかった。
* * *
時は少しばかり遡る。
場所はガルグ=マク大修道院内、黒鷲の学級の教室。戦いを三時間後に控えたミーティングの場にて。
学級対抗の模擬戦──多くの者が縮めて対抗戦と呼ぶ──とは、年度初めに三つの学級から選出された代表が修道院近くの平野で三つ巴の合戦を行う、学校行事の中で最初の催しである。
代表選手となるのは各学級から五人ずつ。
一人は担任教師。
一人は級長。
この二人は枠が確定していてそれ以外に三人。
勝利条件は他学級の生徒を一人残らず敗走させること。
自学級に一人でも残っていれば敗北にはならないこと。
審判が相応のダメージを認めて脱落を宣言した生徒は死亡扱いとされ、それ以上の行動は認められないこと。
数は少なくとも、行われるのは合戦。作戦を立て、生徒の力を存分に発揮して勝利を目指すそれは、規模こそ小さくとも紛れもなく戦争。
さすがに人命を損なうような行為は厳禁とされるが、それくらいの気迫をもって臨むべき行事である。
以上の解説を教壇に立つベレトがしているのだが、なんのことはない、数日前にセテスから聞いたことのほぼ受け売りだ。生徒達と認識の齟齬がないか確認するためでもある。
「なんか聞いた話より少ないな」
「代表の数が?」
「ああ、親父がやった時は八人だったって。年によって変えてるのか」
「どっちでもいいよ、選ばれなければ同じこと」
「そうか? 選ばれなくても応援しようぜ」
「カスパルはすればいいよ。こんなに良い天気なんだから僕は昼寝したい……」
眠たげなリンハルトはさて置き、生徒達の間に漂う空気も緊張を帯びている。
公平を期するために代表となる生徒が誰になるか事前に知らされておらず、ここで発表と作戦会議を行って、正午の鐘を合図にして対抗戦は始められる。限られた時間を使ってどこまで準備できるか、というのも戦いの内なのだ。
「それじゃあ対抗戦に出すメンバーを発表する。呼ばれた生徒は前に出てきて」
教室を見渡すベレトに対して、我こそはと顔を向ける者、どうせ自分は選ばれないだろうから応援しようと気楽に見上げる者、すんません勘弁してくださいと目を背ける者、様々な思惑が向けられる中、黒鷲の学級の代表メンバー発表の時間が来た。
「一人目はエーデルガルト」
最初に挙がった名は級長であるエーデルガルトのもの。颯爽と教室前方のスペースに向かう、かと思われたが彼女はまず疑問を口にした。
「
「なんだ?」
「私は黒鷲の学級の級長だから、対抗戦に出ることは決まっているのだけれど」
そう。先ほどの説明にもあったように、各学級から選ばれる五人の中には級長の枠が確定されている。エーデルガルトが出るのは必然では……と同じように考えていた生徒達に向かって、ベレトはあっけらかんと言う。
「エーデルガルトより相応しい子がいれば級長を変わって出てもらおうと思ったけど、その必要がないからそのまま出てもらう」
──教室から音が消えた。
「……先生、級長を変えるにしても、そんな急に変えられるものではありませんよ」
「そうなのか?」
固まる一同の中、ヒューベルトが入れた捕捉を聞いて、それは知らなかったなと暢気に独り言ちるベレトだが、エーデルガルトは何も反応できずにいた。
ベレトの爆弾発言によってこの教室の中で最も衝撃を受けた生徒は間違いなくエーデルガルトである。
(まさかこの私が……立場に甘んじていただなんて!)
級長は対抗戦に必ず出る。だが級長がエーデルガルトである必要はない。
たしかに彼女はフレスベルグの名を継ぐ者であり、次期皇帝として帝国屈指の要人ではあるが、その成績や能力、生活態度など現時点での在り様が士官学校の級長として相応しいからこそ今のポジションに就いているに過ぎない。
出自、階級、性別などに関係なく、より相応しい能力を持つ者に役目を任せる。
対抗戦に級長の枠が確定しているなら、その戦いに相応しい者に枠を任せる。
勝利を目指すなら、それこそが正当な判断ではないか。
だと言うのに、自分は何を考えていた? 級長だから出ることは決まっている?
愚かな。そんな考え方、貴族だというだけで平民から敬われて当たり前、紋章を持つ者こそ取り立てられて然るべき、そういった思考停止と何が違う。
肩書きに胡坐をかく──それは彼女が目指す未来を思えば、怠慢以外の何物でもない。よりにもよってそんな愚行を自らが犯していたのか。
「……師、ありがとう」
「?」
唐突に礼を口にしたエーデルガルトに首を傾げるベレトだが、意味が通じなくてもいい。
気付かせてくれたことへの感謝を。気付けたからには改めてみせるという決意を。そして、級長や皇女という立場ではなく純粋に能力を評価した上で自身を選んでくれたことへの誇りを込めて。
エーデルガルトは力強い笑みを浮かべて前へ出た。
それにしても、皇族に向けて気負うことなく現実的な意見をぶつけられる、その稀有な素養も魅力的だ。やはり彼のような人間は帝国に招きたい……
教壇近くのスペースに立ってベレトを見上げながら思案するエーデルガルトを他所に、続けて代表の名前が呼ばれる。
「二人目はヒューベルト」
「私ですか……エーデルガルト様のためにも力を尽くしましょう」
次いで選ばれたのはヒューベルト。エーデルガルトの従者であり、闇魔法の使い手として優秀な成績を修める青年だ。
エーデルガルトと共に参戦すると知り、静かに気を引き締める。顔怖い。
「三人目はフェルディナント」
「よくぞ私を選んでくれた! 必ずや先生の期待に応えてみせよう!」
次に呼ばれたのはフェルディナント。常に貴族たれと己を律し、級長に次ぐ成績優秀者の青年である。
何かと貴族としての拘りをちらつかせるところは玉に瑕だが、それも彼の誇り故。
ここまで呼ばれた三人はいずれも高い実力を持ち、代表とするに相応しい面子である。このレベルの人間でなければ代表足りえないと納得できたので、選ばれなかった者達も素直に認められた。
だからこそ──
「四人目はベルナデッタ」
──その名が呼ばれた時、先ほど以上の沈黙が場を支配した。
「で、五人目が俺ね。じゃあみんな、がんばろー」
どこかスッキリした雰囲気のベレトが気の抜けた声で言うが、生徒達はそれどころではない。
「……あ、あの、せんs」
「どぅええあぁええええ!?!?!? 無理です無理です無理無理無理無理!!! ベルが代表だなんて無理ですって!! 嘘でしょ嘘でしょ嘘ですよね嘘なんですよね!? 嘘だと言ってくださいお願いします嘘だと言ってくださいベルを切り捨ててください先生いいい!!!」
エーデルガルトが呼びかけようとした時、教室の隅から怒声ならぬ奇声が上がり、飛び出した一人の少女がベレトに縋り付く。
が、しかし。
「嘘じゃない、今回の作戦にはベルナデッタの力が必要だ」
「いいいやああぁああぁぁあ!!! 無ううう理いいい!!」
迫られても無表情でベレトは即答。少女は悲痛な叫びを上げて悶えるばかりであった。
彼女の名はベルナデッタ=フォン=ヴァーリ。黒鷲の学級が抱える問題児の一人であり……誰もが知る劣等生である。
士官学校に来ておきながら引き籠りを敢行し、授業への出席すらままならず、野外訓練はボイコットし、様々な方面で低成績を叩き出すという、君なんでここに来てるの?と多くの者が疑問に思ってしまう生徒なのだ。
自己評価は極めて低く、事ある毎に己を卑下し、誰に対してもビクつく臆病者。
入学早々に何故か深夜の厩舎に迷い込み、馬の大きさに驚いて上げた奇声で騎士団用に鍛えられた馬さえも怯えさせて、何頭も脱走する大騒ぎを起こした事件は修道院では有名だ。
そのベルナデッタが対抗戦の代表メンバー? 血迷ったのかこの新任教師は?
もはや隠そうともしない非難の視線がベレトに殺到するが、本人は視線に気付いてないのか、見るに見かねたドロテアにあやされているベルナデッタを見つめている。
どーすんのこの空気……
とんでもないことをしてくれた教師を、先ほどの感謝もあってフォローするためにエーデルガルトが口を開くことで辛うじて場は動いた。
「ねえ師」
「ん?」
「先に師が考えた作戦を教えてくれないかしら? それが分からないと誰も納得できないわ」
「それもそうか……すまない、話す順番を間違えた」
頷いたベレトは教室を見渡し、自身に視線が集まっているのをこれ幸いと解説を始める。
「俺が考えたのは簡単に言うと、超速攻の制圧戦だ」
* * *
対抗戦開始の合図である正午の鐘が鳴り響く。
修道院にほど近い平野、その北西から出撃するクロード達金鹿の学級は二段構えに陣を張った。
陣地にマヌエラを残し、前衛にローレンツとイグナーツ、その中間にクロードとヒルダ。敵の進軍速度に対応しやすい防御重視の陣形だ。
まずクロードはちょうどいい位置にあった木に登り、手をかざして戦場を見渡す。対抗戦は始まったばかり。敵を動きを知りたい。
東の青獅子の学級の方は、さすがに陣地の様子は分からない。だが微かに青みがかかった灰色が動いているのが見える。あの髪の色はアッシュか。武装は見えないが、彼の性格を考えると恐らく弓。一人だけ出てきたのは斥候役? 他は本陣に控えているのか。
観察しつつ思考を働かせる。自身の最大の強みである
「クロード、お前の浅知恵など必要ない。僕とイグナーツ君で黒鷲の学級の出鼻を挫いてやる」
「ええ、僕!? まだ心の準備ができてないんですけど……」
ところが、自分が指示を出す前にローレンツが勝手に南に向かって前進を始めてしまった。釣られてイグナーツが渋々追従していく。
「やれやれ、向こうの先生を侮ってないか? 敵を甘く見ない方がいいと思うんだがな……」
溜息をつきたくなるが、あの様子では制止したところで戻るまい。
ローレンツが前から対抗心を持っているのは分かっていた。そういった私情を戦いの場にまで持ち込むとは思ってなかったが、それを見抜けなかった自分の不手際なのだろう。
仕方なく思いながら南の黒鷲の学級の方に目を向けて──絶句。
クロードの優れた視力は、とてつもない速さで突き進んでくる三つの人影を捉えていた。
「待て待て待て! たしかに正々堂々やろうとは言ったが、こんな正面突撃なんて考えてないぞ! 大胆にも程があるだろ!?」
彼らしからぬ大声で取り乱すがそれも無理もない。
ミーティングが始まる直前、ディミトリと連れ立ってベレトとエーデルガルトのところへ挨拶代わりの牽制をしに行ったのだ。言葉の応酬に併せて相手の態度や調子を探るのはよく使う手管で、その時に正々堂々戦うと宣言したりもした。
もちろん言葉通り正面からのぶつかり合いをするつもりはない。クロードとしては策や駆け引きなどを交えた頭脳戦を期待していたのだが、あれでは作戦も何もあったものではないだろう。
三人が一塊となって全力疾走する様はまるでやけっぱちの特攻のようだが、戦闘開始から初手にそんな暴挙を選ぶほどあの学級が愚かだとは思えない。だが今にもローレンツ達とぶつかりそうなほど近付いているのは、開始の鐘と同時に走り出したということか?
思考を深められたのはそこまで。慌てて槍を向けるローレンツに下に三人が辿り着き……素通りした。何も反応を見せず、まるで誰もいないかのように通り抜けてしまったのだ。
「はあああ!?」
「クロード君、何が見えてるの? 教えてよ~!」
下でヒルダが喚いているが気にしていられない。クロードの明晰な頭脳をもってしても理解の外にある動きに、彼にしては本当に珍しいことに軽くパニックに陥ってしまったのだ。
(速い! 速すぎるぞ先生!)
全速力でベレトを追いながらフェルディナントは声に出さずに胸中で叫ぶ。
足の速さには一角の自信はあった。恵まれた生まれに逞しく育った体で幼い頃から研鑽を怠らず鍛えてきた。武器を携行した状態でも素手と同じように動けるよう行軍の訓練も受けている。
なのにこれはどうしたことか。開始早々に陣地を飛び出すや否や、いきなり始まった高速移動に自分は追いすがるだけで精一杯だった。
前方のベレトはとてつもない速さで走っている。倒れそうなほど前傾姿勢で、訓練用の剣を片手に持つ腕は置き去りにするかのように後ろへ流し、時折後ろにいる自分達の様子を確認する余裕すら見せる。
明らかに抑えている。自分はほとんど全力疾走なのに、彼からすれば控えめな速さでしかないのか。
隣で走るエーデルガルトも自分と似たようなもの。普段はまるでバトンのように軽々と振り回す斧も、この三人の中では最も重い得物だ。槍を持つ自分ほどではないだろうが速度は出しにくいはず。
それでも彼女は不満など出さずにひたすら走っている。ベレトの指揮を信じて、彼の意思に応えるために。
始まったばかりなのにすでに息が上がり始めているが、弱音など吐いてたまるかとベレトの背を追いかける。微かに残る余裕を『彼の握りしめた左手に注視する』ことだけに傾けて。
………………
『開始と同時に俺達は三手に分かれる』
作戦を説明するにあたり、ベレトはまず教室備え付けの黒板に平野の地図を書き、矢印で自分達の動きを表現する。
南の陣地から動き出すところから矢印は三本、三つのチームに分かれて動くことを表していた。
暫定の呼び方だが、と断って名前を書き込んでいく。
中央を行くAチームはベレト、エーデルガルト、フェルディナント。
東から木立の中を通るBチームはヒューベルト。
西に進むと見せかけて中央から遅れて進むCチームはベルナデッタ。
『ベルは一人!? 置いてかないで先生ベルを一人にしないでください!』
『ベルナデッタは一人で行動するんだ』
『淡々と言い聞かせないでえええ!!』
『最初はやることないから、俺達のチームの後ろから隠れてついてくればいい』
『ついていきますずっとついていきますぅ!』
涙目で喚くベルナデッタを抑えつつ、ベレトは説明を続ける。
『Aチームが戦場中央を突破、出会う敵を片っ端から倒しながら、金鹿の学級と青獅子の学級の両方を釣り出す』
『でも師、二学級を同時に相手取ることになるわ。どちらかを集中して叩くべきではない?』
『どうせ全員と戦うことになる。向こうから近付いてくれるならありがたいくらいだ』
エーデルガルトの指摘を受けてベレトは望むところとばかりに頷く。
『さっき超速攻と言ったように、俺達は防御をあえて一切考えずに攻撃に全ての力を注ぐ。実際の軍事行動では極端過ぎてほぼありえないだろうけど、この対抗戦は軍のように何百人も動かさない。戦場には全部でたった十五人しかいないから、一人一人の行動で与える影響が普通の戦争よりずっと大きいんだ』
いつの間にか授業の時と同じように、教室中がベレトの言葉に聞き入るようになっていた。見知らぬ知識、見識を語るベレトに自然と注目が集まっていく。
『防御のために構えるとその分どうしても足が止まるだろう? 一人や二人ならまだしも、百人が足を止めたりしたら行軍の邪魔になる。今回のように人の数が少ない戦場だとそれと同じことが簡単に起こってしまう』
たった五人しかいない軍同士がぶつかるなら、攻撃に回れば回るほど有利なのだ。なにせ攻撃して倒してしまえば防御に力を割く必要がなくなるのだから。
『そして大事なのは、勝つために戦うなら必ず自分から動かなければいけないということ。何も考えず待ち受けたり次の攻撃に繋げられない防御はただの受け身だ。意味がない。攻撃的な防御はいい。受け身にはなるな』
『攻撃的な防御……』
誰かが繰り返し呟くのが聞こえる。
新鮮な言葉だった。相反する意味なのに不思議としっくり来る組み合わせだ。
『それと、この対抗戦でAチームは最初からずっと走り続けることになるからそのつもりで』
『最初から?』
『ああ、最初から最後まで、立ち止まることはまずないと思ってくれ』
『……体力が持つか心配にならないの?』
『短期決戦を目指すから問題ない。仮に長期戦になったとしてもどうにかする』
『……自信があるようね。いいわ、貴方に任せるのだから従いましょう』
エーデルガルトは納得したように頷いた。彼女が理解できたのを見て、ベレトは各チームの詳しい動きを解説していく。
その中でフェルディナントとしては一つ疑問に思うことがあった。
『それにしても先生、この地図の木立や草むらの形がやけに細かく描き込まれているが、こんなに都合よく隠れられるところがあるのかね?』
『ある。現地で直接確認してきた』
『何、先生が見てきたのか?』
『あの平野は立ち入り禁止でもないし、事前調査したらダメとも言われてない』
『……この一週間、我々の授業や訓練を見ていてくれたのに、そんな時間がいつあったのだね?』
『夜中。修道院のすぐ近くだったし、大して広くないから一時間で見回れた』
『……夜闇の中で調べられるものなのか?』
『斥候が戦地の調査をするのはむしろ夜間が定番だぞ。月明りもあったし敵もいないから楽なものだ』
『そういうものか……』
『そういうものだ。これ関係もいつか教えるよ』
………………
自ら率先して尽くす。寝る間も惜しんで備える。就いたばかりの役職であっても真摯に全うする。その在り方、まるで貴族のように誇り高いではないか。
立場は平民なれど、その姿勢には見習うところがある。見た目から察するに歳もそう違わない。そんな彼の姿勢に応えられないようでは貴族ではない!
走りながら考えたその時、注視していたベレトの手が急に開いた。
グーからパーへ。それが意味するのは──
エーデルガルトとほぼ同時に周囲を見回す。そして補足した目標へ、これも同時に突撃。
向かう先はイグナーツ。
「うわあ、僕ですか!?」
彼が慌てて身構えるがもう遅い。フェルディナントは槍を振りかざし、対抗戦最初の戦いを仕掛けた。
………………
『Aチームに覚えてほしいことは三つ。俺が近くにいる時は常に俺の左手の形に注意してくれ。
俺がこう、何も持っていない状態で手を握ってグーの形にした時、それは「他に何があっても無視して俺についてこい」という意味だ。走り回る間は俺の真後ろについて、誰かと戦ってる最中でも俺がグーを見せたら相手を放って俺と合流する。
そして俺が手を開いてパーにしたら、それは「今自分の一番近くにいる敵に向かって攻撃しろ」という合図だ。近くにいるのが一人しかいなければ二人で協力して戦って、倒せるなら倒してしまえ。
で、最後に指二本だけ立てたチョキの時は「その場で待機」の合図。たぶん使わないと思うけど一応覚えてくれ』
………………
「ええい、なんということだ! この僕を無視するとは!」
ローレンツは焦りながら踵を返した。大見得切って前に出た自分が、まさか横を素通りされるとは思わなかった。
見向きもされない屈辱に歯を食いしばるその視界では、イグナーツが二人がかりで襲われている。弓持ちの彼では接近戦は対応できない。早く助けに入らなくては──待て、あの傭兵はどこだ?
嫌な予感に従って振り向くと、ほぼ真横からベレトが突撃してくるのが見えた。
つい先ほど横を通り過ぎて、エーデルガルトとフェルディナントを先導してイグナーツの方に向かっていたのではないのか!? 何故お前がそんなところにいる!?
混乱する気持ちを必死に抑えつけて槍を構える。
「っ、来い傭兵!」
この時、ローレンツは間違いを犯した。
側面から高速で突撃してくる敵に対して、単独の身で足を止めて待ち構える。
それは悪手だった。
無言のまま振るわれた剣が槍を軽々と弾き飛ばし、返す一刀が胴体を横一閃。流れるような二連撃でローレンツは吹き飛ばされた。
ベレトの動きは止まらない。予め決めていたのか、弾かれてまだ宙にある槍を掴むと振り被って遠投。数十メートル離れた木立に飛び込むところが見えた。
「ローレンツ、脱落!」
そしてジェラルトの声が平野に響き、ローレンツの敗北を報せる。
戦いが始まってから僅か一分、最初の脱落者になってしまった。
「ちっ、この僕がこんなに早く負けるなんて……!」
腹立たしい、が認めなければなるまい。
油断したこと。敵を侮ったこと。戦場を舐めたこと。反省すべき点がありすぎる。
これは演習なのだ。生きていればこそそれらを持ち帰り次に活かさなければ。
見渡せば近くにベレトの姿はなかった。自分を倒した彼は立ち止まらず即座に動いたらしい。
屈辱感はもうない。隔絶した実力を思い知らされた上に武装解除までされた完敗に文句を付けられるほど厚顔ではなかった。むしろ勝利に向けて一直線に邁進する姿は尊敬に値するだろう。
「イグナーツ、脱落!」
程なくしてジェラルトの声が響き渡り、自分に続いてイグナーツの敗北を報せる。金鹿の学級は開始早々に戦力を大きく減らされる痛手を被ってしまった。
悔しいには悔しいが、敗者にこれ以上何かする権利はない。イグナーツと共に平野を出ることにして立ち上がる。
ふと首を巡らせると、エーデルガルトとフェルディナントの二人と合流したベレトが再び疾走するのが見えた。まさかあの高速移動をずっと続けるつもりか。
「見せてもらおうじゃないか、お前達の戦いを」
後の世でアドラステアの槍と謳われる帝国の必殺陣形【トライデント】。
その雛型がフォドラに現れたのは士官学校の対抗戦だと伝えられている。
「やってくれたね先生。これは本気でかからないとな……!」
立ち直ったクロードは気持ちを引き締める。
大胆な作戦はリスクが高い反面、ハマれば大きな戦果を叩き出す。そしてベレトは立てた作戦が無茶苦茶でも場にハメられるだけの実力があるのだ。悠長にしていたらあっという間に勝負は決まってしまう。
「ヒルダ、戻るぞ。陣地のマヌエラ先生と合流する」
「う、うん。ローレンツ君もイグナーツ君もやられちゃって、ヤバいね」
木から飛び降りて、ヒルダを連れて走り出す。陣地からの移動も考えるべきかもしれない。下手に陣地に籠って逃げ場を封鎖されてしまえばすぐに詰みだ。
見れば黒鷲の学級の三人は方向だけを変えて、速度は変えずに走り出している。あれだけの全力疾走をした直後にまた走るとは……兵は拙速を尊ぶとは言うものの、ここまで極端な作戦は聞いたことがない。
戦術とか戦略の問題ではない。これを考えたのがベレトなら、彼に見えている世界が根本的に自分達とは違うのではとすら思う。
向かっていくのは東。青獅子の学級がいる方角だ。
「二つの学級を同時に相手しようってのか? 大した自信だな」
努めて普段のような皮肉を口にするも、先ほどの彼らの勢いとその成果を見てしまった今となってはどこか空しく感じてしまう。
走り出す直前、ベレトはたしかにこちらを見ていた。冷静に敵を観察した上であの疾走と戦闘。この結果は彼にとって想定通りなのかもしれない。
まったく……えらい人を敵にしたものである。
アッシュは偵察兼囮役である。敵の動きを掴むのが務めであり、あわよくば敵の一部でも自陣近くまで誘い出せれば儲けものだと考えている。陣地から一人先行して平野中心部に進んだのはそのためだ。
軍勢の中での斥候という役の重要さは彼も理解しており、ミーティングで作戦を決めた時は役割を果たそうと奮起した。
その志は、今し方見た光景によって崩れようとしていた。
(なんなんだ今の戦いは!?)
視界が届くギリギリのところで繰り広げられた対抗戦最初の戦闘。あまりの内容に驚愕が抑えられない。
あれはもう戦闘とは呼べない。黒鷲の学級による蹂躙だ。
いくら三対二とは言え、ああも一方的な秒殺劇があるだろうか。
戦場は未経験だが、アッシュなりに実戦とはどのような戦いが行われるか想像したり、物語を参考に思いを馳せたりしたものである。
だから余計に圧倒された。誇り高い騎士の決闘とも華々しい合戦とも違う、こんな戦いがあるのかと。
そして三人は再び走り出す。向かう先は──東、こちらに来る。
「き、来た!」
いずれ戦わなければいけない相手だがどうしても浮き足立ってしまう。
しっかりしろ、何のために前に出た。自分は青獅子の学級の代表なのだ。
釣り出すという役割は果たせそうだが、あの速さだ、今から引き返したところで自分の足では振り切れない。殿下達の下へ戻れないなら情報も持ち帰れない。ならやるべきことは、少しでも攻撃して敵にダメージを与えておくことくらい。
幸いなことに自分の武器は弓。まだ距離がある内に先制攻撃はできる。
だから動け! 戦うためにここに来たんだ!
先頭のベレトに狙いを定めて構える。弓を引き絞り、矢を放つその瞬間。
ひょい、と。そんな表現ができるくらいに軽く、自然にベレトは回避した。真後ろを走る二人も追従して回避。
放たれた矢は何もいない空間を素通りした。
……今、何が起こった? 避けられた、それは分かる。だがそのタイミングがおかしくなかったか?
まだ間に合う。もう一度弓を引き、狙いを定めて矢を放つ。今度はもっと集中して、よく見て。
またも、ひょいと同じ方向に避けるベレト達。やはりおかしい。アッシュの矢が放たれるその瞬間にベレトは回避行動に入った。
気付いて戦慄する。ベレトは飛んでくる矢を避けたのではない。アッシュの攻撃の射線、拍子、狙いそのものを読んで避けているのだ。
(ダメだ! このまま彼に攻撃したところで命中率は0だ、僕ではあの人に当てられない!)
狙うべきはエーデルガルトかフェルディナントの方。後一息のところまで迫る彼らの側面を狙え、急げ!
道を開ける形になることへの抵抗を押し殺し、彼らが避けた方とは逆方向に距離を取る。背後には木立、背中を向けても問題ない。少しでも、せめて一度だけでもいいから攻撃しなくては──アッシュに考えられたのはそこまで。
ゾクリと凄まじいプレッシャーを感じたかと思った時には背後から極大の衝撃を受け、為す術もなく吹き飛ばされた。
転がる視界の端で闇色の残滓がちらついているのが見える。
(これは……魔法? そうだ、黒鷲の学級からはヒューベルトが……)
「アッシュ、脱落!」
自身の敗北を報せるジェラルトの声が聞こえたのを最後に、アッシュは意識を手放した。
「やれやれ、こうも上手くいくとハメられた気もしてきますな」
木立の陰に隠れながらヒューベルトは独り言ちる。
アッシュが察した通り、彼の背中に魔法を撃ったのはヒューベルトである。
対抗戦開始から単独で動き、平野の東にある木立に潜んで虎視眈々とチャンスを狙っていた。そして今し方、ベレト達の動きに注意するあまり他への警戒を完全に失ったアッシュの隙を逃さず、最高のタイミングで魔法を叩き込んだのである。
ミーティングでのことを思い出す。エーデルガルトより誰かが級長に相応しいか、などと言い出した時はどうしてくれようかと思ったが、作戦の全容を聞けば想像以上に興味深いものだった。
………………
『Bチームの役目は隙を見て敵の背後を狙うこと。
俺達Aチームが派手に動けば必ず相手は俺達に注目するし、目を離すわけにはいかなくなる。そうして意識がこちらに向いた敵の無防備な背中に君の魔法を叩き込んでくれ。それまでは木立の中に隠れていてほしい。気配のない方向から一撃で致命を狙う、言うなれば暗殺者みたいなものだ。
得意なんだろ? 背中を狙うのも、息を殺して機を伺うのも。
それと、できるだけ早くそっちに送るものがあるから上手く回収してくれ』
………………
「会って間もないのに我が務めを見破られてしまうとは……まあ、別に隠していたつもりもありませんがね」
くくくっ、と笑声を漏らす。策謀家でもある自分が他人の思惑通りに動くのは気が進まないかと思いきや、意外や意外、悪くない気分だった。
Aチームはその疾走によって、実にちょうど良い位置にアッシュを誘導してくれた。ご丁寧に見せてくれた背中に叩き込んだ得意の闇魔法ドーラは、ヒューベルト自身も驚くくらい魔力を込められた会心の一撃となった。
作戦を解説したベレトの言う通り、
不思議なものである。ベレトと、自分が。
どこの誰とも知らぬ傭兵で、実力も人柄も不明でありながら教師に取り立てられたばかりか、僅かな期間で学級の生徒の力を把握して有効な作戦を立案してみせた。優秀と言えば優秀なのだろう。
だがそんな男の作戦など、本来のヒューベルトからすれば従う義理などない。主の益のためであれば、当の主のエーデルガルトの言葉ですら時には背くほど彼女の覇道に忠誠を捧げた身である。
それがどうしたことか。こうしてベレトの指示に従い、思い通りの展開に心が浮き立ち、作戦の一部になって動くことが面白いとさえ感じている。それほどまでに彼の発想が常識外れで、彼の立てた作戦が効果的だと予感していたからか。
そして現実に今、その作戦の力を目の当たりにしている。まるで導かれたかのように魔法を当てられて、この手応えさえ彼の描いたシナリオ通りだとしたら……
恐るべき知謀。腕っ節のみならずこれほどの才覚の持ち主が在野にいたとは。なるほど、エーデルガルトが欲しがるわけである。
「頼みますよ先生。我が主をこき使うからには、勝たなければ許しませんからね」
青獅子の学級の陣地へ走る三人の背を木立の陰から見送る。
先ほどベレトから送られてきた『土産』を手にして、ヒューベルトも次の戦いに向けて動き出した。
ローレンツとイグナーツの敗走、そして遠目で目の当たりにしたアッシュの脱落に、ディミトリは警戒のレベルを上げる。
対抗戦が始まってまだ数分しか経っていない、そんな事情など関係ない。ここが勝負の分かれ目。弱気になれば一気に飲み込まれる。
「ハンネマン先生! 陣地を出て距離を取ってください! 回り込んでヒューベルトの相手をお願いします!」
振り返って指定陣地にいるハンネマンに呼びかける。紋章学の権威である彼は魔法の得手だ。ヒューベルトと魔法勝負に持ち込めば遅れは取らない。
頷いて動き出したハンネマンを見て、次の指示を飛ばす。
「ドゥドゥー、俺達も前に出るぞ! 黒鷲の学級をここで止める! メルセデスは近付きすぎるな! 援護の手を緩めるなよ!」
それぞれ短く伝えてディミトリは前に進んだ。
たしかにベレトは脅威だが、自身の力とドゥドゥーの防御力、そこにメルセデスの弓の援護があれば渡り合えない相手ではないはず。
黒鷲の学級の三人はディミトリに向かって走ってくる。まずは一人を集中して叩こうというつもりか?
そうはさせないと槍を持つ手に力を溜める。当たらなくてもいい。大振りの一撃でまずは相手を散らして……
突如、間合いに入るより先に自分に向かって走る三人が前触れなく二手に分かれた。声もなく指示らしい合図もなしに息を合わせて動くことに感心しそうになるが、向かってくる二人の姿を見て意識を改める。
エーデルガルトとフェルディナント。黒鷲の学級の首席と次席が組んで自分に向かってくるプレッシャーはかなりのもの。
視界の端でドゥドゥーがこちらに近付こうとするのを捉え、先んじて伝える。
「ドゥドゥーは先にメルセデスと協力して先生をやれ! 凌ぐだけなら俺一人で大丈夫だ!」
その時、エーデルガルトは不思議な感覚の中にいた。
ベレトの背を追いながら、走る自分とは別の自分がいるような、別人の視点を借りているような奇妙な感覚。視界の広さではなく数が増えたとでも言うべきか。
全力疾走による疲弊、乱れる呼吸、戦場の緊張感、本来意識しなければいけないそれらが他人事のように感じられる。それよりももっと優先したい、見ていたい、この背が向かう先、勝利へ至る道が見えるようで。
立ち塞がる障害を排除しなくてはいけない。そのためにベレトが下した判断、左手をグーからパーに変えたタイミングに従うなら、向かうべき相手はディミトリ。
青獅子の学級で最強と言ってもいい彼を相手に、自分とフェルディナントの二人がかりで戦うように指示したのは分かるが、その判断は最良だろうか?
──この後の作戦を考えれば遠距離攻撃を使う敵は少しでも速く排除したい
──なら師にはそちらに集中してもらって
──その動きを邪魔する障害を私が引き受ければ
大局を見て、先を読んで、戦力を適切に配分する。
この一週間、個別指導でベレトから教わった戦略眼がエーデルガルトの中で芽吹いた瞬間だった。
「フェルディナント、ここは頼むわ!」
「なっ、エーデルガルト!?」
まさにディミトリと向かい合おうとする寸前、突撃方向を急転換したエーデルガルトに戸惑いの声がかけられるが、彼女は振り返らなかった。
黒鷲の学級陣営で一番強い師が十全に戦えるように私は露払いを──勝利のための判断に迷いはなかった。
ちょうどベレトから一当て受けたドゥドゥーが怯み、弾いた勢いで両者の距離が開いたところ。きっとこれ以上ないタイミングで駆けつけることができた。
「ドゥドゥー!」
「皇女様……っ!」
呼びかけると同時に攻撃。斧同士のぶつかり合いで生まれる強烈な衝撃に、負けるものかと踏ん張る。
指示とは違う動きをするエーデルガルトに目を見開くベレトへ、声ではなく意思を込めた視線を向ける。
行って師──意思は伝わった。言葉一つなくベレトは走り出す。
後は大丈夫。彼ならやってくれる。自分は目の前の戦いに集中すればいい。
「さあ、貴方の相手はこの私よ!」
荒げる息を押し殺して高らかに宣言する。
行かせない。勝つのは私達だ、と。
普段のエーデルガルトなら、ここで優劣を決しておくのも悪くない、とでも言ってディミトリに仕掛けていっただろう。
それよりも優先するものがあるとすれば、それはきっと勝利のため。より相応しい役目のためだと彼女が判断したということ。
その判断を疑う必要はない。彼女は優れた人間だ。ともすれば自分よりも。
そして勝利のために全力を尽くす姿勢を学んだばかりのフェルディナントにとって、格上のディミトリと一対一で戦うことへの抵抗は微塵もなかった。
「光栄に思いたまえディミトリ……戦場で、目の前にこの私がいることを!」
むしろこの戦いは望むところと言わんばかりに笑ってみせる。
相手は間違いなく自分より強い。細身に似合わぬ怪力無双の呼び声高く、修道院の訓練所でその強さを直に見たこともある。
対して自分は疲労が溜まった身。息は荒く、足にも手にも力が行き渡っていないのが分かる。
だが、それがどうした。
先生は信じて託してくれた。エーデルガルトに頼まれた。
ならば負けるわけにはいかないではないか。限界など今ここで超えてしまえ!
「我が名は、フェルディナント=フォン=エーギル!!」
フェルディナントの裂帛の咆哮を受けて、ディミトリは思う。
相手より間違いなく自分の方が強い。
元より地力の差は理解している。加えて彼の姿、整えられた髪は汗で顔に張り付き、肩で息をする様はまるで疲労を隠せていない。
エーデルガルトと組むのでもなく、一対一で戦うのなら十分に下せる相手。
それでも、臆せば負ける。戦いは依然として黒鷲の学級の流れであることを忘れてはいけない。そう思わせるだけの気迫が彼から感じられる。
「ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド、参る!」
普段はすることはない戦う前の名乗りを上げ、フェルディナントとほぼ同時に槍を振りかざした。
ところで、まだ説明していなかったが、この対抗戦には人数の他にもある制限が設けられている。
武器についてだ。
攻城兵器の持ち込みや騎士団の配備が禁止なのは当然として、使うことができる武器の数が決まっているのである。
剣、槍、斧、弓の四種類から選ぶのだが、この中から一種類につき二つまで、全部で四つまでと制限されている。
そう、悩ましいことに代表の五人全員分の武器がなく、誰か一人は素手での参加が決定しているのだ。
午前のミーティングで決まった作戦によって係りの者に必要な武器の種類と数を伝え、それが各陣地に開始まで用意されることになる。つまり各学級は、敵がどの武器をどれだけ持っているのか分からない状態で戦わなくてはいけないのである。
戦争は敵の戦力が不明のまま始まるのも珍しくない、そんな現実を踏まえて作戦を立てることを推奨しているのだろう。
それがどういうことなのかと言うと。
「まさか君が槍を持っているとは思わなかったよ」
このハンネマンの感想である。
ディミトリの指示に従って陣地を出て、東から回り込んでヒューベルトがいると思わしき木立に近付いていった彼は目算通りヒューベルトを発見。
早速魔法勝負に持ち込もうとしたところ、なんとヒューベルトは木立から飛び出してこちらに突撃、持っていた槍を振るって接近戦を仕掛けてきたのだ。
紋章学の権威として魔法勝負なら生徒に後れを取ることはないハンネマンだが、基本的に彼は研究肌の学者であり、その能力は非常に偏っている。
対してヒューベルトは魔法の使い手であり、策謀家であり、時には自ら近付いて戦うことも厭わない暗殺者である。戦闘力という点から見ればとてもバランスの取れた戦士なのだ。
その二人が魔法に限定されることなく戦場で直接ぶつかり合えば、この結果もむべなるかな。
「ハンネマン、脱落!」
決着にさほど時間はかからなかった。ハンネマンが急いで組み上げた魔法アローを、持ち前の魔法防御で凌いで接近できたヒューベルトの攻撃が決まり、ハンネマンの脱落が宣言されたのである。
「我輩はてっきり、ベルナデッタ君が弓でも持って、魔法を使う君といっしょに後方から援護するものだと思っていたのだがね」
強かに打たれた腹をさすりながらハンネマンは退場のために立ち上がる。
そう、ヒューベルトが魔法の使い手だと知っていれば素手でも戦えると考える。だから他の生徒が武器を持って彼は素手のはず、だからハンネマン一人でも魔法一つで戦える、そういう思考に誘導されてしまった。それが黒鷲の学級の作戦だったのだろう。
「当たらずとも遠からず、といったところですね」
「ふむ?」
そういった考えを伝えるハンネマンに返された言葉は、作戦の全容には至らないというものだった。
しかしここで安易に返事をしないのがヒューベルト。
「答え合わせは対抗戦が終わった後にでも……まだ戦いは続いていますので」
意地の悪い笑みを見せるだけでそれ以上は言わず、次に備えて動き出した。
実を言うと、ハンネマンの考えは半分正解で半分不正解、対抗戦開始直後はヒューベルトも素手だったのだ。他の四人と違って魔法で戦える彼は素手でも作戦上の役割は果たせるから。
だが、それではもしも接近されてしまった時に大きな不利を抱えることになる。ただでさえ参戦人数が少なくて守りに回る余裕がないのだから、ヒューベルトを守るために誰かを割くことはできない。彼には自衛してもらう必要があった。
たしかに魔法はそれなりの遠距離攻撃ができて、やろうと思えば近くの敵にも使えるが、呪文詠唱や陣の組み立てなどが必要で、間合いの中で振れば届く武器と違ってどうしても即応性で劣る。
そのため、戦場で実際に魔法で戦おうとするなら騎士団を配下に付けて守ってもらうのが主流なのだ。そうでなければアッシュを倒した時のようにこっそり背後を狙うか。もちろん対抗戦では騎士団は利用不可なのでこの方法は使えない。
では今ヒューベルトが持っている槍はどうしたのかと言うと……何を隠そうこれはローレンツの槍。ベレトが彼から奪い、遠投して木立に投げ込んだものである。
元々それが作戦の一つであり、早めに誰かから武器を奪ってヒューベルトに渡す予定だったのだ。姿を隠した自分のすぐ近くの木立に投げ込まれた時はさすがに驚かされたが。
相手から装備を取り上げるなどまるで盗賊のようではないか──黒鷲の学級の教室で作戦を説明した時に非難の声を受けたベレトの反応を思い出す。
『倒した敵から武器を鹵獲するなんて普通のことだぞ?』
あまりにも当たり前のような態度とあっけらかんと発せられた言葉で、不満や文句がまとめて洗い流されたみたいな教室の空気にヒューベルトは思わず噴き出してしまった。
傭兵ならではの彼の判断は基本的に騎士道を推進する士官学校にそぐわないのだろうが、根が闇側の人間であるヒューベルトにとっては好ましい作戦だったのだ。
さて、現状判明したようにヒューベルトは素手で、ベレトは剣を、エーデルガルトは斧を、フェルディナントは槍を持って始まり、計四つの武器を配られる対抗戦では当然ベルナデッタにも武器を割り振られる。
つまりベルナデッタも武器を持っていて戦える──足手まといではない、れっきとした戦力の一人としてこの戦場にいるのだ。
斧同士の打ち合いは数十にも及ぶ長丁場になっていた。
平時なら一対一でも問題なく勝てた自信がある。だが疲労がある状態で始まった戦闘は徐々に無視できない後れが見えるようになり、この先の敗北を予感させるようだった。
「疲れが隠せてませんな、皇女様」
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
もはや隠す余裕もないエーデルガルトは荒い呼吸のままドゥドゥーを睨む。
先ほど、メルセデスの脱落を告げるジェラルトの声が聞こえた。狙い通りベレトはやってくれたのだ。
ならば憂うことなく自分の役目に集中すればいいのだが……押し切れない。
ここまであの不思議な感覚は続いていた。視界が広がり、思考より速く体が飛ぶように動く、絶好調とでも言うべき没入感。これがあるから今まで均衡を保てたようなものだ。
それでも限界は訪れる。どれだけ無視しようとも疲労は確実に溜まり、動きを阻害するのだ。このままでは遠からず負けるだろう。
何かが欲しい。均衡が崩れる前に、決定打に使える何かが。
脳裏に浮かぶのは、不思議と出会ってからそう日が経たない師のことだった。
………………
それは彼が教師になってから最初にやった授業。
生徒がどの程度動けるのかを確認するために足を運んだ訓練所でのこと。
『女の身で斧を使うのって珍しいよな』
生徒達が得意武器で打ち合う中、ベレトが溢した言葉を聞いてエーデルガルトは僅かに苛立ちを感じた。
『あら、女が力強く斧を振るのは気に食わないのかしら?』
『いや、むしろ女だと侮る相手の意表を突けて有利かもしれない』
『……そう』
女のくせに生意気だとか言い出したら切りかかってやろうかしら、などと物騒なことを考えるエーデルガルトだったが、ベレトの言葉を聞いて今度は気を良くする。
誉め言葉かどうかはともかくとして、自分が肯定されたのは分かるからだ。全く変わらない無表情もあって本心からの言葉に思えた。
『なら師、斧を使った効果的な技なんてないかしら?』
『斧はそこまで得意じゃないんだが……』
じゃあ一つ、と言ってエーデルガルトが持つ訓練用の斧を借りたベレトが実演のために構える。
『斧を振る時、普通は重心のかかる刃の逆側である柄の端を握る。遠心力を生かすために』
実際に数回振ってみせるベレトの動きは、得意じゃないとは言ったが中々に様になっているように見えた。基本的な動作にもブレがないので心得はあるのだろう。
そこで、とエーデルガルトが見ているのを確認しながら彼は続ける。
『斧の柄を握る位置をあえてずらして振ってみろ』
『ずらして?』
『少しだけじゃ意味がない。思い切りずらして、刃のすぐ近くの柄を握るんだ』
今度は殊更ゆっくり実演してくれた。振り被った時は柄の端を握っていた両手の内、片方だけを滑らせて斧の刃ギリギリの柄の上部を握ると、端を握る方の手を離して上部に滑らせた片手だけで振る。
次は実際に振る動作。両手で端を握っていたと思ったら振る瞬間には握る位置は違うし片手で振るし驚かされたが、横から見ていたエーデルガルトには明らかに違う動きだと分かった。
『普通の振り方と軌道が同じでも動きのリズムが変わって相手の虚を突けるんだ』
『たったそれだけのことで?』
『小手先の技だけど、覚えておいて損はない』
斧を返してもらい、動きを真似てエーデルガルトも実際に振ってみる。
恐ろしく動き辛い……たしかに片手で振る分速く動けて意表を突きやすいかもしれないが、本来の斧の振り方と重心の位置が違い過ぎて困惑してしまう。これは練習が必要だろう。
『でも師、これって元の振り方より威力が出ないわよ?』
『そういう技だからな。小手先って言っただろ』
その通りとばかりにベレトは頷く。
『格下相手ならあれこれ考えず正攻法だけで押し勝てるだろうけど、同格や格上を相手にする時はどれだけ選択肢があるかで有利不利が決まる。君は今新しい技を一つ覚えた。それは今後の選択肢が一つ増えたということ。選択肢が増えれば自分から主導権を取りに行ける。つまり、君は今、確実に強くなったんだ』
変わらない表情、変わらない口調、淡々と語るベレトの言葉を聞いていると自分の中に染み渡るようで、エーデルガルトにはまるで一種の熱に思えた。それが意味するのは昂揚。
『ゴールまで一本道しかないのと複数の道があるのとでは間違いなく後者の方が有利なんだ。多少遠回りになったとしても先にゴールに着きさえすれば君の勝ち。そのための道を教えるのが俺の役目だ。覚えて強くなれ』
それにエーデルガルトの力なら多少威力が落ちても十分な攻撃力は出せる──そう締め括ってベレトの解説は終わった。
その後、斧使いの生徒達が真似しようとこぞって練習し、数日で感覚を掴んだエーデルガルトに対して、片手で振るには腕力が足りずとてもじゃないけど真似できないとギブアップする者が続出。
この技は力がある彼女専用にベレトが教えてくれたのだという結論に達し、エーデルガルトは密かに自信を深めたのであった。
………………
あれだ。あの技を使う時だ。
力は拮抗している、何度も打ち合ってお互いがリズムに慣れてきている、今にも均衡が崩れそう、様々な条件が噛み合っている。変化を加えるなら今。主導権を自分から取りに行け。
「俺は殿下の下へ行かねばならない……そこをどいていただきます!」
これを最後の激突にしようとドゥドゥーが勢い良く飛び出してくる。一際強い一撃を繰り出そうと体重を乗せた前傾姿勢。
その動きのリズムが分かる。合わせるようにエーデルガルトも斧を振り被り、タイミングを一致させて──ここだ。
右手を滑らせ、柄の上部を握ると同時に逆の手を放す。速くなる分短くなるリーチを補うため余計に踏み出す。斧を振り下ろすと言うよりは拳を突き出すくらいの感覚で潜り込むように!
果たして斧は届いた。ドゥドゥーの肩から胸を斬って、逆に彼の斧は狙いが外れて柄が自分の肩に食い込む程度。
ここで終わらせない。驚愕に目を見開くドゥドゥーは固まっていて、懐に入った自分だけが動ける。完全に主導権を握った最高のチャンス。
「あああああ!!」
一撃目を遡るように、二撃目は脇の下から入って逆袈裟に肩から抜けた。連撃を受けたドゥドゥーがたたらを踏んで後退る。
「ドゥドゥー、脱落!」
ダメージを見定めたジェラルトがすかさず審判としての判定を下し、エーデルガルトの勝利を告げた。
戦略眼、斧術、ベレトから教わったことを彼女は最高の形で活かして勝利を掴んだのである。
「……申し訳ありません、殿下」
敗北したドゥドゥーは悔し気に呻いた。仕える主のために戦うも力及ばず、主を残して敗退する彼の心境は如何ばかりか。
会心の手応えに満足しかけたエーデルガルトだが、それではいけないと心を改める。これで終わりではない。対抗戦はまだ続いているのだ。
青獅子の学級はディミトリが残っている。彼一人だけでも十分な脅威なのだ。フェルディナントに加勢して彼を抑えなくてはいけない。クロード達金鹿の学級だってまだいるのだ。こんなところで止まっていられないのに。
なのに、ああ、もう限界だ。
「っげほ、けほ……っく、はぁ、はぁ、はぁ……!」
息が苦しい。斧が重い。足が震える。
いよいよ体力を搾り尽くしてしまった。頭がボーっとして、あれだけ広がっていた視界が霞む。没入感は跡形もなく消え去り、重苦しい疲労がのしかかってくる。
斧を支えにして倒れることは防いだが、もはや一歩も動けそうにない。今にも蹲ってしまいそうだ。
立ち止まるわけにはいかないのに。
皇女として、級長として、情けない姿は晒せないのに。
何より、彼に力を認められて選ばれたからには、それに応える姿でいたいのに。
その時、背後から誰かの足音が聞こえた。高速で走ってくる。その誰かがすぐ傍を通り、パシッと肩を軽く叩いて駆け抜けていった。
霞む視界の中、はためく外套と、そこから伸びる左手を見て安堵する。
──指二本立ては、その場で待機。
(後は、お願いね……師)
その背中を見届けると、全身から力を抜いて、エーデルガルトはその場に膝をついた。
驚異的と呼ぶに相応しい粘りをフェルディナントは見せていた。
最初からそのつもりだったのか、専守防衛の姿勢を崩さず、ディミトリの攻撃を防ぎ、いなし、凌ぐことだけを考えて立ち回る。攻撃を一切考えず、全力で防御に集中するその姿は一見して時間稼ぎを疑うが、とてもではないがそれだけとは思えない気迫があった。
あのギラついた目を見ろ。徒に時間を稼ぐことなど頭にない、隙あらば切り伏せんと狙う戦士の目だ。
諦めてなどいない。捨て石になるつもりなどサラサラない。間違いなく彼は勝利のために戦っている。
士官学校の生徒という、ある意味安全を約束された立場でありながら、これほどの闘志を漲らせられる者がどれほどいるだろうか。
なまじ将として戦場に出た経験を持つディミトリだからこそ、その気迫を敏感に感じ取り、警戒を捨てられず攻めあぐねてしまった。
見学席にいる黒鷲の学級の生徒達には分かる。フェルディナントはミーティングの時にベレトから教わったことを忠実に守っているのだと。
受け身にはなるな。耐えて耐えて耐え抜いて、その先にある勝利へ繋ぐからこその意味ある防御。フェルディナントはそれを丁寧に実行しているのだと。
とは言え、それが永遠に続くはずもなく。
「そこまで、だ!」
ディミトリの横薙ぎ一撃に、かざした槍ごと打ち払われてフェルディナントは転ばされた。
滝のような汗を流し、立つこともままならない体を震わせてフェルディナントが睨み付けてくるが、さすがに脅威はもう感じない。
終わってみればディミトリに傷はなく、多少息が上がる程度の疲労のみ。
にもかかわらず彼一人を相手にかなりの時間を稼がれてしまった。臆したつもりはなかったのだが、あれほどの戦意を向けられてはどうしても警戒を捨てられなかったのだ。
いや……事実、臆してしまったのだろう。力の差はフェルディナントとて理解できていただろうにあそこまで粘れたのは、ひとえに戦意の高さが支えとなっていたからに違いない。警戒するあまり及び腰になっていた部分もあるとディミトリは素直に認めることにした。
もしフェリクスがここにいたら喜び勇んで斬りかかっていただろう。学校行事の催しで斬り合いなど下らん、と参加を一蹴した彼は見学席で今どんなことを考えているだろうか。
それにしても、真に畏怖すべきは僅か一週間足らずの付き合いでフェルディナントから戦意を引き出させたベレトの手腕か。もし彼が教師ではなく正式な将として活動したら、一体どのような軍勢を率いるのか。
そこまで考えて頭を振る。フェルディナントの脱落はまだ宣言されていない。止めを刺して、次の戦いに向かわなければ。気を抜いていられない。
今や戦場に残っているのは
ここからでも逆転してみせる意志を固めて一歩踏み出せば、狙いすましたように飛来物が邪魔をする。槍を振れば軽く弾かれたそれは……弓?
フェルディナントが悪あがきに槍を投げてきたのかと思ったが、その後ろから走ってくる人影が投げたのだと察した。
「来たか、先生!」
変わらない疾走で近付いてくるベレトを見て覚悟を決める。
勝算はある。実力者である彼とて相当な疲労が溜まっているはずだ。ぶつかる前に投げた弓(誰かから奪ったのだろう)が証拠。フェルディナントを守るために少しでも足を止めようと牽制したのだ。走るだけでは間に合わないから。
対してこちらは先ほどの一戦での消耗は少なくまだまだ余裕がある。今の一対一なら負けるつもりはない。
「俺は、貴方に勝つ!」
無言のまま疾走の勢いを乗せたベレトの剣を、ディミトリは真っ向から受け止めてみせた。
次いで二撃、三撃と打ち合い、鍔迫り合い、弾いて再度打ち合い、そうして戦う中でやはりと思いを深める。
案の定、剣に力が乗り切っていない。以前目にした彼の剣技と比べて明らかに力が込められていないのだ。
疲労がベレトの剣から力を奪っている。当たり前だろう。対抗戦の始まりと同時に走り出してから、平野を西へ東へ止まることなく走り続けて、その間に何度も戦闘を挟んでいるのだ。移動距離で言えば疑問の余地もなくトップである。しかも始まってからまだ十分も経っていないのに。
このチャンスを逃すわけにはいかない。疲れのせいか、剣が大振りになっているのが分かる。踏み込み切れていないし、逆にこちらの踏み込みに押される始末。
いける。あのベレトを相手にして、今だけは恐怖を感じない。この状況は間違いなく好機だ。
「これで終わらせる!」
上段から大きく振り下ろすベレトの剣を、掬い上げる槍の一撃で迎え撃つ。
渾身の激突は──キンッ──思いの外、軽やかな音で終わった。もはや握力すら失ったか、すっぽ抜けて弾かれたベレトの剣がクルクルと回りながら空高く打ち上げられる。
振り切った体勢のベレトは、もう身を守る術はない。逃げられる前に止めを刺す。そのために槍を構えようとしたディミトリは信じられないものを見た。
なんとベレトは逃げるどころか、逆に踏み込んで槍を持つディミトリの手を直接抑え込みに来たのだ。さらには足を踏んでこちらの動きを封じて腰を落とすという不動の構え。
まさか、自分と真っ向から力比べをするつもりか?
ならば思い知らせよう。単純な力は誰にも負けない自身の強さを。
そう意気込んで腕に力を込めようとした時だった。
「今」
(……は?)
ポツリと、一言どころかたった一文字の声を出すベレトに、思わず注目してしまう。前振りがないにも程がある発言にどうしても困惑が先立つ。
注目し、意識が奪われ、他を忘れてしまった。
直後──突き刺さるような衝撃が身を貫く。
背中寄りの脇腹に食い込んだのは訓練用の矢。
まさか。
まさかまさかまさか。
振り返って確認した矢の角度、背後に広がる平野、遠く離れたところに立つ一際大きな木。
目を凝らしてみれば、木の葉に紛れて微かに見えるのは紫色の髪。
(そうか! 黒鷲の学級にはベルナデッタがまだいた!)
他の四人の、特にベレトの動きがあまりにも派手ですっかり失念してしまっていた。あそこにいるのはベルナデッタ以外にありえない。
だが、それにしても……事ここに至るまで自身の存在感を消し、あんなにも離れた場所から、この最高のタイミングに狙いすました一射を叩き込むなど、まるでスナイパーのようではないか。
そして無防備なところに一撃を受けたディミトリがどうなるか、決まっている。
「ディミトリ、脱落!」
ジェラルトが下した審判が響き渡る。全ての戦いが終わったことを理解して力を抜いた。
「結局、全てが貴方の掌の上だったというわけか、先生」
苦笑交じりに溢すディミトリの前で、落ちてくる剣を事も無げに掴んでみせるベレトの姿が雄弁に物語っていた。
今にも心臓が口から飛び出しそうな緊張感の中、それでも構えた弓を落とすことなくベルナデッタは樹上にいた。
「あああ当たあ当たったたったた……当たりまましたたたたああ……先生ぇ、ベルの矢が、あ、当たりましたよぉ……」
緊張に歯を震わせながらも、絞り出したその声には隠し切れない安堵と達成感が滲んでいた。
たった一人の行動を余儀なくされて泣き出しそうになる自分を励ましながらなんとか辿り着いたのが、平野で最も高い木の上。
ほとんど経験がない木登りではあったが、ベレトが調査したというその木は予想以上に掴みやすい枝が多くあり、落ちないよう慎重に足をかけて登っていけば平野のほぼ全体を見渡せる絶好の高所に陣取ることができた。
ベルナデッタとて馬鹿ではない。戦略上、敵勢より高い場所を押さえることがどれだけ重要か、知識としては理解している。まさか自分がその大役を仰せつかるとは思いもしなかったが。
震える体を動かして木の下に辿り着いた時には、どうやら自分は全く注目されていないらしいことに気付いてちょっとだけ安心したり。
高所なところはともかく周囲を木の葉に覆われた空間は、屋外でありながらどことなく引き籠りに適した場所に思えて、彼女の緊張をほんの少し和らげてくれたのも大きい。
そんなベルナデッタに求められたのは狙撃。それも曲芸ならぬ曲射である。
………………
『Cチームはすぐに役目があるわけじゃないから慌てなくていい。
いいかベルナデッタ。君のやることは二つ。
一つ目は誰にも見つからないようにAチームの後ろから隠れて進んで、平野中央に立つ一番大きな木に登るんだ。君の体格と体重ならちゃんと支えられる枝がたくさんある。
二つ目は高所で弓を構えたら俺の動きを目で追え。そして俺の剣が高く打ち上がった時に、戦ってる相手を狙撃するんだ。その時の相手は俺が抑えて動けなくする。遠く離れてるだけで止まってる的を射るのと同じ要領でいい』
………………
作戦をベレトから説明された時は、本当にそんな上手くいくのかと疑う気持ちの方が強かったが、跳ね返る心臓をなだめてベルナデッタは役割を全うした。
自信のない彼女が、これだけは多少はできるかも、と思える力をベレトが見出してくれたことが嬉しくて。
そうだ……自分は嬉しかったのだ。会ったばかりの先生がちゃんと自分を見ていてくれることが分かったから。
様々な方面で低成績を叩き出すベルナデッタが、唯一つ群を抜いて優れた成果を出した科目がある。それが弓術。特に遠方から静止目標への狙撃は学校でトップの記録を残しているのだ。
残念ながら、大樹の節の初めの授業で一度やったきりその腕前を見せることなく引き籠ってしまったので、黒鷲の学級の生徒もベルナデッタの弓の印象は薄かった。
しかし彼女の力は生徒の資料に成績として記されており、セテスから受け取った引継ぎ用の資料を読み込むベレトの目に留まり、今回の対抗戦で白羽の矢が立ったのである。
ふと、右手を見る。入場の際にベレトが引いてくれた手は、たしかに自分の手なのに何故か特別に思えて、弓ごと胸にかき抱く。
期待されたことなど久しぶりだった。父には見限られ、母が保護目的で送り出した先の士官学校でも周りが怖くて仕方なかった。まともな友人と呼べる相手もいない中、引き籠りになったことを後悔しているわけではないが、それでも卑屈な自分が変わったわけではない。
ベルナデッタは変わりたいとは思っていない。ただ、今の自分を認めてもらえたことが、今の力を見出してもらえたことが、嬉しいのだ。
「先生……ベル、ちゃんとがんばりましたから、ちゃんと褒めてくださいね……」
ベレトが駆け寄ってくるのとエーデルガルトが意識を取り戻すのはほぼ同時であった。
「エーデルガルト」
「……あ、師……」
蹲ったまま力なく見上げるエーデルガルトは、意識こそ戻ったものの、動ける気力がないのは誰の目にも明らかだった。
汗を吸い過ぎた肌着が気持ち悪い。頭はまだ朦朧としているし、腕も足も重くて仕方ない。
それでも戦場にいるのなら言い訳はできない。何分も意識を失っていたとは思えないから状況は変わっていないはず。
「ごめんなさい、今立つから……また、走らない、と……!」
「いや、無理はするな」
震える体を叱咤して立ち上がろうとするエーデルガルトだが、耳に入ったベレトの言葉に疑問を覚える。
無理をしない戦いなんてないだろうに。自分は代表として戦いに来ているのだ。甘やかさないでほしい。そんな気持ちを顔に出したつもりだが、こんな時でも彼の返事は単純明快で短かった。
「もう終わった」
「……え?」
どういうことかと聞く前に、彼女に応えたのはベレトではなく審判の声だった。
「対抗戦終了! 勝者は……黒鷲の学級だ!」
気を利かせてエーデルガルトが聞けるようになるまで待っていたのだろう、ジェラルトの宣言が響くと見学席の生徒達から歓声が上がった。
エーデルガルトは困惑した。ドゥドゥーとの戦いを制して、ベレトを見送ってからいくらも経っていないはずだ。現に体は満足に立てないほど疲れ切っている。
何が起こったの? 改めて疑問の視線を向けるとベレトも答えてくれた。
「金鹿の学級は先に倒してきた」
「…………はぁ!?」
彼の話を聞いてみると、こういうことだった。
青獅子の学級との戦いで、ディミトリをフェルディナントに、ドゥドゥーをエーデルガルトに任せることにして、自分はさらに北のメルセデスを討ち取りに走った。その手に持つ弓を奪い、首に剣を突き付けたところで彼女の脱落は宣言された。
そこまではエーデルガルトも想定していたのだが、なんとベレトは戻って加勢するのではなく西へと転進、密かに距離を詰めてきていた金鹿の学級の残り三人を先に討ち取りに行ったのだと言う。
案の定近付いていたクロードの射かける矢を先読みで回避し、ヒルダ諸共斬り伏せ、マヌエラの魔法をやり過ごし、三人を脱落させてから舞い戻ったのである。
「戻った時にはちょうどエーデルガルトがドゥドゥーを倒したところだったから、すぐにディミトリに仕掛けに行けて助かった。後少しでフェルディナントがやられるところだったよ」
(なんて人なの……!)
彼も相当粘ってくれたな、と感心したように頷くベレトは額に少し汗を浮かべた程度で息も乱しておらず、何なら今すぐにでも戦いを続けられそうだ。信じ難いタフネスぶりである。おまけにその健脚。二人の生徒という荷物がない状態ではさらに速く走れたのだろう。
文字通り戦場を縦横無尽に動き回り、厄介な敵を一手に引き受けた彼は間違いなくこの戦いにおけるMVPだ。
そして何故対抗戦が終わったことが分からなかったのか、原因も理解できた。
なんのことはない。集中しすぎるあまり、自分がジェラルトの宣言が聞こえていなかっただけである。
「エーデルガルト」
「……何かしら」
遊びに夢中になって話を聞けてない子供のようだと思わしき振る舞いをした自分に恥じ入って視線を合わせ辛いエーデルガルトに、目線を合わせようと片膝をついてベレトは尋ねた。
「あの時の君には何が見えていた?」
「どういうこと?」
「君はディミトリの方に行くように俺は指示を出した。最初はディミトリに向かっていったのも見えた。けど途中から方向を変えてドゥドゥーに向かっていった。あの時、何を考えていた?」
「……何て、言えばいいか」
ベレトも責めているわけではないのだろうが……上手く説明できない。エーデルガルト自身も何があったのかよく分かっていないのだ。
絶好調だったのは間違いない。疲れを自覚していても、それを無視して手足が飛ぶように動いた。
だがそれだけでは説明できないこともある。視界が増えたり、いつになく頭が働いて先を見通して動けたことは今でも不思議なのだ。
仕方なくそのまま伝えるしかなかった。息は整ってきたので、口を動かすくらいなら辛くない。
「私にもよく分からないの。あの時、走りながら急に視界が増えたような気がして、ああすれば師がもっとたくさん動けると思ったのよ」
「視界が増えた?」
「ええ。それに不思議なくらい体が動いて、頭も冴えて、それまで見えてなかったものまで見える気分だったし、あの時は何でもできるような気もしたわ」
話しながら、少しずつ居たたまれない気持ちになってくる。
要するに、エーデルガルトは己の判断でベレトの指揮を無視した形になるのだ。今回の将として勝手な期待を寄せておきながら、兵の自分が思惑から外れた行いをしてしまった。実際の軍に当てはめればこれは軍法違反に該当するのではないか。
「私がドゥドゥーを抑えれば、師はもっと自由に動けると思って……ごめんなさい。師の作戦を台無しにするところだったわ。あそこで私が負けていたら黒鷲の学級が崩壊していたのかも……」
「謝る必要はない」
言いながら落ち込んでいくエーデルガルトをベレトは静かに遮る。
「こうして勝てたのなら、あの判断が正しかった。俺の方こそ、生徒の力を正しく把握しないまま運用していたんだ。すまなかった」
「そんなこと……! 私が師の判断を無碍にして……」
「エーデルガルト」
焦るエーデルガルトを前にしても、ベレトの無表情は崩れない。だが、その顔が普段より柔らかいものに見えるのは気のせいだろうか。
「結果が全てとは言わない。それでも、結果は他の何より優先される。戦場なら尚更だ。あの時のエーデルガルトの判断がこうして勝利をもたらした。ならそれ以外の仮定の話は全部下策になる」
「それは……さすがに暴論ではないかしら」
「そうかな? そうかもしれない。でも俺はそう思うよ」
また一つ、彼のことが分かった気がする。
ベレトは現実主義者だ。型に捉われず、偏見も先入観もなしにありのままを見る。
級長という立場に捉われずエーデルガルトの力を評価したように。
引き籠りという風聞に惑わされずベルナデッタの力を見出したように。
その主義は自分自身にも向けられていて、明らかに実力の劣るエーデルガルトの判断であっても、それが勝利に繋がったならあっけらかんと受け入れる。己の判断さえもあっさりと切り捨てて。
「それに、俺は嬉しいんだ。エーデルガルトが成長したことが」
「私が?」
「新しい見え方ができたということは、君が自分の殻を破って新しいものを手に入れたということだ。その感覚を忘れるな、今君が掴んだものは大切な力になる」
そっと頭を撫でられる。クシャクシャに乱れた髪を梳くような優しい手付きがくすぐったい。
「黒鷲の学級の勝ちだ、おめでとう」
「──っ!」
今、ほんの少しだけだが──彼が笑った。
湧き上がるこの気持ちを何と呼ぶのか、分からない。
それでも思うのは、この気持ちを大切にしたい、ということだった。
「……やっぱり私ではないわ、師」
「ん?」
「貴方が勝利を呼び込んでくれたのよ。私達はそれに手を伸ばしただけ。だから、私からも言わせてちょうだい」
精一杯の笑みを浮かべて、この気持ちを感謝といっしょに届けられるように。
「ありがとう師、黒鷲の学級を選んでくれて」
「どう、いたしまし、て?」
伝わっているのかいないのか……よく分かっていないようだ。
まあそれもいいだろう。
「ところでヒューベルト達が向こうで見てるんだが、そろそろ俺達も戻ろうか」
「ぅえ゙」
らしからぬひどい声が出てしまったが、そんなことはどうでもいい。
ここ、平野。
対抗戦、終わったばかり。
見てる人、いっぱい。
やってること、全部見られてる。
完全に失念していた。見ればヒューベルトがいつもの険しい目付き(心なしかジト目)で眺めている。その後ろには槍を杖代わりにしたフェルディナントも、珍しそうに見やるディミトリまで。見学席の生徒達も軒並み注目しているではないか。
子供のように撫でられていることが急に恥ずかしくなってきた。
「そ、そうね! 私達も戻りましょうか!」
「ああ、それじゃ」
「え、あの、せんせ?」
先に立ち上がったベレトが両脇の下に手を入れてきて、グイっと持ち上げられる。
まるで『高い高い』されているようで、子供どころか赤子扱いであった。
「ちょ、ちょっと師!? はな、放して! 降ろしてちょうだい!」
「立てるか?」
「立つから! 大丈夫だから!」
体はまだまだ疲れが抜けていないが、多少休めた足腰に喝を入れて根性で踏ん張る。さすがにこれ以上恥を晒したくない。
先ほどまでの感謝など忘れたようにベレトを睨め上げる。次期皇帝を公衆の面前で辱めるとは何たる不敬か。これはさすがにビシッと言ってやらねばなるまい。
別の意味で乱れた息を整え、口を開こうとしたエーデルガルトだが、彼女よりも先に平野に声を響かせる者がいた。
「誰かあああああ!! 助けてくださあああああい!!」
聞き覚えのある悲鳴だった。救援を求める切実な叫びは平野中央から聞こえる。
出鼻を挫かれてエーデルガルトは脱力しそうになる。ベレトといっしょに視線を向けた先は当然大きな木があって。
「今の声って……」
「ベルナデッタだな」
「戦いは終わったのにどうしたのかしら」
「高いところに登れたはいいけど、自力で降りられないんじゃないか?」
猫かよ。
たしかに引き籠りというインドアの筆頭であるベルナデッタに、階段もない高所への昇り降りは難易度が高いのだろうが……何もこのタイミングで叫ばなくても。
エーデルガルトとしてはそんな無慈悲な思いが湧いてくるのだが、ベレトからすれば生徒が助けを求めているのだから無視する理由などなく。
「助けてくるから、エーデルガルトはみんなといっしょに先に戻っててくれ」
「え?」
そう言い残し、ベレトは一人走り出す。
想像通り、疲れを微塵も感じさせない軽快な足取りは、今だけは頼もしさよりも憎らしさを感じさせた。
「ちょっと、師……ああ、もうっ」
どんな顔で戻ればいいのよ!
地団太を踏むエーデルガルトを見つめる周囲の人間は、この時ばかりはあらゆる垣根を越えて心を一つにしていた。
──ああ、今後も振り回されるんだろうな。
こうして、学級対抗の模擬戦は幕を閉じた。
勝者は黒鷲の学級。それも代表の五人全員が生存する完全勝利。
試合時間は七分二十六秒と、過去の対抗戦の記録を大きく塗り替える驚異の短時間を新たに刻み、その内容は関係者を驚かせたのだった。
この話を書くにあたって
「俺はなぁ! 強くて優しくておもしろくてカッコいい師が見たいんだよ!!!」
と考えながらこの話を作りました。
なので心情的にもかなーり優遇して(もっと言えば贔屓して)描写している自覚はあります。彼の強さとかマシマシで書きました。元々僕が主人公大好きなのもありますね。
ゲームではプレイヤーに成長を感じてほしいから主人公もレベル1から始まりますけど、設定を考えるなら幼い頃からジェラルトの薫陶を受けて傭兵として長く活動してきた彼が生徒達と同レベルからスタートなわけないでしょ、という考えを僕なりに表現しようとしてます。
後、散策する時の主人公の足の速さに驚いたプレイヤーも多いはず。