前回からの続きです。






( たくさんの『月』の画像をお借りしています。

ありがとうございます!)




前回、『縄文の月神』が持つ

『死と再生』の力にふれました。





縄文の月神は、大地母神的であり

この「死と再生」の意味とは


人びとに、永久的な

『生』『死』の繰り返し



「輪廻(りんね)転生」をもたらすことで

あったと、書きました。



いつも、ブログの文章を

妻に読んでもらうのですが


妻の考えや意見を聞いて、文章を直したり

書き加えたりしてます。





最近の妻の話で


そうだったのかもしれないな

興味深いなと、思ったことに



縄文時代は、いまより

新生児死亡率がたかく、平均寿命も短く

人が生まれては、次々と亡くなっていく





集落の人びとが入れかわる

循環のサイクルも早く



妻曰く、そういったことから



人びとは、輪廻転生を信じるように

なったのではないかと。





内科的な病気になれば、それこそ盲腸でも

当時は、亡くなる可能性が高く


現在より、はるかに身近な「死」を受け入れて

(対峙しないとこころが、ポイントだと思います)



共同体を維持するためには

生まれ変わりの思想が必要だったのでは

ないでしょうか。





 そして、その思想の源が


満ち欠けをおこない

一年に12回、夜空でよみがえりをはたす

月への信仰だったのでしょう。





『縄文の月神』

この「死と再生」の神格以外にも





・太陰暦
 →月の満ち欠けによる暦(読み)

・生殖信仰
 →月と女性の生理周期との関連から、生殖を司る

・月の潮汐力
 →潮の満ち引きを引き起こし
    海を生業とする海人族と親和性がある

・月とは水を司る(次回に書きます)
 →古代、水をもたらす存在だった


 


このように、月の力が

さまざまな領域に及んでいました。



私たち日本人は、月に対して

郷愁、愛しさ、せつなさ、優しさ、母性

はかりしれない美しさを、見い出しますが






この感覚は、祖先である縄文人の想いが

私たちに、受け継がれているのかも

しれませんね。




縄文時代、地域・時代差はあると思いますが

あわく光りながら、夜空を照らす月は

(万葉集において『アマテル』は、月の形容詞です)



人びとを、照らし生かす

偉大な『女神』『グレートマザー』でもあり



『月の女神の信仰世界』とでも

 表現すれば良いのか






月の信仰の強い



『夜見(よみ)の国を、創りあげて

いたのではないでしょうか。




『よみ』は古い大和言葉で、中国の死者のおもむく

『黄泉(こうせん)の文字が当てられていますが

黄泉で、「よみ」とは読みません。

宛字(あてじ)でしょう。


『雲仙地獄』黄泉からはこのようなイメージを受けます
 



死者の世界が、現在のように陰惨化したのは

大陸からの思想が伝わったのちであり

はじめから死者の世界が「黄泉」

陰惨な世界、荒(すさ)んだ荒野ではなかったと

推定されています。


鳥取県米子市に夜見(よみ)があり

「皆生(かいけ)温泉」という海辺の温泉地があり

『よみがえり』の伝説があります。


やはり、現地の方の情報は貴重です。

引用させていただきます。





長さ16キロの日本最大の砂州

弓ヶ浜(ゆみがはま)があり

(弓は半月形から、月にも例えられます)




古くは「夜見が浜(よみがはま)といったそうです。

砂州が陸続きになる前は、島であったとされ

『出雲国風土記』には「夜見嶋」と記載されています。



 『その昔、出雲の稲佐(いなさ)の浜から泡となって流れ出た魂たちが、海岸に流れ着き、新しい身体と心がよみがえり皆、生まれ変わったことから、当地を〝皆生(かいけ)〟と呼ぶようになった』





出雲国・二宮である

『佐太神社(さだじんじゃ)がおこなう

(島根県松江市鹿島町佐陀宮内73)


(画像「wikipedia」より)


神等去出神事(からさでしんじ:神送り)

夜に行われます。


 



お祭りは、夜に行われることが多いのも

古代の月信仰が関係していると思います。







『月』は夜の支配者といえる存在ですが

じつは昼間も月は渡ります。

矛盾するようですが、月はかならずしも

夜の世界にのみ出現する神ではありません。



明け方に天照る月です。

これは月神に、また別の視点をもたらすと考えます。






縄文時代、女性の地位も高く

祭祀の中心のかなりの部分を

(沖縄の「御嶽(うたき)」にみられるように)


女性が務めていたと、私は想像しています。





『古事記』において

オホナムチを再生させるのは母であり

カミムスヒが派遣した

キサカヒメ・ウムカヒヒメは

貝の女神であります。


この神話には、「母系的な社会構造が

背後に潜んでいるようにみえる」


三浦佑之氏は指摘します。

(『出雲神話論』三浦佑之)





さて前置きがしつこく

いつものごとく、とても長くて

すいません。



今回のテーマに入りたいと思います。

(読んでもらった妻に

「ここからが本題なの!?」と笑われました)





月の死と再生が、もたらす

 縄文の『死生観(しせいかん)について


  ②の死生観からみた

   国生み神話の『女神・イザナミ』




さて、この二つについて

書きたいと思います。




結論としては



偉大な大地母神『女神・イザナミ』の

よみがえりを願うものです。





まず①について



月のもつ「死と再生」の力がもたらす

縄文の『死生観』についてです。



月とは、自然であり





つまるところ、月信仰とは

『自然崇拝』に他ならないのですが




『自然崇拝』とは

(日本大百科全書「自然崇拝」の解説より、抜粋)


自然現象に対する尊敬や畏怖(いふ)の態度の総称。

naturismの訳語として用いられる。

一般的には、天体(太陽、、星)、気象現象(風、雨、雷)、諸地形(、川、海、湖)などから、人間以外の動植物や岩石に至るまで、崇拝の対象範囲はきわめて広い。





日本一の神南備(かむなび)山『富士山』


自然も、不変のように見えて

人と同様に循環します。



山の樹木も生え変わりますよね。

(森林の多い日本でも、純粋な原生林の割合は4%です)



鹿児島県・屋久島の『縄文杉』


古代の規則的な植林のなされていない山は

季節のうつろいとともに、いまよりはるかに

多彩な色彩変化をとげていたはずです。



「山は、生きている」と縄文族は

思ったでしょう。






ちなみに、『岩』はまた別で(逆説的となりますが)




その形状の不変性ゆえに、「不死」の象徴と考えられ

「磐座(いわくら)」・「巨石」は、月と関係していた想像しています。


また別の機会に書かせていただきますね。




 



縄文人は、集落の中央にお墓を作る場合があり

家の中に埋葬するケースもありました。






「死」を遠ざけない価値観をもっており


月・自然と同様に


自分たちも「生と死」を循環すると

信じていたのではないでしょうか。



集落のそばにある貝塚も

単なるゴミ捨て場ではなく

その思想の反映と私は考えています。





東京都北区飛鳥山 『西ヶ原貝塚』
 





この「生」と「死」が

永久に循環するという、死生観に立てば




 

「死」は、やがてくる「生」の前段階

輪廻転生の『一場面』にすぎず

縄文人にとって、「死」はかならずしも

おそろしいものではなかった



 


のではないでしょうか。



私は縄文世界は、きわめて『女性的』であり

『月的』であり、『輪廻』・『循環』を信じる

(争いがなかったとは、思いませんが)






女性の地位も高く

大きくみれば、巨大な争いのない平和な

時代であったろうと思っています。



世界史的には、縄文時代は

『中・新石器時代』にあたり

単なる石器時代と思われがちですが





『人はなぜ死ぬのか?』



この根元的な問いに、答えを出し得る

きわめて精神性の高い文化を



築きあげていたのではないでしょうか。




『人は生きる(生まれ変わる)ために

 死ぬのだと』



 


さて、最後に②となります。



今までみてきた、縄文の死生観からみた

国生み神話の『女神・イザナミ』

ついてです。



イザナミは、夫のイザナギと契りを結び
(イザナミ・イザナギは、日本初の夫婦神です)




『イザナミ・イザナギ』
(画像「wikipedia」より)




イザナミは
日本の国土となる神々を次々に生み

『日本書紀』においては、あの三貴神

「アマテラス」「スサノオ」「ツクヨミ」を

生んだと記されています。





しかし、火の神・カグツチを産んだ際に

陰部に火傷を負い、その傷がもとで

亡くなり、黄泉の国に隠れてしまいます。



やがて、さびしさに耐えかねたイザナギは

妻に会いに、黄泉の国を訪問します。




 

『黄泉比良坂(よもつひらさか)

黄泉の国の入口とされます(島根県松江市東出雲町)



(画像「wikipedia」より)



 


とても有名なシーンで、誰もが一度は

聞いたことがあると思います。



(※このシーンは、複雑な要素があり、単純な理解はできないのですが、一つの視点を呈示するものです。今後とも追及していきたいテーマです。)




夫のイザナギが黄泉の国に会いにいった時



イザナミの身体は、すでに腐敗し

うじがたかっていました。



想像するだに、おそろしい光景ですが

いままでみてきた『縄文の死生観』

照らしてながめてみれば



はたして、この光景はかならずしも

おそろしいものなのでしょうか?



循環する『縄文の月の女神の世界』では



不幸な死のあとには、かならず

劇的な再生が待っているからです。





この場面の要素として

(とてもマニアックなので

興味のある方だけ、ぜひお読みください)


・イザナミは『黄泉戸喫(よもつへぐい)』

 「黄泉の国の食物を食べ、食べた者は

 黄泉から出られなくなる」

 古来、死者とともに食事も埋葬し

 これを食べることで、死者が蘇り墓から出てこなく

 なる。

 つまり黄泉戸喫とは、死者を黄泉の国に

 とどめおく呪術と考えられます。


・イザナギの来るのが遅かったため

 黄泉の食物を食してしまった、イザナミは語る。

 イザナギがもっと早く来ることができれば

 黄泉戸喫せずに、イザナミは現世に戻れた?

 

・イザナミは会いにきたイザナギに

 黄泉の国の王に相談してみるという。

 王の差配によっては、復活できる要素がある?


・黄泉の国は、死者の国とされるが

 のちにスサノオがいる「根の国」関係が

 あるのか?

 『古事記』『日本書紀』に明示されず。


・イザナギはイザナミに会いに黄泉の国を

 おとずれるが、ということは

 現世と黄泉の国はつながっていた(往き来できた)。

 最後にイザナギは巨石をもって、この道をふさぐ。

 現世と黄泉の国との道は絶ちきられた

 考えられる。


(※『古事記』『日本書紀』で記述も微妙に変わり

このように、様々な可能性が考えられます。)






私は日の光をあびて輝く

荘厳な社殿も、大好きですが



その一方で


・循環する『死』も内包する『自然崇拝』


・永遠に『死』『生』の間を

輪廻・循環する『月の女神の信仰世界』



どちらも、大好きです。



そして、最後にイザナミは



巨石をもって

黄泉の国からこの世への道をふさがれ

(『磐座(いわくら)『月』は関係すると考えています)





偉大な女神は『輪廻(夜見帰り)』することが

できなかった。

そういえば、いいすぎでしょうか。



巨石をつかい、道を封印したのは

夫であり、男神であるイザナギです。



そしてこれが、日本最初の『離婚』です。




ですが

私はこの神話の焦点は、離婚ではなく



(あくまで個人的な見解となりますが)

「死者の国」とされる

「黄泉(よみ)の国」


じつは、月の世界

『夜見(よみ)の国』であり





縄文族の信仰する、よみがえりの世界


『月の女神の信仰世界』を比喩した国の話で

ある点ではないかと、想像しています。





 『夜見(よみ)の国が

 『黄泉(よみ)に変わり


・イザナミが「死と再生」の女神から

『黄泉津大神(よもつおおかみ)』

 に変わった(変えられた)神話では

 なかったかと考えています。



 



縄文世界において、月は深く信仰され

月は『アラハバキ神』とともに

『生殖』をつかさどり



月とは子宮であり

死者の魂が、夜見(よみ)帰る


『室(むろ・もろ)でもあった。




私はこのイザナミの神話に




・秘された『縄文の月の女神』の気配


・縄文族の『夜見帰(よみがえ)り』

 死生観があいまいとなってしまった


・縄文の月神(女神)が、荒脛巾神とともに

 になう『生殖』の神格が、よくわからなく

 なってしまった。





この三点を感じますが

はたして、どうでしょうか。




私は、一万年続いた縄文時代

輪廻転生の循環する世界の中心にいたのは



『月』であり

『女性』であったと、考えています。




次回こそは


『月』『水』の関係 について





縄文の月神は、豊穣の女神たり得るのか?




このテーマについて、書きたいと思います。



続きます。

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