1985年秋、高校2年生だった曺貴裁(チョウキジェ)(54)は新チームで主将となった。覚悟はあったが、責任も感じた。「試合に出られない人も頑張ってくれるかな。攻撃も守備もチームをまとめることも、全部自分がやらなあかんと思っていた気がする」。サッカーへの情熱にあふれ、チームメートに発破を掛けることもしばしばあった。

 副主将は、岡本諭(55)と三崎竜夫(55)が担った。2学年下の妹・琴袖(クンス)(52)は86年春、洛北高に入学し、サッカー部のマネジャーになった。「兄は自分のサッカーだけじゃなく、周りにも気を遣わないといけないと背負いながらやっていた。助けてあげたいと思った」

 日本の「バブル景気」は1986年から91年まで続いたとされ、株価や不動産価格が高騰した。86年には京都市東山区に「東洋一のディスコ」と称された「マハラジャ祇園」がオープンした。


 春以降、チーム力は上向いた。6月の全国高校総体府予選で準優勝。チームメートが「(貴裁が)すごかった」と口をそろえるのが、翌月の近畿高校選手権で対戦した大阪の強豪・北陽高(現・関大北陽高)戦だ。後に川崎フロンターレの監督も務めた高畠勉(55)や、