極々一部の例外を除くとして、大半の生徒はどちらかというと憂鬱なイベント中間テストが終わり、クラスの空気は張り詰めたものから一転して弛緩し、鞭の後の飴とでもいわんばかりに林間学校の話でもちきりになっていた。
風太郎とてテストのことは重要なイベントだとは思っているが、娯楽と感じるような感性は持ち合わせておらず、クラス内の空気は別に悪いものではなかった。
とはいえ、それらに参加しようという気も毛頭ないのであるが。
「そういえば、そろそろ林間学校だな」
だから、風太郎の口からその単語が出てきた時、二乃は昼間に幽霊でも見たかのような顔をした。
あまりの驚きように、ノートを走らせていたペンが止まってしまっていた。
大きな声まで出かかったのを、すんでのところで自分で口を塞ぐと周りに迷惑をかけていないか見回した。
風太郎と二乃がいる場所は図書室だった。時刻は放課後。今日は下田の代打で授業をする日であった。
最近までわざわざ中野家に出向いて教えていたが、いくら家庭教師といえど同じ学校に通っているのだから毎回行く必要はないことに気が付いたのであった。
「あんたからその話が出るなんて意外ね。興味ないと思ってたわ」
「俺からすれば、むしろお前の方がもう少し浮かれてるかと思ってたんだがな」
そう言うと、二乃は先ほどとはまた違って虚を突かれたような顔をした。
それからすぐに、寂し気な苦笑をこぼして目を伏せた。
「そうね。こういうイベントは好きよ。あんたが私のことを少しは分かってくれているのも嬉しいわ。でも正直、あんまり乗り気じゃないの」
「なんでだよ」
「こういうイベントの時って普通、企画そのものよりも誰と過ごすかが大事だったりするじゃない?」
「そうか……?」
今までの学外での自身の経験と照らし合わせてみた。駄目だ、いつも一人でいた記憶しかない。
それこそせいぜい、小学校でこいつらと一緒に京都を巡ったのが最後だろう。まぁ……確かにあれは楽しかったが。
そんな風太郎の空気を察してか、二乃は若干引き気味に言った。
「あんたに共感を期待した私がバカだったわ……ちゃんと言うとね、林間学校はもう始まってるようなものなのよ。誰と飯盒炊爨をして、肝試しに参加して、キャンプファイヤーを踊るか。その約束をする今からもう楽しいはずなのよ。普通の人は」
「お前だって友達はそれなりにいるだろ。どいつが表に出てたって、それぞれ友達を作ってるじゃないか」
「それよそれ。問題なのは私たちが"それぞれ"の友達を作っちゃってることよ。考えて見なさい。二日目の肝試しの時に私、"二乃"と約束した子の目の前に、当日別の子の番になっちゃった私が現れた時の相手の心情を」
「それは、気まずいな」
「でしょ? だから基本的にこういうスケジュールが決まったイベントじゃ、私たちは個人的な約束は作れないのよ」
なるほどな、と納得した。
林間学校は三日間ある。普通は仲のいい友達とずっと一緒に過ごすだろう。
こいつらの場合は仮に一日目は賭けに勝って自分の番を引き当てたとしても、二日目は違うやつが出てくるのは必然だ。一日目に一緒に行動してた子とはそこで別行動になるだろうし、それは相手にも迷惑だ。
ならば五人全員の共通の友達を作れというのも酷な話だろう。
「だが、そしたらお前は当日どうするんだ?」
「普通に参加するわよ。約束できないってだけだから、当日休んじゃった子とか、あぶれちゃった子がいたらその子達と組むわ」
「そんなんでいいのかよ」
「仕方ないじゃない。それに慣れてることだわ」
実際、それしか二乃含むこいつらがマトモに参加する方法はないのかもしれない。
個人の話だから、教師が割って入って勝手にグループ分けをしたところで解決にはならない。。
何より贔屓しすぎだし他の生徒たちにわだかまりを生む可能性だって残っていた。
だからこうするしかないのだろう。だけど、まだほかにも疑問があった。
林間学校の日程はしおりの熟読のおかげで頭に入っている。だから各日程のイベントは頭に入っているのだが、その中で気になるものがあるとすれば──
「……肝試し」
「え?」
「あれ、二人組を組む前提の参加必須のイベントだったろ。残った奴が男子でも、組むのか?」
そう問いかけると、本日三度目ではないか。
その度に少しずつ違う感情が二乃の中では渦巻いているのか、まん丸に見開いた目でこちらを見てきた。
ややうわの空で二乃は答える。
「そりゃ、まあ」
「……そうか」
こんなことをどうして自分でも聞いたのだろうかと思った。
だけど、自分以外の男子と、二乃が、或いは他のやつらが夜の森の中で肝試しをしている光景を想像したら、みぞおちの辺りが重くなるような感覚がした。
だからその言葉が出たのは、そんな嫌な感覚を振り払うための咄嗟だった。
先ほど考えた都合のいい話。五人全員と面識があって、それなりに話したことがあるやつ。いるではないか。ここに。
「なあ二乃、いや、お前らの誰が出てきてもいいんだけど……俺と組まないか?」
『2017/10/30 二乃
やばい。超やばい。なんも考えらんない。風太郎君から誘ってくれるとか何事かしら!?
話の流れ的にはあれよね……肝試しはってことよね……でもでも、誘い方的には林間学校の間ずっとっていう風にも受け取れるし、もしかして私達キャンプファイヤーに誘われたのかしら!?
どうしよう。風太郎君、キャンプファイヤーの伝説のこととか知ってるのかな。知ってて誘ってくれたのかな!?
一応お誘いにはOKしておいたけど、そこまで確認しておくべきだったわ。
今からでも確認した方がいいかしら!? でもそれがやぶ蛇だったら、どうしよう!?』
『十月三十一日 三玖
絶対知らないと思うし、言わない方が良いと思う。フータローのことだから、可哀そうだとか寧ろ憐れんで提案したんだと思う。
一応ここ日記だし、今日のことを書いておくと────』
『2017年11月2日 木曜日 五月
昨日は一花の番でしたが、やはり書いてくれませんね……林間学校は三日間もあるのですから、彼女がどこかの日で出てくる可能性だってあるのですから相談をしたかったのですが……
とにかく、これはチャンスですよ二乃、四葉。当日、無事にあなた達の番が回ってきた時は成功を祈ります。
とはいえ羽目を外しすぎた時は、その次に私の番になった日に上杉君を思いっきりフるので、くれぐれも節度を持った行動をお願いします。
それじゃあ今日の日記です。────』
『11月3日 四葉
五月がお母さんと同じこと言ってる……でも意外。五月はそもそも私と二乃の上杉さんへのアタックには反対だと思ってたや。花火大会の日に上杉さんと直接"好きでも嫌いでもない"とかは言ってた記憶があるけど……五月は良いの? 自分の好きじゃない人と付き合うことになっちゃっても』
11/6 月曜日
登校前の朝、一花はそれまでの日記をまとめ読みしていた。
前日まで林間学校の話でもちきりだったが、後半の方はどうでもいい内容になってきていて、昨日の日記など二乃がどうやって風太郎との距離を詰めるべきかの作戦を綴っていた。
曰く、ニックネーム呼びはどうかということで他の子たちに公募をかけて、三玖が案を出した"フー君"が採用されたりしていた。
くだらないことで盛り上がってるなぁと、冷めた目でノートを見つめる一花の目はやはり、先週の四葉から五月への問いかけに目が止まる。
あれからまだ五月の番は来ていない。だから五月本人の回答を聞けたわけではないけども、一花からすれば──
「いいわけないじゃん」
吐き捨てるようにそう言った。
同日の放課後。
帰り支度をしていた一花の元へクラスの女子が寄ってきた。
「隣のクラスの前田君って男子が中野さんを呼んでるよ」
「私に? 何の用だろう?」
「もしかしてキャンプファイヤーのお誘いだったりして!」
「ないない。全然話したことないのに。ありがと、行ってくるね」
軽口を済ませてから出入口へと向かうと、校則ギリギリの茶髪をオールバックにしたガラの悪い生徒が待っていた。
こちらが出てきたことに気が付くと歩み寄って来たあたり、この人が前田なのだろう。
「お待たせ。何の用かな?」
「その、中野さん、ちょっと来てもらってもいいですか?」
「ここじゃダメなの?」
「ダメじゃないっすけど、あんまり良くもないというか……」
(まさか本当に……?)
歯切れの悪い返事をする前田の様子に、一花のアンテナがピンッと反応を示した。
教室の中を振り返る。
風太郎の姿はない。机にリュックサックは引っかかっているから帰ってはいないらしい。というより、一応この後授業を受ける約束なので帰るわけはないのだが、少なくとも男子から呼び出しがかかっていることは知られずに済んだ。
前田へと向き直る。
「分かった。移動しよっか。人気のないところがいいでしょ?」
「……っす」
男の子なんだから堂々としてほしいな、などと考えながらも、一花は前田の前を横切って先を歩き始めた。
自分だってこの学校に通ってしばらく経つのだから、人気のない空き教室には心当たりがある。
放課後の少し時間が過ぎたころになると、11月に入ったこの時期は大分夕暮れ時に差し掛かっていた。
誰もいない空き教室から差し込む橙色の太陽の光と、その光が届かない影の部分とのコントラストはいかにもな雰囲気だなぁ、などと他人事のように感じた。
一足先に教室の教卓側の扉から中へ入ると、先生用の机に腰かけた。
後から前田が入ってくるのを正面から見据える。
「それで話っていうのは、林間学校のこと?」
「はい……あの、中野さん。俺と……」
「うん」
「キャンプファイヤーを一緒に踊ってくれませんか?」
腰の横で拳を握りしめながらそう告げた前田の表情は、決して軽はずみに言っている様子ではなかった。
きっとキャンプファイヤーに伝わる伝説のことなんかも知りながら誘っているんだろう。
結びの伝説。キャンプファイヤーが終わりを迎える最後の瞬間に手を握っていた者たちは生涯添い遂げる。そんな話だったと思う。
「そのお誘いに答える前に聞きたいんだけど、君は私の体質のことは知ってる?」
「知ってます。多重人格なんですよね」
「うん、そうだね。私が誰かは分かってる?」
「一花さん、ですよね」
「ちょっと自信なさげだけど、正解だから良しかな。次だけど、もし私以外の子が最終日に出てきちゃったら、その時はどうするの?」
「その時は諦めます」
「一人になっちゃうけどいいの?」
「俺はなか──、一花さんと踊りたいんです!」
前田にそう言われた時、一花の心は微動だにしなかった。
「そっか、君は私が良いんだ。嬉しいなぁ」
(話したことも全然ないのに、私の何を見てこの人は私がいいと思ったんだろう)
「あの、中野さん。それで返事は」
「いいよ」
「え?」
「だからいいって。三日目がちゃんと私の番になったら踊ろうよ」
「本当ですか!?」
「疑り深いなぁ。やっぱりやめちゃおっかな」
「あ、いや、それは」
「うそうそ。楽しみにしてるからね。でも、あんまり期待はしないでよ。五分の一の確率なんだし、私と君の関係はキャンプファイヤーの後に決まるんだから」
「はい!」
「じゃあね。ばいばい」
最後に前田へ手を振ると、一花は教室を出た。
廊下に出た時、チラリと横目で見たが、そのまま通り過ぎた。何となくそんな気はしていたから。
廊下を歩きながら前田のことを考えた。彼のことは心底どうでもいい。それでも彼の誘いを受けたのは、当てつけが目的だった。
他の姉妹に、風太郎に、この体の持ち主は自分だというのに勝手に話を進められていることに腹が立って仕方がなくて、台無しにしてやりたかった。
何よりである。それは今回の林間学校の話に限ったものじゃない。
私の体の初めての恋人が私以外の子が好きになった人と結ばれてしまうのが許せなくて、だから風太郎を認められなかった。
だから、自分達の話を聞いていたらしい風太郎が、教室の外側の壁で寄りかかっているのを背に、そういうことだからと心の中で告げ、立ち去った。