五つ子ミルフィーユ   作:真樹

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14_散々な一日

 結論から先に言うと、中野五月は赤点を取った。

 正直に言えばその結果自体は誰もが予想できた結果だったため、五月は両親からもっと勉強するようにというごく一般的な家庭風景の一幕を見せた程度で後に引きずることはなかった。

 しかし、このテストの結果に対して一人だけやたらと落ち込んでいる男もいた。まあその男でさえも赤点を取るだろうという予想はできていたようだが。

 誰のことかと言えば無論、風太郎のことである。

 風太郎は下田と一つの約束をしていた。厳密には『賭け事』をしていたと評するべきなのかもしれないが。

 もしも五月が赤点回避できれば下田がマルオから受け取っている家庭教師の給料の一部が風太郎に渡されることになっていた。逆に赤点を取ってしまっても風太郎が何かする必要はない、一方的に下田に損しかない掛けである。

 この掛けは下田側から提案されたものであり、そんな不利な条件の掛けが持ち掛けられた理由というのも純度百パーセントの優しさによるものだった。

 

 風太郎は五月の家庭教師を始めるにあたって知らされているべきことをまったく知らされていなかった。多重人格のことや、五月が代表してテストを受けていることなどである。

 それら諸連絡がされてないことが原因で辞表を出す一歩手前まで追い詰められてしまっていたものだから、下田が対策を立てるまでの急ごしらえの措置としてお金という分かりやすいニンジンを風太郎の目の前にぶら下げたというわけである。

 風太郎も文字通りというべきか、現金な男なので分の悪い掛けなのはわかってはいたものの、自分の努力次第では手に入ったかもしれない臨時収入を取り逃したものだからそこそこの凹み具合を見せていたのであった。

 そんな風太郎が今日はいつもの通り家庭教師をしに来る日であった。

 そこで五月……もとい今日の出番であった二乃が風太郎を励ます作戦に出たのであった。

 

「ふふ、後は揚げるだけね。”上杉”には揚げたてを食べさせてあげたいし、ちょっとまだ早いわね」

 

 二乃は衣をつけ終えた揚げる前のコロッケをステンレスのバットに並べた状態のまま、一度手を洗った。

 ”上杉”という呼び方は慣れないな、と思った。

 先日、無事に仲直りをした風太郎と四葉の二人。それ自体は一件落着で二乃としても喜ばしいことだったが問題が一つあった。

 四葉が引き続き風太郎から距離を取ったままなのである。

 呼び方すら名前呼びから苗字呼びへと遠ざかってしまい、そんな中で自分だけ引き続き”風太郎君”と呼び続けてよいものかと思ってしまった。

 何しろ事の発端は恋の話に嫌気が差した風太郎を怒らせてしまったことが原因なのである。

 あれが四葉というよりは、どちらかというと一花のせいなのは理解しているが、とにもかくにも二乃が引き続き猛烈なアタックをして風太郎に嫌われでもしたら目も当てられない。

 そんなわけで呼び方を四葉に倣って苗字呼びにしたのだが──

 

「ガラじゃないわよねぇ」

 

 積極性に欠けるそんな判断を自分らしくないと思ってしまうのであった。

 自分の恋なんて初めてのことだから何が正解か分からないけれど、それでも自分が多重人格などでなければもっとドンドン前へと進む作戦を取っていたと思う。

 それに、今回は先に失敗例を見てしまったばかりに流石の二乃であっても積極的にアピールした場合のデメリットが見えてしまい、今は様子を見ざるを得なくなってしまった。

 

「何とかしないといけないわね……そうよ、別に四葉だって久しぶりの再会でいきなり告白なんてしたからアイツを混乱させちゃっただけで、仕切り直しをしただけなのよ。別にこれから距離を詰めちゃいけないわけじゃないわ」

 

 実際、今用意しているコロッケだってアピールの一環である。

 これと同様に呼び方だって彼に好かれるような呼ばれ方を考えればいいだけなのだ。

 

「風太郎君呼びのままなのはインパクトに欠けるわよね……いっそのことニックネームでも考えようかしら!」

 

 コロッケの繋ぎに使っていた卵のベタツキをようやく洗い落とし終わると、手を拭いてから二乃は寝室へ向かった。

 部屋に置きっぱなしにしているスマホで参考になる例がないか調べるつもりだった。

 キッチンと一繋がりのダイニングから、ふすま一枚を隔てた先が寝室である。

 頭の中ではすでに何通りかの呼び方を考え、やや上の空のまま駆け足でふすまに手をかけた。

 引き戸のふすまは二乃が思っているより遥かに軽い感触で勢いよく開かれ、ふすまの先、二乃の眼前には零奈の顔が突然現れた。

 

「きゃっ!」

「わっ!?」

 

 思わず瞑った瞼の裏側がチカッ、と光った気がした。

 そして数舜遅れてから響く額の強い痛みが走った。

 零奈とぶつかったと気づいた時には尻もちを付いていた。

 二乃の意識はそこまでであった。

 

 

 

「二乃、家の中で走らないでください……いたっ……結構勢いよくぶつかりましたね。あなたは大丈夫ですか」

「大丈夫じゃないよ。二乃ったらやっちゃったね」

 

 自分のせいではないというのに、未だじんじんと痛む額を抑えながら四葉は瞑っていた目を開けた。

 目の前では零奈も尻もちを付いていたようだが、すでに立ち上がろうとしていた。

 

「……四葉ですね。立てますか?」

「うん、大丈夫」

 

 立ち上がった零奈が手を差し出してきた。

 四葉はその手を掴み、同じく立ち上がる。

 

「それじゃあ私はでかけますから、何かあればいつも通り連絡をください」

「わかったー」

 

 よく見ればすでに出かけの支度を済ませている零奈は、四葉の脇をすり抜けて玄関へと向かっていった。

 四葉はその後を見送ってから、一人きりになった家で一息溜息を吐いた。

 

「二乃、まだ少し痛むよ。本当に気を付けてね」

 

 自分の中にいる二乃へメッセージを呟きながら、四葉は踵を返すと再びキッチンへと戻った。

 戻った先に広がっている光景に、痛む頭が更に痛くなった気がした。

 

「これ、どうしよう……」

 

 未だ揚げられていないままのコロッケの処理に困ったのであった。

 それに四葉がやらなければいけないのはコロッケの処理だけではない。料理の中でも何かと面倒な揚げ物をやろうとしていたのだ。洗い物だってシンクに残っているし、何より鍋には並々と注がれた油が溜まっていた。

 それらの片づけをしないわけにはいかないのだが、何故二乃の後始末を自分がしなければいけないのかと思うと、先ほどからずっとしている額の痛みも相まって腹が立ってきた気がした。

 なにか気が晴れることでもないかと思った時、一つの妙案が思い浮かんだ。

 

「私がやればいいじゃん。揚げるの」

 

 元々二乃の”作り立ての料理”には興味があった。

 そして今、目の前には二乃が用意してくれた料理のタネが揃っている。

 ぶっちゃけたことを言うと、料理は零奈よりも二乃の方が上手い。だから二乃の番の時には夜ご飯の担当は二乃になるのだが、当然食べるのも二乃本人である。

 だから四葉は二乃の感じた味覚を通してでしか二乃の作り立ての料理の味を知らなかったのだが、もしかしたら今は千載一遇のチャンスが到来しているのかもしれないことに気が付いたのであった。

 

「そうしよう。もうここまで出来てたら完成も同然だしね。油に入れるだけなんだから私だってできるはず!」

 

 一応コロッケを揚げる光景だって二乃の視界を通して見たことがある。

 このコロッケのタネを油に入れて、色が良くなったら取り出すだけ。それだけだったはずである。

 そうして自分で作ってしまうことに決めた四葉は油の入った鍋をコンロで温め初めてから、寝室のスマホを取ってきた。

 

「ふふふ、きっと今頃『あんたにできるわけないでしょ!』とか裏で騒いでるんじゃないかな。ご安心を、いくら私だって何も知らないままやったりしないよ」

 

 そう言って取ってきたスマホでコロッケの作り方をネット検索した。

 変なアレンジがされていない一番オーソドックスな作り方をしていそうな記事を見つけると、タネづくりの工程を勢いよくスクロールして割愛し、油へ入れるところで止めた。

 見たい場所は一つ、油の温度と時間である。

 

「なるほど、180℃で三分だね。タネは十個あるから三十分くらいかな」

 

 レシピ通りに作るなら一つずつ揚げるようにと書かれているが、時間の試算をすると作っている途中で風太郎が来るかもしれない。

 それに三十分もかけてたら最後のコロッケが揚がる頃には最初のコロッケが冷めてしまうかもしれない。

 せっかく作り立てを食べれると思ったのに、それでは本末転倒になってしまう。

 四葉の脳裏に再び、新たな妙案が浮かんだ。

 

「全部入れちゃおう。そしたら十個で三分だ」

 

 天才だと自分は思った。

 これならば自分だけじゃない、風太郎にだって揚げたてを食べさせてあげられる。

 

(二乃には悪いけど、後で上杉さんに褒めてもらお)

 

 流石に自分が作っただなんて嘘をつくつもりはさらさらないが、二乃が作ってくれた美味しいコロッケの感想を自分が貰ってしまうことに小指の先っぽくらいの罪悪感と一緒に期待で胸が膨らんだ。

 早速四葉は油の温度が上がったのを温度計で確認してからコロッケの投入を始めた。

 一個目を入れた瞬間、激しく跳ね始める油だがこれの対応には慣れている。

 続けて二個目、三個目とどんどん入れていく。

 そうして十個目を入れ終えた時と同時に、気が付いた。

 

「あんまりジュージューいってなくない?」

 

 全てのコロッケを入れ終えた油はシンッ、としていた。

 いや、多少は底に沈んでるコロッケたちからポコポコと反応している気がするが明らかに最初のようなザ・揚げ物中みたいな反応ではなくなっていた。

 試しに菜箸で突っついてみた。

 

「これ底の方でくっついてない!?」

 

 底に沈んでいるコロッケは菜箸で動かそうとしても微動だにせず、衣を押しのけて肉に箸が食い込もうとするばかりであった。

 どうしてこうなったという疑問と、どうしたらいいのかという疑問が同時に湧き上がった。

 何とかくっついているコロッケを引き剥がそうと菜箸の背の部分で押すと、まだ生肉の状態らしく簡単に箸がコロッケを割いてしまった。

 

「わー! 大惨事!」

 

 どうしようと最早パニックになりかけた頭で考えた。

 慌ててスマホで対処法を調べるけど、どこを見ても『揚げ物は一つずつ揚げろ』の一点張りで、やらかしてしまった時の対処方は出なかった。

 

「そうだ、お母さんさっき出かけたばっかりだしまだ近くにいるかも!」

 

 自分の足ならば間に合うかもしれないと思った四葉は玄関へと駆けだした。

 靴を履き、勢いよく扉を開けて外へ飛び出したと同時、また額に強烈な痛みを感じることになったのであった。

 

 

 

「いって……飛び出してくるなよ! 危ねえじゃねえか!」

「フータロー……どうしよう……」

 

 三玖は自分の番が回ってきたと気づいたと同時に途方に暮れた。

 自分の足では零奈に追い付けないからだ。

 四葉が何をやろうとしていたのかは独り言を話してくれてたおかげで概ね理解している。

 現在キッチンで起きている惨劇についてもである。

 零奈を追いかけるのも理屈上自分は四葉と体を共有しているわけだし、身体能力の上では追い付ける可能性はゼロではないかもしれない。だが体の動かし方というノウハウについては四葉の足元にも及ばない。だから精いっぱい走ったとしても零奈に追い付ける可能性は低いだろう。

 それに何よりだ。とりあえずやらないといけないことがあるのを思い出し、立ち上がった。

 

「三玖か。扉を開ける時はもっと慎重にだな──」

「ごめんフータロー。話は後で」

「おいどこ行く!?」

「台所」

 

 とりあえず点けっぱなしになっていた火の元へ戻ったのであった。

 キッチンでは依然として鍋の底にコロッケの塊が張り付いたままだった。

 さきほどと違う点として塊の内の半分くらいはちぎれて油の上に浮かんでいる状態に変わっているぐらい。

 改めて菜箸で底の方に沈んでるコロッケを突っついてみると大分火が通っているらしく、先ほど四葉が触った時よりは固くなっていた。

 くっついているコロッケを多少力を入れて引き剥がそうとしても、コロッケ同士よりも先に衣が剝がれそうなのでやめた。

 

(これはもう、手遅れなのでは……)

 

 遅れて部屋へ入ってきた風太郎はキッチンに立つ三玖を見つけた。

 

「邪魔するぞ……なんだ、料理中だったのか」

「料理中というか、料理中だったというか……」

「どういうことだ?」

「フータロー、これどうにかできないかな」

 

 半身を避けて風太郎の目線に鍋が入るようにした。

 今まさに料理でなくなろうと、鍋の底と油面でコロッケがそれぞれ遊んでしまってる状況を目にし、風太郎も顔をしかめた。

 

「コロッケ、だよな。どうにかって言ってもな……」

「フータロー頭良いんだよね。何か解決策知らない?」

「すまん、料理はらいはに任せっきりだからな」

「そっか……どうしよう」

 

 二人揃っても結局立ち尽くすしかできなかった。

 客観的な話をすれば風太郎でなくても現状から完璧なリカバリーをすることは難しいだろう。

 三玖……というより入れ替わる前の四葉の失敗は短時間で連続してコロッケを入れすぎてしまったことになる。

 高温の油の中に常温のコロッケのタネを入れれば当然、油の温度は下がる。複数入れればなおさらだ。

 低温の油では表面の水分が素早く蒸発せず、ベチャベチャな状態の時間が長くなってしまいその間に鍋底と追加投入されたコロッケたちとくっついてしまったというわけである。

 油面に浮かんでいるコロッケは十分に揚がっており水分も飛んで質量が軽くなった分、油の浮力で浮かぶようになったのだが既にくっついてしまっているため、コロッケの強度では支えきれなくなった分だけが引きちぎってでも浮かび上がってしまったというわけである。

 ではここからどうしたらいいかと言えばどうしようもなく、例えるなら一度混ぜた卵から黄身だけを取り出せと言っているようなもので、くっついたコロッケを一つずつ分けるのは最早不可能であった。

 

「とりあえず油から上げようぜ。焦がすよりはマシだ」

「そ、そうだね……」

 

 風太郎の提案に従い、とりあえず三玖は完全に融合を果たしたコロッケたちをバットへ取り上げた。

 網付きのバットに置かれたコロッケからはしばらく油がしたたり落ちており……なんというか──

 

「……べっちゃりしてる」

「お前料理下手なんだな」

「私が失敗したわけじゃない!」

 

 出来上がったコロッケを見て風太郎から零れた感想に、三玖は反射で眉を吊り上げた。

 本当に自分がやらかしたというわけでもないのに恥ずかしくなり、同時に何故自分がこんな思いをしないといけないのかと四葉が恨めしくなった。

 

「とにかく、これは捨てるしかないかな」

「何言ってんだ。もったいないだろ。もらうぞ」

「え、フータローこれ食べるの──あ!?」

 

 三玖が静止するよりも早く、風太郎はコロッケ……の欠片をちぎると口へと放り込んだ。

 不安げな顔で見守る中、しばらく咀嚼した風太郎は飲み込んでから一言──

 

「うん、普通に美味い!」

「えぇ……」

 

 本気で言っているのかと内心で思うも、風太郎の顔はお世辞で言っているようには見えず意外と美味しいのかもしれないと思った三玖は、自分も一口コロッケを頬張った。

 

「ぅえ」

 

 一口で吐き出した。

 それから残ったコロッケも問答無用で全てごみ袋へと叩き込んだ。

 

「なにすんだ、もったいないだろ」

「あんなのもう食べ物じゃない」

「……ならせめて俺がもう少し食べておきたかったが……仕方ないな。とりあえず授業を始めるぞ」

「待ってフータロー」

「なんだ?」

「今のは本当に私が作った奴のわけじゃない。少し待ってて。私が本当のコロッケを作るから」

 

 

 

 また結論から言うと、三玖の料理は”客観的に見れば”失敗に終わった。

 二乃が用意していた分は全て揚げてしまったためタネから作ったわけだが、いずれも最終的にはおはぎのように黒い塊が出来上がった。

 一見しただけでは百人見れば九十九人は何の料理か何かわからないような出来なのであったが、不幸中の幸いだったのは採点係が残りの一人側の人間だったというところである。

 

「さっきのより美味いな」

「本当?」

「ああ、本当だ」

 

 とりあえず二つ作ったコロッケの一つを平らげた後、高らかに宣言した風太郎。

 こちらから勧めるより早く、残りの一つも食べていいのかと聞かれてしまえば三玖としても疑い様もなかった。

 

「よかった……」

 

 自然と自分の顔がほころんだ気がした。

 見た目は悪いし、味見をしたわけでもないけど味には自信があった。だけどそれを人に食べてももらうとなれば話は別で、多少の不安があった。

 だけどそんな不安は風太郎の笑顔を見たら吹き飛んでしまった。

 

「納得いくもんができたなら、さっさと勉強を始めるぞ」

「フータロー」

「なんだ、まだ何かあるのか?」

「また、作ったら食べてくれる?」

「ああ、美味かったしな。いつでも食ってやるぞ」

「……!」

 

 風太郎には見えないようギリギリ気を回せたが、ほぼ無意識に拳を握りしめていた。

 自分でも不思議だった。自分は食べる側ではなく、作る側だというのにどうしてこんなに次の料理の機会に胸が高鳴ってしまうのか。

 もしかしたら、自分は違うと思っていたけど二乃と四葉の食う気に当てられて自分も──

 

「それに、ここで昼飯を食えればその分食費が浮くしな!」

「……そういうのは言わない方がいいと思う」

 

(やっぱり、ないかな)

 

 自分の風太郎に対する評価はあくまで”悪い奴じゃない”止まりかと再認識すると、風太郎に従って勉強を始めた三玖であった。

 

 

 

 勉強の時間がしばらくしてから、三玖は自分の集中力に限界を感じていた。

 うとうとするとまでは言わないが、風太郎の話を聞いても半分程度しか聞けておらず後でまた同じことを聞くなんてことが頻繁に出てきた。

 その三玖の変化は風太郎にも気が付くことができたらしい。

 

「少し休憩するか?」

「だ、だいじょうぶ」

「そうは言ってもお前集中できてないじゃねえか。無理に休憩を取る必要もないが、効率が落ちてきてるなら休むのも勉強の一環だ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「少し休んでろ。お茶を淹れてくる。戸棚勝手に開けるぞ」

「待って、お客さんにそんなことしてもらうの悪いよ」

「さっきのコロッケの礼だ。いいから座ってろ」

 

 三玖が返事をするより先に風太郎は立ち上がるとキッチンへ向かってしまった。

 諦めた三玖は目を伏せて額に手を当てると、一度深く息を吸った。

 少しでも頭を休めて、休憩が終わったらまたすぐに本来のパフォーマンスを発揮するためである。

 そこまでして勉強に専念しようとしているのも、別に三玖は勉強が好きだからというわけではない。他の子達よりはマシだが、むしろ勉強は面倒くさいと思っているくらいだった。

 だがそれでも風太郎に協力しようとするのは他の子達のためであった。

 二乃と四葉が自分の恋を始めようとしている。

 それに今まで半分諦めてきた一花との対話の機会を、自分達も風太郎を通して得ようとしている。

 それらのチャンスを失わないためにも、ここで風太郎には家庭教師をやめてほしくなかった。きっとこの考えは五月だって持っていることだと思う。

 逆に一花は花火大会の日、風太郎には家庭教師を辞めてもらいたいと言っていた。

 どうしてなのかは分からないけど、ハッキリとそう言ったからには自分達が何もしなければ状況はどんどん悪い方へと動いていくだろう。

 

(だから、頑張ろう……!)

 

 そう意気込むと、まだ風太郎が後ろでお茶を淹れてくれている間に書きかけのノートぐらいは綺麗にまとめてしまおうと、手元のシャーペンを手に取り芯を押し出した。

 親指に刺すような強い痛みが走った。

 

 

 

「いっ……!?」

 

 痛みの余り視界が点滅するような錯覚の後、痛みの原因へと目を向ければシャーペンを逆に握っていた。

 少しだが芯がすでに出ているペン先に親指を押し込んでしまったらしい。

 あるあるなことをしたな、と一花は三玖へ思った。

 こんなことで入れ替わるのか、と思った。

 かなりの痛さでは確かにあった。しかし先ほど二回の零奈と風太郎との正面衝突による頭の痛みに比べればマシな部類だったのだが、それでも入れ替わってしまったのは今日が三度目の入れ替わりだからかもしれない。

 マルオの診察ですら究明できていない入れ替わりの仕組みだが、こういうことは前にもあった。

 一日限りだが入れ替わる頻度が多くなってくると後半はちょっとした出来事で”これ”が起きてしまう。

 

(まあ、一晩寝れば治るからいいけどさ)

 

 次は更に簡単に入れ替わってしまうだろう。今日はうかつなことはできないな、と一花は今後の自分の行動に注意するように意気込んだ。

 一花の後ろから足音がした。

 風太郎が緑茶セットを持ってきたのである。

 

「待たせたな。これ飲んで少ししたら再開するぞ」

「あー、ありがとうね用意してくれて」

「三玖?」

「でもごめん。もうそれいらないや。三玖の番は終わっちゃったから、勉強も今日はここまでにしよう。フータロー君」

「……お前、一花か……?」

「こうやってお話するのは花火大会以来だね」

「俺が見てない間に入れ替わりやがったのか……何があったんだよ」

「三玖がやらかしちゃってねー。ほら」

 

 一花は自分の親指の腹を風太郎へ見せた。

 力を入れてシャー芯に押し当ててしまったせいで親指は黒い点がポツリとついており、内出血をしてるらしくその周りは皮膚の裏側で赤くなっていた。

 親指を見せただけで風太郎も理解したようで、やはりシャーペンを逆に持ってしまうのは結構あるあるらしい。

 口元に点を寄せて何事か考えている風太郎だったが、一花は気にせずに立ち上がると背を向けた。

 

「まぁそういうわけで、私に勉強を教える必要はないから」

「待て」

 

 背中越しの呼びかけてくる風太郎の声に、一花は背中を向けたまま振り返らなかった。

 

「なにかな」

「ちょうどいい、お前にはこのまま勉強を続けてもらう。お前だけは未だに一度も教えられていないしな」

「話聞いてた? 悪いけどまた今度でいいかな。君には関係ない大事な用があるんだよ」

「例の仕事ってやつか」

「だから関係ないって言ってるじゃん。詮索しないでよ」

 

 少し、語調が強くなってしまったと思った。けれど対する風太郎は動じていなかった。

 むしろ、この機会を待っていたとでも言わんばかりにこちらの言うことを無視して言ってくる。

 

「そうだな。俺はお前の仕事には関係ない人間だ」

「わかってくれてよかったよ。じゃあ──」

「だが、俺の仕事にお前は必要な人間だ」

「────」

 

 一瞬、一花は息を飲んだ。必要な人間。その言葉が一花にとっては特別な意味を持つ言葉だったから。

 他の子達が自分の中に生まれて、体を取られるようになってから世界に自分の居場所がどんどん無くなっていっていく気がした。

 だから爪痕を残したくて、私はここにいると示したくて、自分を必要としてくれる人が欲しくて、今の女優崩れみたいな仕事を始めた。

 だから風太郎から必要と言われた時は嬉しかったが、それで一花の考えが変わることはなかった。風太郎が自分を必要とする”理由”には予想がつくからだ。

 

「私に勉強をさせたい理由って、フータロー君は私をお金稼ぎの道具にしたいだけでしょ」

「そうじゃない。いや、確かに金も必要なのは事実だが俺はお前に勉強をしてもらいたいんだ」

「どうしてさ」

「やるからにはキチンとお前を卒業させなきゃらならないからだ」

「なら私が勉強しても意味無いって。学校の成績は全部五月ちゃんが基準になってるんだから──」

「違う。卒業しなきゃいけないのはお前もだ、一花」

「……何言ってるかわからないんだけど」

 

 風太郎が何を言おうとしているのかは分からない。

 だけど、どうしてか話の続きが聞きたくなってしまって一花は風太郎へと振り返ってしまった。

 風太郎と、目が合った。

 

「俺は今お前の話をしてるんだ。一花。俺が目指してるのは、五人全員を合格の水準まで引き上げることだ」

「なんで、そんな……」

「お前の中の何が原因で、お前が自分を周りの嫌われ者になってまで他のやつらの足を引っ張ろうとしてるのかはしらん。だがお前の人生だろ。お前が幸せになるためにもっとできることがあるはずだ」

「それは……」

 

 なにか言い返そうとして、何も言葉が出てこなかった。

 他の子達と風太郎の会話は一花だって聞いている。だから風太郎だけでなく、他の子達すら何故自分が家庭教師の邪魔をして、他の子たちと関わろうとしないのか知らない。

 だから誰も知らない。一花がどれだけ自分の人生に絶望し、諦めてしまっているのかを。

 自分は一生、あの子達に何もかもを奪われながら生きていくしかないと思っていることを。

 だから風太郎にそう言われて、”それ”のことをずっと忘れていたことに気が付いた。

 

(私の、幸せ……)

 

 そういえばずっと考えてこなかったことだ。自分の幸せより他人の不幸ばかり考える人生を送るようになっていた。

 だからまっすぐ自分の未来を見据えるというその考え方はとても素敵で、眩しいものだった。

 だけど一花は知っている。

 ”四葉”を通して五年前に見ていたから。

 風太郎が頑張る理由を。

 

「君だって勉強を頑張る理由はらいはちゃんを幸せにするためじゃん。他人のために頑張っている人に、そんなことを説教されたくないな」

「いや、十分自分のためだろ」

「え?」

「俺はらいはに幸せになってもらいたいから将来のために勉強をしてるんだ。俺にとってはらいはの幸せが、俺の幸せだからな」

「……そんなの、ただのエゴじゃん」

「かもな。だからお前もそういう風に生きろとは言わん。ここで勉強したことが将来に生きて、金を稼げるようになったとして、それはお前のために使えばいい」

 

 そう言って風太郎は言葉を切ると一花の反応を待った。

 一花は今一度、風太郎の言っていたことを振り返った。

 色々と言葉を尽くしてきたが要約すれば『俺はお前のために言っている』という教職に就くものなら誰しもが、むしろ鼻につくようなタイプの人物が言ってくるようなセリフだった。

 だけどそう考えて、改めて風太郎を見たが彼からそんな嫌な感情は感じ取れなかった。

 きっとそれは、風太郎が自分の言葉で伝えてくれたからだろう。

 要約すれば、などと偉そうに、そしてまるで風太郎より自分の方が頭がいいかのようなものの考えかたをした、それはむしろ──

 

(私っていつの間にこんなに捻くれた性格になっちゃったてたんだ……)

 

 自分の底の浅さを感じるだけだった。

 ここに来てようやく一花は自分の中に変化があることに気が付いた。

 風太郎の言葉に、少しは耳を傾けてもいいかもしれないと。

 

「分かったよ。今日はフータロー君の屁理屈に乗ってあげるよ」

「屁理屈のつもりはないんだが……」

「いいから、今は私のご機嫌を取っておいた方がいいよ?」

「お前は勉強を教えて貰う側だってのに……ったく。わかった。それでいい」

 

 渋々という顔をする風太郎に苦笑を漏らしながら、一花は先ほどと同じ席に再び着いた。

 こうして風太郎の隣に座るのは初めてだというのに、妙に収まりの良さを感じるのはきっと他の子達が先に経験しているからだろうから、そう考えたらまた少し心の中には靄がかかった。

 だけどそれも一瞬で、一度パチンと両頬を叩いた。

 ぶっちゃけ一花が家で勉強をするのは高校に入ってからは初めてかもしれなかった。授業は出てるし、他の子達が家で勉強をしている様子も見せられているものの自分の卒業には関係ないと思って話半分だった。

 テストだって受けたことがないし、だから試したわけではないが下手したら五人の中で一番頭が悪いかもしれない。

 せめて集中力を切らさないようにと意気込んでのことだった。

 

「急にどうした……?」

「別に、ちょっと気合いれただけだよ。あ、そうだ。お茶淹れてくれてたんだっけ。ずっと話してばっかだったし喉乾いちゃったから貰うね」

「あ、ああ」

 

 風太郎の返事を待つや否や、一花は急須から湯呑に少し注ぐと、すぐに湯呑をあおった。

 直後、緑茶の程よい苦みと同時に熱湯の猛烈な熱さが口内を襲い、悶えた。

 

 

 

「大丈夫か一花!」

「……あなた、沸騰させたお湯でお茶を淹れましたね……? 熱すぎるんですけど」

「一花……?」

「入れ替わる直前に一花がすぐに吐き出したので幸い大したことはありませんでした」

「……五月?」

「ええそうです、五月ですよ上杉君。せっかく良い流れだと思っていたのに、あなたという人は……」

「ようやくあいつに授業してやれると思ったのに……嘘だろ」

 

 結局その後、授業は五月のまま再開されたものの、その日は五月から別の人格へ変わる機会は無かったのであった。

 


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