「図録 土佐明珍鐔」公文久雄 著

幕末の土佐藩の鐔愛好家森四郎に関する資料をいくつか紹介したが、現代にも土佐に熱心な鐔愛好家がおられるのを知る。

この図録は、高知市の「山内文庫」にある山内藩の「御目見仕名字唱譜職人勤役年譜書」で土佐藩の鐔職人の経歴・事績を調べたものである。墓所にもあたって、資料の裏付けも取っている労作である。特に鐔工土佐明珍一派が中心である。

この資料によると、享保2年に甲冑師の門六が江戸で二十四代明珍大隅守宗介のもとに入門し4年修業して、河崎明珍門六宗利として帰藩し、甲冑と鐔もわずかに造る。
2代紋吾利雄の時、川崎と改め、五代続く。すなわち、川崎家は初代門六宗利、2代紋吾利雄、3代常平宗辻と続き、ここで断絶。鉄砲鍛冶岡義平の養育人の伊六が川崎家の4代を継いで、伊六宗義となる。伊六は文化14年に土佐藩甲冑師三代市川又平の弟子となり文政3年と天保4年の2度、江戸で赤坂忠則に学ぶ。5代が良次宗長である。門吾宗栄は記録になく、2代と関係があるようだが不明とのことである。

なお土佐藩には川崎家、市川家、野町家の鐔工がある。

それぞれの作品の図録も掲載されている。地方の愛好家が、このように地域の刀工・鐔工などを発掘するのは楽しい。昔の刀剣書には御国自慢で、各地の郷土刀工を顕彰していたが、最近は東京一極集中で、地方が元気がないのは、刀剣界に限らない。

なお、この公文氏の調査については、「刀剣美術」において福士繁雄氏が「刀装・刀装具初学教室(105)、(106)」に取り上げている。

余談になるが、私は昔、土佐明珍紀宗義の「鉢木透かし」(北条時頼が僧形になって、諸国を回っている時に下野の佐野源左衛門のところで宿を借りたが、暖を取る薪がなかった。主人は桜、梅、松の盆栽を薪にしてもてなしてくれた。時頼が鎌倉に戻り、触れを出すと「いざ鎌倉」と佐野源左衛門は馳せ参じた。そこで一夜の恩を借りた時頼が桜、梅、松に因む荘園を所領として与えたことを寓意した図)の鐔を持っていたことがある。赤坂後代の透かし鐔と同じようなものだが、少し野太い感じを持った記憶がある。

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