電子端末が普及し始め、若い子でもスマート端末を当たり前のように携帯するようになった昨今、紙とペンを握る機会というのは極端に減ったと思われる。
良いかどうかさておき、古くからの伝統である学校の授業ですらタブレットやノートPCの貸し出しがされるケースなども見受けられるようになり、いよいよ人は手で文字を書くということをしない時代が来たのだと皆が思っているだろう。
なんの話かといえば、結局今触れたいのは日記というものについてである。
三日坊主の代表例とも言えるこれを現代でも律儀につけている年頃の子というのは、気を悪くしないで欲しいがどちらかといえばマイノリティに属するのではないだろうか。
しかもそれが廃れつつある手書きでというなら尚更である。
そして中野家の子は世にも珍しくも、それを日課として実践にしている下手をすれば天然記念物に分類されるべきかもしれない存在であった。
ただし、目的だけが普通の子とは異なっていた。
普通の子が日記を書くのは、その日の出来事を忘却しないよう記憶に留めておく、あるいは読み返して当時の気持ちを思い出すためのものであるとすれば、彼女の場合は『他者へ伝える』ことが目的であった。日記なのにである。
花火大会を終え、次の登校日の朝、家を出る前に三玖は日記を開いた。
『2017年9月7日 木曜日 五月
初めて新しい学校に行きました。校内は綺麗で、先生たちも優しそうな人が多かったです。特に素晴らしかったのは食堂で、ここのメニューは前の学校に勝るとも劣りません。これからはお昼を食べるのが楽しみです。
ただし、一つだけ不愉快なことがありました。あなた方も見たでしょう、あの男子生徒です。上杉風太郎君と言ったでしょうか。頭は良いのかもしれませんが、ああも社交性に欠けていては将来が不安ですね。
これからの学校生活は楽しみですが、できるならば彼とはなるべく関わらないようにしていきたいです。』
『2017/9/8 二乃
朝は三玖、お昼は五月、そして夕方は私の三交代の日だったわ。あんたたちもう少し気をつけなさいよ。ただでさえ自分の時間取りづらいんだから。
それとあいつにも会ったわ。正確には五月が尾けられていたんだけど。しかも授業は私が担当って、マジ最悪。
授業もスパルタだし、ちょっと顔がいいからってこんなのが家庭教師なんて勘弁願いたいわ。怒られながら勉強するのなんてお母さんだけで十分よ。
今度お父さんに文句言ってやる。』
『9月11日 四葉
先にみんなに言っておくね。ごめん勝手なことして! 私も昔のことを話すだけのつもりで、告白をするつもりなんてなかったの! でも、抑えられなかった!
五月と二乃はもう風太郎君と会ってるはずだけど、覚えてないのかな?
小学生の頃、京都に修学旅行に行った時班のみんなと私が逸れちゃったことがあったよね。それで迷子になってたら男の子と出会って、それからは一緒に京都を回ったよね。覚えてる?
あの時の子だよ! 上杉風太郎君だよ!
やっと会えた……私たちはこんなんだから勉強も上手く進められなくてちょっとおバカだけど、風太郎君が約束を守ってくれるの嬉しかったなぁ。
本当だったらちょっと申し訳なくて言い出せなかったかもしれないど、お母さんがアドバイスしてくれて本当に良かった!
あ、ごめんごめん。ここにはみんなにも意味のあることを書かないと。
勉強はお母さんより教えるのちょっとだけ苦手みたいだけど、同い年だからしょうがないよね。むしろお母さんみたいに拳骨が落ちてこないから私は風太郎君の授業の方がいいかも……あ、今のはお母さんには内緒だよ?
風太郎君が今も頑張ってると分かった以上、私も自分の番の時は勉強すっごい頑張るから見ててね! その分みんなが楽になりますように!』
『九月十二日 三玖
何してくれてんの四葉。フータローから話しかけられることもなかったから良かったけど、すごく気まずかったんだけど。
私だって四葉に言われなくても覚えてるよ。裏で話聞いたし、フータローが約束を覚えていてくれたのは凄く嬉しかった。
それに好きか嫌いかって言ったら……まだ分からないけど、二乃や五月ほど嫌ってもいない。
だけど五年前だってお互い勉強を頑張るって約束しただけでそういう話は全くなかったのに、これじゃこっちだけ一人だけ盛り上がってる痛い子じゃん。
そういう自爆みたいなことは私の番じゃない時にやって
私以外の番でもやらないで! 結局見えてるんだから共感性羞恥凄そうだし!』
『9/13 一花
何も書きたくありません』
その後も毎日交代で日記は続いていた。
一花も気まぐれを起こした時にはその日あった出来事を書き残してくれることがあった。だがそれは大体、自分自身の記録のためという普通の日記の使い方に近いものだろう。
日記の内容は転入初日はたくさんのことがあったけど、それ以降は当たり障りのない日に戻っていた。
だから日記の内容は比較的普通の内容が続いていた。昨日までは。
『2017/9/30 二乃
今日は色々あったわね。今更書く必要もないと思うけど、改めて宣言しておくわ。二つね。
一つ目、私は風太郎君のことが好きよ。だから四葉に協力する。
私たちが同じ人を好きになった場合出てくる問題についてはおあつらえ向きに一花がごちゃごちゃ並べ立ててくれたけど、全部関係ない。私は自分のやりたいようにやらせてもらうわ。
それと二つ目。一花、私たちは頭の中まで覗き見できないからあんたが何を思っているのかは知らないけど、風太郎君の家庭教師をやめさせたいってことをわざわざ口に出したってことは私たちに知らせるためよね?
あんたの思い通りにはさせないわ。それだけよ』
元々三玖たちの間でも、一花と他の子達では明確な温度差はあった。
同じ体を共有している文字通り一心同体なのだから、争ったところでなんの意味もないはずだ。
それに今更私達を消すことだってできないというのに、一花はどうしても三玖達の存在を認められないらしい。
その想いが、自分より先に四葉がパートナーを作ってしまいそうだという焦燥から爆発したのだろうと思っていた。
今の考えを日記に書き残して、他の子達に共有するかは今日の夜、日記を書く時に考えるとして、今は日記を閉じたのであった。
一昨日のこともあって、流石の風太郎であっても教室に彼女が入ってきた時には自然と反応をしてしまった。
教室に入ってきた彼女は真っ直ぐに自分の席へと向かう。
彼女の席は風太郎の斜め二つ後ろ、最後列の席だ。
教壇側の扉から入ってきた中野は必然的に風太郎の真横を通る。
いつものことだし、別に学校では特に話すこともないため素通りされて終わるはずなのだが、昨日のこともありもしも今日が一花の番だったとしたら気まずいと風太郎は身構えてしまった。
「おはよう、フータロー」
「お、おう。おはよう」
抑揚のない声で一言だけ挨拶をされ、反射的に返事をしてしまった。
挨拶されること自体珍しいが、普通な話しかけられ方をしたのでどうやら一花ではなさそうだと風太郎は判断した。
ならば誰の番だろうと、自然に思考が回転する。
(だとしたら今日は……あれ?)
そして考えて気がついた。今のやりとりは自分が知るどの人格とも合致しないことに。
二乃ならばもう少し覇気のある話し方をするだろう。それにあいつは苗字呼びだ。
四葉も同様だ。元気印が取り柄なのだから話し方に違和感があるし、呼び捨てにもしない。
五月が一番近いと思ったが、結局あれも苗字呼びだ。
(だとしたら……)
風太郎は席を立ち上がり、"そいつ"の席に向かった。
席の隣に立つと、彼女は席につきカバンの中のものを机の引き出しに入れる作業を止めて風太郎を見上げた。
「なに?」
「お前、三玖か?」
「そうだけど、それがどうしたの?」
「"どうしたの"じゃない!」
「ちょっと」
大きな声を出した風太郎に三玖は困るように周囲を見渡した。
すでにクラスメイトの何人かがこちらを見ている。
「あまり大きな声出さないで。みんな見てる」
「いや、お前、そんなことより……俺とお前は初対面だろ? なんでそんな普通に──」
「……ちょっとこっちきて」
先ほどのような大声では無くなったものの、引き続き強い語調で話す風太郎に眉を顰めた三玖は、席を立ち上がると風太郎の手を引いて教室を出た。
同学年の教室群を抜け、突き当たりを曲がれば特殊教科用の教室棟へ繋がる渡り廊下に差し掛かる。
遠くからはまだ喧騒が聞こえるが、ここまで来ると途端に廊下を歩く生徒の姿は見えなくなった。
そこで三玖は風太郎の手を離すと、引っ張っていくために風太郎に背中を見せていた状態から身を翻した。
「話ならここでして」
「俺が話を聞きたいくらいだ。お前、なんで今まで表に出てこなかったんだ」
「別に普通に出てたし、学校の授業も受けてた。フータローが興味を持たなかっただけ」
「そうなのか……」
確かに風太郎は中野と話す機会を週に一度の授業の機会しか持っていなかった。
そして今月の授業の日に三玖の番である日はなかった。
だからこそ、彼女達と関わるようになってから一ヶ月近い時間が過ぎているにも関わらず三玖と話すのはこれが初めてになったというわけだ。
(こいつの体質上、一度の授業で五人のうちの一人しか相手にできないとなると、やはり今のやり方は要領が悪すぎる……やり方を変えるべきだな)
「話はもう終わり? それなら私は戻りたいんだけど」
「待て、その前に一ついいか?」
「……なに?」
「お前、放課後空いてる?」
放課後の三玖の予定を聞いたところ、残念ながら先約がいるとのことだった。
一応どういう用事かを聞いたところ、女子の私用を聞く不躾さに怒られながらも私用ではなく別の家庭教師の授業があるとのことであった。
そんな奴がいることなど風太郎は知らなかったのだが、自分と同じ境遇に立たされている人間がいるのならば得られるノウハウもあるのではないかと画策した風太郎は三玖の帰宅に同行することとなった。
そうして昨日から連日となったが、三玖の家にお邪魔して少しするとくだんの家庭教師が来訪してきた。
「ちーっす、お邪魔するぜー」
「下田さん、今日もよろしくお願いします」
もう一人の家庭教師は女性だった。スーツ姿に丸メガネをかけた三十代中頃と思われる外見の女性に、風太郎はどこかで見たことがあるような既視感を覚えた。
玄関で応対している三玖と、それに対する下田。
三玖の家は玄関から居間が見えるため、三玖の背中越しに下田と目があった。
「はいはい……そっちの坊主はなんだ?」
三玖の挨拶に生返事をしていた下田がこちらに興味を向けてきた。
三玖は半身だけ翻すと、奥の座卓にいるこちらを紹介してくれた。
「こちらは上杉君。もう一人の家庭教師です」
「あー、勇也のガキか。五月ちゃんの転校初日に会ったっけな」
「……ああ」
言われ、思い出した。
確か五月との初対面を失敗した翌日、謝罪のために向かった食堂で五月と一緒に昼食をとっていた女性だ。
あの時点で下田と呼ばれたこの女性は風太郎のことを家庭教師だと知っている風だった。
風太郎のことを思い出したようにすると、下田は室内へとズカズカと入ってきて風太郎の前で座った。
豪快な話し方を見せていた先ほどまでとは打って変わって、綺麗な所作での正座だった。
「初めましてじゃないが、一応自己紹介からだな。あたしは下田ってんだ。君のことは聞いてるよ。手が足らないあたし達の分を家庭教師をしてくれてるってことも、君自身のことも君のお父ちゃん、勇也にな。あいつとは腐れ縁なんだ。それにお母ちゃんのことも知ってる」
「母のことも……」
「全員同じ高校だったからな。それに三人揃ってクソガキだったから、零奈先生……三玖ちゃんのお母ちゃんにはよく拳骨を落とされてたよ」
「あの人、そんな暴力的な人なのか」
殴られていたという話だと言うのに何故か懐かしそうに話す下田に、若干風太郎は引いていた。
そんな下田に同意するように三玖。
「本当だよ。お母さんの授業は凄く厳しい。でも悪いことした時くらいしかゲンコツはされないから、多分下田さん達がよっぽどだったんだと思う」
「言うねえ三玖ちゃん! なんだか急に今日の授業は難易度を上げたくなったんだけど?」
「それは困ります……!」
こういうところがよく怒られているんだろうな、と内心で思うが自分に火の粉が飛んできて欲しくない風太郎は黙っていた。
それよりもである。
「そうだ、授業だ」
「あん?」
「あんたも俺と同じあいつらの家庭教師なんだろ。ならあいつらがどのくらい勉強ができて、何ができて、何が苦手か全部知ってるはずだ」
「そりゃまあ」
「協力してくれないか? 俺も俺が授業した中で気づいたことがあればあんたに伝える。だからあんたがこれまであいつらを教えた中で気づいたことを教えてほしい」
「……言われてみりゃ、なんでそんな当たり前のこと今までしてなかったのかって感じだな。もちろんいいぜ」
「じゃあ早速──」
「ただしだ、あたしからも提案がある」
そう言って下田が人差し指を立てた。
「提案?」
「勝負しないか? 再来週くらいに中間テストがあるだろ。そこで全教科の赤点回避ができたら、この子達の家庭教師代としてマルオから貰ってる給料の一部を君にあげよう」
「は? 何故そんなこと──」
「そ、し、て!」
提案の内容ははっきりいって無茶にも程があるものだった。
一花と三玖がどうかは知らないが、他の人格の模擬試験の点数はすべからく赤点を下回っている。全教科の赤点回避など下田と比べれば家庭教師として未熟な自分でも確信をもって言えることだった。
だから抗議の声を上げようとした風太郎を、下田は遮った。
「赤点回避ができなかったら、零奈先生からキツーい拳骨をあたし達二人とももらう。どうだ?」
そう言って下田は獲物を見つけた獣のような目で、そして笑みを浮かべた。