1977年。
ヤマハからパッソルが出た
ばかりの頃、「今度出た新
しい原付だ」と言いながら
ヤマハ系レーシングチーム
のオーナーがチームガレー
ジまで通う足として新車パッ
ソルを貸してくれた。
よく走るのでびっくらした。
それで板橋の店舗やガレージ
のある練馬までよく通った。
ある日、学校から帰ったら、
何かの用事で母が広島から
出て来て私の下宿先にいた。
首都圏から両親のみ広島に
引っ越した翌年だ。
私が借りているパッソルを
見て「あら、これいいじゃ
ない。ちょうだい」と言う。
「やらねーよ。借り物なんだ
から」と答えても言う。
「いいじゃない。ちょうだい
よ」と。
「だめっつってんだろ!」と
あたしゃ言った。
母親は、広島に帰ってから即
ヤマハの原付を買っていた(笑
ヤマハのお店に行った時「息
子がヤマハが良いと言ってた
ので」と言うと、店主が「奥
さん、よくわかっとる」と言
って大幅値引きしてくれたの
だそうだ。
おばはん、したたか(笑
1977年のオハナシ。
母は四輪車の免許の前に原付
免許を先に取っていた。
最初から原付バイクに乗る
つもりだったようだ。
母はその後原付仲間の主婦たち
と弁当作って原付ツーリングと
かも楽しんだそうだ。
1976年のホンダロードパルの
登場により50cc原付ミニバイク
が国内で脚光を浴びたが、爆発
的大人気となったのはヤマハが
ステップスルーのパッソルを
発売してからだ。
とんでもなく売れた。
数年後、ホンダはやむなく同じ
ステップスルーのスクーターを
登場させて、世に言う「ホンダ
ヤマハ戦争」時代に突入した。
今、ヤマハは50スクーターは
製造していない。
ホンダにOEM委託してヤマハ
のロゴをホンダ車に着けて販
売している。
ヤマハとホンダの競合対立は
1970年代末期から2010年頃
まで続いたが、グローバル化
の流れの中で、自動車産業の
再統合の潮流が二輪界にも
入って来たのだ。
カワサキがスズキに車両を
提供してバリオスがスズキ
GSX-FX(狙ったネーミング
だ)として発売されていた頃
もあったが、ホンダがヤマハ
の車両を受け持つなどという
事は1980年代には到底予想
できなかった。
それほど熾烈な市場争い、世
界競技の覇権争いをしていた
のがホンダとヤマハだった。
なお、50原付のヘルメット着用
義務が施行されたのは1986年か
らだったが、私は高校時代の
1977年にはヘルメットを着用
していた。
そうでないとチーム事務所への
出入りが禁止されていたので。
ただ、道交法としては、私の
高校時代には自動二輪でさえ、
30km/h速度規制の道路では
ノーヘルOKだった。
1975年以前の中学の頃は、高速
道路以外では全自動二輪が法定
速度の公道でもノーヘルOK。
死者が多く出た。そら、死ぬわ。
そして、ヘルメットを被りましょ
うというCMでヘルメット普及に
貢献したのも、女性層をターゲッ
トにした1977年のパッソル発売
からだった。
ヤマハが定着させようとした
「ソフトバイク」という造語は
定着しなかったが、まだ世間一
般では浸透していなかったバイク
という言葉をヤマハは普及させる
事に成功した。
バイク呼称は、その後国内では
一般化し、現在では日本語造語
であるバイクという単語を欧米
人たちも使い始めるようになっ
た。
すべてはヤマハとパッソルから
始まっている。
来年原付50新車は地球上から
消滅する。
寂しい限りだ。
最近、市内で女子大生や知り合
いの看護師さんたち若い女性が
原付スクーターで走っているの
を見ると、「お、いいね~」と
か思う。
完全なシティビークルとして
原付50は日本人に浸透していた。
日本が「世界一の性能のバイク
の国」だったのは、一重に原付
50の普及の影響が大きい。
原付50がその上の排気量の二輪
の販売活性化という派生的市場
を陰から支えていたからだ。
日本の二輪の世界に光を照らした
のは原付50だった。