The chefs and

VERMICULAR

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 2010年に東京・西麻布にフランス料理店「レフェルヴェソンス」を開店。連続してミシュラン東京の2ツ星を獲得し、2020年にはついに3ツ星を獲得した。アメリカのCNN制作による世界紀行番組では、フレンチを基本としながらも「日本の風土の豊かさ」が伝わる、東京を代表する料理として紹介された。

 新世代ガストロノミー界を牽引し、今や世界中から注目されている存在だが、本人はいたって穏やかな自然体。分け隔てなく誠実に接する人柄は、客やスタッフのみならず、食材を提供する全国の生産者からも愛されている。

 大学時代はジャーナリストを目指し政治学を専攻。在学中のアルバイト経験から料理の道へと進む。その後、現代フランス料理界において「自然から料理を創作する天才」と称されるミッシェル・ブラスの料理に衝撃を受け、イタリアンからフレンチへと転身。2003年より北海道の「ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン」で研鑽を積み、2008年からはロンドンの3ツ星レストラン「ザ・ファットダック」でスーシェフ(副料理長)を務めたのち、自らの店を開いた。

 店名にある「effervescence(エフェルヴェソンス)」はフランス語で「快活・生き生きとした」という意味。一皿一皿を味わいながら、豊かな自然とつながる喜びを感じ、命への感謝に包まれることが、人間本来の生きる哲学に沿うと信じている。それゆえ、ブラス時代に学んだ「地の食材」をふんだんに活かした料理を信念とする。

 2018年度アジアベストレストラン賞では、食材の調達基準や環境への配慮、スタッフの労働時間など、厳しい評価基準を満たしたレストランのみに贈られる「サスティナブルレストラン賞」を受賞した。しかし高い評価を得て、美食家の予約で席を埋めることが目的ではない。世界中の人々が幸せになるために、自分の力を使いたい。そのための料理、行動、生き方を追求する姿勢を、しなやかに貫く。

 目に見えるもの、肌で感じるもの。どんな対象でも実際に体験してみないと、物事の良さはわかりえないというのが僕の信条です。どんな自然を背景に、どんな大地で育まれた食材なのか。そういった風景に身を置く体験は、料理を独自の表現へと導いてくれます。四季折々をとらえる大らかな料理もあれば、季節の変わり目のたった数日間を旬としてとらえる料理もあります。ある一瞬ともいえる、わずかな時間を切り取った一皿によって、旬を味わい、季節を愛でることができる。その出会いをつくることが料理人の役割であり、責任でもあると感じています。

 ですから、北は北海道の礼文島から、南は沖縄の与那国島まで、契約を結ぶ全国の生産者とのつながりは、僕にとっての貴重な財産です。彼らとの出会いは、自分で探しあてることもあれば、先方からアプローチいただくことも。しかしどんな場合でも、僕は必ず産地へと足を運び、つくり手と一対一で対話をすることを大切にしています。

 もともと「旅」は僕のライフワーク。昔から旅先で出会いに恵まれる機会の多い人生を歩んできました。今使っている与那国島の塩も、沖縄県那覇市の中華料理店で居合わせたお客さんと話してみたら、実はその方がおいしい塩のつくり手だった。よくあるんですよ。東京に暮らして家と店を往復しているだけでは、こんな奇跡、まず起こらないでしょう。

 海外へも積極的に出かけます。昨年はブータンへ。今年もオーストラリアのアボリジニの人々が暮らす区域で「ハンティング」という伝統料理を学びました。ただ、料理のヒントを探す目的で旅へ出かけるわけじゃない。仕事も旅も地続きで、ただ自分の心が動き、足の向く方向へと出かけてみる。感覚を頼りに、つねに動いていることが自分にとって自然だと感じる。働く場所を選ばない、ノマド(遊牧民)ワーカーなんですよ、きっと。

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材料:甘鯛、そら豆、グリーンピース、花山椒、山椒オイル、乳清

乳清に一晩漬け込んでから、70℃に設定したライスポットの温度設定モードで3分間茹でる。この独自の調理法によって、しっとりと深い旨みが引き出された甘鯛。その鯛を主役に、グリーンピースとそら豆、花山椒など、春の食材を上品に競演させた。1年で1週間から10日ほどしか咲かない、はかない旬をとらえた花山椒に、日本の季節の繊細な美しさを伝えたいという料理観が宿る。

 以前、自分のルーツが気になって調べたことがあって。2万年ほど前まで遡ると、北方狩猟採集民へと行き着く。ずっと移動して生活する民族の血を引いていると知り、この落ち着きのない性分にも納得しました。料理を職業にしたのは「旅」というライフワークとつながっていることも、動機の一つなのかもしれません。

 料理人の仕事は、厨房で料理をすることがすべてじゃない。シェフである以前に人間であり、また地球上に暮らすこの惑星の住人でもある。だから自然との調和が必要だし、人でもものでも食材でも、相手を思いやることを自分の目線でちゃんとできているかどうか。その意識を忘れちゃいけないと、いつも思っています。



 大学では政治学を専攻し、世のなかの不条理や不平等を少しでもなくしたいと意気込んで、ジャーナリストを目指しました。昼は学校、夜は学費を稼ぐために働き、明け方に少し眠って……という猛烈な日々でしたが、せっかくなら働きながらおいしいものが食べたい!と、イタリアンレストランでアルバイトをはじめました。皿洗いからスタートし、やがて包丁を握らせてもらえるようになり、しだいに料理への興味が深まって。何より自分の料理に、お客様から直接言葉をいただけるのが嬉しかった。まさに「生きている」という実感。料理を通して人と直に触れ合う魅力に魅せられて、卒業後は西麻布に本拠地を置くイタリア料理店に就職しました。

 一方で当時、フランス料理に興味はあったものの、どうも素材が生きている気がしない。素材がありもしない形に変身しているような違和感があって。そんなとき、ニューヨークの書店でミシェル・ブラスの料理本がふと目に飛び込んできた。彼の料理はフレンチですが、ページをめくりながら、どれも素材の顔がちゃんと見える点に強く共感したんです。食べることは、命あるものを感謝とともにいただくこと。素材に対して誠実に向き合い、自然に敬意を払っていることが、ブラスの料理の写真一枚一枚から伝わってきて、「自分がつくりたいのはこういう料理だ!」と直感的に思いました。

 そして、ブラスの2号店が北海道の洞爺湖にあることを知り、ニューヨークから帰国するやいなや、すぐ飛行機に飛び乗りました。30歳でブラスの店に入り、自然の美しさの表現を、和食とは別の手法で、のびのび自由にやれるのも、フレンチの懐の深さゆえではないかと実感しました。

 その後、35歳でロンドンの3ツ星レストランでスーシェフを経験し、37歳で店を持つことができたのですが、店をオープンしてしばらく経ってみると、自分が全く幸せを感じられていないことに気づいたのです。フォーマルなファインダイニングは、ハレの日の舞台として使っていただくことがほとんど。それはとても誇らしいことだけれど、レストラン以外の社会との関わりが希薄なのです。

 料理人として評価されるだけでなく、社会から必要とされる存在にならなければ、やりがいを感じられない自分がそこにいた。ですから、当事者だけが利益を得るような仕事には興味が湧きません。食の産業全体を盛り上げ、世のなかを今よりも幸せにするために働きたい。大学の専攻とは全く違う道に進んだようでいて、実は根っこにある「皆が共に幸せであってほしい」という願いは、何も変わってないんです。

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素材:パープル白菜、金美人参、サラダゴボウ、ダンデライオン、レッドオゼイユ、マイクロセロリ、赤からし水菜、ターサイ、蓮根、芽キャベツ、紅はるか、マルバトゲヂシャ、カラスノエンドウ、キオッジャビーツ、ゆり根、インゲン、ツリガネ人参、赤コゴミ、雪うるいなど

日本各地で採れた旬の野菜約50種を使い、奥を山、手前を里に見立て、皿の上に美しい日本の山里の風景を描くように盛りつける。レフェルヴェソンスのディナーコースの3皿目に登場するサラダで、ここに使われる野菜の産地と生産者を記したリストも手渡す。
※レストランでは、写真左が手前となります。

 店を運営する立場としても、ベテランや若手の区別なく、スタッフ一人ひとりが個性と能力を発揮して、活躍できる場をつくることに力を注ぎたい。

 たとえば新メニューのお客様へのプレゼンテーションの言葉選びは、サービススタッフのセンスに任せています。僕の店では、スタッフ全員の料理説明を録画し、職場の全員でそれを見ながら意見交換し、最終的に僕が3ツ星で評価することにしています。ベテランの方が上手いかというと必ずしもそうではなく、豊かな感性を持つ若手スタッフの表現力に驚かされることもしばしば。

 年功序列に縛られると、切磋琢磨する空気が生まれにくい。キャリアに関係なくオープンに評価されることでベテランも若手も仕事へのモチベーションがアップします。公平性のある職場になればスタッフ全員が成長し、その結果として店全体のクオリティも上がります。

 社会から恩恵を受けながらここまで働いてこられた分、一緒に働いてくれるスタッフにも恩を返したい。ではどうやって返すのかといえば、高い給料を払うだけでなく、もっと相手の将来につながり、本質的な支えとなるもの。

 それは、この店を卒業したことが社会的な信用となり、彼らが自分の店を持ちたいと思ったとき、サポートしてくれる相手を見つけやすくなることではないか。そのために、僕の店は社会的に認められるレストランであり続けたいし、世間から与えていただいた価値を下げるようなことはしたくない。

 それが次世代の背中を後押しし、ゆくゆくはバトンを渡していくことになるのではないかな。料理人としての役割を与えてもらった自分が、社会に対して恩を返していくことが、大きな意味での自然の循環にかなうことになるのではないかと考えています。

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