まなざしと自我を脱構築するために

以前、ある友人が言った。絵画を買い求め、それを額装して部屋に飾ることは、自分が生活する空間にもう一つの窓を作ることに似ている、と。

私たちは生涯を通して自分自身の感受性や思考というフレームから世界やそこで経験するさまざまな事象を見る。そして解釈する。それは「私」を構成するさまざまな要素を認識する手段であり、あるいは過去、現在、未来と私がひとつながりの存在であることを保証するものとなる。そして時として牢獄のようなものともなる。私たちの知覚や認識、あるいはその解釈は、その精神というフレームにより制限されるからだ。

だからこそ自身の精神を拡張した居室に飾られた作品は、無自覚のうちに硬直させた精神に微かながらもアーティストという他者の精神をインストールする手段となり、それを眺める人に一時の自由を与えるのではないかと思う。あるいは“それまでの自分”という殻を内側から崩す抵抗の契機となる場合もあるかもしれない。

複数の作家の作品が展示される展覧会には、さらにそこにキュレーターによる編集や企画意図という要素が加わる。展示会場に訪れる私たちは前述のような窓を通して作家の目線や精神にアクセスし、同時にキュレーターが知覚する世界、解釈、メッセージに触れることで時として自己の視点やそれを通して見る世界を変容させる機会を得る。それはさながら物質空間にレイヤー構造の風景を投影するAR(拡張現実)のようなものだ。

2023年12月15日から2024年3月24日(3月10日から延長された)に、東京都千代田区のSusHi Tech Squareで開催された「都市にひそむミエナイモノ展」もそうであった。本来であれば、2023年12月14日に開催された内覧会でキュレーター塚田有那による各作品の解説とともに、本展に関する彼女の企画意図を、より精緻に知る機会を得られただろう。かつてそうであったように鑑賞した作品の感想を伝え、語り合う時間も持てたと思う。しかし、それは叶わなかった。内覧会の時点ですでに彼女は1年半余りの闘病の末に容態が悪化しており、2日後の12月16日早朝に36年の生涯を終えたからだ。

「都市にひそむミエナイモノ展」という展覧会タイトルは、どこか精霊や妖怪などが登場する民話や神話の世界を想起させる。塚田は特にこの5年ほどはさまざまなプロジェクトを通して、AIやロボットなど人工的なエージェントの社会実装と、生物種間のつながりと共生を考えるマルチスピーシーズの領域を接続させることを試みていた。また、岩手県遠野市の文化を体験するスタディツアー「遠野巡灯篭木」などの取り組みを通して、動物や妖怪、死者の魂など異界のものたちとともに生きる日本の地方や、海外各地の先住民文化にも強い関心を寄せていた。

各展示作品のレビューに移る前に、展覧会パンフレット冒頭に塚田が掲載した「はじめに」を引用する。

まちなかのなんの変哲もない景色が、ある人にとっては愛する物語の「聖地」になる。多くの人が行き交う都市には、人の数だけ異なる景色が存在します。もちろん、都市にいるのは人だけではありません。虫、植物、AI、ロボット——それぞれの目から見つめる都市の姿は、どんな風にうつるのでしょう?

自分だけが感じる愛着、何かがいそうな気配、ふと発見した小さなできごと。本展では、都市のなかで目には見えないものが喚起される現象に着目し、8組のアーティストによる“ミエナイモノ”たちが未来の都市への想像をかきたてる作品を展開。そこでは、AIや人工生命の目から見た景色や、100年後の人類が暮らす都市の姿が登場します。

あなたも、自分だけのミエナイモノを発見してみませんか?

本展キュレーター・塚田有那

1 gluon + 3D Digital Archive Project《Metabolism Quantized》

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《Metabolism Quantized》はデジタル空間上にある建築をめぐることができるインスタレーションだ。gluonは実空間にある都市や建造物、さらにはミリ単位のオブジェクトまでをスキャンして3Dデジタル化し、それらのデータをBIM(Building Information Modeling)データなどに変換し、それらのデータを統合することでプラットフォーム化するサービスを行っている。

同社を中心とした3D Digital Archive Projectでは、老朽化などで解体された建築物を3Dデータとして保存し、かつて存在したその場所の構造や空間の持つ雰囲気などをユーザーに伝えることで、今はない建物のLife After Deathを実現しようとしている。展示では、《中銀カプセルタワービル》[★01]★01 や《旧都城市民会館》[★02]★02など、解体される前に3Dスキャンした建物の中をアバターとなって探検することができる。旧都城市民会館の解体についてはgluonの中心メンバーでもある豊田啓介が、「実際行ってみて、あの凄まじいまでの違和感を伴う存在感は、内臓と骨格を外気に晒したまま立ち続ける生物未満の有機体としてのもので、期間限定、時代限定で機能する前提で生み出された仮設建築物なのだと強く感じた」と旧都城市民会館の3Dデジタルアーカイブプロジェクトのサイトに寄稿した記事で述べている。ある時代背景を前提としていたり、長持ちはしない構造の建物だからこそ放つ強烈なアウラというものは存在するし、だからこそそうした場所をデジタルアーカイブする価値はあるのだと思う。

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実は現在のような精緻な記録や再現がまだ可能ではなかった時代からも、結果的にではあるかもしれないが、それに近い取り組みがゲーム産業を中心に行われていた。個人や集団にとって特定の強いイメージや記憶を持つ場所や建物は、たとえアバターであってもそこに降り立って遊んだり特に目的を決めずに彷徨いたいという欲望を喚起する。

たとえば、1997年にリリースされたビデオゲーム『KOWLOON'S GATE クーロンズ・ゲート――九龍風水傳』は、かつて香港に存在した九龍城砦をモデルとしている。違法建築の上にさらに違法建築を重ね、膨張した迷宮のような城塞の光景は、国内外の文化人やクリエイターのインスピレーションを喚起させた。そこを記録した数々の写真集やビデオ作品のみならず、アニメ映画『イノセンス』(2004年)のシーンに九龍城砦と思しき場所が描かれたり、アミューズメントパークウェアハウス川崎店 電脳九龍城(2019年に閉店)のように九龍城砦そのものをイメージした内装を施した施設などが作られてきた。そんな九龍城砦は、イギリス領だった香港が中国に返還されるなどの背景から、1993年から1994年にかけて取り壊された。

セガの人気シリーズ『龍が如く』の神室町は新宿歌舞伎町がモチーフであるし、『探偵神宮寺三郎』シリーズも主に新宿区を中心に物語が展開される。こうしたビデオゲーム作品はストーリーやプレイヤーとしてその街を動き回るという遊びの体験からもたらされる印象とプレイヤー個人の記憶が混ざり合うことで、より強い愛着が呼び起される場合がある。スパイク・チュンソフトの『428 封鎖された渋谷で』もまた、2008年にリリースされた実写を使用したサウンドノベルで、行動範囲などの制約がかなりあるものの、それをプレイするたびに再開発前の渋谷の街にふたたび降り立つことができる。

都市の風景というものは、建物や店舗が入れ替わったり、大規模な再開発がされてしまうと日々目にする新しい風景に印象が上書きされてしまうことで、過去の景観の記憶が思い出と共にどんどんと薄れてしまう。《Metabolism Quantized》のように精緻な形での建築や都市のアーカイブは、一時でも過去のあの場所に還りたいという願望を満たしてくれるだろう。

2  セマーン・ペトラ《About their distance》

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聖地という言葉は『精選版 日本国語大辞典』(小学館)で次のように解説されている。

せい‐ち【聖地】〘名〙宗教的伝承と結びついて聖化されている土地。神聖視された自然の場所、人為的工作を施して聖化された区域、神殿や寺院などがおかれた聖なる場所、神、聖者、王、英雄にゆかりのある聖域などがある

現代は、これに加えてアニメやマンガ、ドラマといったコンテンツの舞台になるなど、何かしら個人もしくはファンダムなど特定の集団が持つ関心の向く場所を聖地と呼ぶことがある。これは日本に限った話ではなく、たとえばファンタジー小説シリーズ『氷と炎の歌』(1995年- )を原作としたHBOのドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』(2011-2019年)の撮影ロケ地の一つであったクロアチアのドゥブロヴニクに世界中からファンが訪れるなど、「聖地巡礼」は世界的にも観光産業の一つになっている。

日本のアニメを愛するハンガリー出身のアーティスト、セマーン・ペトラの創作の起点の一つは、新海誠のアニメ『秒速5センチメートル』(2007年)の終盤で主人公の貴樹が、少年時代に離ればなれになった思い人、明里と思しき女性とすれ違う踏切のロケ地(渋谷区代々木)だ。彼は2017年からその場所に通い続け、彼の網膜が映す実空間の風景と映像世界に描かれたフィクションの風景を繰り返し重ね合わせている。会場内にプロジェクターで投影したペトラの作品である映像作品《About their distance》(2023年)の中でペトラを模したキャラクターYourselfは、フィクションや夢、物質的な現実など複数のレイヤーで風景を見ながら都内を鉄道で移動する。それはとりもなおさず現実というもの自体を多層レイヤーとして捉えているということであり、自分たちはその中で常に宙づりになっているのだとモノローグでYourselfは語っている。

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同展示のスペースには、上記の映像とともに「あなたにとっての聖地はどこですか? その理由と共にピン〔著者注:付箋〕で貼ってください」というメッセージと首都圏の地図が掲示されていた。この問いと目の前に広げられた地図は、そこに存在するだけで鑑賞者の思い出や思い入れのあるコンテンツを想起させるトリガーとなる。

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私が二度目(一度目は内覧会)に訪問した時には、すでに都心部を中心に無数の付箋が貼られており、おそらくは制作者が意図したアニメやゲーム、小説などのコンテンツ以上に個人的な記憶を帯びた大切な場所としての「聖地」も多く示されていた。また、渋谷駅周辺のように人が密集しやすい場所には、他の場所と比較して色々な意味で人の業を感じさせる付箋が多いように思えた。

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この作品は展示会場全体の位置関係としては《Metabolism Quantized》の向かって右手に展示されており、内容としても関連性が深く接続可能だ。ある記憶やイメージを帯びた、もう物理的には訪問不可能な場所もまた、ペトラが言う所の複数のレイヤーの一つとして存在するに違いない。

3 Tomo Kihara & Playfool《How (not) to get hit by a self-driving car》

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木原共Playfool(コッペンダニエル、マルヤマサキ)による体験型の作品。タイトル《How (not) to get hit by a self-driving carーー自動運転車にはねられる(はねられない)方法》の通り、大規模なデータセットで学習した物体検出アルゴリズムSSD(Single Shot MultiBox Detector)に検知されずにゴールまでたどり着くのが勝利条件というゲーム形式の展示で、実際にプレイをしているとAIと「だるまさんがころんだ」を遊んでいるような気持ちになる。ギャラリーとなってくれる友人たちと体験すれば、さらに盛り上がって楽しめるだろう。

しかし、この展示は単にAIを使った体験型のゲームに留まらず、AIが実装された社会の中で私たちがどう生きるかを考えるうえでの重要な示唆を与えてくれる。2023年4月1日に施行された改正道路交通法により、完全自動運転となるレベル5の一つ手前であるレベル4の自動運転(一定の条件下でドライバーレス走行が可能)が一定の条件下で解禁された。現在は過疎地域や高速道路などの利用に限られるが、おそらく近い将来に都市部をふくめた一般道でも利用可能になるだろう。

パネルの解説に書かれているように、本展示は自動運転車の安全性を考えるうえで、一見歩行者とは思えないイレギュラーな状態の人間と遭遇しても事故を防げるかという問題提起のもとに制作されている。私は黒いロングコートを頭から被ってカメラに背中を向けた状態のままゆっくり進んでクリアした。別のプレイヤーは手足を伸ばして床に横たわりゴロゴロ転がることでクリアした。つまり、私をふくめてこのゲームをクリアしたプレイヤーは、高い確率で現在の自動運転車による事故に遭うのである。なお、このゲームではプレイヤーが勝利するたびに、AIが検知できなかったプレイヤーの画像データが蓄積されるそうだ。身体のシルエットが分かりにくい黒い装束を着る民族はいるし、何かしらのアクシデントで人が横断歩道を転がるケースだってあると思われるので、こうした私たちの遊びが未来の事故防止に何かの形で役に立てればと思う。

4 菅野創+加藤明洋+綿貫岳海《かぞくっち》

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菅野創加藤明洋綿貫岳海により制作されたインスタレーション《かぞくっち》は、東京都を模した勾配のある展示台で人知れずマイペースに暮らす人工生命の家族を観察することで、人工生命を遺伝や環世界の観点から理解するヒントとなる作品だ。台の上を動き回り、時々充電ステーションで休憩するロボットは人工生命単体ではなく彼らが棲む家という設定になっている。ロボットには小型ディスプレイがあり、そこをのぞき込むと数体の人工生命が動き回っているのを見ることができ、しばらく観察を続けると坂道や障害物の有無といった周辺環境の影響を受けながら、それぞれの家族の間にも差が現れていくことが分かる。

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生命の個体は一つひとつがNFTに登録されており、名前や家系、生年月日のデータと紐付けられている。そして実空間の約10分を12時間と設定された時間の経過と共に、繁殖による新たな個体の誕生や生涯を終える様子をオンラインや壁面に設置されたパネルで観測できる。

すでにAIやロボットは私たちの生活の中に入り込みつつあり、今後はそれがさらに拡大・浸透していくことが予想されている。《かぞくっち》はそうしたデジタルエージェントの持つ可能性を、人間以外の存在をふくめた“系”として捉えるマルチスピーシーズの視座を与えてくれる。

5 Qosmo《Artificial Discourse──すばらしい新世界に向けて》

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ChatGPTを実装したエージェントがロシアのウクライナ侵攻やジェンダーなど政治や社会問題について議論をする動画がモニターで展示されている。一通り、画像生成AIのStable Diffusionにより生成され柔和な笑みをたたえたAIたちが交わす、「決して相手の言うことを否定しない」平和な会話を聞いていたが、途中からそこはかとない嘘くささを覚え、うんざりした気持ちになった。おそらく、そうした違和感や不快感がなぜ生じるのかを自問自答することが、この展示の目的の一つなのだろう。作品タイトルの「すばらしい新世界に向けて」は、暴力を排した安定至上主義のもと世界統制官評議会が支配するディストピアを描いたオルダス・ハクスリーのSF小説『すばらしい新世界』(1932年)から引用している。そうである以上は、少なくとも「“感情やバイアスを持つ人間よりも客観的な判断ができるAI”たちによる正しく生産的な議論」を見せることを本作品を制作したQosmoは意図していないはずだ。

展示のパネルでは冒頭で「日々ニュースやSNSから流れてくる話題について、あなたはどれだけ自分の意見を持っていますか?」と来場者に問いかけているが、100%オリジナルの意見というものは殆どの場合存在せず、誰しもが他者の意見の影響を何かしらの形で受けながら自分の考えをまとめたり、他者の意見に賛同したり反対したりする(Xで他者の投稿を無言でリポストするだけの行為でも、Botでない限りおそらくはそこに理由がある)。

私たちは身体を持って実空間を生活している以上、そこでの経験や思考、それに伴う感情を例外なく持っている。逆に言えば、どれだけ借りてきたような意見であっても、そうした自身の経験の影響から逃れることは不可能ではないかと思う。ChatGPTによって作られたエージェントたちの議論が不気味で不快に思えたのは、身体的な経験や感情を丸ごと抜いたデータ処理の羅列を見せられたからではないか。ブース内にはアンケート用紙が設置され、そこに来場者が書き込んだ内容をAIが学習する仕様にはなっているが、身体感覚を伴う経験や感情がAIに導入されている気配は少なくとも三回の訪問のうちには感じられなかった。

6 藤倉麻子《あの山の裏/Tire Tracker》

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《あの山の裏/Tire Tracker》は、いつも目にする風景の裏側に存在するものをテーマに、展示スペースの外壁に投影された水辺や野球場の照明などを描いたアニメーション映像と、「山の裏」に見立てた外壁の向こう側にある部屋とで構成されている。向かって右手の入り口から部屋に入ると壁の裏はむき出しのベニヤボードで、その隅には忘れ去られたようにタイヤが積み重ねられていた。

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こうした野良タイヤは郊外ではよく見る光景だが、藤倉麻子はそうした車体から外れたタイヤを「達成の途上にあるもの」と呼んでいる。なぜならタイヤというものは「ある目的の達成に向かう媒介とみなされたもの」であると同時に「それ自身も達成に向かうもの」だからだ。中央には椰子の木が一本立てられている。振り返って出入り口を見ると、藤倉が書いたであろう言葉が出入り口の縁を飾るように小さく書かれていた。

「完全な状態」を名乗るタイヤが立てかけられた看板のうしろに空間の穴があいていて、あの山をみた。あの緑色のフェンスのところに連れ戻される。野球場のライトはいつも境界に定められるところにあり、街灯と似たような役割を持つ。付け根を見ていていつの間にか水がきれいな遠浅の海に飛ばされた人もいるらしく、あの山に近づくとあの山の裏は遠くなる

一部だけ切り取られた外壁から部屋の奥の壁に映像の断片がこぼれるように投影されては過ぎ去っていく。そこに流れる静かな四つ打ちを交えたギターのサウンド、時折近づいては通り過ぎる車の走行音を聞いているうちに、抗いがたい充足感や安堵感を覚える。取材に来たつもりが、どうやら私はあの山の裏にとらわれてしまったようだ。

藤倉は、現代の都市に原始的な呪術性の存在を見いだすことをテーマに、3DCGアニメーションによって都市郊外の風景を制作してきた。人工的な構造物やインフラなどが人間による制御や本来の機能から逸脱して自走する映像や、自身が制作したアニメーションの中に存在した物体を実空間の中で具現化して展示することで、内面的な風景のイメージを浸潤させることも試みている。

エイベックスが運営するYouTube チャンネル「MEET YOUR ART」のインタビューで藤倉は、ペルシャ語が使われる中近東から中央アジアに存在する平坦な砂漠の上に建てられた建築や、神秘主義スーフィズムの思想に関心を寄せたため東京外国語大学時代にペルシャ語を専攻したと語った。

スーフィズムは、自我から脱却して神と一体となることを目指すイスラム教の実践形態の一つだ(宗派とは異なる)。藤倉は、自我とともに自分を取り巻く景色を捉えていく視点すらも消失させて完全に合一することで充足感を得られるあり方に惹かれたと語り、それが彼女の作品に通奏低音のように流れるテーマの一つとなっている。

たとえば「朝の楽しみ方」は、彼女が生まれ育った埼玉郊外の関東平野の上に存在する高速道路や橋脚のような太い柱、ショッピングモールなどの巨大な構造物に強くフォーカスする彼女自身の視点を表現するため、時には極彩色で表現するなど構造物を際立たせている。「群生地放送」には、さらにそこに付喪神に似た呪術性や存在するかもしれない主体性を人工物に付与した表現をしている。

風景と自我の間には圧倒的な断絶があると藤倉は感じており、そうでありながらもその断絶のその先に広がる領域が存在することを願っている。郊外の風景に向けた彼女の眼差しの先にある充足は、おそらく彼女がスーフィズムから感じた自我の消失に伴う自我と風景の合一につながるのではないか。そう解釈した時、《あの山の裏/Tire Tracker》に強く惹かれる理由が少し自分の中で整理できた気がした。

7 佐藤朋子《オバケ東京のためのインデックス 序章 Dual Screen Version》

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2021年にシアターコモンズで初演された佐藤朋子のレクチャー形式のパフォーマンス《オバケ東京のためのインデックス 序章》は、再構成された映像インスタレーション版を巨大なスクリーンに投影する形で公開された。《オバケ東京のためのインデックス》はすでに三作目となる第二章まで発表されているが、本展示はその序章である。

オバケ東京とは、岡本太郎が1965年に当時彼が連載を寄稿していた「週刊朝日」で発表した「都市建設への提案——オバケ都市論」 [★03]★03で提唱した、東京にほど近い千葉県沖あたりの海上を埋め立てて、行政や立法も独立したもう一つの東京を作るという構想だ。これは他の海上都市構想とは異なり、東京や他の地域を拡張させた存在としてではない。オバケ東京宣言で岡本が述べた「東京に不満をもつ、あらゆる人間がそこに移り住んで、アンチ東京を結成するのである」という言葉からも明らかなように、あくまでも「オバケ東京」として、もう一つの東京を作るというものであった。

岡本によれば、実在する宇宙とはすべて逆の分子構造を持つ「反宇宙」は我々の住む宇宙と衝突すれば対消滅を起こし、すべてが無になるという。そのような反存在が仮にあるとすれば、人間に対する反人間はオバケや幽霊の類いである。それは、あると同時にない、ないと同時にある存在であり、その有無を問うこと自体が間違っている。故に、東京に対する反東京が「オバケ東京」ということになる。

このように岡本が宣言した「オバケ東京」に関する資料は少なく、佐藤は現代における「もう一つの東京」とは何かを問い続け現代の東京に接続するために、まずは序章となる本パフォーマンスでは、都市の持つ背景や歴史、小説家であり岡本太郎の母である岡本かの子の小説『鮨』に登場するゴーストフィッシュや1954年に公開された映画『ゴジラ』に対する考察などを交えて佐藤自らによる語りを乗せた。その後も続編を公演したり、参加者を募ったフィールドワークなどを開催しながらオバケ東京およびもう一つの東京に関する索引を編み上げるプロジェクトを続けている。

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8 長谷川愛《Parallel Tummy 2073》

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著書『20XX年の革命家になるには──スペキュラティヴ・デザインの授業』(ビー・エヌ・エヌ新社)で長谷川愛は、次のように書いている。「スペキュラティヴ・デザインとは態度であり、有効なメソッドは存在しません。ここから学べる最も大事なことは、自分でもばかばかしいと思えるような夢想でも、一度声に出してみれば世界に見せうるものになるかもしれない、ということです」。そして、同書の編集者でもある塚田有那は、「この社会をつくるのは人間であり、未来を変えるのも人間だ。長谷川が『夢想』と呼ぶスペキュラティブ・デザインの態度は、そんな人間一人ひとりの痛みや疑問からはじまり、いまを脱しようともがく人々の小さくて儚い夢の集積から生まれている」と編集者あとがきに記した。

長谷川は彼女のキャリアにおける作品の制作を通してそれらを実践し続けてきた。たとえば《(IM)POSSIBLE BABY, CASE 01: ASAKO & MORIGA》では、リプロダクティブ・ライツや同性婚、技術とその活用における倫理的な課題を巡る議論に対し、「今は存在しないけど、未来にはあるかもしれない家族」の姿を描くことで、それを見る人々の固定観念を揺らした。本展で発表された作品《Parallel Tummy 2073》は、いわばその続編にあたると私は捉えている。本作品は、量子コンピュータやAI、衛星インターネット通信や災害の予測や対策などが進み、人工子宮が使えるようになった2073年の海洋都市・東京を舞台にしている。そこでは健康寿命が長くなり人生の選択がより自由になる一方で、高齢女性や同性カップルはもとより、仮に100歳の独身男性であっても子どもを持つことが技術的には可能となる。

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人工子宮は公的なサービスであり所定の公的な手続きを通せば、希望者は一生に一度は無料で利用できる。その時、それを利用したいと願う人々が何を考え感じるのか、制度の門番として役所の人間は申請者に対してどのように振る舞うのか、マスコミではどう議論をされるのか、それぞれの立場の人々が何をもって子どもの幸せを決めるのかなどが制作過程で行われた3時間以上にわたるLARP(ライブアクションロールプレイング)ワークショップの記録映像や、各セッションのプロットや振り返りがまとめられたパネル展示などで表されている。ブースには付箋と筆記用具が置かれており、来場者は自身の考えを書き込んでボードに貼ることで作家やワークショップの参加者が行った議論に参加することができる。

全体としてこの「都市にひそむミエナイモノ展」は、人の記憶や想像力を重ね合わせながら、あったかもしれない都市の姿を描く作品が多かった。長谷川の《Parallel Tummy 2073》はその中でも、私たち一人ひとりが主体的にコミットすることで実現でき、さらには想像するよりも良いものにできる可能性のある未来社会の姿を予感させると感じた。

喪失と鎮魂、再生への願い──2つの特別展示より

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以上の8点の展示に加え、特別展示として東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻 八谷和彦研究室から2人のアーティストが作品を発表した。島田清夏は《おとずれなかったもう一つの世界のための花火》と題して、2020年のコロナ禍のなか感染防止として中止された日本全国の花火大会で予定されていた開催地および開催時間のデータを解析し、1秒を1日に見立てた265秒のインスタレーションを公開。喪失や静寂を表現することで、昔日の華やぎや、本来ならあったはずのものを見る人の心の内に鮮やかに想起させる。

1月から5月頃までは、ドーン、またしばらくしてドーンという具合に、まばらに打ち上がる花火は6月下旬から9月まで立て続けに打ち上がる。実際に花火大会が開催されたのであればそれぞれの土地には大勢の人々の気配や騒めき歓声などがあり、それらがさまざまな媒体に記録され、時にはSNSなどにも投稿されていたはずだ。しかし、島田が展示する《あり得たかもしれない花火大会》は、打ち上げ音を除いては静寂が広がるばかりだ。そのことが、失われた花火大会というものに象徴される、たとえば学校生活や実空間での人々の関わりといった本来なら当たり前にあったはずの人間の営みやそれらに伴う感情や記憶の喪失を際立たせる。そして、失われ二度と取り戻せない時間や、場合によっては死によって永遠の別離を迎えた大切な人たちへの鎮魂の祈りの気持ちを呼び起こすのだ。

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平野真美の作品《蘇生するユニコーン》は、展示場所の中央に実物大として設定された空想上の生物であるユニコーンの身体が横たわり、微かに腹部が呼吸に合わせて動いているのが見える。平野はさまざまな資料からの考察をもとにユニコーンの身体を構成する骨格や内臓、筋肉、皮膚などを制作し、そこに酸素や液体を送り込むことで呼吸や血液循環をうながして蘇生を試みている。実際にユニコーンの前に立つと、それがアート作品として作られたものであると知っているにもかかわらず、辛うじて延命措置が施されながら死に瀕しているようにも見えるため、かつてそれが生きて活動していた過去があるかのような錯覚を覚える。横たわるユニコーンの目はまどろんでいる。どのような夢を見ているのだろうか。

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投げられた壜と魂の行く先

2017年9月から2018年1月までICCで行われた情報環世界研究会の成果をまとめた書籍『情報環世界』(NTT出版)で塚田有那は、「私たちは無数の『個人とともに死ぬ記憶』と共に生きています」「芸術は私たちに新鮮な感情をもたらし、他者と“関係し続ける”手段になる」と述べていた。本展の制作プロセスにおいて彼女が実際に何を考え感じたのかは、展覧会の会場に赴き作品の一つひとつと向き合うことによって推察するほかないが、そのプロセスこそが今は亡き彼女や参加したアーティストたちをふくめた他者との対話に他ならないのだと思う。

そして会期中に訪れた来場者の何人かは、SNS投稿や友人との会話などを通して自身の考えや思いを語るだろう。情報の海に漂う無数の人々は、波の狭間でそのような投壜通信と出会うのかもしれないし、出会わないかもしれない。あるいは出会ったとしても何となく通り過ぎて忘れてしまうのかもしれない。けれども、きっと誰かがそれを拾い上げて蓋を開ける日が来ると信じたい。

■展覧会概要
「都市にひそむミエナイモノ展 Invisibles in the Neo City」

会期:2023年12月15日〜2024年3月24日
会場:SusHi Tech Square 1F (東京都千代田区丸の内3-8-3)
クリエイティブディレクター:田尾圭一郎
キュレーター:塚田有那
キュラトリアルアドバイザー:山峰潤也(株式会社NYAW)
展示コーディネーター:莇貴彦、阿久津豊、本間大地(CG-ARTS)
展覧会エンジニア:金築浩史
チーフコミュニケーター:菊地虹
空間デザイン:井上尚志(t.i.d.a., Inc)
デザイン(メインビジュアル、チラシ、ポスター、展示バナー):hata design
デザイン(会場配布パンフレット、冊子、展示パネル類):宮外麻周(m-nina)
編集:松﨑未來
「みんなのかんしょうガイド」キャラクターデザイン&作画:太田剛気
企画・総合制作:TOPPAN株式会社
アドバイザー(クリエイター選出にあたっての助言):青木竜太、池上高志、竹内昌治、椿玲子、豊田啓介、舩橋真俊、藪前知子、渡邊淳司

★01 黒川紀章が、建築設計した集合住宅で、メタボリズム建築の代表作(1972年竣工、東京都中央区銀座)。取り換え可能な140個のカプセル型居住空間が2本の主柱に取り付けられ、新陳代謝することがめざされた。一度も交換されることはないまま、2022年に老朽化のため解体された。 ★02 菊竹清訓が、建築設計した公共施設で、メタボリズム建築の代表作(1966年竣工、宮崎県都城市)。カタツムリのような類例のない外観で世界的な評価も高い一方で、低予算のため、雨漏りなどの欠陥の問題も抱えた。2007年市民会館としての役割を終えて以降、再利用が何度も検討されたが、2020年に解体された。 ★03 『岡本太郎の眼』朝日新聞社、1966年、pp. 224–225