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震災のことは知らなかった私 いま、石巻にいます

東日本大震災の発生当時、私は中学2年生。先輩たちの卒業式の前日で、予行演習をして自宅に帰ったと思う…
というのも私は、11年前のその時のことを今、はっきりと覚えていない。

それから7年後。私はNHKの記者に内定。
今は大きな被害が出た宮城県石巻市を拠点に取材を続けている。

「被災地を伝える役目です」

東日本大震災の時、私が住んでいた兵庫県加古川市は震度2だった。テレビに映る光景は、行ったことのない遠い場所で起こった出来事で「大変だな」とは思ったが、中学生だった私は自分ごととしては捉えていなかった。

その後、大学を卒業するまで、ずっと関西で過ごした。
マイノリティーの人たちにも生きやすい社会つくりたい。そう思って記者を志望し、NHKに内定した。

配属発表で告げられたのは「仙台」

「震災から10年目の被災地を伝える役目です」

人事担当者からはそう言われた。
しかし、私は何かを伝えるには被災地のことを知らない。知らなすぎる。
頭が真っ白になった。

「私も宮城に行ったやん」

まずは仙台に決まったことを、母に知らせなくては。母に電話を掛けた。

「仙台になった!」
「縁があるもんやな、私もボランティアで宮城に行ったやん

母は歯科医。震災の年の5月と10月、ボランティアとして被災地に行っていた。訪れていたのは、宮城県気仙沼市。

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2011年 気仙沼にて 向かって左側が母

当時は母が持って帰ってきたボランティア用のカラフルなTシャツや、医師たちの写真を見ても、なんとなく「何かしてきたのだろうな」くらいにしか思っていなかった。

改めて当時のことを聞くと、母が担当していたのは、市立病院に入院する人たちの支援。震災後、衛生環境がよくない中で、肺炎などになるのを防ぐため、口の中をきれいに保つ必要があったという。

でも、なぜ兵庫から直線で約750キロも離れた気仙沼市まで向かったのか。

母に尋ねると、そこには今まで知らなかった、いや私が知ろうとしなかった母の体験があった。

「何もできないことがとてもつらかった」

1995年1月17日。私が生まれる1年半前に起きた阪神・淡路大震災。
当時25歳の母はまだ研修医で、勤め先の神戸の市立病院近くに住んでいた。

朝方、大きな揺れを感じて起きた。
アパートのドアは簡単には開かず、体当たりして開けると、見えたのはいつもと全く違う景色。家の隣の倉庫は潰れ、周囲にはガスのにおいが立ちこめていた。

早く病院に行かなければ。警察に先導されながら病院に向かうと、患者が次々と運ばれてきていた。

外科の医師たちとは違い、歯科医の母にできることは患者に点滴を打って回ること。そして、助けられない命があることも目の当たりにした。

中学生くらいの年の女の子。母が見た時には心肺停止の状態で、看護師が心臓マッサージをしていた。その後、医師が代わってマッサージを続けたものの蘇生することはなかった。

母は医師から他のことをするよう指示を受け、その場から離れたが、そのときのことが忘れられないという。

「何もできなかったことが、とてもつらかった」

かつてのその経験が、母を東日本大震災の後、気仙沼に向かわせていた。

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1995年 阪神・淡路大震災

兵庫の子どもたちは阪神・淡路大震災のことを小中学校で習う。毎年1月には、大きな揺れで倒れる家屋や、倒れた高速道路の映像を見ていたので、生まれる前の出来事でも、はっきりと分かる。

しかし、それは“分かったつもり”になっていただけだった。一番身近な母の経験を全く知らなかった。

そして、とてもきれいに綺麗に復旧した神戸の街のどこが被災し、そこで過去に何が起きていたのか、想像したこともなかったことに気がついた。

「知識を心の引き出しの中に」

自分が住んでいた地域の震災も知らなかった私。
しっかり震災のことを伝えなくては。焦りを感じながら仙台での勤務が始まった。

最初は、警察担当。取材先の警察官に東日本大震災の時のことを尋ねてまわった。

発災当初は仙台市内も停電していたこと、
何日も泊まりこんで救助活動や行方不明者の捜索を続けたこと、
大津波警報が出る中、避難誘導にあたっていた同僚が亡くなったこと。

自分が知ろうとしていなかった震災は、こんなにも大きな被害をもたらしたものだったのかと、ショックを感じずにはいられなかった。

震災を経験した若い人たちにも話を聞きに行った。

東松島市出身の武山ひかるさん(21)は、震災当時は小学4年生。自分より年下だ。

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武山ひかる さん

自宅は津波に襲われ全壊。武山さんは家族と一緒にいったん高台に避難したものの、飼っていた猫が気がかりで自宅に戻ろうとしたところ、津波に襲われたという。

「もしかしてこのまま死ぬんじゃないかと車の中で家族全員が感じた。私も死んじゃうって、どうなるんだろうと」

間一髪のところで逃げ切った武山さん。高校生になってから「震災語り部」として、自らの体験を伝え続けている。

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自らの体験を伝える武山さん

子どもたちにも分かりやすく伝わるように当時の経験をもとにした絵本も作っていた。現在は、大学3年生。思い出すこともつらいはずの体験をなぜ語り、伝えようとするのか。尋ねずにはいられなかった。

「自分たちと同じ思いをしてほしくないからです」

答えはすぐに帰ってきた。

「自分の話を聞くことで、知識を心の中の引き出しに入れておいて、何か起きた時に開けてほしい。津波が来たら、海の近くには行かず、高台に逃げるということや、着の身、着のままでいいから逃げなきゃいけないということを伝えられたら」

その後も、若い人たちを取材する機会が多かったが、みな口をそろえて言うことがあった。

「次に来る災害の時に、同じ被害を繰り返さないでほしい」

子ども時代に震災を経験したからこそ、自分たちよりも年下の世代、これから生まれてくる世代に、どう伝えていくかを真剣に考えていた。

震災後に生まれた子どもたち…まさに私がそうだった。

阪神・淡路大震災の翌年に生まれ、学校で当時の映像を見ただけで、知ったような気になっていた。ただ現実には、同じような地震が起きたときにどう行動すればいいか、本気で考えていなかった。

取材の後、自宅に用意しておいた防災用のバッグを開け、ラジオはちゃんと入るか、避難所まではどう行けばいいか確認した。

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自宅の防災リュック

「石巻に行かせてください」

若い語り部たちの取材が終わると、自分の書いたニュースがきちんと伝わっているか意識するようになった。

これまで震災に関わったことがない人、災害を意識したことがない人に、防災の意識を持ってもらうためにはどうすればいいか。どんな伝え方をすればニュースを見た人にきちんと備える行動をとってもらえるか。考えるようになった。

その年に起きた、台風19号。
宮城県では災害関連死を含めて21人が犠牲になった。

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2019年 吉田川の堤防が決壊した宮城県大郷町

私は台風の後、川の堤防が決壊して大きな被害を受けた大郷町を取材。200棟以上が浸水したものの、人的被害はなかった。しかし、避難所や仮設住宅を取材すると、間一髪の経験をしている人たちもいて驚いた。

「雨が上がったので家に戻った直後に堤防が決壊し、ボートで救助された」「避難せずに自宅にいたところ、家の中まで川の水が押し寄せてきた。机に上ってなんとか危機を逃れた」

恐ろしいのは津波だけではない。
東日本大震災を経験している宮城県でも、災害が起きた時の避難の教訓は、まだまだ伝えていかなければならない。

警察担当として事件・事故の取材に追われながら、またコロナ禍で影響を受けている人たちを取材しながら、災害への備えにつながる取材をもっとしたいと思った。

去年秋、人事異動のため、沿岸部の被災地をカバーする石巻支局の後任を選ぶことになった。

自分は、きちんと震災と向き合えているだろうか。

企画を作って放送しているが、もっと被災地で暮らす人たちの思いに向き合いたい。その場所で生活しながら、感じたことを伝えたい。

「石巻に行かせてください」

震災のことを知らずに仙台にやって来てから2年半。私はおよそ4000人が犠牲になった、東日本大震災で最大の被災地、石巻支局に異勤したいと上司に伝えた。

「理加の3つ下なんだね」

そして去年11月、石巻支局に異動。初めて取材したのが、今野ひとみさん(51)だった。

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今野ひとみ さん

当時、川沿いの自宅に家族7人で住んでいたが、今は夫の浩行さんと夫婦2人暮らし。

今野さん夫婦は、浩行さんのご両親と、長女で高校3年生の麻里さん(当時18)、次女で高校2年生の理加さん(当時16)、そして児童と教職員合わせて84人が犠牲になった石巻市の大川小学校に通っていた長男の大輔さん(当時12)を津波で亡くしている。

取材したのは月命日にあたる 11日。翌日が大輔さんの誕生日だったため、今野さんは好物のハンバーグとミートスパゲティを作って仏壇に供えていた。

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今野さんは、今も欠かさず毎日、子どもたちのご飯を作って仏壇に供えている。毎年、誕生日プレゼントも贈り続けている。大輔さんの20歳の誕生日の時にはスーツを、翌年は革靴を贈ったそうだ。

今回のプレゼントは、漫画の本だった。

「大きくなった息子の姿が想像できなくて、逆にむなしくなって…」

大人の姿を想像できないなら、せめて子どもの時に好きだったものを渡そうと選んだ漫画本。自分の中の大輔さんは、小学6年生のままだと実感したという。私のインタビューにはこう答えてくれた。

「これまでは、亡くなったことをどこか受け入れられない気持ちもあったのかな。亡くなっても、この世に誕生してくれてありがとうという気持ちは変わらないから、これからもお祝いは続けるけれど、今後は夫婦2人で生きていくなかで、子どもたちと行きたかった場所を訪れたりしてみたい。子どもたちには“お父さんにはお母さんがいるから大丈夫”と伝えたいです」

関わりが浅い私にも丁寧に取材に応じてくれた今野さん。私はきちんと今野さんの思いを伝えられていたのだろうか。

「この10年9か月、どんな思いでしたか?」
「子どもたちはどんな存在でしたか?」

私のインタビューは、形式的で当たり障りないものばかり。

子どもたちのことを毎日考えているので、何年経っても気持ちは変わりません

その言葉の重みを知るには、もっと長い時間が必要だと感じた。

幸いにも「また家にゆっくり来てください」と連絡をもらい、それから、遺族同士の集まりや自宅にも何度かお邪魔するようになっている。

私が東日本大震災の時、中学2年生だったことが分かると「理加の3つ下なんだね」と言ってくれた。

震災の話も自然と出てくる。今野さんは、普段から明るく笑顔が絶えないけれど、子どもたちの話をしてくれるときは、いつも目に涙をためて話す。残された家族の思いを聞きながら、震災で失われた命の尊さを痛感させられる。

“震災を知らなかった”私に届くように

石巻に来て3か月。生活拠点を移してから友人も増えた。

街の人たちと話すと、身近な人を亡くしている人がたくさんいることに驚いた。被災した後、毎日がめまぐるしく過ぎ、楽しいはずの高校生活を覚えていないと教えてくれた人もいる。距離が近くなるほど聞きづらいし、どんどん聞いていっていいのかも分からない。

ただ一つ言えることは、いくら時間が経過したからといって、口にする機会が減ったからといって、葛藤を抱えていないわけではないということ。

11年前、地元の阪神・淡路大震災のこともよく知らなかった私からは、いま石巻で取材を続けていることが信じられないけれど、これからも多くの人と関わっていきたい。

そして、当たり障りのない言葉に逃げるのではなく地域の人の本音をきちんと伝えられるような、「2度と自分たちのような経験をしてほしくない」と取材を受けてくれた人の思いに答えられるような、そんなニュースを一つでも多く石巻から発信していきたい。

2つの震災を知らなかった私と同じように、震災を知らない人たちにも届くように。

仙台放送局 記者 藤家 亜里紗

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石巻の日和山公園にて

兵庫県出身。2019年に入局し、仙台で約2年半、事件事故の取材を担当。石巻では震災の取材を続けながら、水産や農業など地域の話題も伝えている。人との出会いを大切に、深く向き合えるよう奮闘中。

【藤家記者が取材した番組はこちら】


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