ロシア語が怖くなった私 「好き」とまた言える日はいつになるだろう
去年4月中旬、ウクライナに取材に入った私たちがはじめに向かったのは、西部の都市、リビウ。
ポーランドから国境を歩いて渡ったあと、車で向かった。その前日、リビウにある自動車整備工場が、ロシアによるミサイル攻撃を受けて死者が出ていた。
(前編の記事はこちらです)
はじめて嗅いだ「戦場」の匂い
前日に攻撃を受けたばかりの工場は、焦げ臭い匂いがした。
真っ黒に焼けて元の形がわからなくなった自動車の数々。
初めて目にして匂いを嗅いだ「戦場」だった。
がれきの上に、亡くなった人の数のろうそくがともされていて、祈る女性がいた。
この人は亡くなった人の家族なのだろうか。話しかけることはできなかった。人が殺された戦争の現場に初めて足を踏み入れて、私はおじけづいていた。
がれきを黙々と片付ける男性がいた。攻撃を受けた自動車整備工場の従業員のようだった。インタビューしてみよう。
取材クルーのウクライナ人スタッフに確認してもらうと、男性はロシア語がわかるようだった。
でもすぐに話しかけられなかった。
ロシアによって同僚を殺された人に、ロシア語で話しかけてよいのか、初めて強い戸惑いを感じていた。
スタッフに頼んで、「この日本人記者はウクライナ語はわからないが、ロシア語はわかる。ロシア語でインタビューしても良いか」とウクライナ語で聞いてもらった。
男性は承諾して、今の気持ちを答えてくれた。
「なぜこんなことをロシアはするのか。罪のない人々を殺すロシア、畜生め!これ以上、言葉が出ない」
ロシアへの怒りに満ちた彼の言葉はロシア語だった。
私は戸惑った。
彼が「畜生」とののしった国の言葉を彼は話していた。そして私も。
「ロシア語は血のにおいがするから」
リビウの街では少しだけ外出した。
戦地と言ってもリビウの街の人々は、戦争前と変わらない日常生活を送っているように見えた。雪の舞う寒い季節だったが、人々はカフェの店先でコーヒーを飲みながらおしゃべりしたり、ショッピングしたりしていた。
おしゃれな洋服店を見つけたので店に入ろうとして、ドアに貼られた紙が目にとまった。
ロシア語で、
「当店はロシア語では接客しません。ロシア語は血のにおいがする言葉だからです」
と書かれていた。
私は店に入って洋服を見て回るふりをしながら、店員に目を向けた。やさしそうなウクライナ人の女性がレジに立っていた。
「私は日本人で、ウクライナを取材するためにオーストラリアからやってきた。戦争が始まって、あなたの生活はどう変わったか。あなたの家族は無事なのか。どんな思いで店の営業を続けているのか」
そんなことを聞きたかったけど言葉が出てこなかった。
英語を話そうとしても、ついロシア語が出てきてしまう気がしたから。
「ロシア語」を敵視するウクライナの人たちを初めて目の当たりにして、私はロシア語を話すことが、そしてウクライナの人たちと話すことが怖くなっていた。
「散乱した弁当」がロシア兵を実感させた
ウクライナでは、戦闘が続いていたりロシア軍の撤退が終わっていなかったりする場所には取材に入っていないから、私はウクライナでロシア人の姿を見ていない。
ロシア人の存在を初めて近くに感じたのは、チョルノービリの郊外だった。ロシア軍はチョルノービリ原発を占拠したのちに撤退していた。
ロシア軍は戦車だけでなく自分たちのゴミも大量に捨てていて、移動中の車内からは、道路脇にロシア軍の弁当箱が長い距離にわたって散乱しているのが見えた。
それまで身近な人をロシア軍に殺されたという人の話をどれだけたくさん聞いても、ミサイルの音を実際に自分の耳で聞いても、ウクライナの民間人を銃殺するロシア人や、ミサイルを撃ち込むロシア人の姿は、正直、私には想像することが難しかった。
それよりも目の前に捨てられていたゴミのほうが、明らかにロシア人の姿として私の目に映った。
地雷が埋まっている危険性があるので車から降りられず、車内から眺めているだけだったが、ほんの数週間前まで、すぐそこの地面に腰を下ろして食事をとり、酒を飲み、ウクライナの土地を踏み荒らしていたロシア人の顔が、私にははっきり見えた。
「この汚された土地を元に戻すのに、どれぐらいの時間がかかるのか」
ウクライナ人のスタッフが怒りを込めてつぶやいた。
人を殺し、建物を破壊し、さらに土地を汚していく。これが私の大好きなロシア語を話す人々がしたこと。
ロシア兵が残した大量のゴミを見て、ロシア語を憎む人の気持ちがよくわかった気がした。
日本でも、駅の案内板のロシア語の表記が紙で覆い隠される出来事があった。駅の利用者から「案内板を見ると不快だ」という声が寄せられたからだという。
この頃から私は取材するときに必ず
「私は外国人、日本人です。ウクライナ語はわかりませんが、ロシア語はわかります。ロシア語で話を聞いてもいいですか」
と、ロシア語でゆっくり尋ねるようにしていた。
ロシア軍が撤退したキーウ近郊の街、ボロジャンカでの取材では、その日復活したばかりの青空市場で、食料品を売っていた元気な女性に会った。
いつものお断りの言葉を伝えると、「もちろん今はその言語は使いたくないけど」と、一瞬、表情をゆがめたあと、「あなたがそう言うならしょうがない」と応じてくれた。
思い返すと、私が当たり前のようにロシア語で取材していたモルドバでも、カメラの回っていないところではロシア語で会話をしていた避難者が、インタビューが始まったとたん、英語で話し始めることがあった。
ルーマニアでは、オデーサから避難してきたオペラ歌手が、「ロシア語が母語だから」とロシア語のインタビューに快く応じてくれた。しかし避難を受け入れたルーマニア側の劇場がその歌手に、「ロシア語ではなくウクライナ語を使ってください」と指示。「避難者がテレビでロシア語を話すのは良くない」という、劇場側の配慮だった。
「ロシア語があるから私たちはあなたと話せる」
記者になって間もないころ、よく先輩たちに言われた。
「外国語はツールでしかない。言葉ができても取材力がなければ意味はない」
でもツールこそ重要だと思って、私は地方勤務のときもロシア語の勉強を続けてきた。通訳を介さずお互いをわかりあえる、こんなに素敵なことはないと信じてきた。
でも今、ロシア語を話すのが苦しい。
モルドバのスーパーでロシア語表記のある食品が売られているのを見て、吐き気がしてしまったくらい。
あんなに好きだった言葉、文字なのに。
「ロシア語」ではなく、たとえば「東スラブ語」とか国に限定しない呼び名にすればいいのに。
そんな葛藤を抱えていた私に、忘れられない出会いがあった。
激戦地のマリウポリからルーマニアに避難してきた60代の夫婦。
列車でたどりついたルーマニアの駅で、行き先もわからず憔悴しきっていた。
「私はウクライナ語はできませんが…」という、いつもの前置きをしている場合ではなかった。疲労が色濃くにじんだ2人の顔を見て、何か助けられることはないかと思った。
話を聞くとイギリスに避難することが決まっているものの、大使館で書類の手続きが必要で、しばらくはルーマニアに滞在しなければならない。でも滞在先がない。そしてお金もない。
事情を聞いていると、その場に居合わせたルーマニア人の女性が、自宅の空いている部屋に受け入れようと提案してくれて、しばらく彼女の家に滞在できることになった。
夫婦にはとても感謝された。私のロシア語が、取材だけでなく人の役に立つこともあった。
この夫婦とはその後も会う機会があった。安全な滞在場所を得て、日に日に表情が明るくなっていた。
故郷のことや家族のこと、これから先の生活への不安など、私に打ち明けてくれた。すべてロシア語で。
私もある日、自分の葛藤を打ち明けた。
「あなたたちは私といつもロシア語で話をしてくれていますが、戦争でウクライナの人たちを傷つけているのは、ロシアです。ロシア語が嫌いにならないのですか?」
返ってきた言葉に、私は今も支えられている。
「言葉は言葉。言葉に罪はない。ロシア語があるから、私たちはあなたとこうやって話をすることができています」
「ロシア語が好き」とまた言える日まで
ウクライナでの取材から戻って、シドニーでの私の趣味はロシアの伝統楽器の演奏だ。アマチュアの楽団に所属していて、バラライカとドムラというロシアの弦楽器を弾いている。
多民族国家のオーストラリアらしく、メンバーにはロシア系やウクライナ系、ルーマニア系に中国系にインド系と、さまざまな民族のオーストラリア人がいる。日本人は私だけで、コンサートでは全員が、ロシアの民族衣装を着て舞台に立つ。
しかし戦争が始まってから、グループの中でも少し居心地の悪い空気を感じるようになった。
練習に来なくなるメンバーが続出して、軍事侵攻直後のコンサートには、民族衣装ではなく黒いポロシャツを着て出演した。
それでも私たちは演奏を続け、今はコンサートに再びロシアの民族衣装で出演している。
言葉と同じく音楽にも罪がないという意識を、ほとんどのメンバーが共有しているからだ。
会場は常に満員で、オーストラリアに住むロシア人の観客もたくさんいる。地元のロシア語新聞に、私についての記事も載った。
悲惨な現実の中でも文化は変わらないと確信している。
ここまで私の文章を読んで、不快になった人も多いと思う。ともすれば私を「親ロシア派」だととらえるかもしれない。この記事を書こうか悩み、書くのに半年以上かかった。多くの人の共感は得られないだろうと思う。
でも伝えたいのは、
ロシアが悪くてもすべてのロシア人が悪いわけではないはず。
ロシア人の声を可能な限り聞いていきたい。
という思いだ。
ウクライナでの取材のあと日本に一時帰国したとき、日本に住むロシア人の友人のひとりと食事をした。
日本語とロシア語をまじえて会話をしていたら、店員の女性が興味をもって私の友人に尋ねてきた。
「日本語がお上手ですね、どちらの国の出身ですか?」
友人は一瞬、黙ってから「カザフスタンです」と嘘をついた。
戦争のせいで自分の出身国を偽らざるを得ない、それと同じような事を、別のロシア人も話していた。
「エレベーターで陽気な大学生たちと一緒になって『あなたはどこの国の人?』と聞かれたので、『ロシア』と答えた。急にその場の空気が凍った」
ロシアやロシア語を巡る環境は厳しい。
それでも私はロシア語と縁を切りたくなかった。だから今、オンラインでロシア語の勉強を続けている。
モルドバでの取材がきっかけで友達になったウクライナ人女性と、次に会った時は、またロシア語で話ができるかもしれない。
今はまだ少し怖いけど、もっと堂々とロシア語で取材できる日が来るかもしれない。
「ロシア語が好き」と、また胸を張って言える日が来るかもしれない。
言葉は「力」を持っているから。
ウクライナ人、ロシア人、さまざまな人たちの言葉を聞いて理解し、彼らの思いを伝えていくことが、今の私にできることだと信じている。
青木緑 シドニー支局長
長野市出身。2010年に入局し、北海道、サハリン、新潟などで勤務。これまでの人生の3分の2を「雪国」ですごしてきたが、2020年からはシドニー支局で南半球の住人に。
学生時代「遠く感じるロシアを近い国にしたい」と記者を志したが、オーストラリアも、多くの日本人が観光や留学でおとずれ、日本にとって「近い国」だと思っていたが実は知らないことがたくさんあると、日豪の戦争の歴史を取材したときに感じる。
ロシア楽器以外のもう1つの趣味は、シドニーでのロックダウン生活中に始めたランニングで、今年マラソン初完走。